第54回史跡巡りシリーズ・西尾張編Part12 (詳細・拡大)
(平成27年2月7日(土)天気:晴れ) (50名参加) 歩数:25,640歩
下見・平成26年12月20日(土)晴れ・歩数:22,610歩
★コース:スタート−9:00・名鉄本線:新木曽川駅→木曽川資料館9:20発→黒田城址→法連寺→
→籠守勝手神社→白山神社→岩刀神社→九品寺公園→浜神明社→平島公園(昼食)→
→一宮市消防本部(AED救命講習受講)→真清田神社→名鉄一宮駅(12Km)
(番号がnp12で始まるものは、2014.12月の下見以降のものです)
(★西尾張編part3(第7回例会・木曽川コース))
★木曽川商工会★一宮市観光協会★一宮市 ★コースマップ(PDF)★『解説』欄へ
新木曽川駅(2015.1.17) |
木曽川商工会館(左は資料館)集合np12001 |
出発式・会長挨拶(2015.2.7)背後は木曽川資料館 54k106 |
木曽川資料館(旧木曽川町議事堂) np12083 |
黒田城址(山内一豊生誕地)に到着np12003 |
黒田城址(黒田小学校内)背後は町制百年記念碑107 |
山内一豊の父(盛豊)と兄(十郎)の墓 (法蓮寺内) <左>祝 町制百年& 黒田城主・澤井雄重公没後4百年記念碑(黒田小学校内) |
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山内一豊公出生の地碑(法蓮寺内)np12010 |
法蓮寺山門np12011 |
山内家の墓(法蓮寺内)54k110 |
墓の解説(弘治3年(1557)・山内但馬守と彫刻)54k112 |
法蓮寺本堂np12014 |
籠守勝手神社np12017 |
籠守勝手神社 (継体天皇伝説=「鎌倉街道p46」) 父を殺害された2皇子が難を逃れる為真清田神社に向かう途中 黒田大明神の杜森に籠を留め籠の中で一夜を過ごした。村人に もてなされたが、夜明けを待たずに出発した。これ以後黒田明神 を籠守勝手神社と尊称するようになったと伝えられている。(p46) |
馬取り池の碑np12021(白山神社西北にある碑・鎌倉街道p47) 池の主の大蛇が馬を引き込んだという伝説の池があった。 |
白山神社np12024 |
伊冨利部神社へ ★コースマップ(PDF) 創建は延暦年間(782〜806)で現在地より北西にあったが1455 社殿が焼失し、現在地より西に移された。鎌倉街道は神社裏を 通っていた事になる。「鎌倉街道p47」 |
伊冨利部神社・神馬np12037 |
伊冨利部神社内・古墳np12039 |
伊冨利部神社内・八幡稲荷朱色の鳥居np12042 |
石刀神社の神事用まこも田の標識があった np12046 |
まこも田 54k120 |
石刀神社本殿np12054 |
石刀神社の方から神社の解説をしていただいた。 |
石刀神社をあとにする np12047 |
伊冨利部神社内古木 np12t040 |
石刀神社内古木 np12t054 |
九品地公園案内図np12060 |
九品地公園np12062 |
浜神明社np12065 垂仁天皇の時代、倭姫命が神鏡を奉じ美濃から尾張国中島宮 に遷幸の時ここに滞在し、神明津の地名をなしたと伝えられる。 |
浜神明社内・こしかけ岩np12067 往昔は潮が差し込み、姫の御船を繋いだとする松、腰掛け石の 伝説がある。「鎌倉街道p50」 |
平島公園(昼食)np12077 |
一宮防災センターnp12079 |
防災訓練の道具 080 |
一宮市消防本部で防災訓練(胸骨圧迫・右下はAED) 54k131 |
真清田神社(本殿)082(2015.1.17) |
真清田神社前広場でクールダウン 54k132 |
神社前で解散式(次回は大垣市4.4開催案内など)54k134 |
新年の一宮駅(2015.1.17) |
全員集合@ Top |
全員集合A |
『解説』 ★コースマップ(PDF) Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★木曽川資料館 Top 山内一豊を中心に、浅野長政、兼松正吉、奥村永福など一宮市ゆかりの戦国武将、史跡などを紹介して いる。 建物は大正13年(1924)に竣工した旧木曽川町会議事堂で貴重な歴史的建造物としても現存している。 |
★黒田城址(wikipedia) Top 黒田城は、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)に戦国時代から安土桃山時代に かけてあった日本の城。平城。一宮市指定史跡。初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城とされる。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★WEB解説(黒田城) Top 山内一豊の父盛豊は、岩倉城を本拠とする岩倉織田氏の家老を務め、支城の黒田城を預かっていた。 天文14年(1545)に、一豊はこの地で生まれたとされ、弘治3年(1557)の敵襲を受けるまで、黒田 を中心に暮らしたことであろう。山内氏の退去後は織田広良が入城し、次いで和田氏、澤井雄重が城主 を務めた。信雄失脚後は、秀吉家臣の一柳直盛が入り、慶長5年(1600)の転封まで使用された。 現在、市街化が進み遺構は残らないが、江戸時代の絵図によれば、城は野府川を北の備えとし、東には 後の岐阜街道を抑えていた。