第68回史跡巡りシリーズ・西尾張編Part16 
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(平成29年6月3日(土)天気:晴れ) (49名参加)  歩数:29,841歩(Kさんによる)

下下見・平成28年11月11日(土)晴れ・歩数:28,989歩 下見・平成29年4月22日(土)歩数:35,044歩
第61回例会(弥富市:北・西部H284.2開催)

コース:
スタート−9:00・近鉄弥富駅ふたつやの渡し跡歴史民俗資料館蓮如堂おみよし松六条津島神社・黒宮重佳記念碑
弥勒寺・海南こどもの国孝女そよ宅址鵜の池→秋葉堂→明治天皇西蜆御小休所二つお宮の松吉川英治句碑
文学散歩道鹿島神社文学碑→近鉄蟹江駅(12Km)

弥富市歴史民俗資料館弥富市観光・文化財マップ(検索)弥富市(文化財) コースマップ(PDF)
『解説』欄へ 弥富の金魚蟹江町 弥富・旧東海道散策コースマップ 『佐屋街道』集合写真



近鉄弥富駅(H28.4.2)

駅の南側で受け付け 683y001

近鉄弥富駅前の海抜0mの位置683y003

ラジオ体操(H28.4.2)614202

ふたつやの渡・ここが明治5年開通の東海道の起点(〜宮宿)

ふたつやの渡から明治の東海道を歩く683y011

弥富市歴史民俗資料館(Web参照)n61094(H28.4.2)

蓮如堂  n68103

ガイドさんによる蓮如堂の説明683y015

金魚卸売市場(筏川沿い)n6805

おみよし松へ(H28.4.2) n61125

おみよし松の碑(H28.4.2) n61127 Top

おみよし松についてガイドさんの説明を受ける
 右端は水難の碑(H28.4.2) 081

S34.9.26伊勢湾台風時の水位が下の水平ライン 089 Top
10.4、10.19、11.3の各日付における満潮時の水位 

ひので公園で小休憩(土地区画整理事業竣功碑)n6808

六条津島神社

黒宮重佳記念碑(寺子屋の師匠) n68114      Top

海南こどもの国(4.22)n6820

海南こどもの国(案内図・左端は弥勒寺)n6821

海南こどもの国n6822

弥勒寺へn6823

弥勒寺本堂n6825

銅造阿弥陀如来坐像(弥勒寺)683y024

孝女そよ宅址の説明

孝女そよ宅址 n68117 Top

三又池公園(芝桜4.22)

拠点広場(三又池公園)

