当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮と
して国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。
また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日
に至っています。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治
体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。TOPへ
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★真清田神社(WEB解説) |
★常念寺 TOPへ
当寺は、柳星山護国院と号します。観音堂には、如意輪観世音・西国・秩父・坂東の百観音が安置されて
います。如意輪観世音菩薩像は一宮市文化財に指定をうけており、毎年11月3日は『如意輪観世音御開帳』
を執り行います。また、蓮の寺と言われており、約100鉢の花蓮は、六月中旬〜九月中旬頃まで見られます。
花蓮の時期を楽しみにされていらっしゃる方もございます。常念寺の境内には花蓮だけではなく、季節の
花々がたくさん咲いております。どうぞ、お近くにいらした際、常念寺にも足をお運びください。
(常念寺HP) TOPへ |
★照手姫袖掛けの松(WEB参照) TOPへ
室町時代中ごろ、浄瑠璃や歌舞伎などで名高い照手姫が常陸(茨城県)の城主、小栗判官助重と京都へ
向かう鎌倉街道沿いの同所で、小袖を掛けて休息したと伝えられている。
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浄瑠璃、歌舞伎で名高い照手姫が室町時代中頃、常陸(茨城県)の城主小栗判官助重と恋の道行の折、
鎌倉街道脇のこの地の松に小袖を掛け、しばし休息したと伝える。鎌倉街道はこれを因んで小栗街道
とも呼ばれる。
小栗氏は桓武天皇の血をひく常陸・平氏の一族で、常陸国真壁郡小栗(現在の茨城県真壁郡協和町)
を本拠地として、鎌倉時代には御家人であった。室町時代の1411年10月に鎌倉公方に叛して兵をあげ、
小栗満重は自刃。その子助重は、一族の領地のある三河の国に逃れ、結城合戦で戦功をあげ領地を回復
したが、1455年落城し、助重の消息は不明となった。
「鎌倉大草子」によると、助重(小栗判官)は、三河の国へ逃げる途中、盗賊に毒を盛られようと
するが、遊女照姫に助けられ、無事危機を脱する。やがて、旧領を回復し、照姫を探し出し、照姫は、
判官死後も判官と毒殺された家来どもの霊を弔いながら余生を送ったという。
この話が、説教説という中世の口承芸能によって広められ、様々な尾ひれがついて、その地その地で
色付けの違った物語になっていったようだ。
「小栗実記」では、相模の国(神奈川県)の盗賊は、郡代・横山一統になっており、謀略で毒酒を
盛り殺害されようとするが、これを察知した横山の娘照手の機転により一命を取り留めたことになって
いる。
小栗は、口に含んだ毒酒の害で、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけずといった重病人(餓鬼病)
の姿となる。一方、照手も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣ら
の助けもあり小栗判官との再会が叶う。しかし小栗判官の病は意外にも重く照手の強い思いで、治療の
ため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。
碑に書かれている恋の道行きというのは、この時のことであろうか。 TOPへ (★コースmap) |
一宮博物館 TOPへ
★概要(wikipedia) TOPへ
一宮市の歴史や文化遺産に関する展示を行う目的で、1987年(昭和62年)11月に開館。市内の遺跡から
発掘された古代から中世にかけての出土品をはじめ、大正から昭和に使われた大型織機をはじめとした
一宮の繊維産業の歴史などを常設展示している。
建物は内井昭蔵の設計で1988年(昭和63年)に第20回中部建築賞、1991年(平成3年)に一宮市建築賞
1993年(平成5年)に第4回公共建築賞中部地区優秀賞を受賞している。 TOPへ
妙興寺(wikipedia) TOPへ
妙興寺は、愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の大寺院。山号は、長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は
妙興報恩禅寺と称する。本尊は釈迦三尊、開山は滅宗宗興である。周囲には五つの塔頭がある。
