第33回友歩会例会東尾張編P4ウオーキング(下見・例会)
(下見:平成23年5月21日(土)天気:晴れ・例会:7.2(土)晴れ、参加者50名)
(21日の歩数:29,185歩、2日の歩数:27,809歩)
★コース:(一宮駅8:01>神宮前乗り換え>鳴海乗り換え>有松駅8:41着:受付・コース解説・準備運動)
スタート−:名鉄本線有松駅9:13>高根山>>桶狭間山>桶狭間古戦場公園>長福寺>豊明桶狭間古戦場伝説地>
>唐竹公園(昼食)>二村山展望台>沓掛城>三崎水辺公園>前後駅15:14クールダウン>帰宅(約14km)
★有松鳴海絞り会館(HP)★町屋有松絞り(鳴海絞り)★鳴海宿
★桶狭間古戦場(wikipedia)★桶狭間の戦い進軍ルート(map)★沓掛城址解説★長福寺★桶狭間古戦場公園
★合戦の全貌について(連載4回)HP参照★高徳院★西川遊歩道の沿革(HP参照)★二村山★三崎水辺公園
ari001 名鉄有松駅 |
有松駅東で受付 |
有松駅の「有松桶狭間巡り案内図」 赤:戦の道、緑:町並みの道(東海道・鳴海宿)、青:絞りの道 |
|
005 東海道鳴海宿の町並み |
010 有松鳴海絞り会館 |
東海道鳴海宿の現在041 |
ガイドさん先頭に高根山を目指す042 |
標高50mの高根山(今川軍松井宗信の戦陣跡)信長は釜ヶ谷から桶狭間山に向かう |
|
桶狭間の戦いの図(高根山の説明図)長福寺が下に見える(赤:織田軍 青:今川軍) |
|
このあたりにはため池が多い(地蔵池)050 |
愛知用水(桶狭間山を目指す)051 |
指さしている方角は桶狭間の田楽坪のあたり052 古戦場公園として整備されている |
信長は釜ケ谷のこのあたりからおけはざまやまに 本陣を構える今川義元を攻め上った054 |
桶狭間古戦場公園の信長公と義元公016 |
今川義元戦死の地の碑(古戦場公園)017 |
戦国大武将の義元42才と気鋭の信長27才071 銅像作者の工藤潔さんに解説していただいた。 |
桶狭間古戦場公園064 ガイドさんたちの解説に聞き入った |
桶狭間古戦場田楽坪の碑arit020(古戦場公園) |
瀬名伊予守氏俊陣地跡の碑024(解説HP) |
大池022(長福寺に向かう) |
瀬名氏俊陣地跡の説明023 |
大高道・東海道沿いの古戦場跡021 (公園内に順路が設定されている) |
長福寺(合戦供養塔がある)028 義元、宗信の木造が安置されている |
長福寺鐘楼031 |
真新しい長福寺032 |
長福寺本堂033(ここから豊明に向かう) |
034豊明市高徳院(境内に義元公の仏式墓所あり) |
高徳院内義元公本陣跡の碑 |
古戦場伝説地内、今川義元の墓043 |
長福寺境内にある桶狭間合戦場跡arit029 合戦:永禄3年5月19日(1560年6月12日) |
古戦場伝説地にある桶狭間古戦場祉arit044 (古戦場まつり6月第一土日開催) |
香川景樹の古戦場を偲ぶ和歌048 |
伝説地で休憩後唐竹公園に向かうarim085 |
051二村山の鎌倉街道の碑051 |
二村山峠の地蔵尊ari055 |
岳路の句 (二むらや三河に出るあきの月) |
二村山展望台に登る 360度の展望が開けている |
展望台からみた眺望063 |
展望台から見た眺望の説明064 |
沓掛城址公園071 |
高台からみた公園074 |
沓掛城址解説ariw076 ★topへ 1560年5月18日今川義元が入城、作戦会議を開いて宿泊。ここから大高城へ移動途中、桶狭間で 昼食休憩中に織田軍に襲われて没した。★下記進撃ルート参照 |
|
古戦場祉普照山慈光寺(沓掛城に隣接)081 |
西川遊歩道(区画整理事業)082 |
三崎水辺公園090 |
三崎水辺公園(ふれあいの橋)091 ★topへ |
大田金城の「桶狭間を過ぐ」 |
ゴールの名鉄前後駅095 ★topへ ★有松鳴海絞り会館 ★桶狭間の戦い ★桶狭間古戦場(Wikipedia) ★今川義元(Wikipedia) ★織田信長(Wikipedia) |
有松の町屋 ★topへ 有松は、慶長13年(1608)に尾張藩の奨励によってつくられました。耕地も少なく、茶屋集落と しての営みにも限界があったため、副業として絞染を工夫しました。 この有松絞は、東海道の旅人にもてはやされ、有松は繁栄を誇りました。 天明4年(1784)の大火で村の大半が焼失してしまいました。その際、火災に備えて漆喰による 塗籠造とし、萱葺き屋根を瓦葺としました。今も当時の面影を残した豪壮な町家が立ち並んでいます。 また、服部家住宅と服部家土蔵は愛知県が「有形文化財」に指定し、岡家住宅・小塚家住宅・竹田家 住宅は名古屋市が「有形文化財」に指定しています ★(絞り会館HP参照) 有松絞り(鳴海絞り) ★topへ 有松絞りは1608(慶長13)年竹田庄九郎が豊後の絞染からヒントを得て考案されたものである。 今でも表通りには連子格子の家並みが続いている。 町並みにはいり目にするのが、道の右側にある町屋建築の遺構で、有松における絞問屋のして代表的な 服部家の建物がある。服部家の屋号は井桁屋。その先の左側には、江戸時代の主屋を中心に明治、大正 にかけて整備され、絞り問屋の伝統的形態を踏襲している竹田家の建物がある。 特に主屋は塗籠造、書院、茶室とも建築的に優れているといわれ、屋号は笹加という。 ★(鳴海宿HP参照) 鳴海宿(Wikipedia) ★topへ 東海道40番目の鳴海宿はその名のように海に近い町だった。江戸時代、間宿の有松で作られた木綿の 絞は街道の人気商品となり商家が立ち並ぶようになった。 現在でも江戸の町並み景観が美しい町の有松絞り(鳴海絞り)として続いている。 ★(東海道一人旅参照) |
桶狭間古戦場(Wikipedia) ★topへ桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦である。 「概要」 2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元(1560.5.12駿府出発 し、17日岡崎、18日沓掛城入城)に対し、尾張の大名・織田信長(5.19未明清洲城出陣)が10分の1 程とも言われる軍勢(約3,000)で天候急変のなか今川本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍 を潰走させた、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる戦いである。 (戦死者:今川軍2,500織田軍830人程で約2時間の戦い。) 東海道に君臨していた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内の制圧 に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。 参考ホームページ:★桶狭間の戦い@ ★桶狭間の戦いA ★topへ ★合戦の全貌について(連載4回)参照 長福寺 ★topへ 天文7年草創の西山派浄土宗寺院。戦いの後、首検証をさせられた義元の茶坊主林阿弥は、許されて 国に帰りましたが、後に主君を弔うため阿弥陀如来像を持って訪れました。 堂内には今川義元と松井宗信の木像も安置されています。 (桶狭間史跡巡り参照)★topへ |
桶狭間史跡巡りの皆さん(唐竹公園) |
銅像作者:工藤潔さん 戦国大武将の義元42才(右)と新進気鋭の信長27才(左) |
桶狭間の戦い進軍ルート ★topへ ★合戦の全貌について(連載4回)参照 |