天守に相当する櫓もあったと思われる。 この小公園は平成10年に整備され、冠木門(模擬)の右手奥には一豊顕彰会寄贈の一豊立志像がある。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★WEB解説(豊臣・徳川武将、山内一豊) Top 山内一豊の面白いところは武功ではなく、たった一言で土佐24万石の大領を手に入れたことだ。 1600(慶長5)年7月のことである。徳川家康は上洛命令に従わない会津の上杉征伐のため、下野国 ・小山にいた。実は家康の狙いは上方の石田三成を討つことにあった。だが、そのためには自分に 従っている諸将の本心を確かめておく必要があった。このとき一豊は、一同が度肝を抜かれるような 発言をした。 「居城・掛川城を家臣ごと献上します」 ただ味方をするというだけでなく居城をしかも家臣ごとそっくり差し上げるという破格の提言だった。 これには家康も狂喜して天下分け目の関ヶ原で勝利した後、一豊に土佐24万石をまるまる与えたのだ。 だが、一豊は土佐に入ってから苦労した。旧領主の長宗我部系遺臣を力づくで弾圧したために一揆が 頻発した。そのため、領内を巡察するときには常に影武者5人を連れていたので、これを六人衆と呼 んだという話が伝わっている。 ちなみに一豊の妻は、内助の功で知られる千代。無名時代の夫に名馬を買い与え、織田信長の目に 留まって一豊が出世するきっかけをつくったことでよく知られている。賢妻・千代がいなかったら 一豊は城持ち大名になれなかった。もしかすると、あの破格の提言「城を家臣ごと献上します」も、 千代のアドバイスだったかもしれない。 Top |
★法連寺(WEB) Top 妙王山法蓮寺は本尊を日蓮聖人尊定大曼茶羅とし、日蓮宗身廷山久遠寺の直末寺であり、明応元年 (1492)、身延山第十一世、日朝上人の弟子、日妙師が諸国を巡歴の途中当地へ来られ、この地の 信徒の「宗門の寺院が近隣にない・・・」とのせつない願いにより、一宇を建立、翌、明応二年に 本山をまいり、山号、寺号を受け、これを開基とする。この寺は山内氏の菩提寺となったが、 古記録に「黒田城主山内但馬守盛豊、天文年間より、永禄二年まで城主」とあるところから、天文 年間(1532〜1555)岩倉城主織田信康の重臣として黒田城主に赴任した盛豊公は、永禄二年 (1559)岩倉合戦で戦死するまで、菩提寺として当寺を崇拝したものと考えられる。 弘冶三年(1557)織田信長の夜討ちにあって戦死した長男・十郎とともに当寺に墓が現存(宝篋印塔) しており、墓域は美しく整えられ、今日もなお歴史を物語っている。また、法蓮寺の妙見堂は、日本 三大妙見の一つに数えられる妙見菩薩で有名である。法華経の校本で日相本として世に知られる日相 上人は、当地の生まれでこの寺の十三代の住職である。 法蓮寺本堂北には、一豊の父・山内但馬守盛豊と兄・十郎の墓がある。兄は弘治3年(1557)に 黒田城で夜襲にあい死亡。父は永禄2年(1559)に岩倉城落城時に死亡したとされる。 Top |
★籠守勝手神社(Wikipedia) Top籠守勝手神社は、愛知県一宮市木曽川町(旧葉栗郡木曽川町)にある神社である。旧社格は郷社。 式内社の尾張国葉栗郡「黒田神社」という。籠守勝手神社は黒田神社の古くからの通称であった。 正式に籠守勝手神社と改称したのは明治時代初期である。 億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、ここに宿泊したと 伝えられ、これを後世に伝えるために行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。 厄払い、豊年を祈願する祭であり、1500年以上の歴史がある。 かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。 現在は行なわれていない。 概況 創建時期は不明。億計王と弘計王の父である市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されたのが安康天皇 3年(456年)とされているので、それ以前には創建されていたと推測される。黒田神社が正式 名称であったが、このころには籠守勝手神社とも呼ばれていたという。 古くから重要な神社とされ、称徳天皇、宇多天皇の時代に奉幣の記録がある他、天暦5年(951年) には村上天皇の使いが病気平癒の祈願を行なっている。 天正10年(1582年)、黒田城城主沢井雄重(織田信雄の家老)により再建される。 江戸時代は「黒田大明神」「白山神社」と呼ばれていた。 1872年(明治5年)に葉栗郡北西部(黒田村、内割田村、外割田村、玉ノ井村、三ツ法寺村、 里小牧村、北方村、中島村、曽根村)の郷社になったさい、籠守勝手神社に改称される。Top |
