北国街道(脇往還)探訪
平成28年度尾西歴史民俗資料館・歴史講座・参加レポート
(平成29年2月26日(日)天気:晴れ

関ヶ原古戦場関係は、2009年4月JRウオーキング参加分です。

関ヶ原宿から春照宿、伊部宿の北国街道探訪は、2017.2.26開催分です。こちらをご覧ください。

平成29年2月26日午前9時:尾西歴史民俗資料館→中山道・北国街道(脇往還)追分け→関ヶ原町歴史民俗資料館見学
  →道の駅「いぶきの里」(昼食)→伊吹文化資料館見学春照宿見学→伊部宿見学→小谷城戦国ガイドステーション

 東西両軍の関ヶ原陣形図) 解説

関ヶ原ウィキペディア関ヶ原観光ホームページ関ヶ原町関ヶ原古戦場
 長浜市観光振興課伊吹文化資料館伊部宿本陣春照宿(すいじょう)



本多忠勝陣跡 (拡大説明)

脇坂安治陣跡 (拡大説明) Top

井上神社 (拡大説明)

月見宮大杉(樹齢800年)

福島正則陣跡 (拡大説明)

不破関跡

藤古川の桜(拡大歴史説明)

大谷吉継の墓 (拡大説明)

エコミュージアム関ヶ原

開戦地 (拡大説明)

小西行長陣跡

島津義弘陣跡

笹尾山・石田三成陣跡 (観光案内)

笹尾山 島左近の陣地 (拡大説明)

石田三成陣地

陣地に築かれた竹矢来

石田三成陣跡
笹尾山陣地の石標(拡大説明)

笹尾山の古戦場見晴台と合戦陣形図(左家康)
ここからの眺望はすばらしい。 (右下三成)

決戦地 (拡大説明)

徳川家康最後陣跡 (ここで首実検)(拡大)

関ヶ原町歴史民俗資料館

関ヶ原駅から見た東西両軍の武将 Top

平成28年度一宮市尾西歴史民俗資料館歴史講座「街道文化を探る」(北国街道(脇往還))参加レポート Top 
関ヶ原−玉−藤川−平林−春照−小田−今荘−佐野−八島−最勝院−伊部−郡上−雨森−田戸−木之本

JR関ヶ原駅へ到着001 Top

関ヶ原宿脇本陣跡003

ここから北国街道(脇往還)へ005

関ヶ原古戦場東首塚跡008

松平忠吉・井伊直政陣跡009

首洗いの古井戸016 Top

歴史を物語る巨古木 012

関ヶ原古戦場跡家康最後の陣地022
関ヶ原町観光案内図(歴史民俗資料館前)ho26w028 Top

関ヶ原歴史民俗資料館へ027

道の駅「いぶきの里」(昼食)038

道の駅「いぶきの里」から伊吹山を展望046

伊吹山文化資料館へ048

伊吹山文化資料館内の展示050

薬草の蒸し風呂の063Top
春照宿今昔ho26w064
Top

由里川から見た伊吹山072

北国街道(脇往還)を歩く(中央は水路)076

右:北国きよもと えちぜん道 左:ながはま道 の道標078

道標の隣の八幡神社(信長の先勝祈願の言い伝えがある) 080

浅井3姉妹のふるさと小谷城跡へ089

伊部宿本陣跡の看板093

『小谷城趾登山本道』を示す石柱094

北国脇往還(小谷道)096 Top
伊部宿 Top
Top
伊部宿本陣 Top
Top

伊部宿本陣跡 099

2011年NHK大河ドラマ「江−姫たちの戦国」放映記念105Top

『解説』
東西両軍の関ヶ原陣形図 (関ヶ原は東西南北の交通の要所であった。) Top
 (斜め水平が中山道、右下へ伸びるのが伊勢街道、左上へ伸びるのが北国街道(脇往還))
北国街道(脇往還) Top
関ヶ原−玉−藤川−平林−春照−小田−今荘−佐野−八島−最勝院−伊部−郡上−雨森−田戸−木之本
34.4km
滋賀県北東部の北国街道と中山道を連絡する脇街道。美濃 (岐阜県) の関ヶ原で中山道から分岐,
伊吹山 (1377m) の南麓を通り,伊部,馬上 (まけ) を経て,木之本で北国街道に合流する。
西国三十三観音霊場,美濃の谷汲山に通じることから谷汲道の名がある。 Top


