大徳連区教養講座:野間大坊、上海事件の痕跡・軍人像他見学レポート
 活魚の味里(みさと)(昼食)〜38名参加〜(2025.10.15)(水)
行程:尾西消防署〜野間大坊〜内海の銘菓『波まくら』〜豊浜さかな広場〜活魚の味里(昼食)〜
〜知られざる上海事変の痕跡・軍人像(
中之院)〜えびせんべいの里:9:00〜16:10帰着

野間ナビ 野間大坊武将印 豊浜漁港 岩屋寺全図 中之院軍人像について 中之院軍人像(説明書きから)(解説)
大徳連区教養講座のお知らせ 見所解説  軍人像の解説動画(朝日新聞2023.8.15) 内海マップ
大徳連区地域づくり協議会だより第55号
南知多観光協会(HP) えびせんべいの里(HP) 野間大坊(HP) 野間埼灯台(解説) 豊浜漁港(解説)

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野間灯台 noma1.jpg

野間灯台 noma2.jpg

野間大坊大御堂寺五重塔跡 1015001

野間大坊大御堂寺沿革 1015023

野間大坊大御堂寺本堂 1015024

野間大坊 源義朝の碑 解説はガイドの田辺さん 1015009

大御堂寺義朝公の墓所 1015011

義朝公の墓 1015014

池禅尼の塚 1015015

織田信孝の墓 1015017

鎌田政家と妻の墓 1015016

内海の銘菓「波まくら」にて買い物 1015028

内海の銘菓「波まくら」 1015030

「魚のひろば」へ 1015035

魚のひろば 1015036

魚のひろば 1015037

豊浜漁港 1015043

活魚の味里で昼食 1015047

豊浜漁港全体像toyohama1.jpg

豊浜漁港の漁船toyohama2.jpg

活魚の味里を後にする   以上午前の部  1015056

中之院軍人像へ行く前に岩屋寺へ寄る 1015058

岩屋寺本堂 1015059

左は笠森稲荷社 右は一切経蔵  1015065

中之院軍人像 1015067

中之院軍人像(Web) 1015069

中之院軍人像 1015074

中之院軍人像 1015079

中之院軍人像の全体 1015089

帰りは「えびせんべいの里」に立ち寄った 1015101
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見所解説 daitoku/1015noma.jpg  topへ

