第61回史跡巡りシリーズ・西尾張編Part14 
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(平成28年4月2日(土)天気:晴れ) (52名参加)  歩数:29,063歩   
下下見・平成27年10月20日(土)晴れ・歩数:22,610歩
下見・平成28年2月20日(土)雨天・歩数:20,649歩参加者:8名
下見再・平成28年3月4日(土)晴れ・歩数:20,649歩

コース:
スタート−9:00・近鉄弥富駅鯏浦城跡難畑地蔵興善寺地蔵尊荷之上の力石服部家住宅金樹寺御着船所
黒川治愿君功徳碑総合福祉センター水郷の里人造堰樋門森津の藤おみよし松→近鉄弥富駅(12Km)

弥富市歴史民俗資料館弥富市観光・文化財マップ(検索)弥富市 コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 弥富の金魚



JR(&名鉄)弥富駅n61131

近鉄弥富駅

近鉄弥富駅で受付6142001

駐車場でラジオ体操614202

鯏浦城祉  n61008

楠の巨木(樹齢600年以上) n61009

鯏浦・薬師寺 n61016

難畑地蔵018

興善寺地蔵 n61020

荷之上の力石 n61024

海抜0mの位置 n61025

服部家住宅 n61029

金樹寺 n61040

金樹寺の庭園 n61046

金樹寺の庭園 n61048

明治天皇焼田港御着船所の碑 n61054

石垣の上にある五明神明社 (np61062)
ここに黒川治愿(はるよし)君功徳碑がある。

証玄寺:宝暦治水美濃義士内藤十左衛門自刃之地
n61070

五明神明社境内にある高さ153pの大きな石碑
黒川治愿(はるよし)君功徳碑 n61t066

おみよし松n61t122 樹種:クロマツ 樹齢:約350年
大きさ:高さ約21m、幹周り5.25m 弥富市指定天然記念物

弥富市総合福祉センター n61077

筏川の桜は満開(2016.4.2) 6142009

水郷の里へ(昼食予定)手前は筏川 n61080

満開の桜(2016.4.2)

ふたつやの渡6142028

筏川の桜

花見会場を通る

花見会場の桜

花見会場6142050

輪中公園6142054

水郷の塔(Web写真参照) n61082

伊勢湾台風災害復興竣功記念碑(左は5mの高波) n61086

筏川を渡る n61091

弥富市歴史民俗資料館(Web参照)n61094

輪中公園のオランダ風車61s008(3.4)

オランダ風車の解説61sw007(3.4)

弥富市総合社会教育センター61s012(3.4)

輪中公園を歩く61s021(3.4)

史蹟・立田輪中人造堰樋門の碑 n61100

立田輪中人造堰樋門(上流側の門扉引き上げ機構) n61101

ガイドさんの説明を受ける058

明治34年竣功の文字が見える059

立田輪中人造堰樋門(下流側) n611020

森津の藤(先方は三重県との県境の鍋田川) n61110

芝桜が植えてあった 6142065

の古木 6142078

森津の藤(4月後半イベントが開催される) n61114

おみよし松へ向かう n61119

おみよし松 n61125コースマップ(PDF)

おみよし松の碑 n61127 Top

おみよし松についてガイドさんの説明を受ける
 右端は水難の碑 081

S34.9.26伊勢湾台風時の水位が下の水平ライン 089 Top
10.4、10.19、11.3の各日付における満潮時の水位 

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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近鉄弥富駅(←駅前商店街の様子・参照)   Top
弥富(やとみ)は愛知県の西端、三重県との境界近くにあるまちです。江戸時代から金魚と文鳥の産地
として知られています。このあたりは中世から近世にかけて新田開発によって造成された農村地帯で
したが、明治初期に前ヶ須街道(旧東海道のバイパス)の前ヶ須宿が設けられると、次第に街並みが
形成されていきました。その後、郡役所や警察署も置かれ、地域の中心として発展を続けました。
現在はJR・近鉄・名鉄の3路線、さらに国道1号と国道155号が集結する交通の要衝であり、名古屋にも
ほど近いことから賑やかなベッドタウンとなっています。
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弥富市歴史民俗資料館  Top
近鉄・名鉄・JR弥富駅から徒歩15分、東名阪弥富ICから南へ5分 又は第二名神湾岸弥富ICから北へ15分

