第62回史跡巡りシリーズ・岐阜編Part9 
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(平成28年6月4日(土)天気:晴れ) (53名参加)  歩数:29,116歩 
下見・平成28年4月16日(土)・歩数:30,653歩・参加者:8名

コース:スタート−9:00・JR大垣駅日吉神社笠縫の里碑受円寺赤坂港跡本陣公園旧清水家住宅矢橋家住宅
金生山化石館昼飯大塚古墳旧早野邸セミナーハウス→(勝山お茶屋屋敷御首神社→JR美濃赤坂線(荒尾駅)11km
(養老鉄道北大垣駅・下見14km) コースマップ(PDF)

大垣市観光協会地球の起原日本・人の起源(地球史年表wikipedia)地質時代



JR大垣駅で打合せ(下見) 62o005

JR大垣駅で受付 ak62001

JR大垣駅でラジオ体操 ak62004

日吉神社 62o008

日吉神社の左上(北)から右(東)が鎌倉街道 62o011

荻神社 62o014

お地蔵さん解説(杭瀬川の大洪水を物語る)ak62w006

お地蔵さんak62007

史蹟 笠縫の里碑  62o016

受円寺表門(木造瓦葺の四足門) 62o022

受円寺本堂 62o024

鎌倉街道(受円寺の南側) 028

輪中堤へ上がるak62011

大垣輪中堤にある旧鎌倉街道碑 62o029

初夏の好日、大垣輪中堤を行く ak62012

権現のぞきの地碑:ここから東軍の陣地を観察した 62o032

輪中堤を歩く 62o036

杭瀬川の洪水危険レベル水位情報 62o047

中山道(左)の道標 62o049

中山道赤坂宿 62o058

常夜灯と赤坂港会館ak62015

杭瀬川と赤坂港の説明を受けるak62018

赤坂港会館(m8警察屯所として建築) 62o064

中山道と谷汲街道の分岐点に建つ 62o067

水運で賑わった杭瀬川の赤坂港跡 (62o066)

赤坂宿本陣跡・背後は和宮碑(本陣公園) 62o070

所郁太郎の像(赤坂本陣公園内) 62o073

旧清水家住宅(江戸時代の町役人を務めた家格) 62o087

清水家住宅の庭から見る020

矢橋家住宅022

『赤坂宿』(中山道131里の道程に69次中57番目の宿場)62ow093
 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶ
ことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川の船運を
中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができてい
たとされ、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、米、材木、酒、
特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下り
する舟が数百艘も見られたという。 本陣1脇本陣1旅籠17

谷汲への道標 (64o095)