古より「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われる。 新陰流開祖上泉信綱が修行した。無刀取り
発祥の地。修行道場として僧堂が設置されている。
「歴史」
創建以前には妙興寺廃寺(妙興寺跡)と呼ばれる古代寺院が建っており、境内各所から出土する
奈良時代の瓦によって8世紀には寺院建築が存在したことが確認されている。その後寺院は、
いつしか衰退し廃寺になった。数百年後の貞和4年(1348年) 尾張国中島城主中島蔵人の次男
滅宗宗興が亡き父母の報恩に感謝するために創建され、先師にあたる南浦紹明(なんぽじょうみん)
を勧請開山とした。伽藍が完成したのは貞治4年(1365年)のことである。
この間、文和2年(1353年)には 足利義詮の祈願所となり諸山に列し、延文元年(1356年)後光厳
天皇の勅願寺となっている。最盛期には、境内塔頭8、末寺13あったという。
ところが、応仁の乱を境に足利将軍家の庇護を失い、戦国時代の戦乱によって多くの寺領を失い衰微
する。天正18年(1590年)寺の荒廃を憂いた豊臣秀次(あるいは豊臣秀吉)によって京都妙心寺から
南化玄興が招聘され再興がはじまり、この時から妙心寺の末寺となった。秀次が200石を寄進した後、
秀吉が300石を朱印地として宛てがい、後に松平忠吉に200石に減らされるも、これが尾張藩主に
よって代々安堵された。
明治時代に火災で伽藍を焼失し、方丈は明治26年(1893年)、庫裏は明治30年(1897年)にそれぞれ
再建された。 重要文化財の勅使門は創建当初来の遺構を今日に至るまで伝えている。
当門には1353年後光厳天皇より賜った勅額「国中無双禅刹」が掛かっている。 TOPへ
★妙興寺解説(Web参照)★愛知県の解説 (★コースmap)
★多加木緑道(WEB) TOPへ
全長700メートルにわたる、せせらぎのある散歩道。「出会いの広場」「壁画のある坂道」
「流れの散歩道」「ブリッジ」「噴水の広場」の5つのゾーンからなる
(愛知県の解説) TOPへ
(★コースmap) |
★油田公園 TOPへ
油田公園(アブラデンコウエン)は、愛知県 一宮市にあります。
口碑によれば、この地大和町妙興寺字油田は、昔、真清田大神が降臨し、後年現在地に遷座したという。
真清田神社の桃花祭に妙興寺より馬を引く由縁がそこにあると伝える。油田の地名の起こりは明らかで
はないが、その土地を燈明料所として真清田神社に寄進し、年貢の一部が納入されたことに由来する
ものと思われる。(碑文参照:昭和58年3月建立・一宮市観光協会)
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★三本池跡(稲沢市内の鎌倉街道・参照)(赤池古蹟) TOPへ
古道は子生和橋が架かる宮田用水沿いに東に進み、油田遺跡経由、三本池(三本木池ともいう)と
なるが東海道線路敷きのため、そのまま南に移動し、コンビニのある三差路を左折、地下道を潜る
と、県道名古屋一宮線の交差点となる。
三本池は県道沿いに東側にある。赤池という地名は、古来から泥田で蓮が自生していた土地に多い
名で、咲いた時の印象からという説もある。上流にあたる一宮市の真清公園の東に幾枝にも分かれ
流れた場所を表す「柳戸」があったように、赤池も木曽川の支流が乱流していたり、湿地帯が多く
歩行も容易でなかったと思われる。
中央の碑文には、池の脇を昔の鎌倉街道が通っており、三本の大複があったが大風に倒れ無く
なったと説明している。そして、この付近は鎌倉街道時代の休憩所的な場所とも言われている。
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★下赤池児童公園(MAP参照) TOPへ
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★下津城祉 TOPへ
下津城(おりづじょう)は尾張国中島郡下津(現在の愛知県稲沢市下津高戸町)にあった日本の城。
種類は平城。「下津城址」の碑がある。一部土塁も残る。
「解説」
築城者の評細は不明であるが、応永7年(1400年)頃、尾張守護に補任された斯波義重が、
下津城に尾張国の守護所を置いたといわれる。また永享4年(1432年)に第6代将軍・足利義教が
富士遊覧の際に宿泊したといわれる。
応仁の乱が起こると、尾張国でも守護代織田氏が斯波氏の家督争いに介入して、二家に分裂して抗争
を始めた。この時期に守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた「織田伊勢守家」当主の
織田敏広が入城し、居城としたという。
文明8年(1476年)、敏広は守護代織田家の分家筋の「織田大和守家」当主の織田敏定と戦って敗れた。
