一宮市三条・御裳神社・尾西あじさいまつり見学
     (平成25年6月16日(日)天気:晴れ) 

コース:一宮市三条御裳神社・尾西あじさいまつり>
一宮市尾西歴史民俗資料館・林寛子氏・記念講演:「女のロマン・市川房枝」聴講
      (今日の歩行数:18,046歩・早朝散歩含む)
市川房枝については、Wikipedia他参照 一宮市尾西歴史民俗資料館 平成21年度のあじさいまつり



尾西あじさいまつり047

 尾西あじさいまつ048

尾西あじさいまつり・境内の木陰045

 尾西あじさいまつ・御裳神社046

尾西あじさいまつり・境内002

 尾西あじさいまつ・境内005

尾西あじさいまつり・境内007

 尾西あじさいまつ・境内008

尾西あじさいまつり・あじさい園009

 尾西あじさいまつ・あじさい園006

尾西あじさいまつり・あじさい園011

 尾西あじさいまつ・あじさい園013

尾西あじさいまつり・大正琴の演奏015

 尾西あじさいまつ・大正琴の演奏017

尾西あじさいまつり・あじさい園018

 尾西あじさいまつ・あじさい園019

尾西あじさいまつり・あじさい園021

 尾西あじさいまつ・あじさい園022

尾西あじさいまつり・あじさい園023

 尾西あじさいまつ・あじさい園024

尾西あじさいまつり・秋葉神社(左)右は第一中学校025

 尾西あじさいまつ・拝殿内027

尾西あじさいまつり・拝殿内028

 尾西あじさいまつ・拝殿内029

尾西あじさいまつり・あじさいの苗の販売032

 尾西あじさいまつ・休憩所033

尾西あじさいまつり・あじさい園034

 尾西あじさいまつ・あじさい園035

尾西あじさいまつり・境内036

 尾西あじさいまつ・境内038

尾西あじさいまつり・境内042

 尾西あじさいまつ・境内043
市川房枝について     topへ
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、日本の婦人運動家、
政治家(元参議院議員)。 愛知県中島郡明地村(後の朝日村→尾西市。現在は一宮市)生まれ。
戦前と戦後にわたって、日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市
(現在の一宮市)
の名誉市民となる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。 ウィキペディア  topへ
 (平成25年6月9日(日)天気:晴れ) この日、一宮市尾西歴史民俗資料館にてDVD映画:「87才の青春・市川房枝」を鑑賞した。
 (平成25年6月16日(日)天気:晴れ) この日一宮市尾西歴史民俗資料館にて林寛子氏の記念講演「女のロマン・市川房枝」を
聴講した。

※生誕120年記念 特別展 市川房枝 展は、5.25〜7.7まで一宮市尾西歴史民俗資料館にて開催中です。

生誕120年祈念 特別展:一宮市尾西歴史民俗資料館 中日新聞の市川房枝特別展PR    topへ 市川房枝生誕120年、一宮で特別展 貴重な原稿も  一宮市起の市尾西歴史民俗資料館で平成二十五年五月二十五日、旧明地村(現一宮市)出身の女性活動家、 市川房枝(一八九三〜一九八一年)の生誕百二十周年を記念した特別展が始まった。 市川の生涯を振り返る写真パネルや原稿など百点がそろっている。七月七日まで。  目を引くのは、市川が一九六六年ごろに秘書に清書させたとみられる原稿十三枚。今回が初公開となる。 女性の参政権獲得や地位向上の運動に身をささげた七十三年の歩みを振り返り、「まだ理想は完全には実現されていない が、私は一応、戦に勝ったと確信している」とつづっている。  展示室には、市川が筆で「権利の上にねむるな」と書いた色紙や、母たつが手織りした木綿の上着もある。 訪れた市民らは熱心に見て回り、中には生前の市川を懐かしむ人もいた。  入場無料。期間中、記念講演会や市川にちなんだ映画の観賞、学芸員の展示説明会が予定されている。 (問)資料館=電0586(62)9711 東京新聞における関連記事 その他のWEB記事から(5.15日生まれの市川房枝とキュリー夫人伝) 一宮市尾西歴史民俗資料館
「参考」 55年体制 【ごじゅうごねんたいせい/55ねんたいせい】 1955年10月、日本社会党はそれまで左右両派に分裂していたのを統一した。 同年11月には自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党を結成した。 以後、日本政治は、自民党が代表する保守と社会党が代表する革新の対決という構図で展開した。 これは米国とソ連による東西対決の代理戦争という性格を持っていた。 また、財界対労組の反映でもあった。自民党、社会党の両党は激しく対立する半面、底流では通じ合う 癒着構造もつくられた。国会の勢力は、憲法改正に必要な3分の2議席を自民党が占めるのを社会党など がかろうじて阻止する事態が続いた。自民党と社会党は「1と2分の1」体制とも呼ばれた。 この55年体制は、93年7月の総選挙で自民党が下野したことによって、38年間で崩壊した。 しかし、自民党は衆参両院で最大勢力を維持し、政権に復帰した。逆に社会党は社会民主党と改名する などしたが、大幅に勢力を減らし、野党第一党の座を民主党に明け渡したばかりでなく、公明党や共産 党よりも小さな勢力となった。 2005年の総選挙で自民党が圧勝したことで「2005年体制の出現」ともいわれた。 ( 星浩 朝日新聞記者 )

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