第10回信長学フォーラム:「信長公と天下布武」・参加レポート

平成29年2月25日(土)じゅうろくプラザホール 午後1時〜4時30分


基調講演:『戦国史の流れを変えた信長の岐阜入城』小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)
講演:『能への誘い』吉田篤史氏 他(能楽師シテ方観世流準職分)
パネルディスカッション:小和田哲男氏、小日向えり(歴ドル)、細江茂光(岐阜市長)
本郷和人(コーディネーター・東大史料編纂所教授)



「小和田氏の講演メモ」
1.信長の岐阜入城まで。
 信長の居城移転: 那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城
 ※時間がかかった稲葉山城奪取
 「岐阜」と命名

2.岐阜入城で天下を意識しはじめる・・・(天下布武)
 「天下」は日本全国の意味ではなかった!?
 
 正親町天皇からの讃辞
 足利義昭を擁して上洛に成功

3.信長による天下統一の戦いと岐阜
 岐阜城主時代の主な戦い (
第10回信長学フォーラム関連年表参照)

 ○姉川の戦い・・・・・・元亀元年(1570)6月28日
 ○石山合戦・・・・・・・・元亀元年(1570)9月〜
 ○朝倉・浅井討伐・・・天正元年(1573)8月〜9月
 ○長篠・設楽原の戦い・・・天正3年(1575)5月21日
 ※織田家の家督と岐阜城を信忠に譲る・・・天正3年(1575)


第10回信長学フォーラム関連年表 
織田信長公 岐阜入城・岐阜命名450年プロジェクト 史跡岐阜城跡


第10回信長学フォーラムチラシ  topへ

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第10回信長学フォーラム(2017.2.25)関連年表   topへ

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織田信長公 岐阜入城・岐阜命名450年プロジェクト(・・・から引用)   topへ
◎永禄10年(1567年)、織田信長公は斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。
 信長公は、本拠地をここに移し、町の名をそれまでの「井口(いのくち)」から、「岐阜」に改めました。
その様子は『信長公記』には次のようにあります。
「八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長嶋へ龍興退散。去て美濃国一篇仰付け
られ、尾張国小真木山(小牧山)より濃州稲葉山へ御越しなり。
井の口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明る年の事、」
信長公は、この岐阜城を拠点に天下統一に乗り出します。
岐阜から天下統一を目指す決意を示すように、中国の教えから引用した「天下布武」の印をこの年から使い始め
たと伝えられます。
武力をもって天下を治めるとも捉えられる言葉ですが、「七徳の武を備えた者が天下を治める」という信長公の
平和的な国づくりへの願いが込められていたとも言われています。

◎「命名を巡る諸説」
(命名)
【説1】信長公自らが命名
【説2】信長公の命により、尾張の政秀寺(現在の名古屋市中区)の僧侶・沢彦宗恩が提案
※沢彦は、臨済宗妙心寺派の僧侶。中国の文献に精通し、信長公の教育係として実学(儒学、天文学等)を教
えていたとされる。
⇒ 「天下布武」も沢彦が信長公に進言したと言われている。
【説3】岐阜市長良、崇福寺住職・柏堂景森が進言
※柏堂は、斎藤氏の重臣・長井氏の出身。
 快川紹喜の高弟として、快川が恵林寺に移った際に崇福寺住職となる。
⇒ 岐阜改称に異を唱えた信長公の直臣(鳴海助右衛門)に、中国の周の文王(西伯)の例をあげて説明
 (※岐阜市鏡島、乙津寺旧蔵「蘭叔録」)

(由来)
【説1】中国で縁起の良い地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」の中から選定
 「岐」:中国の故事「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったもの。
 「阜」:孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地になるよう願いを込めて。
    【説2】土岐氏時代から、禅僧の間で雅称されていた「岐阜」を採用
・瑞龍寺が稲葉山の南に移って以降、金華山を「岐山」・「岐阜」、里は「岐陽」(岐蘇川[木曽川]の陽[北]、
 金華山の南の革手守護所一帯)と雅称。
 (※室町中期の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集「梅花無尽蔵」:「岐陽」)
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◎楽市楽座政策
信長公は、岐阜に入城して間もなく、戦乱で荒廃した町を復興するために楽市楽座政策を打ち出し、
経済活性化を図りました。岐阜市の円徳寺には、その際の楽市楽座制札が伝わっています。
楽市楽座は、特定の商人しか商売が許されなかった時代に、誰もが自由に商売ができるという革新的な市場
システムでした。
市場は城下町から少し離れた場所(現在の御園周辺)にあったと考えられます。
岐阜市歴史博物館には楽市場の様子を大胆に復元した「楽市立体絵巻」があり、塩屋や反物屋、紙屋、魚屋
など、当時の町屋の様子を体験することができます。
[出典 円徳寺]

※制札
1.市場に来る者は信長の領地を自由に行き来でき、借金や労役を免除してもらえる。
2.押買や乱暴、けんかをしてはいけない。
3.無理を言って宿をとるなど、理不尽な事をいう者は入れてはいけない。  topへ

