

一宮友歩会・第111回ウオーク例会(河川探訪・木曽川編PartR2 9km)
(令和7年(2025)12月6日(土)天気:晴れ) Am9:00〜17:00 (詳細・拡大)
★コース:奥町駅→貴船神明社→奥村渡船跡→堤治神社→金刀比羅社→大明神社→起保育園→高札場→(Sコース・起バス停)
→尾西歴史民俗資料館→三岸節子美術館→尾西市民会館→帰宅 今日の合計歩数(28,319歩) 44名参加 ★コースマップ
★ 2010春の美濃路バス探訪(2010.5.23尾西歴民主催参照)★金刀比羅社で全員集合(#z)
(解説欄へ)
★美濃路マップ★美濃路のおもな史跡★起宿と高札場 ★加藤磯足碑(#ka) ★墨会館(#s)
(解説)(一宮市尾西歴史民俗資料館(HPへ)・「起まちあるきマップ」(2023.8)参照)
()内は一宮市観光ガイドマップの番号
![]() 奥町駅 |
![]() 貴船神明社で受付(12.6)111/r712004.jpg |
![]() 貴船神明社(郷社) 111kihunes.jpg |
![]() 貴船神明社 111kifune.jpg |
![]() 貴船神明社の池の鯉r712009 |
![]() 尾西タイムスの加藤さんの取材を受ける(貴船神社)r712006 |
![]() 梶川高盛公宅の碑(40)(貴船神明社) |
![]() 奥村永福公出生地の碑(pdf)111okumura(貴船神明社) |
![]() 奥城跡(39)111/111okusiro.jpg |
![]() 奥城跡望遠(39)一宮市立奥町西保育園内(r712020) |
![]() 身代わり地蔵111migawari.jpg |
![]() 若宮神社へ r712027.jpg |
![]() 若宮神社r712029 |
![]() 白金龍王社 r712035 |
![]() 奥村渡船場跡r712043 |
![]() 奥村渡船場跡r712044 ★Topへ |
![]() 伊勢神宮遥拝場(奥宮)r712052 |
![]() 堤治神社へr712056 |
![]() 堤治神社111/111teiji1.jpg |
![]() 堤治神社111/111teiji12.jpg |
![]() 堤治神社(三位の大イチョウ)r712063 |
![]() 堤治神社(三位の大イチョウ) 111/111sanmi.jpg |
![]() 墨会館r712067 |
![]() 加藤磯足碑111/111iso1.jpg |
![]() 加藤磯足碑111/111katou.jp |
![]() 加藤磯足碑(辞世歌) r712071 |
![]() 人柱観音 r712073 |
![]() 金刀比羅社と常夜灯 r712079 |
![]() 起渡船場祉(金刀比羅社) r712082 |
![]() 金刀比羅社で全員集合(昼食後)r712089 |
![]() 間もなく閉鎖される起第一陸閘r712090 |
![]() 湊屋(登録有形文化財)r712093 |
![]() 起保育園r7112096 |
![]() 起保育園(初代園長の林曜三銅像と孫の林さん)r712097 |
![]() 大明神社 | ![]() 大明神社(起の大イチョウ) ★Topへ |
![]() 宮河戸跡r712109 |
![]() 起宿渡船場(船橋跡)okositosenba28(2023.8.5)Top |
![]() 起宿の高札場(2023.8.5完成披露)kousatuba08.jpg |
![]() 起宿の高札場111/r712112.jpg(2025.12.06) |
![]() 起宿の高札場跡の説明(2023.8.5)kousatuannai.jpg |
![]() 尾張名所図会「起川」okosigawa 右下に高札場が見える 実際は、高さ約4.3m、横幅約5.6m、奥行きは約1.7m。 (享和2年(1802)の分間御絵図御用宿方明細書上帳)★Top |
![]() 一宮市尾西歴史民俗資料館 |
![]() 起宿脇本陣跡・旧林家住宅(2023) bisairekimin |
![]() 脇本陣庭園r712118 |
![]() 脇本陣庭園r712119 ★Topへ |
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![]() 旧披本陣跡 |
![]() 三岸節子美術館r7129771 |
![]() 尾西市民会館前で整理運動(解散)r7128628 |
| 解説 ★コースマップ ★Topへ | |