木曽川下流域の新田開発によってできた弥富市は、かつては水郷地帯としていたるところに水路が流れて
いました。常に水害に苦しみながらも、豊かな水に恵まれ、漁業や海苔の養殖、そして特産の金魚養殖と
いった産業が発達してきました。このような水と関わりの深い郷土の歴史、民俗、産業、自然等を紹介し
ているのが弥富市歴史民俗資料館です。館内ではまずロビーの水槽に泳ぐ22種類の金魚が目を引きます。
弥富市は市販されている金魚のほとんどの種類を生産し、中でも高級金魚の産地として全国に知られて
います。江戸時代にさかのぼる金魚養殖の歴史は、2階展示室の「シアターやとみ」やビデオコーナーで
楽しく学ぶことができます。
その他にも、水郷地帯特有の農具や漁具、海苔の生産用具、金魚と並ぶ特産の文鳥飼育の道具など地域の
特色を生かした展示を行っています。   Top

鯏浦城址(WEB解説)  Top
永禄年間、織田信長によって楠樹下に砦を築いたのが鯏浦城。城主には弟の信興が配されたが、元亀元年
(1570年)に服部左京亮に攻め殺された。これを機に長島の一向一揆殱滅戦が展開されたという。
なお、樹齢600年以上になる大楠は現存している。 
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永禄年間、織田氏が服部左京亮等の拠る、鯏浦島上の旧城(城の腰)に対抗するため、島の東のこの大楠
の丘に築いたのが鯏浦城である。服部左京亮は元尾張管領斯波氏の旧臣で、織田氏とは同格の為、信長の
昇天の威勢に反感し、長島一向一揆に味方し事々く信長に反抗した。 元亀元年(1570年)遂に鯏浦城主、
信興(信長の弟)をその出城(立田村の小木江)に攻め殺した。このことが信長の激怒となり、一揆
大殲滅戦に至ったのある。戦後当地方の城砦はすべて取り払われたが、この鯏浦城跡には、信興生護持仏
として母より譲り受け奉持していた聖徳太子作の薬師像を、旧城地に小堂を建立して納めた。
これが今の薬師寺の由来縁起をなすものである。昭和51年城跡に記念碑を建立した。
(薬師寺説明板より)  Top
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難畑地蔵(ブログ参照)     Top

織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立された地蔵尊。
実際は今の場所ではなく 今の東弥生台団地の一角にあった。
信長に一面焼き払われた 鯏浦下の割古戦場「難畑」と言われていたこの場所で その後人骨や武具、
矢刀などが土中から掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり 長い間そのままに
なっていたがそのうちに遺骨などを集めて 丘の上に百日紅を植えてその下に地蔵尊を祀った。
明治の時代まではその場所にあったが ある時農家の娘が眼病になり 地蔵尊が 「我を中地道の
人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕にたった。
それを聞いた信心深い村人十数人が百日紅の丘から真西の中地道の傍らにお堂を建立し 道行く人に
お参りさせたら娘の眼病はたちどころに治った。という言い伝えがある。  Top
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興善寺地蔵尊(弥富市の文化財・参照)   Top
白頭(現在の東名阪弥富インターチェンジ付近)には、かつて荷上山興善寺という蓮如上人の孫にあたる
実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺があり、末寺は70ケ寺にも及ぶ大きな勢力をもっていた。
興善寺は寺伝によれば、桓武天皇の勅願により延暦14年(795年)に創建されたという。
天正2年(1574年)、織田氏に焼き払われた後再興されたが、寛永8年(1631年)の大地震で倒壊し清洲
に移転し、さらに名古屋に移った。この地蔵は、明治24年(1891年)の濃尾地震後に、白頭池から2体
掘り出され、荷之上の墓地に安置されたもので、興善寺の地蔵と伝えられている。  Top
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荷之上の力石(WEB)   Top
荷之上公民館にある力石
その昔は若い者が公然と遊べる日は盆と正月、どこの村にも神社や若者の集まりそうな所に、力石と
言われる大きな石があって、どこまで上げられるか持って何歩歩いたかの力自慢をしていた。
(鳥ケ地にも力石がある)
昭和5年生まれの地元の方の話によると、重要文化財の服部家の土地を借りて青年会の集会所と神楽
部屋、火の見櫓などがあり、その場所に力石があり明治大正時代の若者が力比べをしたが昭和の時代
になってからは持ち上げる者はほとんどいなくなった。
伊勢湾台風前に現在地に移転し 現公民館新築の時に「力」と掘って設置された。Top
服部家住宅(WEB)   Top
服部家は中世以来の家系で、戦国時代の混乱の後、天正4年(1576)に旧領に配下の家来を従えて
戻り、現在地に居を構えたという。屋敷地は荷之上城の跡地と伝え、かつては東西北の敷地三方に
堀が巡っていた。南に長屋門形式の表門を開き、敷地中央に主屋、主屋の北西に離座敷が建つ。
主屋、離座敷、表門が重要文化財の指定を受け、表門東西の土塀、主屋東南の土塀と便所、離座敷北
の文庫蔵、古図2枚、普請文書2冊と宅地が附指定されている。 Top
(ブログ参照)
金樹寺  Top
水晶山 金樹寺 (すいしょうさん こんじゅじ)  五ノ三町本田124 (ブログ参照)

