★上新公園(map) ★topへ
★下小田井駅(wikipedia)
★花咲公園(web) ★topへ
(清須市西枇杷島町)
西枇杷島庁舎隣りの、花咲公園。伝説の中の「白菊」という琵琶にちなんで「恋侍白菊」という琵琶の彫刻があります。
★にしび夢だいこん(Web) ★topへ
下小田井の市をモチーフにした、大根を担ぐ裸男のモニュメント。江戸末期に編纂された「尾張名所図会」のイラストに
基づいて作られた。
もとは問屋町の旧国道22号沿いの非常に目立つところにあったが、堤防改修工事に伴い、2008年3月ごろ、道標とともに
橋詰町に移設された。
★問屋記念館(Web) ★topへ
下小田井の市の創始者の一人である山田九左衛門(くざえもん)の住居。もともと橋詰町にあったのを、平成4年(1992)
に移築復元したもの。明治初期の築だが、江戸時代の様式を伝えている。市指定文化財。
★東海豪雨(wikipedia) ★topへ
2000年(平成12年)9月11日 - 12日を中心に愛知県名古屋市およびその周辺で起こった豪雨災害(水害)。
東海集中豪雨とも言う。都市水害の恐怖を実感させる大きな被害で話題になった。なお、東海豪雨は通称であり、気象庁
による命名ではない。後に激甚災害に指定された。
★飴茶庵(Web)
古い家屋を改修し町家に再現しました。『屋根神様』のお社を載せており、当時を偲ぶことができます。
地階ギャラリーがあり、個展などが開催できるよう、貸出もされています。 ★topへ
★美濃路 ★topへ
概要(wikipedia)
美濃路の原型は古代において東海道から尾張国の国府を経由して美濃国にあった東山道の不破関に出る経路であった
と考えられている。当時の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていたが、東国から
馬で奈良・京都に向かう場合に馬と一緒に伊勢湾を渡る事が出来ず、近隣の住人に馬を預けてトラブルになることが
あった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩あるいは馬で西に向かう人はこのルートを用いたとみら
れている。
関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市(旧尾西市))から美濃へ進軍し、戦いに
勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、
お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。
東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていた
ため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。
美濃路の主な通行:朝鮮通信使(10回)
美濃路では、大垣泊、墨俣または起で休憩、名古屋泊が通例であった。琉球王使(11回)
最初は東海道経由であったが、1714年(正徳4年)以降は、美濃路経由となった。休泊地は一定していなかった。
お茶壺道中(毎年)往路は東海道で茶壺が運ばれ、宇治で新茶がつめられて、帰路は中山道を経由するというのが
通例だったが、元禄以降、帰路は美濃路経由で東海道を通った。象の通行(1729年)
美濃路での行程は、垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休。
宿場一覧
1.宮宿 (愛知県名古屋市熱田区)
2.名古屋宿 (愛知県名古屋市中区)
3.清須宿 (愛知県清須市)
4.稲葉宿 (愛知県稲沢市)
5.萩原宿 (愛知県一宮市)
6.起宿 (愛知県一宮市)
7.墨俣宿 (岐阜県大垣市)
8.大垣宿 (岐阜県大垣市)
9.垂井宿 (岐阜県垂井町)
美濃路マップ ★topへ
★清須宿 ★topへ
(本陣跡・清涼寺・清洲城跡)
〜五条橋・元須ヶ口一里塚道標・須ヶ口一里塚跡・新川橋橋詰ポケットパーク・瑞正寺宝塔・屋根神様・西枇杷島問屋
記念館・枇杷島橋・清音寺・屋根神様・尾州茶屋跡・白山神社・大木戸跡・江川一里塚跡・名古屋城・五条橋・四間道
・屋根神様・伝馬橋〜
★天保14年の清須宿は、本陣1(旧林家)脇本陣3(櫛田家、2軒は不明)、家数521軒、人口 2,545人、問屋場1。
清涼寺の鐘、神明町両側の旅籠屋・茶屋・置屋・料理屋などが軒を並べていた。清須宿は当初清洲城下の伝馬町に設けら
れたが慶長15年の清須越で廃止され、続く洪水で流失し元和2年桑名町に置かれた。寛文8年の火災で神明町に移った。
(清洲城天守閣は平成元年完成。) ★コースマップ参照(pdf)
★瑞正寺(Map) ★topへ
瑞正寺・土器野の宝塔(清須市土器野)
罪人たちの菩提を弔うために文化12年(1815年)に建立された宝塔は高さが4.5mもあり日本一の宝塔と言われています
★長谷院【ちょうこくいん】(Web) ★topへ
長谷院・多宝塔(清須市桃栄)
天保5年(1834年)尾張藩主徳川斉朝の寄進で建立。軒瓦には三葉葵があり、歴史を偲ばせてくれます
★正覚寺(Web) ★topへ
正覚寺概要:
正覚寺正覚寺の創建は慶長8年(1603)、清洲城の城主松平忠吉(徳川家康4男)が生母である宝台院の菩提を
弔う為開いたのが始まりと伝えられています。慶長14年(1609)、徳川家康の命で新たに名古屋城が築かれる
事となり清洲城は廃城、解体され用材が名古屋城に運ばれ、清洲の社寺や町屋など殆どが名古屋城の城下町に移る事
になり、正覚寺もそれに従っています。
暫くは旧跡になっていましたが後に大雄山正覚寺として再興されました。境内には宝台院と性高院(松平忠吉)の
ものとされる宝篋印塔が建立されている他、今川塚供養碑が移されています。
今川塚供養碑は桶狭間の戦いで討死にした今川義元が葬られた義元塚に寛文元年(1661)、正覚寺6代三誉上人
が生前供養の為建立した石碑で、当初は清洲城外の須ケ口にありましたが平成19年に現在地に移されました。
★清涼寺(Web) ★topへ
清涼寺概要:
清涼寺の創建は不詳ですが当初は正法庵と称し甚目寺村土田あったようです。寛永年間(1624〜45)に現在地に移り
万治年間(1658〜60)に清涼寺に寺号を改称しています。
山門は入母屋、本瓦葺、2重鐘楼門で正徳2年(1712)から江戸時代を通して時鐘として清洲宿の住民や旅人
などに時間を教えていました。又、境内の前面は清洲宿の中心地で高札が立っていたことから「札の辻」と呼ばれ
道標も建立されていました
★清洲公園(Web) ★topへ
清洲公園は五条川を挟み清洲城の対岸に位置します。1922年(大正11年)に開園したこの公園は、平成11年3月に
リニューアルし、若い樹木に混じって枝を広げる古木が公園の緑を一層深くしています。園内の一段高くなっている
場所には、織田信長公の銅像が建ちます。この銅像は、織田信長公26歳の1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」に
出陣する姿を模した銅像で、桶狭間の方向を見据えています。平成24年の夏、銅像の脇に濃姫像が移設されました。
桜の名所としても知られ、市民に親しまれているこの公園は、「始まりの地〜二人の愛と希望の丘」と称し、夫婦
円満、恋愛、立身出世、必勝祈願のパワースポットとなっています。
★清洲城(wikipedia) ★topへ
郷土の英雄・織田信長公が天下布武への足がかりとした城として名高い城。平成元年に築城され、五条川にかかる
朱塗りの大手橋とともに、清須市のシンボルとなっている。趣向を凝らした展示物で清須の歴史に触れることがで
きる。土日、祝日は武将や姫に扮したスタッフによる紙芝居などのおもてなしを行っている。
★貝殻山貝塚(Web) (★朝日遺跡インターネット博物館) ★topへ
★<朝日遺跡と貝殻山貝塚>(Web参照)
周知のように、弥生時代は大陸から海をこえ新しい文化が伝えられた時代である。
水田での米作り、鉄や青銅をはじめとする金属加工などの新しい技術が導入され、日本列島に暮らす人々の生活や
社会は大きく変わっていった。朝日遺跡は愛知県清須市、西春日井郡春日町、名古屋市西区にまたがる弥生時代の
東海地方最大級の環濠集落遺跡である。
東西1.4km、南北0.8km、推定面積80万平方メートルにも及ぶ広大な範囲から、数多くの住居跡・墓が
みつかっており、全国でも最大級の弥生集落遺跡として知られている。
集落をめぐる逆茂木・環濠などの頑強な防御施設は、この時代が争乱の時代であったことを物語る貴重な資料と
なっている。出土した「遠賀川(おんががわ)式土器」は初期弥生文化が伝播した東端の様相を示す資料として
注目された。
遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属品など膨大な量の出土品がみつかっている。
美しく飾られた赤い土器、細かな装飾を施した骨角製の装飾品、特別な祭器である銅鐸などの出土品は、東海地方
の弥生文化を代表する貴重な考古資料である。
貝殻山資料館が所在する貝殻山貝塚周辺は朝日遺跡の南西部に当たり、弥生時代の初めにこの土地に集落を開いた
人々が最初に居住した場所である。
カキ・ハマグリ・シジミなど貝類とともに、弥生時代前期から中期初頭の土器が多数出土している。
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縄文時代(wikipedia) ★topへ