★奥町駅(wikipedia) ★Topへ奥町は、愛知県一宮市の地名。市内西部、木曽川の左岸に位置する。かつて中島郡に属していた町で、一宮市への編入後、旧町域は一宮市 奥町となり、これを以て奥町地区として成立している。古くは伊勢神宮の御厨(みくり・有力な神社の荘園)の一つとして尾張に存し、 鎌倉時代は寺領分割され、妙興寺誌に興郷、興村(おきむら)とも呼ばれていた。江戸時代は中島郡奥村であり、尾張藩領であった。 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、奥村が発足。 1894年(明治27年)9月13日 - 町制施行。 1955年(昭和30年)4月1日 - 一宮市に編入され、一宮市奥町となる。 ★Topへ |
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★貴船神明社 (一宮市)(wikipedia) ★Topへ 創建時期は不明だが、治暦年間以前の鎮座と伝わる。当社を延喜式神名帳に記載された千野神社とする説もある。境内には、前田利家 に仕え加賀八家の一つ奥村家の祖となった奥村永福の生誕地碑がある。また、奥城城主で織田信長に仕えた梶川高盛の屋敷跡とも伝わる。 −−−−−−−−★Top ★貴船神明社(きふねしんめいしゃ)は、愛知県一宮市奥町字貴船にある神社。(式内社 尾張国葉栗郡鎮座)延喜式神名帳にある千野神社 (尾張国・葉栗郡10座)に比定される式内論社。創建、由緒は不明だが、平安時代初期の大同元年(806年)と伝わる。 当初は、現在地ではなく、一宮市奥町字貴船の北西にある丘の上に鎮座。天正14年(1586年)に、現在地に遷座した。 当社を延喜式神名帳に記載された千野神社とする説もある。 境内には、前田利家に仕え加賀八家の一つ奥村家の祖となった奥村永福の生誕地碑がある。 また、奥城城主で織田信長に仕えた梶川高盛の屋敷跡とも伝わる。★(梶川高盛邸)Web参照★京都の貴船神社(全国に二千社を数える水神の総本宮)はこちらをご覧ください。 ★Topへ −−−−−−−−−−−−−−− ★梶川高盛は、高秀の子で、父とともに奥村(現在の奥町)へ移ったと思われます。天正元年(1373年)、高盛は織田信長に従い、足利 義昭が籠もる槇島城(京都府宇治市)攻めに加わりました。その際、宇治川で先陣を果たし、信長から馬を下賜(かし)したといわれています。 ★(梶川高盛PDF) −−−−−−−−−−−−−−−★Topへ 【歴史】 名鉄尾西線「奥町駅」から北北西へ約400m、奥小学校から北へ約200mの貴船神社が屋敷跡。奥町駅から300程北上して信号を 過ぎ、更に50m程進んだ1本目路地を左折、50m程西進した右手に貴船神社がありますが、神社の前は車通りが多いので、車の場合 は神社西側から入ると良いと思います。 神社正面から入ってすぐ右手に★「奥村永福出生の地」碑(HP)があります。社殿の奥の西側に「梶川高盛公宅之碑」があります。 碑がある以外は特に何もありません。 梶川高盛は織田信長家臣・水野信元の配下だったが、後に佐久間信盛の与力となり、天正8年(1580)佐久間父子が信長に追放されてから は信長の直臣となった。天正10年、本能寺の変で信長が没すると織田信雄に従った。 奥村家は代々前田氏に仕え、永福は前田利家の父 前田利昌や、兄の前田利久にも仕えた。その後、利家の重臣として村井長頼と共に加賀前田家の基礎を作り、九州征伐や小田原合戦にも 参加し、大坂の役では金沢城代を務めた。利家が死去した後は隠居して出家した。子孫は加賀八家のうち三家を担い、代々家老を務め、 加賀藩の中枢として活躍した。−−−−−−−−−−−−−−−★Topへ ★「奥村永福出生の地」碑(HP) ★(同PDF) ★(同wikipedia)参照 戦国武将に前田利家に仕え、数々の武勲をたてた奥村永福公の碑。前田家の命運をかけた戦となった、天正14年(1586)末森城の合戦での 奥村公の功績は特に抜群であった。 貴船神社境内東側。石碑(昭和34年建立)。−−−−−−−−−−−−★Topへ ★加賀前田家の家老奥村伊予守永福(助右衛門)(HP)は、赤尾助右衛門尉宗親の次男として当地に生まれる。宗親は、織田信長に召され、 後に荒子に移り、その際「奥村氏」を名乗り始める。その後、同じ「荒子衆」の前田家に仕え、家老となる。跡を継いだ永福も、荒子城 (前田家居城)の城代家老となり、その後の前田家を支える柱石の一人となる。永福のエピソードとして、「荒子城」の受け渡しと 「末森城」の攻防が有名である。 石碑「奥村伊予守永福出生之地」。昭和34年の建之で、碑文は「前田利達書」とある。 ★Topへ★京都の貴船神社(全国に二千社を数える水神の総本宮)はこちらをご覧ください。 ★Topへ |
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★身代わり地蔵尊(奥町名所旧跡巡りpdf) 一宮市にある「身代わり地蔵尊」は、奥町堤下に位置し、玉ノ井駅から徒歩約14分の場所にあります。これは、地域に親しまれている石造 りの像で、玉ノ井駅から向かうことができます。 |