矢橋家住宅 62o098

中山道赤坂宿脇本陣跡 62o100

矢橋グループ本社023

和宮お嫁入り普請探訪館(2階建てに見えるが1階建て)026

普請探訪館(背後)前でガイドさんの説明を聞く025

普請探訪館内の御行列図027

和宮御膳再現の店 103

濃尾八景・金生山(217m)に登る032

金生山神社に着く035

金生山神社で昼食037

ここが金生山化石館038

化石館駐車場からの展望(東に金華山が見える)041

化石館駐車場からの展望(大垣市内)043

化石館内の標本(ウミユリ他)047

アンモナイトの化石 051

オオジャコガイ065

デボン紀以前&石炭紀・ベルム紀のパネル054

中生代・新生代のパネル(地球史年表wikipedia)053

館内の展示標本 ak62050

サンゴの石灰岩 ak62059

地質学者ドイツ人ギュンベル(1823-1898)の紹介056

化石館を後にする066

お茶屋屋敷へ 62o118

お茶屋屋敷の竹林を行く(下見) 62o119

お茶屋屋敷のボタン園(下見) 62o123

ボタンの花を観賞 62o131

お茶屋屋敷の古木 62o140

赤坂宿御使者場跡 62o144

昼飯大塚古墳(円墳に登る)(下見) 62o160

復元ゾーンの解説62o161

昼飯大塚古墳の概要を知る068

円墳の頂上でガイドさんの説明を受ける071

岐阜大学・旧早野邸セミナーハウス62o173

早野邸で 62o182

勝山(岡山)に登る(下見)  62o185

勝山の頂上にある岡山本陣跡 62o190

安楽寺本堂(下見) 195

安楽寺 196

御首神社へ 62o198

笠木公園に到着(下見) 62o211

養老鉄道北大垣駅(下見) 62o219

JR美濃赤坂線・荒尾駅(例会)080  Top

『解説』   コースマップ(PDF)   大垣市観光協会 Top
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大垣駅(wikipedia参照)   Top
大垣駅は、岐阜県大垣市高屋町一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)・樽見鉄道・養老鉄道の駅である。
JR東海の東海道本線、樽見鉄道の樽見線、養老鉄道の養老線が乗り入れている。JR東海道本線に関しては本線と美濃赤坂支線
との分岐駅となっている。樽見線は当駅を起点としている。樽見線は1984年までは東海道本線ともども日本国有鉄道(国鉄)
の路線であり樽見鉄道へ転換されて以降も同線の駅は国鉄(→JR)との共同使用駅となっている。
東海道本線美濃赤坂支線については、案内上の名称である「美濃赤坂線」と記述。
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日吉神社  Top
主祭神: 大山咋神(おおやまぐいのかみ) 「摂末社祭神」
住所 :〒503-0015 岐阜県大垣市林町3丁目10番地 
境内に沿革が表示されており、寛政時代に当地の開拓者、林景顕の子孫が阿弥陀寺(現顕性寺)の鎮守として勧請する。
鎌倉街道は日吉神社から東進する。(河合幸男著「鎌倉街道」P31参照)
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笠縫の里碑(下記WEB解説(「大垣市内の鎌倉街道推定図」参照)  Top
笠縫の里碑<宿地町>
県道大垣揖斐川線の笠縫交差点東北角に設置されている。岐大バイパス河間(がま)交差点から南進、最初の交差点です。
以前は歩道橋があった記憶があるが、道路が拡張され歩道橋もなく、目印のない交差点である。

<十六夜日記>
  関よりかきくらしつる雨、時雨に過ぎて降りくらせば、道もいと悪しくて、心より外に笠縫の駅(うまや)という所に
とどまる。
    旅人は蓑(みの)うちはらう夕暮れの
     雨に宿かるかさぬひの里
                      阿仏尼 
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  私旅人は蓑に溜まる雨滴を払い落す程強い夕暮れの雨のために、(予定外に)笠縫の里に宿をとることだ   Top
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受円寺(大垣市web参照)     Top

弘仁6年(815)伝教大師最澄の創建と伝えられる。織田信長の焼き討ちにあっているが、東側に創建当時の表門のみが
残っている。(河合幸男著「鎌倉街道」P29参照)
受圓寺正門:指定番号:1号
指定日:平成27年1月15日
住 所:笠縫町553-1
内 容:市重要文化財
※一般公開(建物内部は非公開)しています。
「概要」
鎌倉街道に隣接する受圓寺の表門は、鎌倉末期から室町時代に建てられた木造瓦葺の四足門で、簡素な組み立てながら、
当時の様式や手法をよく伝えており、鎌倉街道の歴史的な風情を醸し出しています。