寺伝によりますと1519年に美濃安八郡で正円大師が開基になり1645年にこの地に移ったと
いわれています。
1714年に本堂を建立し歴代住職によって法灯連綿していましたが明治24年の濃尾大地震で倒壊
しました。明治33年に復興再建され現在に至っています。
海津の報土寺21番目の末寺でもあり門徒は地元五ノ三以外に祖父江にもあります。
浄土真宗大谷派で ご本尊は木造阿弥陀如来立像。寺宝は1661年頃の聖徳太子、七高僧、親鸞
聖人画像などです。近年ご住職が作庭された浄土庭園が評判です。
※浄土庭園・・・浄土真宗の教義を枯山水で表現した「十方正覚の庭」を完成され「難行道易行道の庭」
『二河白道の庭」「波濤の庭」など他に「登龍の庭」「七高僧の庭」「歴代上人の庭」「陰陽の庭」
「善鬼神の庭」としてたくさんの方が拝観に行かれるようです。    Top
「明治天皇焼田港御着船所跡」記念碑(下記WEB解説参照) Top
上記記念碑台座裏面の由緒記。読みにくく改めてここに当サイトの判断で掲載します。
 「明治天皇は明治元年東京に遷都せられ、その年9月20日萩藩立毛利敬親高知の山内。
宇和島の伊達。大洲の加藤。岡山の池田。重臣の岩倉具視。中山忠能。木戸孝充ら文武百官三千四百
余人を従えて京都御所を発輦、東京に向かわれた。近江路の大津、石部、土山、伊勢路の関、四日市
の各宿駅を経て同月25日午後二時 桑名の宿駅真宗大谷派 本統寺に無事到着1泊された翌26日
桑名の川口港から尾張藩主さん○○○の白鳥丸で水路を佐屋の宿駅に向かわれたが佐屋川尻が浅く
にわかに人夫40人?を動かして川底をさらえ御船を進められこの地、元海西郡焼田港に御上陸に
なった。尾張の前藩主徳川慶勝並びに藩主義宣も奉迎しはじめて龍顔を拝し感激にむせぶ。
村人が平伏しお迎えするなかを菊花の錦旗を先頭に・・を整え楽の音に合わせて佐屋の宿駅脇本陣に
向かわれた。この地は明治天皇が尾張路へ初めて玉足を運ばれた最初の地で当時の村人の感激をしの
び由緒ある遺跡とし後世に伝えるため同志相○○一碑を建設○○明治百年記念事業とした
昭和42年1月15日   建設委員」    Top