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★奥城 (尾張国)(wikipedia) ★Topへ 奥城(おくじょう)は、愛知県一宮市奥町字下口西にあった日本の城(平城)。別名江並城、梶川屋敷。 梶川高盛により築城され、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に織田信雄・徳川家康連合軍の拠点の1つとなった。戦いが 長期化したので、豊臣秀吉が西尾張に移動し、当城と加賀野井城・竹ヶ鼻城を囲んだ。その際織田信照を迎えて籠城したが落城した。 現在は一宮市立奥町西保育園や宅地になっており、地表上に遺構は残っていない。保育園内に石碑が建っている。★Topへ |
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★奥宮(猿田彦神社HP) ★Topへ 奥宮の鎮座する大巻山は、旧渡船場の南に位置する神領地で、神宮御遷宮の際、筏の御用材が伊勢湾に入る前に綱を締め直す場所でした。 伊勢湾に出た後もご用材が無事届くようにと、導きの大神である猿田彦大神が祀られ、宿は氏神の若宮神明社があたりました。 この神縁により、今では「鳥居・標」が設けられ伊勢神宮の遥拝所として多くの人に参拝されています。 |
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★奥村渡船跡(pdf解説)参照 ★Topへ1 奥村渡船場跡. 2 伊勢神宮御神木御迎送式場跡. 1:木曽川対岸の正木村とを結ぶ30人乗りの渡し船がありました。 2:伊勢神宮式年遷宮の際、御神木を迎え、奥町から送り出す式場の跡です。★Topへ |
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★若宮神社(〒491-0201 愛知県一宮市奥町字堤下2-95/HP参照) ★Topへ伊勢神宮を遥拝し、式年遷宮のお木曳き地として古くからご鎮座する地域の氏神様です。御祭神は天照皇大神と素戔嗚尊をお祀りして おり、夏越の神事が盛大に行われます。境内奥にて神宮荒御魂の御分霊もお祀りされており、白金龍王社と親しまれています。 111wakamiya.jpg |
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★奥村渡船跡(pdf)参照 ★Topへ1 奥村渡船場跡. 2 伊勢神宮御神木御迎送式場跡. 1:木曽川対岸の正木村とを結ぶ30人乗りの渡し船がありました。 2:伊勢神宮式年遷宮の際、御神木を迎え、奥町から送り出す式場の跡です。111/111okutosen.jpg ★Topへ |
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★伊勢神宮遙拝所(HP)参照 ★Topへ若宮さんからすぐ西側の木曽川の堤防を越えると、市の公園やテニスコート、野球場や恋が浜ビーチ等があるんですが、その左手側に 猿田彦さんの奥宮があります。 その猿田彦さんの社殿の南側、一番川に近いところに立っている「古い鳥居」は、★若宮さんの伊勢神宮遥拝所です。★Topへ |
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★堤治神社(HP参照) ★Topへご鎮座地は、濃尾平野の中心地にて、尾張・美濃を区分する日本三大河川の一つに数えられる、延々と続く木曽川の大堤防に鎮座まし ます。くは「つつみぢ」「つつみはり」と訓まれておりました。 現在では「ていじじんじゃ、ていちじんじゃ」と親しまれ、木曽川全堤防の鎮守、水災除去、健康長寿、結びの神、五穀豊穣、産業発展、 住民和楽の守護神として、土の神・埴安姫神をお祀りしております。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− ★メモ= 御神木 ★三位の大銀杏(WebHP参照) 以下、説明書より ★Topへ この木は徳川家の御手植えとも言われ、古くより大堤防にて数々の水災害からこの地の守り続けてきております。根元より三本に分かれた この御神木は、地にしっかりと根を張り、ゆるぎない存在感を醸し出し、人々に平和と安心感を与えております。 長寿健康・若返りを祈願の方は反時計回り 所願成就・金運向上祈願の方は時計回り に三回まわって御祈願をしてください。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−★Topへ 以下、Web一宮市博物館-指定文化財から イチョウ科の落葉高木。高さ20m、根元より三本に分岐した主幹は雄大さを感じさせ、存在感と共に地域住民に安心感を与えています。 社伝には尾張藩主11代徳川斎温(なりはる)が文政10年(1827)尾張藩を継いだ時に植樹されたといわれる。★Topへ |