赤坂港会館と川湊跡 (大垣市web参照) Top 指定番号:28号 指定日:平成22年10月1日 住 所:赤坂町2939 内 容:赤坂湊跡<市史跡> ※一般公開(建物内部は一部非公開)しています。 ※開館日 土曜日・日曜日及び祝日 「概要」  赤坂湊跡に建つ洋風建築の赤坂港会館は、明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所でした。 現在の建物は復元されたもので、内部は資料館となっています。赤坂湊跡はかつては水運で賑わい、500艘もの船が往来 する川湊でした。しかし、美濃赤坂線の開通に伴い、合わせて下流に水門が建設されたことにより船の航行が困難となり 廃絶しました。現在は親水公園として整備されています。   Top
下記WEB記事も参照中山道歩き旅)また、中山道道中記も参照 参考:『赤坂宿』 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川 の船運を中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができていたとされ、江戸時代には、「赤坂港」が設けられ、 米、材木、酒、特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下りする舟が数百艘も見られたという。 の舟運も大正に入り、鉄道に取って代られ衰えていった。今では公園に痕跡が残るのみ。 本陣1 脇本陣1 旅籠17
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本陣公園(赤坂)(大垣観光モニターツアー参照)   Top
赤坂本陣公園
入口に、皇女和宮が赤坂本陣に宿泊したことを記念した、和宮の碑が置かれています。
また、本陣公園内には、美濃赤坂宿出身の所郁太郎の像があります。所郁太郎は、井上馨(外務大臣)が襲撃を受けて、瀕死
の重傷を負ったとき、畳針で傷口を縫い、一命を助けた人物として知られています。
住所
〒503-2213
岐阜県大垣市赤坂町 
「概要」
中山道69次の宿場町の一つで江戸時代大名が参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館であった赤坂本陣公園。
現在は建物も無いが新しく幕末の青年の志士所郁太郎の国家社会に尽くした功績を顕彰して銅像が建立された。
また、江戸末期の文久元年(1861)公武合体の名目で、第14代将軍徳川家茂と婚儀が成立し皇女和宮が降嫁された際宿泊され
た赤坂本陣跡に和宮をしのぶ顕彰碑がある。  Top

旧清水家住宅(又、大垣市Web参照)  以下は、記者発表資料(平成26年6月27日pdf)から引用 Top 「旧清水家住宅の整備について」 1 趣 旨 旧清水家住宅(大垣市赤坂町2966-1)は、平成24年11月16日に旧所有者(清水暘子氏)より大垣市に建物 (主屋:木造瓦葺・土蔵:土蔵造瓦葺)と土地(352.81u)を寄付いただき、平成25年2月21日に市重要文化財(建造物) 指定がされました。 享保15年(1730)もしくは安永4年(1775)建造ともいわれ、建造物調査により赤坂宿内の現存する建物の中では最古級の 町屋遺構のひとつであることが判明した文化財的価値が高い建造物です。 今回の事業では、中山道に面した主屋(おもや)の修復工事を行い、文化財の保全をはかり、トイレ・給湯室の利便施設を 設け、地域を活性化させるまちづくり活動の拠点施設として整備します。 4 工事概要 【主 屋】 文化財的修復工事を実施し、可能な限り現在使用されている部材を再利用し、文化財としての保護を図ります。 修復に際しては、建造物調査で判明した本来の姿(米問屋)が理解できるように、ミセ・オクミセの板間・ドマや 蔀しとみ戸どを復元します。 また、中山道に面した部分では、玄関には跳はね上げ大戸おおどを、窓には格子を復元設置し、フェンスの木柵への変更や 銅製..の設置など修景にも配慮します。また、施設利用にも配慮し、空調設備を設置します。 この他、旧清水家住宅や赤坂宿に係る古文書等の展示コーナーも設けます。  Top
矢橋家住宅主屋[やばしけじゅうたく・しゅおく]登録有形文化財(WEB参照) Top ■指定別 国 ■所在地 大垣市 ■所有者 個人所有 ■登録年月日 平成9年7月15日 ■年代 天保4年 矢橋家住宅主屋  矢橋家は中山道赤坂宿のほぼ中央に位置し、中山道に北面する平入の大型町家である。すぐ北に金生山(きんしょうざん) と呼ばれる石灰岩の山がある。主屋は中山道に直接面している3棟のうち最も東寄りに建つ「つし」2階の建物であり、 木造2階建、延床面積365.37平方メートルの規模である。門構えを持たずに街道に面し、往時は年貢米を積んだ馬車が広い 通り庭を通って屋敷奥に建つ米蔵へと運んだようである。街道に向けられた主屋の姿は、長大な梁間に架けられた大屋根の 瓦が威容を誇り、2階の軒裏やうだつを黒漆喰塗りとし、1・2階ともに千本格子をはめる等、正面外観は瀟洒な意匠になる。 大規模ながら二階を「つし」とする点等に、江戸時代末期の地方都市における大型町家の特徴がよく表れている。 天保4年(1833)に建造されたと考えられている。なお、矢橋家住宅主屋は中山道に面しているので道路から見ることは可能 であるが、現住家屋であるため庭や建物内部は一般公開していない。  Top
金生山化石館 (下記WEB解説参照)  Top 