『和漢合符』によると、この際に下津城は焼失したという。
その後、尾張守護所はその別郭であった清洲城へ移ることになった。また、下津城を追われた敏広は
岩倉城を築いて居城としている。 TOPへ
★下津城解説(WEB) (★コースmap) |
★鎌倉街道碑 TOPへ
岐阜街道の前身は鎌倉街道の一部であったといわれています。かってこの辺りは折戸の宿といわれ鎌倉
街道の宿駅があったところでした。
碑文には、新たに岐阜街道が設けられたため町並みも移転し街道として機能しなくなった。
と記しています。碑は昭和58年稲沢市教育委員会が建立したものです。
鎌倉街道
鎌倉時代に京と鎌倉を結んだ街道で63宿次。13〜14日を要したと云われています。
(★コースmap)
★下津城址、鎌倉街道碑はこちらも参照してください。(cf:稲沢市内の鎌倉街道) TOPへ
★鎌倉街道(木曽川町〜一宮市その1)★鎌倉街道(木曽川町〜一宮市その2)
★鎌倉街道(稲沢〜甚目寺その1)★鎌倉街道(稲沢〜甚目寺その2)
★鎌倉街道(一宮市内)★鎌倉街道(稲沢市内)
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★廣幢寺 TOPへ
1529年に袋松院が正眼寺和尚の隠居寺として創建される 後の「広幢寺」
1689年に袋松院が「広幢寺」に改められる
下津の宿の中央あたりに位置しk鎌倉街道は寺の東側を流れる青木川沿いに東から北に北上する。
絹本著色薬師三尊十二神将像
(ケンポンチャクショクヤクシサンゾンジュウニシンショウゾウ)
縦100.1cm、横38.5cm。薬師如来は、東方浄土の浄瑠璃世界に対して衆生の現世利益を司る仏で、
脇侍として日光・月光菩薩を配する。
眷属の十二神将は、分身とする守護神で、薬師の十二大願を護持するとも、昼夜十二時、四季
十二月に絶えず衆生を守るともいわれる。
天蓋の下、画面中央に二重円光背を背負い、蓮華座上に坐す金色身の薬師如来像を大きくあら
わし台座の両脇に日光・月光の脇侍、その左右に六体ずつの十二神将を配する。
画幅裏に天明3年の修理銘がある。制作は室町後期と考えられる
参考 市役所生涯学習 TOPへ
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★円光寺(map) TOPへ
場所は稲沢市下津(おりず)内の鎌倉街道参照(★コースmap)
★圓光寺(稲沢市指定文化財)
円光寺。鎌倉街道沿いにあるお寺です。養老7年(723)志摩刑部益信が創建し、行基を寺主に願ったと伝
える。天台宗。寺領23ヶ村、塔頭23ヶ寺、末寺48ヶ寺があったが、戦国時代に足利尊氏により剥奪された。
その後、度重なる戦火により衰退した。江戸時代前期に竜海が復興し、中期に尾張藩主より寄進を受け、
後期に尾張藩家老竹腰山城守が修理に尽力した。稲沢市唯一の天台宗の寺であり、ご本尊は聖観音菩薩
である。 TOPへ
★阿弥陀寺(WEB) TOPへ
阿弥陀寺は1239(延応元)年に真言宗の寺院として創建され、戦国時代初期の文明年間(1469〜87年)
に蓮如上人が訪れたのを契機として浄土真宗に改宗しました。
戦国の世には浄土真宗が東海地方に深く広がりを見せはじめ、尾張一帯における農民の多くが真宗に
帰依しました。そうしたなか、室町期には当寺も末寺を抱えるほどの規模であったと伝えられています。
しかし1570年(元龜1)に蜂起した伊勢長島の一向一揆に際し、当寺も門徒等とともにこれに加わりま
したが、信長勢による弾圧にあい、寺の規模は大きく縮小させられました。その後、往来の要地である
鎌倉街道にあって、東本願寺(大谷派)の重要な地方寺院として現在の規模にまで回復し、徳川中期
(江戸時代中期)以降は常陸国柿岡村如来寺の分地の二十四輩地としてその役を果たし今日に至ります。
長島一揆での焼討ちや二度の大戦によって、現在の阿弥陀寺は歴史的建造物としての指定は受けていま
せんが、かつての鎌倉街道は今も門前に残り、往時の繁栄がしのばれます。
【略年表】
延応元年 (1239) 伊勢国安濃津の祐範により阿弥陀寺が創建。元は真言宗寺院で曩謨寺と称す。
文明年間 (1469頃) 蓮如上人が訪れたのを契機として浄土真宗に改宗。
当寺に伝わる「六字名号」(稲沢市指定文化財)はその際に蓮如上人より付与されたものとされている。
永禄五年 (1562) 七月二十一日、「織田信長の裁許状」が下される。
元龜元年 (1570) 長島一向一揆
信長に対抗する石山本願寺の命に応じ、阿弥陀寺第三世住職の良意も末寺門徒等を率いてこれに加わる。
郷土の史料には、信長勢による焼討ちに遭い七堂伽藍を焼失したと伝えられている。
慶長十一年 (1606) 教如上人より「蓮如上人眞影」(稲沢市指定文化財)が付与される。
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