友歩会親睦松坂ウオーキング
  H29.3.18(土) 天気:晴れ 今日の歩数:,122歩

6:55自宅溌−尾張中島バス停−一宮駅JR東海7:37溌−近鉄名古屋8:01−9:26松坂着
コース:松坂城址…本居宣長宅跡…松坂商人の館……松坂駅(14:56)


松坂城址 本居宣長宅跡 松坂商人の館 松阪市


スタート地点のJR三河三谷駅001

三谷温泉002

三河繊維技術センター006

弘法山から見たラグーナ007

三河高野山金剛寺009

金剛寺のマニ車解説011

竹島が霞んで見えた014

白寿観音018

マニ車塔t015

巨大マニ車t016

南山楽土三尊佛020

南山楽土三尊021

弘法大師像@t025

弘法大師像At034

弘法大師像B026

展望台から見た竹島030

寒風雨の中でうずくまる海鳥たち(三谷海岸)042

大観覧車050

クルー053

マンション054

海鮮のフェスティバルマーケット057

昼食後ノルディックウオークのレッスン059

まず両手でステッキを引きずって歩く練習から始める。062
ストラップがあるからステッキに力を加えない。

手を後ろへ振るときにステッキを握り後方に押す064
手を戻すときはステッキを放して引きずる感じだ。

ラグーナを見ながら周回した。068

クルーの係留場070

海陽学園を左折072

マンションの前を通って戻る078

後半は良く晴れて気持ちが良かった085

三河大塚駅に14:56に着き帰途についた。086

松坂城址(wikipedia)  topへ
「概要」
城の縄張りは梯郭式平山城である。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。
江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が
置かれた。
現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館など
がある。松阪は梶井基次郎の短編小説『城のある町にて』の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている。
この文学碑は1974年(昭和49年)8月に建立された。
「沿革」
1584年(天正12年) - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城。
1590年(天正18年) - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。
           代わって服部一忠が入城した。
1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。
1871年(明治4年) - 廃藩置県により廃城となった。
2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(48番)に選定された。
2011年(平成23年)2月7日 - 約4.7haの城跡が「近世の政治・軍事を知る上で貴重」であるとして、松坂城跡として国
         の史跡に指定された。
「石垣」
建築史家の内藤昌は「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だがそれを上回る強固なもので美観という点でも優れている。
(安土城の築城にも加わった)蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」と述べ、近世の先駆けとなる名城に挙げている。
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松阪の歴史  宣長の生まれた「松坂」は、近江国日野出身の武将・蒲生氏郷(1556〜95)により開かれた町である。 氏郷は、1588年、33歳の時、宵の森(現在は四五百森と呼ぶ)に築城、町を造り「松坂」と名付けた。秀吉が大阪城を 築き入城して5年後のことである。 町は城を要に、扇形に武家の町、商人の町、職人の町、その外側に寺社を配し、また参宮街道を引き込み、楽市楽座を 布告し、商人を集めて、町の活性化を図った。 今も松阪には、氏郷特有の町筋のゆがみなどが残っている。 1619年、松坂は紀州藩領となり、1644年、天守が倒壊し「城のない町」となる。この頃から、松坂の商人の江戸進出が 始まる。その一軒が宣長の生まれた小津家である。江戸への進出はその後も続き、1673年の三井高利の進出を頂点とし、 1750年代には49軒の江戸店持ち商人がいた。 このような商人の自由な活動が、また文化を育みます。魚町長谷川邸や本町小津清左衛門邸(松阪商人の館)などは 江戸時代の豪商の生活を今に伝えている。 「松坂は、ことによき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて 手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、 うちうちはいたくゆたかにおごりてわたる。」(『玉勝間』) >>「松坂」(「ようこそ宣長ワールドへ」の解説ページが、別画面で開きます。)  城址からの眺めは、大正13年夏、松阪で静養した作家・梶井基次郎の「城のある町にて」に活写される。 >>「「松坂」から「松阪」へ」 (「ようこそ宣長ワールドへ」の解説ページが、別画面で開きます。)   参宮街道と松阪 line   道標 参宮街道を行き交う人により松阪には諸国の情報や流行がたくさんもたらされた。人との出会いもその一つ。参宮の帰途、松阪に宿った賀茂真淵と宣長の対面は「松阪の一夜」としてよく知られている。  また宣長は、諸国からの旅人を利用して学問の普及をした。宣長宛書簡には「参宮幸便」とあり、また、宣長の下で勉強したい人は、参宮を兼ねて松坂にやってきた。  
本居宣長宅跡(wikipedia)  topへ
本居宣長旧宅は、三重県松阪市殿町にある史跡である。江戸時代の国学者本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまでこの家
で暮らし、2階の書斎を鈴屋(すずのや)と名づけた。1909年(明治42年)に保存のために松坂城跡の現在地に移築され、
現在は本居宣長記念館によって管理されている。移築前の跡地とともに1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。

本居宣長の先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。
その子七右衛門の代から氏を小津と改めて松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。
宣長が11歳のとき父の三四右衛門定利が病没。商いは義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。

義兄の死後宣長は小津家を継いだが、商いはやめ、氏を祖先の本居に戻した。そしてこの家で町医者を営むかたわら、
『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組んだ。宣長が53歳のとき2階の物置を改造して
新しい書斎を作った。鈴を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色
を楽しんでいたという。
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本居宣長記念館(HP) 本居宣長(モトオリ・ノリナガ) 享保15年5月7日(1730.6.21)〜享和元年9月29日(1801.11.5) 18世紀最大の日本古典研究家。 伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。 木綿商の家に生まれるが、医者となる。 医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年を  かけて『古事記伝』44巻を執筆する。 主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。 鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。
松坂商人の館     topへ
松阪商人の館は、江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。展示品の中には
「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。
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