昭和39年(1964)に化石研究に生涯を捧げられた故熊野敏夫先生の業績と化石標本の展示・保存のため、赤坂町・赤坂商工会
・熊野先生顕彰会の努力によって設立された。
現在の建物は昭和60年(1985)に建てられ、平成8年(1996)に大垣市へ寄贈された。
 金生山の自然と文化を、さらに調査・研究し、資料の収集・整理・保存に力を入れ、化石についての理解を図る施設です。
『展示資料』
・ジオラマ「赤坂の海」解説
・金生山(217m)とは「地質図・航空写真・地質模型等」
・失われた世界「図説」
・金生山産化石および各地の化石標本   Top

「金生山化石館について」(大垣市WEB参照)  Top 金生山は、2億5千万年前(古生代ペルム紀)、赤道直下のサンゴ礁に生息した、フズリナ、サンゴ、ウミユリ、巻貝、二枚貝 などの化石が豊富に産出し、「日本の古生物学発祥の地」「古生物のメッカ」として知られています。 中でもシカマイアという二枚貝やウミユリは、世界一の大きさを誇っています。金生山化石館は、金生山産の化石や鉱物を 約700点展示するとともに、わくわく体験活動や講座などを実施して、金生山の化石や地質を紹介しています。 『参考』 金生山に行ってみよう金生山・wikipedia “日本の古生物学発祥の地 金生山  (PDF)” (大垣市金生山化石館(化石館だより No.21) (2013年1月). 2013年5月16日閲覧。)   Top (地球史年表wikipedia)地質時代 参照
地球の起原(鮎起源探訪webから)   Top 「地球の成り立ち」 地球は太陽を回る太陽系に属していて、太陽系(50億年前に誕生)は銀河系の中にある。銀河系の中と言っても銀河系の中心 ではなく中心から2/3ほどの外側に位置している。太陽系は銀河系(直径約10万光年)を約2億2000万年かけて一周する。 地球は23.4度傾いていて自転しながら太陽を1年かけて一周する。この傾きにより地球のどの位置に国があるかで一年の気温 変化が異なる。日本は地球の北側1/4ほどに位置している事で太陽を一周するうちに太陽光線の強度が変化し気温が変わり四季 が生ずる 「地球誕生」 地球は46億年前に誕生したと考えられていて、原始太陽を中心に高温の塵やガスが渦を巻きながら廻り、冷えて集まり小さな 惑星(微惑星)を作る。この小さな惑星がぶつかりあって大きな原始惑星が作られる。こうして作られた原始惑星(地球) はさらに小さな惑星との衝突を繰り返し大きくなっていった。衝突による高熱で表面はマグマで覆われ大気は噴出ガス (Co2・N2・水蒸気)で覆われていた。やがて衝突がおさまり表面が冷えて雲を作り雨が降り続いて海が作られた。 ・・・原始地球に酸素はまだ無い。 「生物の発生」 生物の発生については定かでない様であるが、約40億年前、海底で蛋白合成が行われ最初の生命が誕生したと考えれている。 38億年前、単細胞生物である原核生物(バクテリア「嫌気性好熱菌」・核が無い)が誕生した。 「酸素の放出」 27億年前、海の浅い所にラン藻類が誕生し光合成により酸素を放出するようになる。 6億年前、氷期が終わり酸素濃度は急激に増加する。 「大陸の出現」 激しいマグマの噴出が続いき19億年前、巨大大陸が初めて出現する。 その後10億年前・5億5000年前・2億5000年前と分裂と融合を繰り返し様々な大陸を形成していく。8〜6億年前は地球上を 氷で埋め尽くすほどのもっとも寒冷な氷期となる。2億5千年前に融合した大陸がその後しだいに分裂していく。 この大陸の分裂と融合の間に氷河や海水位の変化で多くの生物が絶滅している。