第40回友歩会例会・東尾張編P5ウオーキング(下見・例会)
(下見9名:平成24年9月2日(日)天気:晴れ・例会:10.6(土)晴れ、参加者42名) 
(9.2日の歩数:47,161歩(早朝ウオーキング含む)、10.6の歩数:40,389歩)

コース:(一宮駅7:30>名古屋駅地下鉄乗り換え>藤が丘駅>8:41着:受付・コース説明・準備運動)
スタート−:名古屋市・藤が丘駅9:15>長久手市・木下勘解由塚>中央図書館(桧ヶ根公園・堀久太郎秀政本陣地跡)>
色金山歴史公園(家康の床机石・展望テラス)>長久手古戦場(勝入塚・郷土資料室)(Sコース:リニモ古戦場駅)>
日進市・御嶽社(昼食)>以下は全て日進市・妙仙寺(臥龍の松と山門)>岩崎城址公園(岩崎城歴史記念館)>香久山古窯>
レトロ電車館(解散式)>日進市・地下鉄赤池駅15:14クールダウン>帰宅(約18km)
コースマップ参照(pdf)

色金山歴史公園長久手古戦場公園岩崎御嶽社妙仙寺(臥龍松)岩崎城址公園香久山古墳
レトロ電車館名古屋市交通局友歩会日進市(1994.10.1市制・WP)長久手市(平成24(2012)年1月4日誕生・WP)
シールドマシン解説



東尾張編P5ウオーキング10.6受付naga002

コース案内と説明naga003

nagak001 地下鉄藤が丘駅出発

木下勘解由(秀吉方武将)戦死処の碑002

nagak003 木下勘解由戦死処説明木下勘解由塚)
木下勘解由左衛門利匡の戦死地である。秀吉方の岡崎侵攻の総大将
三好秀次は白山林の戦いで敗北し、現在の長湫字荒田の地まで徒歩
で逃げ、木下勘解由利匡と出会った。利匡は自分の馬を秀次に与えて
逃れさせ、御幣を地に立てて追ってきた敵と奮戦し戦死した。また、
兄弟の木下助左衛門祐久も敵を一時食い止め、この付近で戦死した。

長久手中央図書館005

nagak007 桧ヶ根公園内堀久太郎秀正本陣跡(解説)

008堀久太郎秀政本陣跡石柱(桧ヶ根公園内

nagak009 耳塚

岩作(やざこ)城祉の碑後は長久手市役所011

長久手市役所の碑(H24.1.4合併誕生)naga009

nagak014 石作(やざこ)神社

岩作神社伝統行事などの説明を受けたnaga013

岩作(やざこ)のオマント碑016

nagak017 岩作神社本殿
神社名:石作神社(やざこ)(Web)

岩作神社由来018

nagat019ツブラシイの古木樹高17m幹周4.6m樹齢350年

石作神社境内の樹木が木陰と成って心地よいt022

nagak024 色金山を登る

家康軍が軍議を開いた「床机石」025

史跡床机石観音道naga017

展望台でしばらく休憩naga014
nagak026
色金山歴史公園の展望テラス027
(Web解説)

家康が見た長久手を歩く(Web解説)

nagak028 テラスから見た名古屋方面

長久手合戦慰霊碑031

nagak034 安昌寺の菩提樹(市指定保存樹)(解説)

池田恒興(勝入)戦死地の塚(勝入塚)039

nagat036 首塚の説明(右は明治43年の漢文碑)


上:首塚・下:勝入塚の説明040

nagak042 長久手古戦場野外活動施設(郷土資料室)

白山林・桧ヶ根・仏ヶ根の戦い説明043

小牧長久手合戦図屏風naga022

武将の鎧兜naga026(郷土資料室)

nagak045 古戦場公園を後にする

長久手古戦場駅西交差点にある幟046

nagak048 あじさい遊歩道を通って

岩崎御嶽社(131m)に登る049

全員集合(御嶽社)naga037

nagak052 岩崎御嶽社山南(平成展望台)からの展望がすばらしい。

御嶽山から出ている菊水の滝t054

nagak056 妙仙寺山門

山門057

nagak060 臥龍の松

妙仙寺・臥龍の松062

臥龍の松naga047

妙仙寺本殿naga048

nagak063 妙仙寺山門の絵天井

岩崎城歴史記念館069

岩崎城址公園案内図064

岩崎城068

岩崎城から見た歴史記念館naga068

岩崎城から見た市内の様子naga069

nagak073 岩崎城を後にする

香久山の古窯を見る 077

香久山古窯naga076 上部から見る

香久山古窯naga078 左は分煙柱(炉内温度を高める役割)

nagak078 レトロ電車館に着く

地下の掘削機(シールドマシン)nagak085

レトロ電車館案内naga092

ワンマンカーの市電・車内に入ることもできるnaga093

nagak082 なつかしい市電(レトロ電車館内)