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内海マップ daitoku/1015utumi.jpg     topへ
野間埼灯台(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) topへ
野間埼灯台の位置(愛知県内)野間埼灯台  航路標識番号:[国際標識番号]	2632
位置	北緯34度45分28.01秒 東経136度50分40.32秒座標: 北緯34度45分28.01秒 東経136度50分40.32秒
所在地	愛知県知多郡美浜町小野浦岩成20-1
塗色・構造	白色 塔形 コンクリート造
レンズ	LED灯器V型
灯質	等明暗白光 明3秒暗3秒
実効光度	590 cd
光達距離	8.0海里(約15km)
明弧	326度から164度まで
塔高	18 m (地上 - 塔頂)
灯火標高	20 m (平均海面 - 灯火)
初点灯	1921年(大正10年)3月10日
管轄	海上保安庁
第四管区海上保安本部
登録有形文化財
登録日	2022年6月29日
登録コード	23-0579
野間埼灯台は、愛知県知多郡美浜町の野間崎に立つ中型灯台である。管轄は海上保安庁第四管区海上保安本部。地元では野間灯台(のまとうだい)と
いう通称でも知られる。
「歴史」
初点灯は1921年(大正10年)3月1日であり、愛知県最古の灯台とされる[2]。建物は無筋コンクリート造という珍しい構造であり、高さは18メートル、
下部外径は3.8メートル、壁厚は0.92メートルである。灯台内部は五層になっている。
2008年(平成20年)には野間埼灯台機器改良改修工事が行われた。第5フレネル式レンズはLED灯器に交換され、光度は15,000カンデラから590カンデラ
に弱まり、光達距離は約25kmから約15kmに短くなったものの、省電力化されて災害にも強くなった。この時交換されたフレネルレンズは三重県にある
大王埼灯台に資料として保管されていたが、美浜町に寄贈されていた名古屋港防波堤灯台のレンズと交換する形で、2022年に里帰りし、現在は野間埼
灯台近くの、食と健康の館で展示されている。
2021年(令和3年)には初点灯100周年を迎え、記念式典の開催や記念冊子の制作が行われた。
「美浜まちラボ」が保存や活用に取り組んでおり、2022年(令和4年)には海上保安庁によって「美浜まちラボ」が航路標識協力団体に認定されたこと
で、同年のゴールデンウィークには試験的に一般公開を実施して人気を集めた。同年6月29日には登録有形文化財に登録された。
美浜町では野間郵便局旧局舎に次いで2件目の登録有形文化財である。
2013年(平成25年)から愛知登文会などが毎年秋に開催している「あいちのたてもの博覧会」(あいたて博)では、2022年(令和4年)から野間埼灯台
も参加している。
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豊浜漁港(wikipedia)  topへ
豊浜漁港(とよはまぎょこう)は、愛知県知多郡南知多町豊浜にある漁港。蒲郡市の三谷漁港や形原漁港とともに、愛知県に3つある第3種漁港である。
管理者は愛知県。漁業組合として豊浜漁業協同組合がある。
「特色」
豊浜地区・中洲地区・小佐地区の3地区からなる漁港である。知多半島南部における沿岸漁業の中心であり、愛知県有数の漁獲高を有する。
現在は中型・小型の底引網漁が主体であり、イワシ・エビ・イカナゴ・シャコ・カレイなどを水揚げしている。豊浜漁港は漁業無線局・製氷工場・冷凍
工場・修理工場・漁具倉庫・網干場などの施設を有している。
「歴史」
「近世」
豊浜漁港は南東の風を防ぐ須佐湾にあり、天然の良港とされる。古くから「須佐の入江」と呼ばれていた。江戸時代には伊勢湾における漁業の中心のひとつ
であり、江戸と大坂を結ぶ船の寄港地としても栄えた[2]。北西からの季節風が吹く冬季には、伊勢湾を航行する帆船が停泊した。
「近代」
1912年(明治45年)には須佐湾の西端に防波堤が築かれて泊地が確保され、1918年(大正7年)には須佐湾の東端に防波堤が築かれた。
1928年(昭和3年)5月、愛知県水産課は豊浜漁港、渥美郡福江町の福江漁港、宝飯郡三谷町の三谷漁港の3漁港を県営漁港に指定し、これらの漁港の整備
拡張を計画した。1930年(昭和5年)には昭和恐慌の影響で改修工事の計画が立ち消えとなったが、1935年(昭和10年)には須佐湾の北東側に埋立地が造成
された。1936年(昭和11年)から1942年(昭和17年)にかけて、総工費40万7500円が投じられて豊浜漁港の修築工事が行われ、西防波堤や東防波堤が築か
れた。
「現代」
1950年(昭和25年)5月に漁港法が制定されると、1951年(昭和26年)7月28日には豊浜漁港が第3種漁港に指定され、同年から港湾の整備が実施された。
1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では港湾設備も大きな被害を受けたが、1963年(昭和38年)までに伊勢湾等高潮対策事業で復旧した。
1963年(昭和38年)には豊浜漁港と中洲漁港が合併して(新)豊浜漁港となった。
1991年(平成3年)10月27日、豊浜地区で第11回全国豊かな海づくり大会が開催された。

「愛知県水産試験場漁業生産研究所」
豊浜小佐には愛知県水産試験場漁業生産研究所がある。
1894年(明治27年)には幡豆郡一色町に愛知県水産試験場が設立された。1912年(大正元年)に養殖部が一色町から豊浜村小佐に移転すると、1913年
(大正2年)には埋め立てられた小佐湾の一部に5000坪の鹹水(かんすい)養魚場が完成した。カレイやクルマエビなどの養殖の研究が行われ、1917年
(大正6年)から1919年(大正8年)には国庫補助も受けてマダイ・クロダイ・スズキ・クルマエビなどの防寒試験も行われた。
1920年(大正9年)には施設が民間に払い下げられ、1934年(昭和9年)に研究が再開されたが、1939年(昭和14年)に閉鎖された。
1963年(昭和38年)には知多郡横須賀町にあった愛知県水産試験場尾張分場が小佐に移転し、海苔・ワカメ・サザエなどの養殖の研究を行っている。
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野間大坊(HP)・武将印 daitoku/1015w018.jpg   topへ
岩屋寺全図 daitoku/1015w066.jpgtopへ
中之院軍人像について daitoku/1015w090.jpg  topへ

中之院軍人像について(説明書きから) daitoku/nakan10.jpg(WebHP参照)   topへ

 ここの軍人像のほとんどは昭和12(1937)年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、
わずか廿六時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月廿三日の敵前上陸でした。が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すこと
はできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。
建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7(1995)年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃっています。