2億5000年前の融合に伴う大規模な火山 活動が起こり、噴出された溶岩や粉塵、ガスなどで植物が少なくなり、このことで酸素濃度が大きく下がり地球上の多く (約95%)の生物が絶滅している 「生物界の発展」 15億年前に真核生物(核を持つ)が誕生し生物界(原生生物・菌類・動物・植物)の源となり、酸素を利用する生物が 誕生する。10億年前に多細胞藻類が誕生し、多くの酸素を放出する様になる。5億7000万年前から海中に多くの多細胞 生物(動・植物)が生まれ進化していくこととなる。4億5000万年前にオゾン層ができ紫外線が少なくなった事で生物が 陸地に進出する様になり、4億3800万年前から陸上に植物(シダ類)や節足動物が現れ、4億800万年前に四肢動物が 現れる。3億7000万年前に両生類や爬虫類が現れる様になり、2億2000万年前に恐竜類が現れる。 これ以降、陸と海に多くの生物が生まれ繁栄していく。 「地球環境の大変化」 6500万年前、地球への巨大隕石の衝突による粉塵で太陽がさえぎられ地球環境が大きく変化しこれに適応できない植物 や動物・恐竜類などの多くが絶滅している。 「ほ乳類」 ほ乳類は2億800万年前にネズミほどの小動物として誕生しているが6500万年前以降に繁栄することとなる。 人類はさらに後で600万年前に誕生し現在に至る。 「絶滅の歴史?」 地球の歴史は絶滅の歴史と言う人もいる。 生物が誕生してから地球環境の様々な変化に対応できず多くの生物が今までに絶滅している。初期の地球環境に生息し ていた生物は現在まで生き残っているものは少ない。海に生息していた無顎類(あごが無い)の生物の大半は3億4000万 年前に絶滅しており、2億2000万年前から繁栄した恐竜類も地球環境の変化に適応できず6500万年前に絶滅している。 マンモスやナウマンゾウなども1万年前には絶滅しており、人類においても600万年前に発祥した猿人やその後進化した 原人も絶滅している。 自然環境下で種の多くは100個体以下になると絶滅の一途をたどると言う人がいる。 100個体以前に保護をし環境を改善しなければ絶滅に向かうと考えられている 鮎にかぎって言えば現在まで200万年生息しているが、川の環境が悪化すれば絶滅も考えられる。地球環境が変われば 魚や植物だけでなく人についても絶滅しないと言う事は断言できない。 「余 談 人はいずれ何になる?」 人類は地球から見れば地球人だが宇宙から見れば宇宙人。 地球に住む人類は現在多くの人種と国があるが元をただせばアフリカ人さらに溯れば猿類とどんどん溯ると菌類 (バクテリア)にたどり着く。菌類−藻類−魚類−両性類−爬虫類−ほ乳類−霊長類−人類と約40億年をかけて大きく 変異してきた。これから先、何万年、何億年、何十億年とたつ時、人類は何に変異しているのでしょうか?  Top 地質時代
日本・人の起源 (鮎起源探訪webから)     Top 「日本列島の成り立ち」 200万年前から1万年位前の間は氷期と間氷期が何度も繰り返され、その都度潮位は大きく変化していて日本列島は そのたびに形を大きく変えていた。約60万年前(氷期)の日本列島は日本海が大きな湖の様であり、北は北海道と 樺太(カラフト)、南は九州・中国地方・中国・朝鮮半島の東シナ海の北部が陸続きであった。 約2万年前には東シナ海が広がって北は北海道と樺太(カラフト)、南は九州・中国地方と朝鮮半島が陸続きであった。 この頃は亜寒帯湿地気候で現在より4〜8度は寒かったため海の潮位は現在より100m以上も低かった。 7万年前〜2万年前の間は低い潮位が続いている。その後しだいに温暖となり海の潮位が上がり、大陸から少しづつ 別れ約1万年前に日本列島が形成された。 「日本人はいつから居たの?」 人類は猿人(約600万〜100万年前)、原人(約180万〜3万年前)、新人(約16万年前〜現代)と年代順に進化して きた。