三又池公園で昼食・休憩683y029

三又池公園でガイドさんも昼食031

全員集合(三又池公園)035

烏の池n68118

明治天皇西蜆御小休所 n68119 Top

明治天皇西蜆御小休所(志水家)関係者の碑044

明治天皇西蜆御小休所(志水家)関係者の碑045

二つお宮の松(山神社) Top

二つお宮の松(解説) n68w47

この山神社に植樹された松、樹齢約360年以上と言われ
ていますが伊勢湾台風にも奇跡的に生き残りました。

向かい側に神明社があるので、「二つお宮」と呼ばれて
います。

この前の道は 明治5年に明治の新東海道として明治

天皇も通られ前ケ須の渡船場に通じる幹線道路として旅人

の往来が多かったと記録されています

二つお宮の松の説明049

二つお宮の松、ここでガイドさんと分かれる052

蟹江側樋門について解説061

蟹江側樋門の解説(左に窪んだ所にあった)062

吉川英治句碑

文学散歩道(4.22) Top

鹿島神社へn6866

鹿島神社案内n6867

文学碑(藻の花をよけて釣り糸落としけり)n6871

文学碑(くひな鳴く鹿島の神の灯ともりて)n6872

鹿島神社本殿n6875

親鸞聖人遺跡n6878

親鸞聖人腰掛け石解説n6880

親鸞聖人腰掛け石81

公園でクールダウンと解散式067

近鉄蟹江駅に到着 82   Top
集合写真(三つ又公園) Top

弥富・旧東海道散策コース(明治の東海道)  Top

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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近鉄弥富駅(←駅前商店街の様子・参照)   Top
弥富(やとみ)は愛知県の西端、三重県との境界近くにあるまちです。江戸時代から金魚と文鳥の産地
として知られています。このあたりは中世から近世にかけて新田開発によって造成された農村地帯で
したが、明治初期に前ヶ須街道(旧東海道のバイパス)の前ヶ須宿が設けられると、次第に街並みが
形成されていきました。その後、郡役所や警察署も置かれ、地域の中心として発展を続けました。
現在はJR・近鉄・名鉄の3路線、さらに国道1号と国道155号が集結する交通の要衝であり、名古屋にも
ほど近いことから賑やかなベッドタウンとなっています。
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弥富市歴史民俗資料館  Top
近鉄・名鉄・JR弥富駅から徒歩15分、東名阪弥富ICから南へ5分 又は第二名神湾岸弥富ICから北へ15分

木曽川下流域の新田開発によってできた弥富市は、かつては水郷地帯としていたるところに水路が流れて
いました。常に水害に苦しみながらも、豊かな水に恵まれ、漁業や海苔の養殖、そして特産の金魚養殖と
いった産業が発達してきました。このような水と関わりの深い郷土の歴史、民俗、産業、自然等を紹介し
ているのが弥富市歴史民俗資料館です。館内ではまずロビーの水槽に泳ぐ22種類の金魚が目を引きます。
弥富市は市販されている金魚のほとんどの種類を生産し、中でも高級金魚の産地として全国に知られて
います。江戸時代にさかのぼる金魚養殖の歴史は、2階展示室の「シアターやとみ」やビデオコーナーで
楽しく学ぶことができます。
その他にも、水郷地帯特有の農具や漁具、海苔の生産用具、金魚と並ぶ特産の文鳥飼育の道具など地域の
特色を生かした展示を行っています。   Top
ふたつやの渡し跡  Top
弥富周辺は水郷地帯で、船による水上交通が中心だった。 明治5年に新東海道が制定され、弥富
(前ヶ須)が宿場町に指定されると栄えるようになり、水上交通の要衝として桑名や長島への船が
行き来した。
昭和8年、国道1号線の尾張大橋が竣工し、渡船はその役目を終え廃止となった。『弥富市HP』より

