伊能忠敬ウオーキングレポート H24.4.29(日)
  天気:晴 今日の歩数:55,068歩 参加者:79名
コース:名古屋城9:00発→白川公園→名古屋国際会議場→笠寺観音→緑区生涯学習センター→有松絞り会館→豊明(帰宅)

伊能忠敬(解説参照) 有松・鳴海絞WP)  
(★この伊能HPは、旧HP(5.2up分)を誤削除の為、再掲します。5.8作者)


名古屋城が出発点8:51(受付を済ます)001

準備運動の後出発9:02 006

さあ出発9:08 007

県庁街を歩く 9:15 010

伊能ウオークの旗inot012

西高蔵交差点・国際会議場へ向かうt019

白川公園で休憩10:14 015

白川公園を出発10:20 017

名古屋国際会議場11:16 021

ダビンチのスフォルツア騎馬像11:19 022

スフォルツア騎馬像11:51 028

昼食後、国際会議場出発11:57 029

笠寺観音に到着13:15 030

多宝塔13:16 033

笠寺観音の山門inot040

境内のケヤキt045

笠寺一里塚(88里目、名古屋市内唯一)13:38 051

東海道を行く14:05 052

緑区生涯学習センターに着く(休憩)14:11 054

東海道の街並み14:46 057

有松の東海道の街並み059

有松絞り会館に向かう14:50 063

旧家の卯建14:50 064

有松絞り井桁屋14:58 069

有松絞り会館で休憩14:51 066

街並みの解説図15:01 071

阿野一里塚(youtube)東海道86里目15:46 074

豊明駅に到着15:56 075 topへ
笠寺一里塚(東海道)  topへ

名古屋市内に唯一残る一里塚(東海道88里目にあたる)     topへ
有松絞り井桁屋  topへ
東海道五十三次 鳴海名物有松絞(広重)  topへ
伊能忠敬:
第四次尾張及び越前東残部の測量 享和3年(1803)2月〜10月、測量日数219日
享和3年(1803年)2月18日、至時は若年寄堀田摂津の命を受け、忠敬の前年測量の残部を継続実測させる
ため、路用旅費として「金82両2分被下候、道中人馬長持之持人等去年之通被下候旨云々」を忠敬に伝え
ました。忠敬は同月25日、門弟平山郡蔵・尾形敬助・村津大兄・小野良助並びに伊能秀蔵の5人の随行と、
しもべ人と共に江戸を出発しました。
東海道筋を西進し、さきに享和元年(1801年)伊豆よりの帰途に略測した道路を再測しながら3月4日沼津
に到達しました。この地より尾勢の界に位する佐屋宿に至るまでの沿海線駿府御前崎、浜松伊良子湖、
熱田並に静岡より名古屋に到達する小街道を測りました。
ここより海岸を離れ5月15日大垣に到着し、関が原・木ノ本などの諸地を経て敦賀に至る街道を測量しま
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あの人の人生を知ろう〜伊能忠敬編(HP)から topへ

伊能忠敬。江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能
家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。
忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10
年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を
救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は
家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。
浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。

※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだりのんびり余生を送るものだが
50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!

暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者
とはいえ高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を
使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われメンツを何より重んじる封建社会だ。
普通の男なら20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。
しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!

当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬
の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて
自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
この頃、暦局の人々の関心ごとは“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。
オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが大きさがよく分からなかったのである。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、
2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠い
ほど誤差が少なくなる。
師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだっ
た!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、
幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。
(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が
可能だったのだ)
忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。

1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて
歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所も
お通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいっ
た。昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。
江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、
日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。 
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさ
の計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、
共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した
数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで
永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。

半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑ん
だ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。
彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった!
1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の
皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといい
ます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。だが西日本の
測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、
思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に
入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。
もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長が
チフスで死んでしまう悲劇もあった--。
 
そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。
時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値
の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。
そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。
高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめ
る為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地
(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が
8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。

「地球の大きさを知りたい」このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになっ
た忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。
第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて
考えられない。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たち
に見せてくれた!本当に有難う、推歩先生!!
以上は、あの人の人生を知ろう〜伊能忠敬編(HP)から引用   topへ



有松・鳴海絞(WP)   topへ
有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)は愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産さ
れる絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統
工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。

阿野一里塚   topへ 一里塚は、道しるべの一つで、街道の両側に1里(約4km)ごとに設けられ、その大きさはおよそ5間 (約9m)四方と言われています。塚の上には榎が植えられ、距離の目安として親しまれていました。  東海道の一里塚は、慶長9年(1604)に徳川家康の命により築かれたものですが、明治以降の道路 拡張や交通機関の発達でその多くが姿を消してしまいました。  「阿野一里塚」は、珍しく両塚が残っていて東海道の中でも貴重な存在です。(86里目)
笠寺一里塚 名古屋市内に唯一残る一里塚(東海道88里目)    topへ
東海道53次(wp)  topへ 鳴海宿(WP)は40宿目にあたる。東海道の一里塚一覧(WP) 一里塚(WP)


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