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111ysanmi1.jpg | 111ysanmi2.jpg |
★墨会館 (★概要解説は拡大版111w.htm参照) ★Topへ墨会館は、丹下健三氏の設計により昭和32年に完成した建物です。 建物は、鉄筋コンクリート造平屋一部2階建で、敷地面積3398.82u、建築面積2209.93u、延床面積2525.14u(建築基準法上)、 台形敷地北辺の2階事務所棟と南半の平屋ホール棟が玄関車寄せで接続されており、1階外壁は非構造体で上端にスリットを入れて 採光としています。ダブルビームの大梁、打放しのコンクリート等、丹下健三氏の初期の作品の特徴をうかがうことができます。 とくに建物の柱、壁はコンクリートのままで、よく見るとそこには木の木目、節のあとが綺麗に出されています。 このため、木型は寸分の狂いもなく正確につくられ、コンクリートの流し込みも途中で切らすことなく一気に行なうという難しい 工法がとられました。 平成20年7月8日に登録有形文化財の登録を経て一宮市が取得するまで、艶金興業の本社として利用されており、あくまで 一般的な改修と補修工事を経てきましたが、竣工後60年以上が経過しており建物を保存・活用していくために老朽化への対応が 必要不可欠となってきました。 また、墨会館のある小信中島地区には公民館活動の拠点となる施設が無く、公民館の設置が強く望まれていたことから、建築文化財 としての価値の保存、建物の機能の再生・転用を図ることを目的に改修が行われました。 平成26年11月からは、地域のランドマーク・街づくりの核となる「小信中島公民館」「尾西生涯学習センター墨会館」として 地域の皆さんに利用されています。 墨会館は、わが国建築史に大きな足跡を残し、現代建築に多大な影響を与えた丹下健三氏の作品としては、愛知県内で唯一の貴重 な建物です。★Topへ |
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★加藤磯足碑(wikipedia) ★Topへ加藤 磯足(かとう いそたり、延享5年1月23日(1748年2月21日) - 文化6年10月12日(1809年11月19日))は江戸時代中期の国学者。 尾張国美濃路起宿本陣十一代目。幼名は梅之助、後に要次郎。通称は右衛門七、隠居後に寿作。別号に石桟、河之辺乃翁。 俳号は磊石。本姓は藤原氏。 「生涯」 母方林家の日記によれば、延享5年(1748年)1月23日午刻、尾張国中島郡起村下町(愛知県一宮市起字下町199-12)で代々本陣兼問屋場 を務める加藤右衛門七家に生まれた。しかし、磯足自身は後年延享4年(1747年)11月15日生と称しており、一年鯖を読まねばならない 事情があったと思われるが、詳細は不明である。 明和元年(1764年)、朝鮮通信使が起本陣に宿泊した際、通信使南秋月と藩儒磯谷滄州が詩を論じ合う所に立ち会って感銘を受け、学問 を志したと伝えられる。明和7年(1770年)、父の死去に伴い、起宿本陣十一代目として加藤右衛門七を名乗る。本陣には各地の大名や、 鷹狩のため尾張藩主徳川宗睦が投宿したため、磯足は和歌を献上するなどしてもてなした。安永2年(1773年)、本陣宿泊中急病により 死去した陸奥福島藩主板倉勝行を看取った際、献身的な介護を感謝され、板倉家には御目見を許され、また度々返礼を受けた。 安永頃、名古屋で名声を高めていた歌学者田中道麿に入門した。家業を継いだ頃、尾張藩では藩主徳川宗睦の下藩政改革が断行されてお り、磯足も村法改正や貧民救済などを通じて村内の改革に取り組んだ。天明元年(1782年)尾張藩に赴任した細井平洲の教化活動に共鳴 し、天明2年(1782年)1月入門し、起村に講演に招いた。また、周辺の村々と協力し、長年地域を苦しめてきた木曽川の治水を自普請で 行った。しかし、次第に農民の生活向上に直結しない儒教的な教化活動に対し疑問を抱くようになり、藩に「磯足内達書」と呼ばれる 意見書を度々提出して減税を訴えるも聞き入れられず、現実の社会問題解決よりも、専ら学究的な関心を抱いていくようになる。 天明4年(1784年)の道麿死去後、名古屋の道麿門人は道麿の師本居宣長に次々と入門していった。磯足も、寛政元年(1789年)3月21日 名古屋本町四丁目書林藤屋吉兵衛方で宣長の講義を聴講し、門下に入った。寛政2年(1790年)2月下旬には、松坂に宣長を訪ねた。 寛政5年(1793年)4月15日には宣長一行を墨俣宿で出迎え、自宿に迎えた。俳句にも興味を持ち、加藤暁台に入門し、趣味の囲碁に因み 俳号を磊石とした。寛政10年(1798年)12月、代官小山清兵衛に隠居を願い出、寛政11年(1799年)2月29日許可され、寿作と名乗った。 享和元年(1801年)10月4日、関宿での歌学講義から帰郷した際、宣長の病気を知り、松坂へ参じたが、看取ることはできなかった。 同年、宣長の後継本居春庭に入門した。文化6年(1809年)11月12日死去。村内本陣山(一宮市起字本陣山)に葬られ、松が植えられたが、 墓碑は建てられなかった。法名は貞西。 ★加藤磯足(「木曽川堤の自普請運動」) ★Topへ |