「北国脇往還」(Web参照) Top
北国脇往還は戦国時代に重要な役割を果たす。戦国時代の前半、この地域を支配したのは京極氏で、
その本拠は上平寺城であり、脇往還は領国統治の基幹道であった。
戦国時代の後半、この地域を支配した戦国大名浅井氏の本拠である小谷城も、往還沿いの伊部・郡上
を城下町としている。
浅井長政の正室・お市が、織田信長の居城である岐阜から嫁いだのもこの脇往還である。
織田信長や徳川家康はこの街道を辿って近江に攻め込んだ。小谷落城後、城から脱出したお市と
浅井三姉妹が美濃方面に向かった経路もこの街道と考えられる。
さらに、賎ヶ岳合戦時、秀吉が大垣から52Kmを5時間で駆け抜けた「秀吉の大返し」の経路は
北国脇往還そのものであった。 Top
  
関ヶ原町歴史民俗資料館(Web参照) Top
「本館概要」参照
常設展では、関ケ原合戦図屏風をはじめ、関ケ原の戦いで使われた武具
(甲冑、大筒・火縄銃、ほら貝、陣跡からの出土品)等を公開しています。
また、徳川家康、石田三成の所用兜(複製)、主な参戦武将の肖像写真、プロフィール等のパネル
も人目を引いています。
なかでも、合戦時の東西両軍の陣形と戦の流れを電光で示した大型ジオラマは、CDによる臨場感
あふれる解説(英語、韓国語対応)付きで必見です。
ミュージアムショップでは、武将家紋入りぐい飲み・湯飲み・竹携帯ストラップ・超ミニ軍旗・
家紋写し金蒔絵シール等々、参戦武将にちなんだオリジナルグッズがずらりと並んでいます。
また、関ケ原合戦に関する最新版歴史雑誌も豊富です。
どなたにも合戦学習の拠点として最適です。レンタサイクルの貸し出しも行っているため、当館で
合戦概要を学んだ上で、古戦場を巡るのも一興です。 Top
伊吹文化資料館  Top
滋賀県の最高峰であり、さまざまな学術研究の宝庫として知られている伊吹山(標高1377m)
の麓に、平成10年(1998)3月にオープンした資料館です。
「伊吹山地とその山麓の自然と文化」をメインテーマに、伊吹山の自然に関する化石・草木・発掘
で明らかになった考古資料、そして山麓に暮らした人々の生活用具・生産用具を展示しています。
Top
春照宿(Web&春照宿PDF参照) Top
 米原市春照(すいじょう)は滋賀県北東部、伊吹山南麓の扇状地に位置する。北国脇往還が通り
春照宿が置かれていた。古くは水上と記し、伊吹山南麓にあり水の上という意味という。
 寛永(1624〜44)石高帳に村名がみえ、高769石、彦根藩領でそのまま明治になる。
元禄8年(1695)の記録では人数790とある。
 春照村には北国脇往還の春照宿が置かれていた。宿場の町並みは約700mであった。
前の宿は藤川宿で次ぎ宿は伊部宿であった。春照宿には本陣・問屋・旅籠・商家が軒を連ねていた。
 明治13年頃の村の状況は、土壌、水利とも悪いが、北国脇往還沿いにあることから交通は便利。
家数172・人数774。うち農家が167。産物は米・麦・菜種・葉煙草・桑葉・養蚕・製糸
などが行われ、その内約40軒が街道筋で酒屋・醤油屋・旅籠その他雑商を営んでいた。
 今、国道365号線が旧北国脇往還をなぞらえて走っている。
本陣の建物などは残って居らないが、本陣のあった場所には本陣跡との表示がされていた。
街道に面して平入りや妻入りの建物が連なる光景は宿場町の様相だ。町並みからみると在郷町
としても機能していたようだ。
 本陣跡がある宿場の中心辺りの街道の幅が、宿前後の道幅より広い。多分この部分は中央に水が
流れていて、防火ためや用水の確保、牛や馬の手入れをしたところと思われる。
 町並みを構成する家屋は、平入り・妻入り・中2階建て・2階建て、切妻造り・入母屋造りと
全く統一感がないが、一様に街道に面して建てられた、バラエティある町並みの様相であった。

