第69回史跡巡りシリーズ・名古屋編Part9 
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(平成29年7月1日(土)天気:晴れ) (37名参加)  歩数:23,384歩 
下見・平成29年5月20日(土)歩数:22,863歩 (6名参加)

コース:
スタート−9:00・名鉄栄生駅→栄生公園菊泉寺日比津公園中村公園妙行寺押木田公園日吉公園
願成寺→柳公園(八幡社)→佐屋街道願隆寺禅養寺→才ノ神公園→近鉄烏森駅(11Km)

コースマップ(PDF) 『解説』欄へ



名鉄・栄生駅(南口)69n005

栄生公園(受付)69n004

六生社(祭神塩土老翁命・安産の神)69n006

祭神塩土老翁命・安産の神(六生社)

菊泉寺 69n008

白山神社69n009

白山神社祭神:菊里姫命69n012

日比津公園 69n014

乃木希典像69n015

鏡知山大円寺69n019

大円寺(日比津城主菩提所)69n017

大円寺(黒松)69n021

暗渠の遊歩道を歩く69n023

中村公園案内図(左下が現在地)69n024

中村公園69n025

木下長嘯子邸址69n026

中村まち歩きマイスターの皆さんにガイドをしていただいた09

大正天皇(写真下中央)御手植の松の説明

初代中村勘三郎生誕記念像17

秀吉清正(中村)公園の新しい看板33

日吉丸となかまたち48

全員集合@52

常泉寺案内69nw028

豊太閤の像69n029  Top

秀吉御手植の柊69n030

日蓮宗常泉寺本堂69n032

太閤山常泉寺の山門69n035

豊公誕生地の碑(1536「天文5」年)69n038

中村公園69n040

中村公園69n041

文化プラザ69n042

日蓮宗妙行寺(加藤清正公誕生地)69n043 Top

右奥が清正像(妙行寺)69n044

加藤清正公n63096(解説はn63w095)

再び遊歩道(庄内用水の中井筋)を南下する   Top
69n047

押木田公園へ69n050

下中八幡宮(昼食予定)69n051

下中八幡宮参道69n054

日吉公園69n058

日吉公園内の日吉丸生母祈願の跡碑69n057
碑文は右側を参照。

日吉丸生母祈願の跡69nw059

願成寺69n060

柳公園69n065  Top

八幡社69n067(上)と願隆寺069(下)

史跡散策路:佐屋街道と下中村散策コース  69nw068
(現在地の八幡神社から佐屋街道→願隆寺→禅養寺へ)

天徳山 禅養寺69n074

禅養寺本堂69n075

才ノ神公園69n078

才ノ神公園でクールダウン

近鉄烏森駅に着く69n079

全員集合A

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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名鉄栄生駅(wikipedia)   Top
栄生駅(さこうえき)は、愛知県名古屋市西区栄生2丁目にある名古屋鉄道名古屋本線の駅である。
駅番号はNH37。駅名標には名鉄病院前の併記がある。
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栄生公園  Top
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菊泉寺(下記地図参照・日比津公園の東側)  Top
名古屋市中村区栄生町24-15  
 寺院名: 菊泉寺(きくせんじ) 
 住 所: 名古屋市中村区栄生町24-15 
 電 話: 052-471-4874 
 宗 派: 曹洞宗 
 山号別名: 昌温山 
 本 尊: 十一面観世音菩薩 
 Top

日比津公園  Top 日比津公園野球場  Top
中村公園(wikipedia)  Top
豊国神社の拝殿と本殿を中心として、複数の池や児童向けの遊具などに加えて、豊臣秀吉に関する石碑・銅像や
豊公誕生井が配され、加藤清正の銅像も配され、明治43年(1910年)11月に明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が
来名した際に植えた大正天皇御手植松がある。
また、公園の一角には「中村公園文化プラザ」が建ち、名古屋競輪場とも隣接する。   Top
中村公園施設紹介