現代人の祖先は新人からで猿人・原人とは違う(猿人・原人は絶滅している)。現代人の発祥地は東アフリカ とされていて北上し中東・ヨーロッパ・アジア・他各地へと移住していったと考えられている。移住して行った 新人は気候や環境・食などにより体格や肌の色などが少しづつ変化していきいろいろな人種が生まれていった。 4〜1万年前には世界中のあちこちに新人は住んでいた。日本人の祖先と考えられたいるのは陸続きの日本列島に 6〜2万年前の中央アジアや東南アジアに住んでいたモンゴロイド系の人々がマンモスやナウマンゾウ・オオツノシカ の狩猟や植物の採食をしながら移動生活をし陸続きの北と南のルートから日本に移住してきたとされ、3万年前頃には 人が住んでいたと考えられている。アジアからの移住を裏付ける様にミトコンドリアDNA解析によると、現代の日本人 は9種の型に分けられ、この型は日本列島付近の中国各地やロシアに住む人々とも類似していて、これら先人達が日本 に移住してきた事が解る。 BC(紀元前)1万1千年前には中央アジア(モンゴロイド)に住んでいた人々が中国・朝鮮半島を通り日本に移住して きて縄文時代を築き、さらにBC(紀元前)350年前頃東南アジアから新たに人々が中国・朝鮮半島経由で移住してきて 弥生時代を築いた。 「旧石器時代の生活」 旧石器時代(BC1万1千年以前)の生活は穴蔵・洞窟に住み、食を求めての狩猟をしながらの移動生活であった。 当時は亜寒帯性湿地環境で現在より気温が寒かったが、このころすでに火は使っており火で暖をとったり食べ物を 焼いたり蒸したりして食べていた様である(土器は使用していない)。 火は25万年前にすでに使われていたので大陸から移動してきた旧石器人が火を使っていても不思議ではない。 石器は石を打ち砕いて作った打製石器でナイフ形の石器や尖頭器などで動物を突き刺したり捌(さば)いたりする のに使用していた。   Top
昼飯大塚古墳(国史跡)(Web参照) Top 昼飯大塚古墳は今から約1600年前(四世紀末)に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。その特徴は墳丘の長さが 150mにもなることやその構造が三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という 3つの埋葬形態が存在する点にあります。 保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています。 畿内の大王墓に準ずる傑出した内容を持ち、東海地方の古墳時代の政治・社会を考える上で、不可欠の古墳)と 説明しています。(河合幸男著「鎌倉街道」P25参照) [古墳の築造年代]  4世紀末(古墳時代中期) [古墳の規模] 墳丘長 約150メートル 後円部径 99メートル 高さ 13メートル 前方部高 9.5メートル 周壕含む総全長 約180メートル [出土遺物] (墳丘)円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・靫・甲冑形)、 勾玉・ガラスなどの玉類、土器・土製品など [埋葬施設] 竪穴式石室(北棺):過去に盗掘を受ける。未調査。 粘土槨(南棺):未調査。 木棺直葬(西棺):棺外から鉄剣・鉄刀、鉄製の工具などが出土。棺内は 未調査。 [史跡の指定]:平成12(2000)年9月6日 「追加指定」:平成26(2014)年3月18日  面積:14,081.71平方メートル     Top
昼飯大塚古墳画像 文化遺産オンライン youtube   Top 南宮大社の刀剣(参考)
旧早野邸セミナーハウス(Web)(大垣市昼飯町1777) Top