天台宗 大慈山 中之院
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▲名古屋市内にあった頃、昭和44(1969)年撮影。
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昭和12(1937)年8月、盧溝橋事件のあと支那駐屯軍は第29軍を蹴散らし平清地区の戦闘は一段落していた。
しかし、蒋介石は戦線を上海に移すことを決定し、13日、支那軍は八字橋付近で攻撃を開始、上海陸戦隊と戦闘状態に入った。
第二次上海事変(中共は八・一三淞滬抗戦と呼称)である。
上海陸戦隊は約5千、支那軍は5万、しかも最初から日本軍を包囲していたという不利な状況下で陸戦隊は陣地を死守していた。
すでに大山中尉事件(9日)の直後、海軍は陸戦隊の増派、陸軍は二個師団の派遣を決めていたが、13日派兵が承認され予定より
早く急行することになった。通常の輸送船では間に合わないので高速の軍艦で運ばれた。
上海派遣軍の第一陣は、第三師団(名古屋)と第一一師団(善通寺)で、呉淞上陸は8月23日から到着の順に行われた。
上陸地点一帯は、縦横に八番線が張られ、地雷が敷設されており、日本軍は支那軍の機関銃陣地を前に海岸でなぎ倒され、屍累々
として足の踏み場も無かったという。
小火器で肉弾攻撃を繰り返す日本軍は、ほとんどの部隊が戦力を半減するほどの犠牲者を出した。
迎え撃つ支那軍は次々に兵員を送り込み猛烈に抵抗、想像以上の激しさに陸軍は9月、支那派遣軍にさらに3個師団を増派、11月に
も1個師団を追加した。そして11月10日、第十軍(約8万)が杭州湾に上陸、支那軍は怒濤の敗走を始めた。
追撃した日本軍は12月13日、南京を占領。しかし事変は終結せず、昭和20(1945)年まで戦い続けることとなる。

顔だけでなく、新旧の軍服、各種軍装、造りがリアル。海軍の人も。
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軍人像の解説動画(朝日新聞2023.8.15)  top
【動画】愛知県南知多町の中之院に眠る100体近くの軍人像=齊藤佑介撮影(2023.8.4) 
80年余り前に作られた100体近い軍人像が、愛知県の知多半島の古刹にたたずんでいます。戦没した我が子を慰霊するため、遺族が建立したもの。
生前の写真をもとに作られた表情は今なおリアルで、見る人の心に強く訴えます。記憶の風化が進む中、写真で次世代へつなぐ動きも。
「我が子」を生き写した軍人像92体 遺族一時金で建立、戦局も投影。

80年余り前に作られた100体近い軍人像が、愛知県の知多半島の古刹(こさつ)にたたずんでいる。戦没した我が子を慰霊するため、遺族が建立し
たものだ。生前の写真をもとに作られた表情は、今なおリアルで、見る人の心に強く訴える。愛知県南知多町の伊勢湾を望む海岸から2キロ弱。
山あいにある天台宗「中之院」に、コンクリートや石造りの92体が身を寄せ合うように並んでいる。
 「お顔もきれいで、長年大事にされてきたと分かる。遺族は年々減っているが、像の素性を後に知って今後も誰か見に来るかもしれない。
行き場がないのは、どうかと思った」
 住職の石田公美(ひろよし)さん(76)は、そうふり返る。1995年、92体の像を引き取った。それまで管理していた名古屋市内の寺が廃寺と
なり、行き場を失いかけていたという。
 像の多くは、37年8月に中国・上海の呉淞(ウースン)での上陸作戦で壊滅的な打撃を受け、命を落とした名古屋第3師団歩兵第6連隊に所属し
た兵士たちだ。
 戦没者の慰霊をテーマに研究する愛知県護国神社資料編纂室研究員の元杭和則さん(45)によると、翌38年初頭、連隊長の倉永辰治陸軍少将
ら3人の胸像が名古屋市千種区にあった大日寺(現在は廃寺)に完成。その後、遺族が遺族一時金を持ち寄り、我が子の慰霊のために像の制作を
依頼した。43年ごろまでに少なくとも108体が建立されたという。
「造形作家が寺に寝泊まりして制作」
 大半が当時では珍しいコンクリートの立像で、作者は、岐阜県中津川市出身の造形作家浅野祥雲氏(1891〜1978)。元杭さんの調査では、
軍人像の制作が追いつかず、浅野氏は寺の小屋で寝泊まりして制作するほどだった。
 生前の写真をもとに作られた軍人像の大きさは、約50〜約180センチ。太平洋戦争の戦局が悪化してからはコンクリート像の柱となる金属が
不足し、小さくなっていったという。
 各地に軍人像はあるが、その数は1、2体がほとんど。92体というまとまった数があるのは全国でも中之院だけだという。元杭さんは
「これだけの方が戦争で命を落とした。こうした犠牲があって今がある、ということを私たちは考えて生きていかなければならない」と語る。
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