第71回史跡巡りシリーズ・名古屋編Part10  
詳細資料
(平成29年12月2日(土)天気:晴れ) (49名参加)歩数:25,813歩
下見・平成29年10月21日(土)天気:雨天 歩数:25,326歩 (9名参加)

コース:
スタート−9:00・JR大曽根駅(北口)→木ケ崎公園→守山城址→守山市役所跡→瓢箪山古墳→小幡城址→大永寺→
川田公園→小幡緑地公園→生玉神社→長慶寺→小幡駅(12Km)

コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 守山探検隊町歩きマップ(pdf)



JR大曽根駅

大曽根駅北口で受け付け(12.2) 71m001

木ケ崎公園 71n005

長母寺本堂 008

長母寺
長母寺(ちょうぼじ)は、名古屋市東区
にある臨済宗東福寺派の寺院。山号は霊鷲山。
本尊は阿弥陀如来。
治承3年(1179年)にこの地の領主であった山田重忠の開基
により創建された。当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾
寺と号したが、弘長3年(1263年)に無住一円が入寺して
以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ
一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛した。また、無住はこの
寺で『沙石集』のほか『正應年中萬歳楽』を著し、これが
尾張万歳の起源となったとされる。中世には代々武家の
帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進
され、文禄年間(1593年 - 1596年)の太閤検地によって
寺領が没収され一時衰退した時期もあるが、江戸時代前期
の天和2年(1682年)に尾張藩二代目藩主徳川光友の命に
より、禅僧・雪渓恵恭が再興している。
治承3年(1179年):山田重忠により創建
弘長3年(1263年):無住一円入山
天和2年(1682年):雪渓恵恭により再興
明和4年(1767年):大雨による矢田川決壊で、守山
から切り離される
明治24年(1891年):濃尾地震により本堂倒壊
(その後再建)

矢田川 71n009

矢田川へ 010

矢田川上流 71n013

宝勝寺(寛永一四(1637)年に守山城跡に建てられた)018

守山城跡案内71nw019

守山城址(高さ12m程の段丘上に築かれている) 71m011

守山白山神社
71n022

守山白山古墳(前方後円墳) 023

白山神社碑
守山白山古墳(前方後円墳)解説
守山白山古墳は、白山神社の社殿の下にある古墳で、尾張でも
有数の豪族の首長墓です。守山台地の西端に立地し、全長約
98m、後円部径約50m、前方部幅約35mの前方後円墳です。
未調査のため埋葬部の構造や副葬品は不明ですが、前方部の
低い墳形や出土している埴輪の検討から、古墳時代前期
(四〜五世紀)の築造と考えられます。 上志段味の白鳥塚古墳
に匹敵する市内で最も古い大型古墳の一つです。(守山区誌)

明治39年二城・小幡・大森・高間の4ヶ村合併で守山町が誕生、
翌年この地に町役場が竣工。町役場は昭和29年志段味と合併
し市役所へ、昭和38年名古屋市と合併し区役所となりました。
昭和47年その跡地に守山図書館が建築されました。
(名古屋市ウェブサイト)

守山市役所跡(昭和38年合併,跡地に図書館が建築)t026

名古屋市守山市合併記念 71n027

陸上自衛隊守山駐屯地 71n029

水道みち緑道 71n031

瓢箪山古墳へ

ひょうたん山公園 71n034

大永寺 038

川嶋神社由緒71n039

小幡緑地公園 043

牛牧遺跡

生玉稲荷神社 045

生玉神社 71n046

生玉神社 047

長慶禅寺71m041

瀬戸街道
名古屋城下から尾張旭を通り瀬戸に向かう瀬戸街道は、江戸時代の
中頃まで、沿岸部で取れた塩を信州に運ぶ道の一つとしての役割が
ありました。江戸末期には、瀬戸で焼かれた「せともの」を名古屋に
運び、名古屋から生活物資を運ぶ交易道路として使用されたそうです。
「瀬戸街道」という呼び名は江戸時代の書物にはなく、明治期に県道
の名前になってから定着したのではないかといわれています。

道標 nw048
龍泉寺街道の道標で、区役所交差点の北西にあり
「従是北龍泉寺道」と記される。江戸時代の地図では、小幡
から北へは龍泉寺街道が、南へは笠寺道が延び、小幡は守山
の中心で街道の接点でもあった

小幡駅に着く050

小幡駅前で解散式とクールダウン 71m046

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JR大曽根駅      Top
大曽根駅(おおぞねえき)は、愛知県名古屋市東区・北区にある、東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋鉄道(名鉄)
・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)・名古屋ガイドウェイバスの駅である。
北区にあるのは、名古屋市営地下鉄の西半分のみである。
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木ケ崎公園(愛知県名古屋市東区矢田町2丁目) と長母寺   Top
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宝勝寺  Top
宝勝寺は、松平清康の霊を弔うために、寛永一四(1637)年に、守山城跡に建てられました。
現在も清康の位牌を安置しています。(守山区誌より)
守山城址 Top
東西58m、南北51mの一重堀の城で築城年、築城者とも不詳だが、那古野城が築かれたころ、築城された。
大永6年(1526)宗長が訪れ、連歌を催している。その時の発句は「花にけふ、風を関守山路哉」。
この宗長の手記が「守山」や「守山城」の最初の記録である。
天文4年(1535)尾張攻略で守山城に布陣した松平清康が家臣に殺された「守山崩れ」の舞台である。
その後、織田信秀に属し、桶狭間の戦い以降は廃城になったという。(詳細は71reikaiw.htm参照)
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守山白山古墳(前方後円墳)
愛知県名古屋市守山区市場、守山台地の西端にあります。 南に矢田川、北に庄内川を望む台地先端です。
 守山東山古墳と呼ばれることもあります。 後円部には守山白山神社の社殿が建っています。
 全長98m、 後円部径54m・高さ6.5m、 前方部幅35m・高さ3m 二段構築の柄鏡式前方後円墳です
土師質の円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。 未調査につき、埋葬施設
や副葬品などは不明です。 墳形(前方部が細く長い)や出土した埴輪などから、古墳時代前期・4世紀後半頃
の築造と推定されています。
守山古墳群(前方後円墳10基・円墳100基・方墳1基が確認されています。)を構成しています。
 名古屋市内で最も古い大型古墳の一つです。
白山神社
祭神は菊理姫命(きくりひめのみこと)です。 養老年間の歓請と言われています。
 江戸期の社殿は不審火で全焼したため、昭和46年に再建されています。