町並指数  40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
   滋賀県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年  Top


【春照宿本陣跡】
春照宿の中央あたりであり、本陣の両側が脇本陣で、道の向かい側には高札場がある。
この周辺には土蔵造りの 家が多い。

【道標】『右北國きのもとえちぜん道』『左 長浜道』と刻まれた道標が立っている。 春照は、竹生島と谷汲山を結ぶ祈りの道と、北国から江戸へ向かう志の道が出会うところでもある。 Top
【八幡神社】 姉川の合戦時、徳川家康が戦勝を祈願したという伝承がある。  現在5年に1度行われている『太鼓踊り』は秋葉神社のお旅所をスタートし、街道筋を練り歩き 氏神神社である八幡神社の境内で踊りを奉納する。 Top
伊部宿本陣 Topへ
伊部宿(上小谷宿)は、郡上宿(下小谷宿)と合わせて小谷宿の駅務を果たす、他の宿とは異なった
タイプの宿場でした。
伊部は浅井氏の時代に小谷城の城下町として栄えていましたが、天正2年(1574)羽柴秀吉が長浜に
城を築いた際、小谷城下の社寺・住民を長浜に移住させたことにより一時衰退してしまいました。
しかし、長浜に移住した商人たちの愛郷の念は強く、復興に尽力し、結果として江戸時代に宿場町
という形で再興しました。
「外観」
 伊部宿には本陣・問屋が各一軒、伝馬十三疋が常備され、伊部宿を通行する諸大名は宿場中央に
位置する伊部本陣で宿泊・休憩されました。
 伊部宿本陣は、街道際で、現在も昔の面影を伝えています。  Topへ


【伊部宿本陣】 Top 小谷宿は上りの伊部宿、下りの郡上宿の二つで一つの役目を果たした。本陣・肥田家の建物は、街道 に向けて14間半という大きな間口を広げており、当時は裏の馬屋まで乗馬のまま入ったという。
伊部宿 Top
湖北町伊部の集落は、浅井氏の居城小谷城の城下町であり江戸期には北国脇往還の宿場町として栄え
本陣・問屋が整備されました。伊部は小谷城の城下町として栄えていましたが、天正2年(1574)秀吉
が長浜城を築いた際、小谷城下の社寺・住民を長浜に移住させたことにより一時衰退してしまいました。
しかし、長浜に移住した商人たちの故郷への想いは強く結果として江戸時代に宿町として再興しました。
伊部本陣に伝わる文書によるると福井藩・加賀藩・大聖寺藩・富山藩などが参勤交代の際に休憩所として
利用して居た記録が残っています。
町並みは本陣跡に大きな建物が残って居ますが街道沿いには残念ながら殆どそれらしき建物は残って
おらず宿場町としては寂しい感じの町並みでした。 Topへ


『小谷城趾登山本道』を示す石柱と小谷城にまっすぐ続く事を知らす『案内絵図』。 2棟並ぶ白壁の土蔵と小川の景観が美しい。 Top
小谷城戦国ガイドステーション Top 江・茶々・初が生まれた小谷城。三姉妹の原点がここにあります。 日本五大山城の一つで、日本一の城跡としわれる浅井氏の居城小谷城跡を語り部ガイドがご案内します。 小谷城跡へは中腹の番所跡まで25人乗りのバスを運行します。Top


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