愛知県・38市史跡・社寺めぐりー弥富市(その1)(上記碑文解読文所在)
黒川治愿(はるよし)君功徳碑(下記WEB解説参照)  Top 
五明神明社境内にある。高さ153pの大きな石碑郷土の漢詩人「服部擔風」によって458文字の漢字でかかれている碑文の大意。大変長い文章です。
『五明も小島もともに木曽川東岸の小村である。もとは伊勢国桑名郡であったが明治12年制度が変わ
って尾張国に属することになり海西郡弥富村に併合された。五明・小島の南西は木曽川で、東北は
間之川(あいのかわ)を隔てて五之三・鯏浦・前ケ須と隣り合っている。
間の川は木曽川の支流である。大雨高潮があるごとに堤防が決壊し、家々は水没し村人は流され泣き
叫ぶ。その惨状は言葉で言えるようなものではない。この原因は何か。危急の時は内で防ぐ力も尽き
外から助けることもできない。村の有志はこれを見て、明治17年9月間の川を塞ぐことを愛知県令
(知事)に願い出た。県令はこれを許可し いよいよ工事を始めようとした時、内務省が反対して
いることを聞いて皆 驚きがっかりしたが県土木部の黒川治愿(はるよし)が声を張り上げて
「すでに県知事から許可されている。ぐずぐずしていてはいけない。もし上司から責めを受けたら
私が全責任をとる」と言ってみんなを元気づけた。
そこで人々は感謝して奮い立ち、土や石を運び高いところを削り、低いところを埋め、川の流通の為
両方の河口にいつでも開閉できる閘門を設けた。そのため、日照りにも大水にも心配がなくなった。
工事は翌年完成したが、上司からは何も言ってこなかった。以降、堤防は決壊の恐れがなくなった
だけでなく、木曽川の堤防のように郡費で修築されることとなった。村人は生き返ったようで大喜び
し躍り上がった。
今や君(黒川のこと)は亡くなってしまったが君の恵みは人々の心の中に広がり、追慕し、懐かしく
思わぬものはいない。君の功徳はまことに偉大である。君は美濃(岐阜県)の人で愛知県に勤め土木
専門で最も長く治水工事に携わり、水害を無くし、産業を豊かにすることに専念され、その功績は
すばらしく数え上げるひまもない。人々は君を尊敬し、ある碑と(人?)は生存中に神とした。
間之川埋め立てのごときは君にとってほんの一例に過ぎない。村民は相談して資金を出し合い、石を
ととのえて私に碑文を頼んだ。私は村民の一人として、頼まれたことは嬉しかったが、すべてを文章
に表すことはできなかったのでほんの概略を書くにとどまった。君の人となりや業績は墓誌にくわし
くあるので、あえて簡単に書いた。』   Top