★白山神社(wikipedia) Top概要 皇極天皇2年(643年)に当地にて「勅使をもって祭典を行う」とされた事を創始とする。 神社境内より飛鳥時代の須恵器が発掘されたり、周辺に「天子塚」などの地名が残る事からも、 その当時当宮を中心に高い文化を持った集落が発達していた事がうかがわれる。なお、延喜式 神名帳記載の黒田神社が当社である可能性が、多くの書物[1]により指摘されている。 鎌倉時代末期から室町時代初期の騒乱や、相次いだ争乱(1337年の黒田宿における北畠顕家と 足利方の合戦、1350年の高師直と今川朝氏との間で行われた黒田宿の合戦および、1388年の 土岐一族の内乱における黒田合戦)で当地は痛手を受け、その復興には相当の時間がかかった と思われる。特に最後の黒田合戦により消失した当社を復旧するため、土地の豪族の小島氏 より社人(神官)を迎え、往時の威勢を取り戻そうとするが、戦国の騒乱による損害が多く、 復興は遅々として進まなかった。 戦国時代の末期、清洲織田家と岩倉織田家の内乱である浮野の戦い(1560年)により再び焼失 した当社を再興したのが、当時の黒田城主一柳直盛(在城1590年 - 1600年)である。 奉行満志田彦四郎を派遣して当社を復興し、記録をひも解き古老を訪ねて過去の祭典を再興し、 さらに南黒田の町割改造を行い、後の当地の繁栄の礎を築いた。住民は江戸時代を通じて直盛 の恩を忘れることなく、後に廃城となった黒田城を「一柳様御館跡」「一柳様御城跡」などと 呼び、氏子祭礼では公の鎧を中心にすえて町内を練り歩き、その恩得を称えた。Top |
★岩刀神社 (wikipedia) Top ★岩刀神社(Web)解説参照石刀神社(いわとじんじゃ)は、愛知県一宮市今伊勢町(旧尾張国中島郡)にある神社。 式内社で、旧社格は県社。毎年4月に行われる「石刀祭り」では、3輌の山車が曳かれる。 尚、式内社の「石刀神社」は、この一宮市今伊勢町の「石刀神社」のほかに、一宮市浅井町 の「石刀神社」、岐阜県羽島市桑原町の「八剣神社」が該当する説もある。 羽島市桑原町の「八剣神社」は一宮市今伊勢町の「石刀神社」の旧地と推測される。 一宮市浅井町の「石刀神社」は★石刀神社(一宮市浅井町)を参照。 概況 崇神天皇の代、石刀社として創建されたという。 創建された地は尾張国中島郡四条と伝えられている。現在も一宮市には三条という地名が 残り、その北部の一宮市から羽島市付近と考えられる。その後、檀林皇后(嵯峨天皇皇后) によって現在の地近くに移転したという。現在地への移転は14世紀ころと言われている。 江戸時代に三明神社に改称している。これは伊勢神宮の分社を合祀したことからである。 この地は古くから伊勢神宮の神戸であった。 1600年(慶長5年)、西へ向けて進軍中の徳川家康が訪れ参拝する。そのさい三明神社に 陣を設置したので、社殿の破損、建造物の一部が取り壊されてしまう。関ヶ原の戦い後の 1608年(慶長13年)に再建される。この再建を祝って始まったのが石刀祭りとされる。 1938年(昭和13年)に石刀神社と改称し、1940年(昭和15年)県社になる。 Top |
★九品寺公園(競技場)Web Top ★九品地公園競技場(WEB)参照★九品寺公園競技場は九品地公園内に東面・西面と2面あり、2面合計で15,236平方 メートルの多目的広場です。 ★九品寺は、室町時代に廃寺になり元禄時代に再興されたが明和年間に無住になった。名称の 「九品」の意味は物や人の性質を3×3で分類したもの。三三品、上品、下品の語源とされる。 九品は、中国で人物検定や官吏登用の分類に採用された。そして仏教で経典を翻訳した時に 中国の分類を用いた。例えば、極楽往生に9パターンがあるとした「九品往生」である。 (「鎌倉街道p49」) Top |
★浜神明社(Web) Top境内には神明渡跡(右写真)があり、遺跡の船繋松、腰掛け石など。古来この付近は 木曽川の支流が何本も流れ、潮が満ちて舟の往来が盛んとなり、渡し場で船を繋ぎ留 めたと思われます。Top |
★平島公園(Web) Top平島公園野球場は第5回国民体育大会(昭和25年)の準硬式野球の会場として開場し、 毎年全国高校野球選手権大会の一宮球場として使用されています。 Top |
★真清田神社(WEB) Top当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。当社は、平安時代、国家から国幣の 名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を 始め人々の崇敬を集めました。鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の 舞楽面をご奉納になりました。 その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。 江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主 徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。 明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けま した。戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも 厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。 尚「一宮市」の名称も当社が尾張国 一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に 及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。Top |
★一宮市消防本部(wikipedia) ★一宮市消防本部 ★救命講習 Top ★コースマップ(PDF) |