◎信長公のおもてなし  topへ ○武田信玄からの使者 − 秋山伯耆守 永禄11年(1568)、信長公は甲斐の戦国大名・武田信玄からの使者を迎え入れました。 使者の名は秋山伯耆守虎繁といい信濃飯田城をあずかる武田氏の重臣でした。 信長公は七五三の膳をもって虎繁をもてなします。献立は七献まで続き、信長が直接饗応したようです。 3日目には、丹波猿楽の梅若大夫の能を観たのち、長良川で鵜匠を集めて鵜飼の観覧を行っています。 この時も、虎繁の船を信長公の船同様に仕立て、さらに信長公が獲れた鮎を直接虎繁に披露するといった 大変なもてなしでした。 ○ポルトガルの宣教師 − ルイス・フロイス 永禄12年(1569)、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長公にキリスト教の保護を求めて、岐阜 を訪れます。フロイス一行の来岐の知らせを受けた信長公は非常に喜び、特別に許可された場合を除いて 何人も入れない空間である山麓の居館に招待したのでした。 フロイスは、「茶の湯の室」で高価な品を拝見し、その後、甘い物(おやつ)を供されるといった饗応を 受けました。 来岐の目的を達成したフロイス一行は京都へ出立しようとしますが、信長公は彼らを引き留め、山上の城 へも招待し、城からの濃尾平野の眺めを誇らしげに披露したのでした。 夜の饗応では、信長公は自ら食膳をフロイスに運び、「汁」をこぼさないよう優しく声をかけたとされて います。 宣教師たちは、城を案内されたことや、信長公自ら給仕をつとめたことを、破格の待遇として誇らしげに 記録しています。 また、フロイスは信長公からかけられた一言を書簡に書き残しています。 「美濃へは何度でも訪れよ」 ○京都のお公家さん − 山科言継 永禄12年(1569)、京都の山科言継は、岐阜へ着くと塩屋の大脇伝内宅に宿をとりました。 言継が信長公の居館を訪れて挨拶したところ、今夕、山上の城の見物に来るよう誘いを受けました。 到着すると、囃子によるもてなしからはじまりました。次いで、饗宴にうつります。 食膳の給仕は信長公がつとめました。 ○堺の茶人 − 津田宗及 天正2年(1574)、堺を出発した津田宗及は、岐阜へ到着しました。 津田宗及は、堺の豪商で、彼の記した茶会記によると、信長の岐阜でのもてなしは、「茶湯」と記されて います。茶湯といっても、点前のみではなく饗膳をふるまう会席もおこないます。 宗及が席に着くと、いろいろな茶道具が飾られていました。会席では、信長の甥にあたる信澄と信長の 二男信雄が給仕をつとめ、御飯のおかわりは信長自らが運んできました。 茶席では、宗及が見たこともない名品の数々に、宗及が信長へ進上した品である宗及旧蔵品を並べると いう、信長公なりの「おもてなし」の演出がありました。 topへ
◎信長公居館跡(史跡岐阜城跡)  topへ ○山麓居館の発掘調査の歩み 岐阜城の歴代城主の館は、金華山の西麓にある槻谷にあり、谷川の両側には段々地形が造られています。 この地形のは発掘調査の成果から織田信長公が造ったことが分かりました。 山麓の館は、斎藤道三公に始まる斎藤氏三代の頃に造られ、織田信長公が大規模に造成、改修をし、 関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていたようです。 山麓部では、昭和59年から1次調査が行われ、館の入口や水路、中心建物へ向かう通路の一部が確認され ました。2次調査(昭和63年・平成元年)では竈や庭園遺構、3次調査(平成9〜11年)では、石組井戸や 斎藤氏時代の陶磁器などが多数出土しています。 平成19年に4次調査を開始し、複数の庭園跡や建物跡、石垣などが見つかりました。 ○金箔瓦の発見 館の中心建物があったと考えられる平坦地の調査において、大量の焼けた壁度や釘、炭化材などの建築 部材に混じり、表面が金色に輝く小さな瓦の破片が発見されました。 瓦の破片を繋ぎ合わせると1辺が約28センチの方形の飾り瓦が複数あることがわかりました。 この方形の瓦には菊花文や牡丹文などの他、模様のない無文の瓦もありました。 牡丹文の飾り瓦の花びら部分の蛍光X線分析を行った結果、僅かですが金と金箔を貼りつける時に使用 する漆の成分が検出されました。 牡丹文の飾り瓦は、花びらを一枚ずつ貼りつけ、立体的で非常に手間のかかる造りになっています。 このような瓦は他では見つかっていません。また、改修して建物を建て替えた痕跡が認められないこと から、織田信長公が館を造った時から使われていた可能性が高いと考えられます。 ○信長公の居館 永禄12年(1569年)6月、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、キリスト教の保護を求めて、信長公 の居館を訪れました。信長公の居館は、館全体が庭園のような空間であったと考えられ、フロイスは ここを地上の楽園と称しています。信長公35歳、フロイス37歳の時のことです。 これまでの発掘調査によって、山麓地区では建物や庭園を配した個別平坦地の集合体ではなく、自然物の ように見えるように人工的に手を入れた谷川や岩盤を介して結び付けられた巨大な造形物ではないかと 考えることができます。 このような構造の戦国城館は、日本では他に見られません。この山麓の「宮殿」には織田信長公の志向や 美意識が現れていると思われます。 topへ


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