史跡巡りシリーズ・西尾張編PartR3(89pr3.htm)
一宮友歩会・第89回例会 (11Km) (2022.2.5(土)参加者:名 下見8名(2021.12.18) 未完:中止

コース:7:30自宅発−>9:00:北野天神社集合・出発>宮後城祉>宮後八幡社>五丁堀砦跡>
前野天満社>前野家屋敷>若宮八幡宮>五条川>堀尾跡公園(昼食)>富士塚>生駒屋敷>久昌寺>
お釜地蔵>広間家の門>布袋大仏(御嶽薬師尊)>江南駅(2時30分頃解散)>帰宅
コースマップ(89pr3map)

江南市 江南市民文化会館 江南市観光協会 江南市観光協会史跡・寺社 友歩会 用語解説
第9回江南市ウオーキング参照(平成19年(2007年)8.4友歩会開催) 武功夜話(江南市歴史HP参照) 全員集合


江南駅前01(2021.12.18)

筆祭り用の筆(駅前)03(2021.12.18)

集合場所の北野天神社89ko04(2021.12.18)

受付(出発式)

江南市歴史民俗資料館09(2021.12.18)

歴史民俗資料館の展示06

宮後城跡 蜂須賀小六正勝・家政親子が住んだ
安井氏の屋敷跡
(2007年8月4日)
コースマップ(89pr3map)

宮後八幡社15(2021.12.18)

1624年蜂須賀家政が再建・寄進したとされる
古建築(菊花彫刻や縣魚は桃山時代の様式)(2007年8月4日)

天正12年小牧・長久手の戦いの時前野義康が
この砦を守った五丁堀砦址(2007年8月4日)

五丁堀砦址(2021.12.18)

前野天満社21(2021.12.18)

前野天満社
木陰や吹き流しなどの七夕飾りが心身の疲労を
癒してくれた。(2007年)

前野家屋敷跡 前野一族は信長秀吉家康に仕え
生駒氏蜂須賀氏とも関係が深い。「武功夜話」など
貴重な資料が残されている。(2007年)

前野家屋敷跡22(2021.12.18)

前野家屋敷跡26(2021.12.18)

ここで小休憩(5Km経過)
御祭神は神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の3柱。
安産守護と子供守護の若宮さん。

若宮八幡宮30(2021.12.18)

五条川32(2021.12.18)

右は五条川

五条川の鴨 水量は豊富だった

裁断橋(左下は音声ガイド付きの説明碑)

裁断橋33(2021.12.18)

裁断橋34(2021.12.18)

昼食場所の堀尾跡公園 
五条川には鯉が多くいた

堀尾吉晴とその妻の銅像
(右手にある碑の後ろに手紙の写しがある)

富士塚の説明(脇の道は柳街道)
7mほどの高さの古墳で、天正12(1584)年の小牧長久手
の戦いの際には徳川家康がここから敵陣を視察したとも言
われています。この六角柱の石碑は、生駒家6代利勝が、
家門の由緒と武勲を後世に伝えるために建てたものです。

富士塚37(2021.12.18)

生駒屋敷跡(別名、小折城)38(2021.12.18)

生駒屋敷の説明(信長の室、吉乃の生家)
コースマップ(89pr3map)

久昌寺(吉乃の法名から名付けられた)
(本堂西側に生駒氏一族と吉乃の墓碑がある)

手前が吉乃の墓碑
(法名:久庵桂昌大禅定尼)

久昌寺墓地の生駒家石造群解説89kow43(2021.12.18)

龍~社47

龍~社の由来46

常観寺51

常観寺内のお釜地蔵54

常観寺 お釜地蔵尊の由来(解説)

広間医院の門(生駒家の中門を移築したもの)

御嶽薬師尊(18m)
(コンクリート製で東大寺の大仏より2m高い)

布袋駅89ko58

用語解説   コースマップ(89pr3map)  Top
北野天神社(wikipedia)     Top
北野天神社は、愛知県江南市北野町天神8にある神社である。学業成就、合格祈願、家内安全にご利益があるとされる。
無住の神社であるが、1月・2月の日曜日と毎月25日の月次祭には合格祈願などの祈祷が行われる。毎年1月中旬には「筆まつり」が
行われ、字の上達を祈願する参拝者や学校合格を祈願する受験生などが訪れる。
「筆まつり」
毎年1月中旬には「筆まつり」が行われる。1964年(昭和39年)より開催されている。この祭りのときに境内にある石造りの大筆に
願いを書くと、字が上達するといわれている。当初は菅原道真の命日(2月25日)に近い日曜日に開催されていたが、大学受験
シーズンにあわせて、1月中旬の土・日曜日に変更されている。受験シーズンに重なることもあり、受験生も多く訪れる。
筆まつりで行われる「大筆奉納行列」は、長さ約4m、重さ約50kgの大筆を、厄年男性と新入学児が御所車に乗せて神社まで曳き廻す
ものである。
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宮後城祉
北側県道64号線に宮後城跡の標柱、南側側に説明書が設置してあります。
宮後八幡社の脇に宮後城跡と蜂須賀家政公生誕地の位置の見取り図がある。
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築城年代は定かではないが応永年間(1394年?1428年)頃には安井氏が居城としていたという。 羽柴秀吉に仕えた蜂須賀小六正勝は、蜂須賀城主蜂須賀正利と宮後城主安井弥兵衛尉重幸の女との間に誕生しており、天文22年 (1553年)正利の死によって母の在所である宮後城に住むことになったという。 蜂須賀正勝の嫡男で、江戸時代に阿波国徳島藩主となった蜂須賀家政は、この宮後城にて誕生している。 また、秀吉の五奉行の一人で安芸国広島藩の祖となった浅野長政は、安井弥兵衛の長子で浅野長勝の養子となっている。
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宮後城(wikipedia) 尾張国丹羽郡宮後村、現在の愛知県江南市にあった日本の城。「蜂須賀屋敷」「小六屋敷」などとも呼ばれる。 Top
前野家屋敷観光協会
県道179号沿いにあります。前野将右衛門長康の屋敷跡です。豊臣秀吉の尾張時代からの最古参の武将ですが秀次の家老として
付けられていたので秀次事件の時に連座して切腹させられてしまいました。
表札が吉田となっていたので【武功夜話】はここの土蔵から発見された。