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★金刀比羅社 111/111kotohira.jpg ★Topへ ★Topへ |
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★金刀比羅社で全員集合(Tさん撮影)2025.12.06 ★Topへ ★Topへ |
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大明神社(webHP参照) ★Topへメモ= 大明(だいみょう)神社 以下、説明書から 祭神 天児屋根命あめのこやねのみこと 国家安泰・学業成就・出世開運の神様 由緒 この神社は旧中山道垂井宿から東海道熱田宿に至る「美濃路」の尾張の最初の宿場であった「起宿」にある。社伝によると創建は 明らかでないが、室町時代初期の尾張国守護・斯波義重が社殿を造営され、四代尾張藩主・徳川吉通が社殿を寄進したとされる。 ★Topへ |
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大明神社(大イチョウ)(webHP参照) ★Topへメモ=愛知県文化財(天然記念物)起の大イチョウ(雄株)昭和38年4月19日指定。以下、説明書から 樹齢 役400年(推定)、樹高 20m、幹回(目通)5.5m メモ= イチョウ(銀杏)イチョウ科 落葉高木 雌雄異株 中国原産。古い時代に渡来、街路樹や公園に植えられる。 イチョウは雌雄異株です、起の大イチョウは雄株(おかぶ)とのこと。雄株には雄花、雌株(めかぶ)には雌花が咲き、実がなる。 種子はギンナン。 ★Topへ |
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★起保育園(伊藤康子論文:近代愛知の社会事業施策−起保育園を中心に−PDf)★Topへ 〒4940006 愛知県一宮市起字用水添8 メッセージ 当園は一宮市の西に位置し、商店街と住宅地の中にあります。園内の畑では季節の野菜を栽培し、生長、収穫を楽しみにし、食べる 喜びを味わっています。また、県指定の天然記念物である『起の大イチョウ』がある大明神社に出かけ、四季折々の姿を見て、自然 に親しんでいます。また、定員60名と小規模であることを生かして、子どもたちが家庭的でゆったりとした雰囲気の中で生活したり、 遊んだりすることを大切にしています。 ★Topへ |
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高札場(尾西歴史民俗資料館)(HPAI解説) ★Topへ高札場とは、江戸時代に幕府や領主が法令や通達を記した木の板(高札)を掲げた場所です。多くの人が行き交う街道沿いや宿場、村の 中心など人目につきやすい場所に設けられ、庶民に広く周知させるためのものでした。 役割: 幕府や領主の命令、禁令、生活のルール(盗み禁止、親孝行など)などを掲示し、庶民の遵守を促しました。 掲示物: 「孝行や道徳」「盗みやけんかの禁止」「毒薬や偽薬の売買禁止」「人馬賃銭」など、様々な内容の高札が掲げられていました。 場所: 宿場、村役人の近く、街道の交差点、関所、大きな橋のたもとなど、人通りが多く集まりやすい場所に設置されていました。 構造: 高札を風雨から守るために屋根が設けられ、高札は高さ約3?4メートル、間口約3?5メートルほどの板に書かれていました。 現代: 高札場跡は各地に残っており、復元された場所も多くあります。「札の辻」という地名も、高札場があった場所に由来してい ます。 ---------------------------------------★起宿高札場跡(HP) ★Topへ 美濃路は、江戸時代の東海道宮宿(熱田)と中山道垂井宿を結ぶ街道で、将軍上洛や朝鮮通信使・琉球使節の通行にも利用された幕府道中 奉行管轄の街道でした。全長14里余(約57km)の道中に、七つの宿(名古屋・清洲・稲沢・萩原・起・墨俣・大垣)がありました。 美濃の輪中地帯を通り、起と大垣までの四里余の短い区間に、起川(木曽川)・小熊川(境川)・墨俣川(長良川)・佐渡川(揖斐川) が流れているのが特徴です。 