中村公園と妙行寺 Top Top
妙行寺(Web) 「日蓮宗 正悦山「妙行寺」縁起」 Top
 当寺は日蓮宗正悦山妙行寺といい、昔は此の地より二丁程東方にありて、正起山本行寺といい真言宗の大伽藍地なり。
永人二年日蓮宗の僧日像菩薩京都弘通の為御通行の折受法し、日蓮宗に改宗す。
その後堂宇悉く焼失し、年経て天文年間日勢上人正悦山妙行寺と改め再建す。今の山号寺号これなり。
 慶長十五年加藤清正公、家康公の命に従い諸大名と共に名古屋城築城の折、その余材と普請小屋を貰いうけて、妙行寺
を清正公誕生の地に移し、ご先祖ご両親の菩提をとむらう為に再建す。
清正公堂に安置せる御肖像は、肥後本妙寺第三世日遥上人の作なり。
上人の父は朝鮮慶尚道河東の人、姓は余、名は寿禧、字は天甲という。上人は十二才の時清正公に虜われ、日本に連れ
帰らる。上人は清正公の御仁徳を慕い、本国に帰るを欲せず、出家して日蓮宗総本山身延久遠寺修行し、後に清正公の
建立せる熊本本妙寺の第三世住職となる。人呼んで高麗遙師という。慶長十六年六月二十四日清正公御逝去の後、
日遙上人は清正公の御尊像二体を彫刻し、その一体を本妙寺に安置し、他の一体を清正公誕生の地妙行寺に寄贈さる。
清正公堂に安置せる御尊像之なり。
 因に山門を入ると右に鐘楼堂、正面には清正公の銅像が魏然として聳えている。昭和三十五年四月、清正公三百五十
遠忌の際、清正公奉賛会により建立されたものである。
(所在地:愛知県名古屋市中村区中村町字木下屋敷22)youtube動画参照

「加藤清正公」略伝 加藤清正公の父清忠は、美濃の大名斉藤山城守道三に仕えていたが、道三の嫡子義竜が反乱したので、母とともに尾張 にのがれ、愛智郡中村に住んだ。清忠は中村へ赴く途中足をいためたため、村の鍛冶屋清兵衛について鍛冶職を習う ことになった。この清兵衛の末娘に伊都女というのがいて、清忠と結ばれることになった。 清正公は、この清忠を父とし伊都女を母として、永禄五年(1562年)六月二十四日に誕生した。  清正公は幼名を夜叉若といった。当寺海部郡津島に鍛冶屋五郎助という人がいた。 この五郎助の妻は太閤秀吉の妻ねねの姉であった。杉原助左衛門定利の娘だが、清兵衛の養女となり、五郎助の妻と なった。従って、伊都女にとっては養妹にあたる。五郎助宅に同居した伊都女は清正公を近くの妙延寺住職につけて 経書、仏法、書道をならわせた。この住職は第九世円享院日順大徳といい、清正公の人間形成に少なからず影響を あたえている。清正公の母と豊太閤の母とが従姉妹どうしであったので、九才のおり秀吉の膝下に入ることになった。 天正三年(1575年)清正公は十四才のとき、長篠の戦に初陣、その翌年元服、夜叉若から名を虎之助清正と改め、 百七十石を与えられた。  こうして正式に秀吉旗下の侍になったわけだが、以来軍学を折野弥次郎右衛門頼広、兵法剣術を塚原小才次に、 そして槍術を宝蔵院胤栄に学んだ。天正十年、秀吉は備中国冠山城を攻めたが、清正公はこの戦の先陣の大将として 出陣、馬印に日頃から信仰していた日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」の七文字を書いた旗をたてた。 この年、本能寺の変がおき兵をかえした秀吉とともに山崎に戦い、明智光秀の軍を破った。 翌天正十一年賤ヶ岳の戦に七本槍の一人として奮戦、その後も四国征伐も従った。 天正十六年(1588年)肥後を封ぜられていた佐々成政が秀吉の怒りにふれ切腹させられたあと、その領地が清正公に 与えられた。清正公ときに二十七才、家臣三百、二十五万石の領主となった。翌年天草の乱の小西行長をたすけに更に 翌年には小田原に北条氏を破り天下は統一された。  慶長十五年(1610年)、名古屋城築城にあたり、その石垣工事を単独にてこなし、翌十六年、二条城における秀頼、 家康の会見にあたっては秀頼の後見という大役をはたした。清正公はそれからしばらく大阪に滞在し、海路肥後に帰国 したが船中で発病、熊本城に帰ったあと高熱のうちにこの世を去った。 時に慶長十六年六月二十四日、享年五十であった。 Top
「日蓮宗 正悦山「妙行寺」 (wikipedia記事) この寺の創建については不詳であるが、もとは「本行寺」と号する真言宗寺院で、1294年(永仁2年)に日蓮宗に改宗 されたという。その後、火災により焼失したが、時を経て「妙行寺」として再建される。 加藤清正は元々妙行寺の近くで生まれ育ったとされ、1610年名古屋城築城の際に、その余材を使って妙行寺を自分の 生誕地に移築・再建した。そのため、清正の菩提寺である熊本の本妙寺とは深い関わりがあり、江戸時代後期には尾張 国の清正公信仰の中心となっていた。1960年、境内に清正の銅像が建てられた。
押木田公園  Top