明治の東海道明治の東海道ブログ 

明治の東海道 (明治の東海道:弥富市の前ケ須新田のふたつやの渡し跡から東海通を経て宮の渡し跡まで約23km) 旧東海道、名古屋の「熱田の宮の渡し」から「桑名の渡し」まで、海上七里を嫌った旅人が陸路を通っ たのが佐屋街道でした。 ところが、幕末ごろから佐屋川の水が減ったことで、大型船の遡行が難しくなっていたという。 その頃、京都から江戸に向かう明治天皇の一行が、佐屋路を通ることになり新しい道が計画されます。 それが名古屋の熱田から弥富の前ケ須まで、当時干拓された新田を通る明治の国道 東海道です。
ふたつやの渡し  Top 旧佐屋路は明冶5年に宮(熱田)から弥富市の前ヶ須まで新しく東海道(とうかいどおり)が開通し、 「佐屋三里渡し場」は明冶中頃廃止され約5キロ下流の「ふたつやの渡し跡」が使われるようになり ました。石碑前の川にコンクリート階段がありこれが船の乗り場と思われます。  Top
『佐屋街道』(wikipedia参照)         Top 佐屋街道(佐屋路)は、東海道の脇往還です。 東海道の宮宿(熱田)と桑名宿間は、「七里の渡し」による海路が本ルートでしたが、海が荒天など で渡船できない場合など、この区間を陸路で結んだのが佐屋街道です。 「佐屋街道の歴史」 佐屋街道の道筋は、江戸時代以前からありました。 古代律令制の時代、中央と地方の連絡に駅制がありました。平安遷都以後、古東海道は西からは美濃 経由で、馬津駅(津島市北町付近)・萱津駅(甚目寺町付近)を経て尾張に入りました(上街道)。 鎌倉時代は、津島は湊の機能を果たし、交通の要衝でした。室町時代には、津島牛頭天王社 (現在の津島神社)が栄えて賑わいました。 江戸時代になり東海道が制定されると、宮〜桑名は「七里の渡し」で結んでいました。しかし、陸路の 佐屋路も重要ルートとして利用されていました。慶長20(1615)年に徳川家康が、大坂夏の陣で桑名に 向かったとき、まだ街道としては未整備だった佐屋路を通りました。寛永11(1635)年、船酔いする 徳川家光のために尾張藩によって佐屋街道は整備され、寛文6(1666)年、江戸幕府道中奉行の管轄下 となりました。船の欠航もある七里の渡しに比べ、佐屋街道は三里の渡しが安定していて幕末には多く の人が通るようになっていました。 江戸時代後半になると三里の渡しが通っていた佐屋川の川底が浅くなり、舟の通行に支障をきたすよう になりました。それでも、川底の土砂を取り除き、なんとか渡船を維持しようとしましたが、だんだん 舟着場が下流になり、明治天皇の東幸時(1868)には、前ヶ須(弥富)に上陸して、佐屋宿まで陸路を 行くようになりました。 明治時代になり、宿駅制度が廃止され、五街道の代わりに国道が制定されます。弥富村の村田宗之助が 現在の国道1号線の前身となる前ヶ須街道の開設を明治政府に働きかけ、明治3(1871)年に新東海道 (熱田〜福田〜前ヶ須〜ふたつやの渡し〜桑名)が開設され、佐屋街道はその使命を終えました。 賑わっていた宿場も、ひっそりとしたようです。 佐屋川はすでに川底が浅くなっていましたが、この地域に長年にわたり水害をもたらしていた木曽三川 の治水工事の一環で、埋め立てられ廃川となりました。川の跡は水田となり、現在では住宅や道路が 通り、面影はありません。「別冊 佐屋街道」では、「三里の渡し」で昔の人が舟で移動した部分を 歩きますが、昔の佐屋川の上を歩いているかもしれません。 Top
「筏川」  Top
筏川は、愛知県西部に位置し、木曽川と日光川にはさまれた低平地を流れ、伊勢湾に注ぐ
延長約4キロメートル、流域面積約34平方キロメートルの二級河川である。
現在は、長年の地盤沈下により地盤高T.P.0メートル以下の地区が流域の3分の2程度を
占めるようになってきており、ほとんど自然排水が期待できない状態になっているため、
ますますポンプの重要性が増してきています。 
 <筏川流域の市町村>
 津島市,稲沢市,愛西市,弥富市,飛島村    Top
蓮如堂 Top
おみよし松(愛知県弥富市平島町西新田)Top
樹種:クロマツ  樹齢:約350年  大きさ:高さ約21m、幹周り5.25m
指定:弥富市指定天然記念物
解説:正保3(1646)年の平島新田開拓当時に植えられたと伝えられている松です。弥富市の中心部を
流れる筏川の岸に、津島神社の天王祭の神葦(みよし)が流れ着いたのを記念して植樹、名付けられた
と考えられています。 Top
黒宮重佳記念碑・六条津島神社(弥富市ウオーキングマップ参照pdf)  Top
筏川沿いの道を北西に500mほど進んだ先を右折したところの「六條新田」交差点の左手に津島神社が
あります。慶安元年(1648年)にこの付近の六条新田が開墾されたのち,慶安3年(1650年)に津島
神社を勧請して創建されたといい,祭神は須佐之男命です。  Top