起宿は、その一つである起川の渡船場がある宿場町です。慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原合戦で勝利した後の凱旋時に開設されたと いう由緒を持ち、江戸時代後期には、本陣・脇本陣が各1軒、旅籠屋は22軒ありました。 町並みは起の隣村冨田から定渡船場の金刀比羅社まで続き、その中央付近に幕府の基本法令を書いた高札が掲げられた高札場がありま した。 令和5年(2023)、高札場があった付近に、尾張名所図会にある挿絵の「起川」(上図)を参考にして、「起宿高札場跡」(下写真) を整備しました。享和2年(1802)に起宿から幕府に提出された「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」によると、高札場の大きさは、 高さ一丈四尺五寸(約4.4m)、横幅三間五寸(約5.6m)、奥行五尺七寸(約1.7m)もあり、往来する人々に幕府の威光を見せつける意味 もありました。高札場には、徒党やキリシタンの禁止、前後の宿場までの人馬賃銭が書かれた高札など、合計7枚の高札が掲げられてい ました。 「起宿高札場跡」に整備された高札場は記録よりも小さく、高札は掲げられていた7枚の内、5枚を再現しています。 その高札場付近に、宿場町の景観としての特色である枡形があり、ここを境に坂上(上町)と坂下(下町)に分かれます。 下町には問屋場や本陣、脇本陣があり、旅籠屋も多く、宿駅機能の中枢を担う家が集まっていました。上町は江戸時代の旧堤防の上に 家並みが形成され、宿場開設後、新たに移り住んだ者が多く、木曽川の水運を活かして財を成した商人もいました。★Topへ |
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★尾西歴史民俗資料館(HP)(★本館HP) ★Topへ一宮市尾西歴史民俗資料館は、濃尾平野の大動脈である木曽川と美濃路が交わる起の地に、昭和61年に開館しました。美濃路起宿の歴史 と文化にはじまり、毛織物産業の発展や鉄道敷設など、人々の生活とともに変容する起の町を紹介しています。また、起宿の脇本陣・ 船庄屋を務めた林家の旧宅(国登録有形文化財「旧林家住宅」)と、昭和初期に作庭された旧林氏庭園(国登録記念物)を一般公開して います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−(★本館HP)★Topへ 1階 常設展 美濃路と起宿 美濃路は、江戸時代に東海道宮宿(熱田)と中山道垂井宿を結ぶ街道です。道中には名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の 七つの宿場が置かれていました。東海道の難所である七里の渡しや鈴鹿峠をさけることができ、徳川将軍の上洛、大名の参勤交代、朝鮮 通信使や琉球使節の通行などにも利用されました。また、その重要性から、美濃路は幕府道中奉行の管轄下にありました。 起宿は木曽川に沿って町並みが形成され、その木曽川を渡るための渡船場もありました。 明治時代以降、起の町は未曾有の大地震(濃尾地震)に被災するなど、幾度もの転換期がありました。その中で、毛織物産業の発展や 鉄道敷設、にぎやかな人々の往来とともに変わっていった起の町を紹介します。★Topへ |
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★鵜飼 吉左衛門(wikipedia) ★Topへ 鵜飼吉左衛門(読み)うがいきちざえもん(精選版 日本国語大辞典 「鵜飼吉左衛門」) うがい‐きちざえもん【鵜飼吉左衛門】 幕末の水戸藩士。尊王攘夷運動に奔走し、幕府刷新を求める戊午(ぼご)の密勅を得る。安政の大獄で、子、幸吉とともに刑死。 寛政一〇〜安政六年(一七九八‐一八五九) −−−−−−−−−−−−−−−−−−★Topへ 鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)[生]寛政10(1798)[没]安政6(1859).10. 江戸時代末期の水戸藩士。名は知信。拙斎と号した。鵜飼真教の子。叔父の水戸藩士鵜飼幸吉和益に養われた。 天保年間 (1830〜44) 京都留守居となったが,弘化3 (46) 年免職。なお藩主徳川斉昭の命を受け尊攘派の公卿らと交わり,将軍 継嗣問題や日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) の勅許問題では,大老井伊直弼に反対。安政5 (58) 年戊午の密勅を子の幸吉 に持たせて水戸藩主慶篤に手渡した。そのため父子とも安政の大獄に連座し,翌年斬刑。