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前
(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では
中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴
住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機
とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。
なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれ
る。また東北北部から北海道では縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。
概要
縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為され
るようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるように
なった。
名称
「縄文」という名称はエドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)
に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉に
より「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。
続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後
のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している。
縄文土器(縄の文様がついている。)
時期区分
縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、
資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の
経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た
時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。
この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)
早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、
後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。
また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法
も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ
学界に定説が確立されているわけではない。 ★topへ
参考(Web)
★「青森県・三内丸山遺跡」★縄文文化
弥生時代(wikipedia) ★topへ
弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に
続き、古墳時代に先行する。およそ紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀中頃
までにあたる時代の名称である。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった
とされる。しかし、1994年、縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡(みなみみぞていせき)の土器片
中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、さらに同県真庭市美甘(みかも)
姫笹原の4500年前の土器にもプラントオパールが発見され、2005年には岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期
(約6000年前)の地層から大量のプラントオパールが見つかり、少なくとも約3500年前からすでに陸稲
(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表され、また水稲である温帯ジャポニカ
についても縄文晩期には導入されていたともいわれ、現在では稲作開始時期自体が確定できない状態である。
また、縄文式土器から弥生式土器の移行をもって弥生時代への移行とすることもあるが、特に東日本では弥生
式土器と縄文式土器の区分も不明確であり、編年の基準としては使いがたい。 ★topへ
名称
弥生式土器
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で
発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代と
いうことで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
概要
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州
に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡(福岡市博多区)、福岡市博多区
那珂、糟屋郡粕屋町江辻、糸島市曲り田遺跡、野多目遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在
が北部九州地域に集中して発見されている。 弥生時代のはじまりである。
1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡が青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田
区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な
水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがる
までには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育た
ないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したと
いえる。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削され
た。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うよう
になった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器
もしばしば用いられた。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大し
て変わらず、実力社会であった。即ち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行わ
れたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされる
ようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって
戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に
小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)
が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。
一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・
北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡
のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容された
とはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、
九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美群島の歴史、先島諸島の歴史も
参照のこと。
弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)
があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂
が溜まっていく時期であった ★topへ
参考(Web)
★弥生時代の幕開け★弥生ミュージアム
★キリンビール名古屋工場(HP) ★topへ
★丸ノ内駅 ★topへ
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