所在地:中村区押木田町1、
街区公園、0.92ha、1949年開園
特徴など:社が隣にあるので
やはり緑樹は多い。
球技スペースがフェンスに区切ら
れて整備されている。(2002.6)
 
千成保育園のある交差点を右折、
北方向へと歩き少しすると、
押木田公園に出ます。その公園の
一角にあるのが下中八幡宮です。
ここは、日吉權現によって身ご
もった秀吉の母が、安産を祈願し
たところだそうで、今でも病気の
全快を祈る人が多いそうです。
また治水も守っています。
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日吉公園  Top
所在地:中村区日ノ宮町1、街区公園、0.43ha、1935年開園
特徴など:社が隣にあり、社側には緑が沢山あるが、それと比較すると公園の緑は少ない。
木陰なども適度で風通しも良い。(2002.6)
公園の中には日之宮神社という神社があります。この神社は、秀吉の母が子どもを授かるようにと日参した
ことで有名です。境内には名古屋市教育委員会による石碑があり、そのことについての説明がありました。
もとは日吉權現と呼ばれており、その霊験により子ども授かったということで、秀吉に幼名「日吉丸」を
名づけたのだそうです。秀吉の母がお参りしていた神社に今、自分がお参りしているというのがすごく
不思議な感じがしました。
時代は遠く離れていても、場所は同じ。名古屋っ子が秀吉を身近に感じるのも当然です。
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願成寺  Top
願成寺(がんじょうじ)は、愛知県名古屋市中村区にある天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。
少し離れた位置にある薬師堂には薬師如来が祀られている。
春日井市にある密蔵院の末寺。寺伝では奈良時代、行基の草創という。大永7年(1527年)没の盛海という僧が
馬島重常(大智坊)の援助で再興した。寛永年間(1624年 - 1644年)に澄盛という僧が薬師堂を再興した。
本尊は室町時代頃の作と推定される。
現在[いつ?]では規模が縮小しており、阿弥陀如来を祀る本堂のほか、飛地境内に薬師堂(中村区高須賀町8番地)
がある。
薬師堂は大相撲夏場所の時期になると相撲部屋の練習場を兼ねた施設として利用されている。
昭和30年頃には名古屋市観光協会の後援により大名古屋十二支の酉年本尊の霊場として札所となっている。
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佐屋街道 Top
佐屋街道は、寛永3年(1626年)と11年(1634年)の三大将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。
寛文6年(1666年)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。
この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、
東海道の脇往還として非常に賑わっていた。
商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇も
この道を通行している。
永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872年)の熱田と前ヶ須新田(現弥富町)
を結ぶ新道の開通によりその役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。
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紹隆を願う阿弥陀さまのお寺『紹光山 願隆寺』(HP) Top

 万治三年開創。受院真諦空全大法師が親鸞聖人の教えに帰依し、自ら烏森城跡に庵室を建立。
その後、高田派本山第十六世堯円上人の時、願隆寺と称されるようになる。
昭和20年3月、空襲により本堂庫裡を失ったが、33年に梵鐘を再鋳。48年には全ての再建を終える。
本尊は、恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来。正式には「紹光山 願隆寺」と称する。
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禅養寺  Top
 
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近鉄烏森駅(wikipedia)    Top
烏森駅(かすもりえき)は、愛知県名古屋市中村区牛田通4丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。
駅番号はE04。
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中村公園にて



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