市電の車台naga095

nagak086 赤池は地下鉄終着駅だった。

地下鉄赤池駅088
馬の塔(オマント)は、馬の背に標具(だし)と
呼ばれる御幣を立てた馬を飾って氏神や近隣社寺
へ奉納する行事。
長久手警護祭参照
堀久太郎秀政(Wp)
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、
味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、
余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを
待ち伏せし、挟撃して敗走させた。
家康本隊とは戦わず退却。  topへ
神社名:石作神社(やざこ)
 鎮座地:愛知県愛知郡長久手町大字岩作字宮後17
 御祭神:建真利根命
 創建:承和四年(834)
 社格:式内社、旧郷社
 例祭:10月
 【由緒】
 当社祭神は建真利根命と申し人皇代五十四代仁明天皇の
承和元年(皇紀一四九四年 西暦八三四年)の鎮座である
後人皇第九十五代花園天皇の正和中これを修造すると伝え
られる。 明治五年五月郷社に列せられて今日に至る按ず
るに当社は所謂式内郷社にして人皇第六十代醍醐天皇の
延喜年間に編纂せられたる延喜式神名帳に記載せられ其の
由緒は極めて遠いのである。尚当社は往時山田郡に属して
いたが同郡荒廃して愛知郡に編入せられたという。
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安昌寺  topへ
長久手合戦では、多数の戦死者がでました。
 資料によっては、その人数はマチマチです。
しかしおおよそどの資料でも一致しているのは数千人
規模の戦死者だったとか。
それが長久手町中に広がっていたんですね。
ということで戦後処理は地元の方にオマカセで、武士
たちはどこぞに消えて行きます。
いつも大変なのは地元の人たち。
関ヶ原も桶狭間も長篠も同じです。
ということで、岩作村安昌寺の雲山和尚が、この戦死
者供養に携わりました。
現在、安昌寺の道路を挟んで反対側にある首塚。
 合戦後、毎年合戦の日には香華が手向けられ、村人
たちによって法要が営まれてきました。
江戸時代には、尾張藩士の参詣もあったそうです。
色金山、岩作城跡(長久手町役場)の近くです。

御嶽社で全員集合nagaw037

色金山歴史公園 ★(解説)     topへ

「小牧・長久手の戦い」の折り、徳川家康が陣を張った地が色金山(いろがねやま、国指定史跡)で、
山頂には家康が軍議を開いた際に腰掛けたといわれる「床机石(しょうぎいし)」が残されています。
周辺は公園として整備され、園内には展望テラスや犬山の国宝茶室「如庵(じょあん)」を模した茶室
「胡牀庵(こしょうあん)」などがあります。
小牧・長久手の戦い詳細Web) 家康の見た長久手 

長久手古戦場公園     topへ

「小牧・長久手の戦い」の主戦場跡地は、長久手古戦場として国指定文化財に登録されており、
現在は「古戦場公園」として整備されています。園内には、縮景という手法で古戦場を模した
広場や、秀吉方の武将の塚などがあります。また、併設する長久手市郷土資料室には、
「小牧・長久手の戦い」に関するジオラマや資料などがあります。
この公園は、「日本の歴史公園100選」にも選ばれており、毎年4月上旬には"長久手古戦場桜
まつり"が開催され、大勢の人でにぎわいます。