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 −−−−−−−−−−−−−−−−−−★Topへ 山川 日本史小辞典 改訂新版 「鵜飼吉左衛門」の解説 鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)1798〜1859.8.27 幕末期の尊攘派志士。水戸藩士鵜飼真教の次男。名は知信,号は拙斎。藩主徳川斉昭(なりあき)に仕え,斉昭の藩政復帰後は京都で 活動。公卿の間に出入りして攘夷を唱え,将軍継嗣には一橋慶喜(よしのぶ)擁立のため奔走。病気のため戊午(ぼご)の密勅は子幸吉 に伝達させたが,安政の大獄で父子ともに捕らわれ,江戸で斬首。★Topへ |
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三岸節子記念美術館(HP) ★Topへ洋画家・三岸節子の生家跡に建設され、1998(平成10)年11月3日に尾西市三岸節子記念美術館として開館、平成17年に市町村合併に伴い、 一宮市三岸節子記念美術館となりました。織物工場を思わせるのこぎり屋根や、節子の生前から残る土蔵を改修して愛着の品々を並べた 土蔵展示室、風景画のモチーフとなったヴェネチアの運河をイメージした水路、生前好んだ白い花の咲く木々など、節子の思い出と深く かかわったデザインとなっています。★Topへ |
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美濃路マップ (★Web美濃路参照) ★Topへ ★Topへ |
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美濃路のおもな史跡(@〜E)〜尾張編約29.5km〜 ★Topへ ◎@【起宿】(美濃路)(Wikipedia) (人柱観音・定渡船場跡・宮河戸跡・船橋跡・本陣及び問屋場跡・脇本陣跡) 〜駒塚道道標・冨田一里塚跡・天神の渡し跡・孝子佐吾平の碑・萩原橋〜 ★木曽川の起渡船場のある宿場町。水陸交通の拠点として賑わった。天保14年の起宿は、10町6間 (1,102m)本陣1(加藤家)脇本陣1(林家)、家数887軒、人口4,094人、問屋場2(加藤家永田家)。 木曽川は川幅500間余(909m)、江戸初期の将軍家や朝鮮通信使の通行時の架橋は270艘以上 の船を繋いだもので、日本最大の規模。(寄船・助郷制度) ★Topへ |
★起宿の高札場(2023.8.5完成披露)(一宮市HP参照) ★Topへ美濃路は、江戸時代の東海道宮宿(熱田)と中山道垂井宿を結ぶ街道で、将軍上洛や朝鮮通信使 ・琉球使節の通行にも利用された幕府道中奉行管轄の街道でした。 全長14里余(約57km)の道中に、七つの宿(名古屋・清洲・稲沢・萩原・起・墨俣・大垣)が ありました。美濃の輪中地帯を通り、起と大垣までの四里余の短い区間に、起川(木曽川)・ 小熊川(境川)・墨俣川(長良川)・佐渡川(揖斐川)が流れているのが特徴です。 起宿は、その一つである起川の渡船場がある宿場町です。慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原 合戦で勝利した後の凱旋時に開設されたという由緒を持ち、江戸時代後期には、本陣・脇本陣が 各1軒、旅籠屋は22軒ありました。町並みは起の隣村冨田から定渡船場の金刀比羅社まで続き、 その中央付近に幕府の基本法令を書いた高札が掲げられた高札場がありました。 令和5年(2023)、高札場があった付近に、尾張名所図会にある挿絵の「起川」(上図)を 参考にして、「起宿高札場跡」(下写真)を整備しました。享和2年(1802)に起宿から幕府に 提出された「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」によると、高札場の大きさは、高さ一丈四尺 五寸(約4.4m)、横幅三間五寸(約5.6m)、奥行五尺七寸(約1.7m)もあり、往来する人々に 幕府の威光を見せつける意味もありました。高札場には、徒党やキリシタンの禁止、前後の宿場 までの人馬賃銭が書かれた高札など、合計7枚の高札が掲げられていました。 「起宿高札場跡」に整備された高札場は記録よりも小さく、高札は掲げられていた7枚の内、 5枚を再現しています。その高札場付近に、宿場町の景観としての特色である枡形があり、ここ を境に坂上(上町)と坂下(下町)に分かれます。 下町には問屋場や本陣、脇本陣があり、旅籠屋も多く、宿駅機能の中枢を担う家が集まっていま した。上町は江戸時代の旧堤防の上に家並みが形成され、宿場開設後、新たに移り住んだ者が 多く、木曽川の水運を活かして財を成した商人もいました。 ★Topへ |
