羽島市・ぶらりと歴史探訪 下中町石田(猿尾)  H24.7.29
 羽島市下中町石田の猿尾と愛知県営西中野渡船の乗船体験(桑原コミュニティセンター講座)

岐阜新聞(石田の猿尾) 羽島市観光協会 石田の猿尾(Wp) 石田の猿尾(MyHP) 石田の「猿尾」解説
羽島市(wp)


愛知県営西中野・岐阜県側乗船場003

木曽川上流方面004

岐阜県側乗船場にある旗(中央右)を揚げて舟を待つ005

受付を済ませて参加者を待つ006

乗船場近くの巨木t007

旗を揚げて舟を待つt009

乗船前に並河先生の講義を聴く008

舟を待つ010

愛知県営西中野渡船の船が来た016

船が来た017

二班に分かれて乗船018

船に乗り込む019

乗船定員は14人021

渡船場を離れる023

猿尾堤が一望出来る025
船頭さんの話によれば、昭和34年の伊勢湾台風で堤の見事な松並木
が全て倒れてしまい、景色が激変した。

船から猿尾堤を一望026
また、昭和51年に馬飼大橋が出来て風景が一変したとのことだった。
ここでも環境変化即ち、自然と人間との相互関係を思い知らされた。

愛知県営第五中野丸 船頭含めて14人乗り027

こちらが愛知県一宮市西中野渡船場028

愛知県営西中野乗船場の標柱t029

県営渡船場の運航時間表isdst030

岐阜県側乗船場へ第二班を迎えに行く033

岐阜県側に旗が揚がっているのが見える034

第二班を乗せた船が来た036

船が到着。037

愛知県営西中野愛知県側乗船場に到着038

第二班と入れ替わりに一班が帰路に就く039

岐阜県側乗船場に第一班到着042

猿尾堤の下流方面探索043

猿尾の西側044

猿尾の西側046

猿尾の東側、木曽川上流方面047

猿尾の西側の藪048

猿尾の西側049

猿尾の西側に小舟が一艘050

猿尾から東の木曽川を見る054

猿尾の東側、木曽川上流方面055

木曽川上流方面057

第2班が戻ってきた。059

渡し船が帰って行った060

近くの神社にあった猿尾の説明062
 
【写真】川の中央に向かって土手のように突き出した           現存する渡し
「石田の猿尾」=羽島市下中町石田                            topへ

「石田の猿尾」   topへ 木曽川の河川敷から川の中央に向かって突き出した2本の石の堤防は、水の流れも変える護岸として、 宝暦治水の工事で築造された。 猿の尾っぽのような細長い姿から「猿尾」と呼ばれる。2本の猿尾は増水時、対岸の支流・佐屋川 (現在は廃川)に水を押し出し、下流に向かう水の勢いを弱める役目を果たした。 猿尾は蛇籠(じゃかご)という、大きな石を詰めた細長い竹のかごを川底から積み重ねて造られている。 工事は難航し、半年ほどかかって完成した。 2本のうち「百五十間猿尾」と呼ばれる上流側の1本は当時の原型をとどめており、今も薩摩藩士の 偉業を物語っている。


石田の「猿尾」の発祥は定かではありませんが、水制の一種で、猿の尾のように細長い小提を岸から川へ突き
出し、水勢を弱めようとするもので、多くは延長が100mを越える大きな堤防で、石で覆われています。
石田の猿尾は、宝暦3年(1753年)から行なわれた宝暦治水の遺跡の一つで、宝暦5年3月に竣工しました。
木曽川右岸石田村から川の本流へ突出した二筋の大きな石堤によって川の水の勢いを弱め、
対岸にあった木曽川の派川、佐屋川(明治33年廃川)へ水の流れを押しやり通水を良くすることで、下流に流れ
る水量を減らす目的で築かれました。別名「一〇〇間猿尾」「二〇〇間猿尾」と呼ばれ、文献によれば、この猿尾
の建造には、唐竹303,691本、石8,620坪2合、木材16,058本、藤1,713房などが費やされ、
遠く七宗村などから運ばれました。
石田の猿尾は、現在もその姿を遺している数少ない猿尾の一つで、愛知県一宮市西中野と岐阜県羽島市を結ぶ、
現在でも運航する渡しです。   topへ

石田の「猿尾」解説  topへ
八神城跡は石田の猿尾より下流にある。

八神城跡のイチョウ(江戸初期八神城主毛利氏が植えたもの。樹齢約300年樹高30m、目通り3.9mの大樹) topへ

八神城主は毛利氏。土岐、織田、豊臣、徳川に仕え江戸時代には名古屋藩に所属した。(左側の古絵図参照)


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