「前野家屋敷跡」観光協会

豊臣秀吉に仕え、蜂須賀小六とともに活躍した前野将右衛門をはじめとする前野氏一族の屋敷跡で、現在もその家系は続いて
います。一族の武功を語る「武功夜話」が発見されました。 武功夜話(江南市歴史HP参照)
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堀尾跡公園(ほりおせきこうえん:大口町WEB参照:PDF
松江城を築いた堀尾一族ゆかりの地
愛知県は武将のふるさとと言われており、国宝にも指定されている松江城(島根県)を築いたのも愛知県出身の堀尾吉晴公。
堀尾跡公園は、堀尾一族の屋敷があったところで、現在は往時を偲ぶ歴史公園として整備されており、夏の水遊びや秋の紅葉
など四季折々の表情を見せてくれます。
一番の見所は、公園の前を流れる五条川の桜並木。吉晴の子と伝えられ、豊臣秀吉の小田原征伐の陣中で死去した金助に因む
「裁断橋物語」にあやかって、五条川には、裁断橋と擬宝珠が復元されています。
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富士塚(の石碑)(江南市観光協会HP)
7mほどの高さの古墳で、天正12(1584)年の小牧長久手の戦いの際には徳川家康がここから敵陣を視察したとも言われて
います。
この六角柱の石碑は、生駒家6代利勝が、家門の由緒と武勲を後世に伝えるために建てたものです。(江南市観光協会HP)
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生駒屋敷(観光協会WEB)別名:小折城
戦国時代よりこの地を拠点に大きな勢力を持ち、後に尾張藩の重臣となった生駒家の屋敷跡で、小折城とも呼ばれます。
しかし、すでにその面影はなく、現在は生駒氏の邸址碑が建立されています。

生駒屋敷は久昌寺の北東の県道沿いにある市立布袋東保育園の南西隅に石碑と案内板が設置されている。 生駒屋敷絵図(小折城)によれば、この辺りは二ノ丸で、南に本丸、東に三ノ丸、西に二ノ丸があった。 本丸と二の丸の間にあった中門が、広間医院に移築現存している。この広間氏は元生駒氏の典医であったという。
「歴史」 築城年代は定かではないが生駒氏によって築かれたと云われる。 生駒氏は藤原忠仁の子孫で大和国平群郡生駒発祥である。 応仁の乱の戦乱などから逃れるために家広の時、尾張国丹羽郡小折へ移り生駒屋敷を構えたという。 生駒氏三代生駒家宗の女が織田信長の側室となった吉乃で、信忠・信雄・徳姫を産んでいる。 尾張の生駒氏は織田信長に仕え、本能寺の変の後は織田信雄・羽柴秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では東軍に属し、尾張徳川氏の 家臣として代々続いた。 江戸時代初期に讃岐国高松城主であった生駒親正は、父親重が美濃国土田城主土田氏と生駒豊政の女との間に生まれ、生駒 豊政の養子に迎えられて生駒姓を称した分家で、「生駒騒動」により出羽国矢島一万石に配流となり、その後、八千石の 交替寄合として続いた。 Top
「wikipedia」江南市・小折城 生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが、文明年間(1469年−1487年)に生駒家広が応仁の乱の戦禍を逃れ、 寂れていた林氏の旧領尾張国小折(のち布袋町)に移住した。 後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大する ようになった。最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。 生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘、吉乃が織田信長の側室となり、長男・織田信忠、次男・織田信雄 を産んだ頃である。この頃に小折城が築かれた。 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修された。織田信雄が追放された後、家長 は隠居していたが、息子の生駒利豊は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され松平忠吉に仕えるため尾張に 残った。 その後、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となる。 子孫が家老となり4,000石を領した。一国一城令により小折城は廃城となり生駒家の中心が名古屋城下に移ったが、在所持ち を許され周辺領地と遺構は縮小されるもそのままに生駒氏下屋敷として隠居所の機能を果たしながら存在した。 給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。明治以降、武家解体の後に下屋敷は処分された。 現在は市指定文化財となった旧下屋敷中門と碑を目にすることができる。
尾張生駒屋敷web参照 生駒吉乃web参照 武功夜話7信長と吉乃とのラブストーリー(江南市)   Top
常観寺 お釜地蔵尊の由来89kow52(解説)   Top
布袋大仏   Top
市内故前野秀信氏個人により昭和29年に設立されました。高さ18m幅10mの偉容、温顔の大仏は、名鉄犬山線の車窓からも見る
ことができ、地元の方からは「布袋の大仏」として親しまれています。
また、見る位置によっては、踏切の信号機と重なって、大仏がサングラスをかけているように見えます。
春には桜が美しく咲き、大仏を彩ります。
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全員集合


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