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◎A【萩原宿】(美濃路)(Wikipedia) ★Topへ (本陣・問屋場跡)〜高木一里塚跡・中嶋宮・長隆寺〜 ★天保14年の萩原宿は、8町36間(938m)本陣1(森家)脇本陣1(森家)、家数236軒、人口1,002人、 問屋場2(鵜飼・木全家)。萩原商店街として今日まで存続している。 ★Topへ |
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◎B【稲葉宿】(美濃路)(Wikipedia) ★Topへ (禅源寺・問屋場跡・津島道道標・本陣跡・稲葉一里塚跡) 〜国府宮・長束正家邸跡・四ツ家追分・丹羽盤桓子出生地・長光寺(四ツ家追分道標・ ・六角堂・臥松水)・浅野長勝宅跡・亀翁寺・総見院〜 ★天保14年の稲葉宿は、8町21間(911m)本陣1(原家)脇本陣1(吉田家)、家数336軒、人口1,572人 、問屋場3(原・伊東家、1問屋場2日交代)。街道から少し北にある禅源寺には将軍家光 が宿泊し、朝鮮通信使(洪世泰)が書いた「禅源寺」の扁額や琉球使節副使の西平親方 が書いた漢詩が残されている。 ★Topへ |
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◎C【清須宿】(美濃路)(Wikipedia) ★Topへ (本陣跡・清涼寺・清洲城跡) 〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・ ・屋根神様・西枇杷島問屋記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・ 白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道・屋根神様・伝馬橋〜 ★天保14年の清須宿は、本陣1(旧林家)脇本陣3(櫛田家、2軒は不明)、家数521軒、人口 2,545人、問屋場1。清涼寺の鐘、神明町両側の旅籠屋・茶屋・置屋・料理屋などが軒を 並べていた。清須宿は当初清洲城下の伝馬町に設けられたが慶長15年の清須越で廃止 され、続く洪水で流失し元和2年桑名町に置かれた。寛文8年の火災で神明町に移った。 ★Topへ |
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◎D【名古屋宿】(美濃路)(Wikipedia) ★Topへ (辻の札)〜大須観音・西別院・東別院・古渡城跡・佐屋道標・熱田神宮一の鳥居跡・ ・断夫山古墳・源頼朝生誕地(誓願寺)・白鳥御陵道標・熱田神宮・上知我麻神社〜 ★天保14年の名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高はなく、「伝馬役4ヵ町」で宿役(伝馬役) を勤めた。家数1,157軒、人口4,188人、旅籠・本陣・脇本陣はない。貴顕の休泊には藩 の指示に従った。一般の人馬継立は伝馬番(会)所(渡辺→吉田)(伝馬町筋本町通西南 角)で他の宿と同様に行った。 ★Topへ |
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◎E【宮(熱田)宿】(東海道)(Wikipedia) ★Topへ (裁断橋・姥堂・ほうろく地蔵・美濃路道標・赤本陣跡・西浜御殿・七里の渡し跡・常夜燈・ ・丹羽家住宅) ★宮宿は熱田宿ともいい、江戸時代には桑名宿への海上七里の渡し場で美濃路と佐屋路へ の分岐点でもあり、東海道随一の宿場でした。天保14年の宮宿は、本陣2(神戸町の 赤本陣(正本陣)は南部家、伝馬町の白本陣は森田家)脇本陣1、家数2,924軒、人口 10,342人、問屋場1。東海道筋は東の築出町から伝馬町を西進突き当たりの源太夫社 を南下、渡船場まで約1.2km。高札場のあった上知我麻神社(源太夫社・現神宮境内内) から北へ約2.8km美濃路の町並(市場町)が続いていた。 ★Topへ★一宮市観光協会ホームページ ★一宮市ホームページ ★尾西歴史民俗資料館 ★稲沢市観光協会★清須市(★清須市観光協会)★名古屋市★名古屋市観光情報 ★Topへ |
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起宿と高札場 2023.08.09 okosikousatu020.jpg ★Topへ 左から @旧林家住宅・旧林氏庭園 A本陣・問屋場跡 B船橋跡 C宮河戸跡 D起の大イチョウ |
![]() (尾西歴史民俗資料館・「起まちあるきマップ」(2023.8)参照) ★Topへ |

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