証玄寺:宝暦治水美濃義士内藤十左衛門自刃之地(Web参照) Top
総合福祉センター  Top  
所在地:弥富市鯏浦町上本田95-1
電話番号:0567-65-8103
ファクス番号:0567-65-8002
開館時間:午前9時から午後5時
休館日:日曜日・月曜日及び祝日、年末年始
駐車場:90台
交通アクセス:名鉄・近鉄・JR弥富駅から徒歩15分、東名阪 弥富ICから車5分、国道1号線尾張
大橋東交差点から車5分
ご利用案内:60歳以上の方を対象に、浴室、カラオケ等の各種サービスがご利用できます。
また、多目的ホール、各種会議室、調理実習室などの貸館を行っています。  Top
水郷公園Web写真参照) マップ   Top
〒498-0038 愛知県弥富市中山町松山 (弥富駅出口から徒歩約16分)Top
(近鉄弥富駅出口から徒歩約17分)
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伊勢湾台風災害復興竣功記念碑(ブログ参照)
木曽川の東岸堤防 弥富港の近くにあり モニュメントは当時の想像を絶する大きな高浪を模した
ものです。この場所まで 高さ約5メートル こんな大きな波がきたのです。
以下は案内板の内容です。
「この付近は、木曽三川に囲まれたのどかな田園地帯であった。昭和34(1959)年9月26日当
地方を襲った台風15号は、後に伊勢湾台風と名付けられた超一級の勢力で中心示度929ミリ
バール最大風速60mの猛威をふるい、木曽三川下流部堤防は36ヶ所にわたって決壊した。
そのため、木曽三川周辺に住む人々の財産と多数の尊い人命を奪い、この付近一帯は二ヶ月余り
にわたる浸水に耐えなければならなかった。
木曽三川下流部の復旧工事は、まず決壊箇所の仮締切に全力がそそがれ、多くの人々の協力を
得て、11月18日全区域の仮締切工事を完了、直ちに本復旧に取り組み、鍋田川締切の大工事
を含む総ての復旧工事は、わずか三ヶ年の短年月で、昭和37(1962)年度をもって完成した。
忘れることのできない史上希有の災害の苦しみと悲しみを再び繰り返さないため、当時の異常
高潮に加えて想像を絶する高浪を模して、ここに竣功記念碑を建てたものである。」   Top
弥富市歴史民俗資料館(Web)  Top
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「筏川」
筏川は、愛知県西部に位置し、木曽川と日光川にはさまれた低平地を流れ、伊勢湾に注ぐ
延長約4キロメートル、流域面積約34平方キロメートルの二級河川である。
現在は、長年の地盤沈下により地盤高T.P.0メートル以下の地区が流域の3分の2程度を
占めるようになってきており、ほとんど自然排水が期待できない状態になっているため、
ますますポンプの重要性が増してきています。 
 <筏川流域の市町村>
 津島市,稲沢市,愛西市,弥富市,飛島村
人造堰樋門 (wikipedia参照)  Top
輪中の用排水に苦慮した立田輪中普通水利組合が明治34年(1902)に完成させた。
時代の推移とともに鍋田川の水位が高くなり、今は使用されていない。 
 所在地:弥富市中山町懸廻         Top
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立田輪中人造堰樋門(wikipedia:webギャラリー参照)
「概要」(wikipedia)
かつて農業排水を鍋田川(木曽川の派川)に排出するために建設された樋門で、中山樋門とも呼ばれた。
現在では周辺を輪中公園として整備されている。
「規模と構造」
全長約26メートル、全幅約9.5メートル、水面からの高さ約8メートル。樋門は水路の橋も兼ねており、
欄干部と階段は人造石モルタル仕上げ、上部は間知石積みとなっている。下部の水路部分は煉瓦造で
4ヶ所のアーチ状の水路が作られて、上流側の中央2か所に木製の門扉とそれを引き上げるための機構
が残る。  Top
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森津の藤   Top
慶安元年(1648年)森津新田開拓当時に植えられた1本。尾張名所図絵にも紹介されている。
樹齢340年。市指定天然記念物。 

「森津の藤まつり」 (もりつのふじまつり) [弥富市]
■イベント概要
  藤の開花する4月後半の土曜日・日曜日の2日間、茶会や野菜の即売会が行われる。
■イベントの流れ
 ・茶会、野菜の即売会 (土日の2日間)
・ミス弥富金魚、ミス弥富の来園、撮影会 (日曜日)
■沿革・いわれ
 森津の藤は、森津新田の開拓当時(17世紀)に植えられたと伝えられる古木で尾張名所図会にも紹介
されている。伊勢湾台風までは、庭園が鍋田川に面していたので、風光明媚な藤の庭園として遠方からも
来客があった。また、花の長さが1間(180センチメートル)にもなることで有名であった。
■見どころ
 弥富市の天然記念物に指定されている藤のほか、新たに植えた藤の花があり、旧庄屋の邸宅の長屋門を
くぐると広がる庭園を眺めながら、抹茶を楽しむことができる。
 所在地愛知県弥富市森津14丁目 森津の藤  Top
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おみよし松(愛知県弥富市平島町西新田)Top

樹種:クロマツ
樹齢:約350年
 大きさ:高さ約21m、幹周り5.25m
指定:弥富市指定天然記念物
解説:正保3(1646)年の平島新田開拓当時に植えられたと伝えられている松です。弥富市の中心部を
流れる筏川の岸に、津島神社の天王祭の神葦(みよし)が流れ着いたのを記念して植樹、名付けられた
と考えられています。 Top
弥富市観光ガイドマップ2(pdf)弥富市観光ガイドマップ1(pdf)弥富市文化財マップ(pdf)弥富市 Top

弥富の金魚


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