明治20年建築。(切り妻造り母屋)
コンセプト:赤坂宿の古民家を活用した岐阜大学の活動の場。古民家の歴史と文化の趣のある空間の継承。教育の場、学術研究の
 フィールドワークの活動拠点。歴史的資料等の展示。地域へのサービスの提供と交流。
開館時間は火曜日〜土曜日(10:00〜16:00) 休館日:日曜日・月曜日・祝日 問い合わせ先:0584-71-0151
勝山    Top  
岡山は海抜53メートルの丘陵で、慶長5年(1600)の関ケ原合戦のとき、東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられたところ
です。天下分け目の大合戦に勝利を得た家康は、ここを徳川ゆかりの地と記念して、岡山の名を勝山に改めたと伝えられて
います。 「住所」〒503-2213 大垣市赤坂町   Top

お茶屋屋敷(wikipedia) Top お茶屋屋敷は、江戸時代、慶長10年(1605年)ころ、徳川家康が上洛の往還に際して休泊のために岐阜県大垣市に設けた 施設である。中山道赤坂宿の西に設置されている。岐阜県大垣市の県指定史跡「お茶屋屋敷跡」である。 『大垣藩地方雑記』によると、ほぼ方形の縄張りをもつ城郭形式で、総郭内と馬場跡があり、四隅に櫓を備え、正面に 大手門があった。また、全体を土塁・空濠で囲んだ豪壮な構えであったという 。 寛永5年(1628年)、岡田将監が管理に当たったときには、破損が著しく、大半が取り壊されて廃絶化した。 廃藩置県の時期、お茶屋屋敷跡の広大な内部を畑地としてきた。 1976年(昭和51年)に岐阜県指定史跡]]となり、城郭的 要素を持つ貴重な遺跡として、空堀や土塁などが残されている。現在は、牡丹園として一般に開放されている。 岐阜県大垣市赤坂町3421-1で大垣市立赤坂中学校に隣接する。 「沿革・概況」 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は全国主要街道の整備にとりかかる。 慶長14年(1609年)、徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、徳川家開運の地であるお勝山の北方に、自らが上洛の 往復をするにあたっての休泊施設お茶屋屋敷を設置する。設置は美濃国の諸大名に命じ、岐阜城の稲葉山(金華山) 山麓に存在した、織田信長の住居、千畳敷御殿など61棟を移築させたという。廻りには土塁や空壕が設置され、宿泊 施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。 寛永年間(1624年〜1644年)宿場の整備とともに必要なくなり、建物は取りこわされる。 昭和24年(1949年)中学絞建設に伴い遺構の西半分を校地としたため、現在東半分に、土塁・空濠の一部・井戸跡など が遺構として残っている。 昭和51年(1976年)、お茶屋屋敷跡が岐阜県の史跡に指定される。   Top
御首神社(WEB参照)    Top
「由緒/ご利益」
今から約千年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りを覚え乱(天慶の乱)を起こした。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ、
将門は捕えられ首を討たれた。その首は京都に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろう
と飛び立った。この異変を知り、美濃の国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願し
たところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落とした。
(その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある。)
この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀ることによって再びその首が関東に戻らぬよう、その怒りを鎮め霊を慰め
るために創建されたのが、御首神社であると伝えられています。
そのため当社は、桓武天皇第六代の皇胤平将門公の御神霊をお祀りしている神社であり、その御神徳は古くより知られ首から
上の諸祈願に霊験あらたかで、全国各地からの参拝があります。特に年明けには、中学生や高校生の受験生が多数詰めかけ、
普段のご祈祷と相俟って拝殿は身動きも出来ないくらいの混雑を呈します。
また、正月三ヶ日は参道が参拝者で埋まり、一日中長蛇の列が延々と続きます。近年は首上の病気平癒はもとより、健康
(ぼけ防止)や学業成就を中心に、交通安全・家内安全・商売繁盛・厄祓いなどが願われています。
首上のご神徳から、帽子やスカーフなど首から上の着装品の奉納が数多くあり、病気回復や勉学の向上等が祈願されます。
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