岩崎御嶽社(Wp)    topへ 愛知県日進市岩崎町の岩崎御嶽山の山頂に鎮座する神社。 万延元年(1860年)に夢のお告げを受けた明心・明寛の2人の行者が、木曾から御嶽大神を勧請して創建 したとされる。本堂の左脇に洞穴があり「お助け穴不動」と呼ばれる不動尊が祀られている。 北西に直線距離で400メートルほど離れた場所に「奥之院」が置かれている。 参考:御岳山 (日進市)。標高131 m。(Wp) 所在地: 愛知県日進市岩崎町 御岳山(おんたけさん)は、愛知県日進市にある山で、標高131メートル。 地元では岩崎御嶽山、あるいは日進御嶽山とも呼ばれており、山頂には江戸時代に勧請された岩崎御嶽社 が置かれているほか、山中の至る場所に神霊碑などが建立されて、地元では信仰の対象ともなっている。 また、周辺を巡る散策路とともに「平成ふれあいの森」として整備され、山の南側には平成展望台が置か れていて、名古屋市方面を見渡せる夜景スポットとして知られている。   topへ
妙仙寺臥龍の松HP)日進市指定文化財   topへ ●高さ:約6.7メートル ●幹まわり(地際)約2.5メートル ●枝張(東西)約11.5メートル、(南北)約12.3メートル 黒松の中では、市内唯一の巨木であり、その美しい姿と、歴史的環境に育まれた銘木として天然記念物に 指定されました。『日進村誌』(昭和31年)には、枝張り約18メートル四方、樹齢250年と記され、 平成8年には松の腐食部分等の治療が行われました。この際の樹木医診断によれば、この松が境内に植樹 (あるいは自生)されたのは、当地において妙仙寺が建立された時期(室町時代後期)までさかのぼる ものと思われ、樹齢はおよそ400年をこえると推定されます。 「臥龍(がりゅう)の松」という名称は、幹や枝の張り具合が、まるで龍が臥(ふ)してからだをかがめて いる姿にたとえられることから名付けられたようです。
岩崎城址公園(日進市HP参照)     topへ 岩崎城は、室町時代末の平山城で、信長の父である織田信秀によって享禄年間(1528から1531)に築城 され、その後、徳川(松平)方に奪われたのち、 天文7(1538)年に丹羽氏清が本郷城から移ったと言 われ、以後、慶長5(1600)年三河伊保(豊田市保見町)に一万石の大名として転封されるまでの62年 間、丹羽氏が4代に渉り居城しました。 天正12(1584)年小牧・長久手の戦いの際に、織田・徳川連合軍の後方攪乱を狙った豊臣方の池田恒興 隊を阻止して、城代丹羽氏重以下300余名が討ち死にしたことが織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えら れています。 昭和62年に展望塔として再築された5重構造の白壁が美しい立派な天守閣からは日進市街が一望できます。 また、隣には岩崎城の資料を始め、日進市の歴史文化を展示した歴史記念館があり、様々な催し物が行 われています。
香久山古墳(日進市HP参照)     topへ 香久山古窯(岩崎45号窯) 70基を数える猿投窯・岩崎地区の古窯の中のひとつで、住宅都市整備公団による土地区画整理に伴い、 昭和57年に発掘調査が実施された。遺構は、平安時代初期(9世紀初期)の典型的な窖窯(あながま) で、長さ7.9m、幅2.0mの窯内に分焔柱(ぶんえんちゅう)を有し、天井部を除いて、ほぼ完全な状態 で残存していました。 製品には、須恵器(すえき)の杯(つき)・椀(わん)・双耳椀(そうじわん)・盤(ばん)・短頸壺 (たんけいこ)・鉢(はち)・擂鉢(すりばち)・鉄鉢(てっぱつ)・甑(こしき)・円面硯 (えんめんけん)・甕(かめ)・横瓶(よこべい)のほか、原始灰釉陶器として長頸瓶(ちょうけいへい) ・広口短頸壺(ひろくちたんけいこ)・水瓶(すいびょう)・浄瓶(じょうへい)・双耳瓶(そうじへい) ・平瓶(へいへい)が、灰釉陶器として椀・皿類がありました。 特に、窯内の燃焼室近くに並列して遺存した短頸壺の蓋(ふた)は、原始灰釉薬陶器の焼成技法を知る うえで貴重です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (猿投窯について) 標高629メートルの猿投山の西南に広がる尾張丘陵に5世紀(古墳時代)から14世紀(室町時代初頭) までの約900年にわたり形成された窯業遺跡を猿投山西南麓古窯群(猿投窯)と呼びます。 猿投窯は、総数一千基を超えると推定され、特に奈良・平安時代にはわが国屈指の窯業地でした。 また灰釉(かいゆう)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)という、当時の日本で最も高級な製品を生産し、 中国製品に次ぐ高級品として平城京・平安京の都を中心に全国へ供給されました。 のちに、その窯業技術は、瀬戸・常滑へと受け継がれたと考えられています。  topへ
レトロ電車館(Wp)                topへ レトロでんしゃ館(レトロでんしゃかん、Nagoya City Tram & Subway Museum)は愛知県日進市浅田町 の名古屋市交通局日進工場の敷地内にある名古屋市交通局が運営する施設である。 正式名称は名古屋市 市電・地下鉄保存館。 レトロでんしゃ館は2000年(平成12年)6月2日に、名古屋市交通局日進工場敷地内にオープンした地下鉄 ・路面電車車両の静態保存施設で、館内には名古屋市交通局でかつて使用されていた地下鉄や市電の車両 が3台展示されている。また、常設・企画展示コーナーや鉄道運転シミュレータ (「とことん地下鉄!!大名古屋」を利用している)などもある。 写真集などのHP(日進市)            topへ
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