神社の南の筏川堤防のところには黒宮重佳(しげよし)記念碑があります。黒宮重佳は文化11年 (1814年)に六条新田で生まれ,弘化元年(1844年)から明治5年(1872年)まで寺子屋の師匠を つとめて優秀な門下生を輩出したといいます。この碑は門人たちが彼の遺徳をしのぶために明治28年 (1895年)に建立したものといいます。 弥富市・十四山西コースWeb参照  Top
海南こどもの国(wikipedia)  Top
「概要」
1985年(昭和60年)10月6日に当時の海部郡十四山村(現・弥富市)に開園。面積は約10万m2で
海抜0メートル地帯にある。現在は、指定管理者として財団法人愛知公園協会が運営を行っている
が、開園から1999年(平成11年)4月1日の財団法人愛知公園協会発足までは愛知こどもの国協会
が運営を行っていた。園内には、足踏み式ゴーカートや水上自転車(足踏み式ボート)などの有料
遊具のほか、アスレチック遊具や児童用の屋外プールなどの施設がある。
2008年(平成20年)には、公募により愛知こどもの国との共通マスコットキャラクター「みどぽん」
が誕生した。  Top
愛知こどもの国HP
弥勒寺(銅造阿弥陀如来坐像)   Top
この仏像は、龍華山弥勒寺の本尊で、背面の刻銘に、明応9(1500)年藤原宗次の作とある。
宗次は梵鐘や鰐口の鋳工として知られ、仏像の専門でない鋳工が作った貴重な仏像である。
 弥勒寺は、仏像と同じ明応9年の創立で、もともと現在の七宝町伊福にあったが、戦国時代の戦禍
により寺は失われ、仏像だけが伝えられていた。寺は元禄4(1691)年に鳥ケ地新田に再興され、
同12年現在地に移された。  Top
孝女そよ宅址  Top
享保13(1728)年鳥ケ地で生まれた曽與は、幼い時に母親と別れ父親に苦労して育てられたため、
父親のありがたさを思い一生懸命働いた。酒を飲み生活の寂しさを忘れようとした父親を、曽與は
哀れに思い孝養をつくしたという。この話が鳥ケ地に住む西河菊荘により『孝女曽與伝』として
安永7(1778)年に出版された。曽與は寛政12(1800)年に71歳で亡くなったが、その後も善行は
称えられ、明治から大正時代にかけての修身の教科書に載り、全国にこの話が広まった。
弥勒寺には今も曽與の墓が残っている。  Top
三ツ又池公園  Top
所在地:弥富市鳥ケ地1丁目709-5
電話番号:0567-65-1111(市役所農政課)
Top
烏の池(うのいけ)(ブログ参照) Top
神戸新田が出来上がって50年ほどたったころ台風によって大きな澪ができました。
できた澪(池)の形が烏(カラスではなく鵜)の飛ぶ姿に似ていたからとも、鵜がたくさん
飛んでくるから、などと誰からともなく「烏の池」(うのいけ)と呼ばれてきました。
海の中に堤防を築き新田開発してきたこの地域では 高潮や地震で堤防が切れて洪水になる
ことが多く、堤防の切れた跡に、澪(みお)と呼ばれる池が所々に残されていました。
現在はほとんど埋め立てられてしまい この「烏の池」が唯一の澪の跡です。
「神戸家文書」に宝歴7年(1757)の大水でこの場所に澪ができたとが記録されています。
Top
明治天皇西蜆御小休所(志水家)(Web参照) Top
明治13年(1880)7月2日 明治天皇が京都府御巡幸行に際して名古屋東別院ー熱田
神宮参拝ー古渡より百曲街道を経て中島新田にて御小休ー福田新田にて 
ご昼食ー午後12時4分ご到着お休みの後 午後12時50分前ケ須に向かわれた
と記録されています。
明治天皇の召し上がられるお水は志水家の井戸は水質が悪いため前ケ須の佐藤七三郎方の
井戸水を蓋つきの桶に入れてわざわざ運んできたそうです。  Top
二つお宮の松(Web参照)  Top
正保4年(1647)以降 東蜆を含む十四山地区の北部が新田開発され村人の安全平穏と
五穀豊穣を願いそれぞれの村々に神社が勧請されました。承応3年(1654)にこの地区
(東蜆)に山神社が勧請されたといわれています。
この山神社に植樹された松、樹齢約360年以上と言われていますが伊勢湾台風にも
奇跡的に生き残りました。
向かい側に神明社があるので「二つお宮」と呼ばれています。 
この前の道は 明治5年に明治の新東海道として明治天皇も通られ前ケ須の渡船場に
通じる幹線道路として旅人の往来が多かったと記録されています。Top
蟹江町(かにえちょう)(wikipedia)
愛知県の西部、海部郡に位置する町。東側を名古屋市と接する。町の全域が海抜ゼロ
メートル地帯であり、またその1/4が河川で占められている。海部津島広域行政圏に属する。
吉川英治句碑  Top
 昭和17〜18年頃、この地を訪れた文豪吉川英治(1892-1962)が詠んだ
「佐屋川の 土手もみちかし 月こよひ」 という句が刻まれています。
 吉川英治は蟹江を訪れた際に水路の多い素朴な風景を「東海の潮来」
と称して愛で、佐屋川と蟹江川が出合う場所でこの句を詠んだとされています。
 この句碑は、当初、吉川英治とゆかりのある地元有志の方により蟹江川畔に
建てられて昭和39年(1964)に蟹江町に寄付されたものを、平成24年(2012)春に
佐屋川尻に移設したものです。Top
文学散歩道   Top
佐屋川沿いの春の桜並木、夜寒橋からの景観は川面に映え、野鳥が乱舞し、ヨシキリ
が囀る水郷風景は絶景です。満開の桜を眺めながらの散策や、遠くからハイキング客
が訪れ、風光明媚な写真撮影スポットです。
昭和55年3月鹿島文学苑から吉川英治文学碑までの約1Kmに、水郷蟹江の面影を残して
いる佐屋川沿いに桜並木を植樹し、文学散歩道が設置されました。
町民による俳句や短歌などの作品を記した板碑が建てられ、散歩しながら文学に親し
める自然文学館です。
また近くの鹿島神社には、近代日本を代表する俳人などの句碑26基が拝見でき、
全国的にここだけしかないと言われています。  Top
鹿島神社文学苑 Top
蟹江町は濃尾平野の南、伊勢湾沿岸部に位置し、戦後しばらくまで水田の広がるのどかな
農村でした。加えて蟹江町は海抜ゼロメートル地帯で、河川や水路の多い水郷の地でも
あり、素朴かつ情趣豊かな風景を見いだすことができました。実際、昭和17年(1942)
から昭和18年(1943)にかけて幾度となく蟹江町を訪れた作家の吉川英治は、この地を
「東海の潮来(いたこ)」と称して愛でています。 
しかし、こうした風景は戦後の急速な近代化や昭和34年(1959)の伊勢湾台風により、
みるみる失われていきました。このような折り蟹江町出身でねんげ句会同人の黒川巳喜
が、消えゆく風情を何とか後生に伝えたいという思いと、蟹江町に文化的遺産を残したい
という思いから、私財を投じ、昭和43年(1968)から18年の歳月をかけて、著名な俳人
やこの地方の文化人の詠んだ俳句を句碑にして鹿島神社の敷地内に建設したものが、
鹿島神社文学苑です。 
苑内には、26基の句碑があるTop
近鉄蟹江駅(wikipedia)    Top
近鉄蟹江駅は、愛知県海部郡蟹江町本町十一丁目にある近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線
の駅である。駅番号はE08。
駅長所在駅であるとともに当駅の駅長が伏屋駅 - 近鉄弥富駅間の各駅を管理している。
弥富市観光ガイドマップ2(pdf)弥富市観光ガイドマップ1(pdf)弥富市文化財マップ(pdf)弥富市 Top

弥富の金魚


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