守山市役所跡  Top 明治39年二城・小幡・大森・高間の4ヶ村合併で守山町が誕生、翌年この地に町役場が竣工。 町役場は昭和29年志段味と合併し市役所へ、昭和38年名古屋市と合併し区役所となる。 昭和47年その跡地に守山図書館が建築された Top
瓢箪山古墳
前方部公園の説明板、(小幡台地南部に築かれた前方後円墳で、全長63m 後円部 幅52m 後円部 
直径36mの二段築成で、北西に向いて、築かれている。昭和27年測量で周囲に幅10〜12mの濠が
廻っている。整備の際に埴輪の破片が採取された。5世紀末から6世紀初頭に築かれた、前方
後円墳で、昭和60年に市の史跡に指定された。
小幡城址  Top
小幡城は、名古屋市守山区に築かれた平山城です。
大永二年(1522)に織田敏信の家臣岡田重篤が築城したといわれています。
その後、松平清康が守山城に進軍する前に在城しました。
さらに織田信光の居城となったのちに廃城になりました。
そして、天正十二年(1584)小牧長久手の戦いの際に、徳川家康が修復しました。
岡崎城を奇襲しようとする池田恒興らの動きを察知した家康は、池田軍を追尾してここ小幡城に
滞陣しました。そして、城の東南にある長久手において両軍は激突、徳川軍は池田恒興・
元助親子、森長可を討ち取り完勝します。
Top

大永寺  Top 末寺12ケ寺の小本寺格の古刹で、本尊は釈迦如来(伝恵心僧都作)創建は建久元年(1190)山田重忠が 小幡に建てた寿昌院。大永元年(1521)重忠の末裔岡田重頼が再興し大永寺と改めたが戦火で消失。 元和3年(1617)岡田善同が名古屋城築城の残材で再建し現在地に移したが、鐘楼を除いて平成8年 の改築により建築物は一新された。境内には岡田氏歴代の墓石が並んでいる。 また、樹齢500年のラカンマキと樹齢400年のイヌマキがある。 Top
小幡緑地公園     Top
守山区の中央に位置する西園と、守山区北中部に位置する本園、尾張旭市西端部に位置する東園からなる。
芝生広場や遊具が整備されており、天気の良い休日は家族連れなどで賑わう。
西園は野球場などの運動施設が整備されている。木々は残されているが、周辺は住宅地であり、都市の公園
の趣である。
本園は広い広場と自然豊かな丘陵地が主となっており、丘陵地の遊歩道を歩けばちょっとしたハイキング
気分を味わえる。小高いところに展望台が設置されており、守山区西部を中心に濃尾平野を見渡すことが
できる。なお「マムシ スズメバチに注意」の警告が随所に設置されている。
東園は自然豊かな丘陵地が主で、東名高速道路が縦断している。小高いところに展望台が設置されており、
尾張旭市南部・名古屋市名東区北部を中心に、名古屋市東部丘陵地帯を見渡すことが出来る。
牛牧遺跡
遺跡は、庄内川と矢田川とに挟まれた熱田台地相当の守山面上にあり、庄内川に向って広がる台地縁辺部に
位置している。牛牧遺跡は縄文時代晩期・弥生時代中期・古墳時代中期・中世から戦国期にかけての4時期
に分けられる。その中でも縄文時代晩期の遺構数・遺物数が圧倒的に多く、この時期が遺跡の中心の時期で
あったと考えられる。基本層序は上から、表土および礫層(住宅建設による)・灰褐色粘土質シルト層
(旧耕作土?約20?)・黒色土(縄文時代晩期の遺物包含層?約 30 ?)・茶褐色土(約 10 ?)・明黄褐色
礫層(守山面)である。
生玉稲荷神社
生玉稲荷大神は、私たちが社会生活をしていく上において欠かすことの出来ない、衣・食・住をつかさどる
守護神であり、広大無辺の御神徳をもった「福神さま」です。そのほか「お稲荷さんの縁結び」と言われて
男女の縁結びばかりではなく商工業の取引の縁を結んで事業、殖産の興隆を得しめ、現世全ての縁を取り
持つ神さまであります。また「お稲荷さんのお導き」としても知られ、道案内の神さまとして旅行安全、
交通安全を守護され、ひいては人の一生をお導き下さる守護神としてあまねく信仰されております。
 稲荷信仰を見ても分かる通り、全国で八万社あるといわれる神社の中で、稲荷神社は三万社以上あると
されています。これは日本という国の中で最も崇敬者の多い庶民信仰といえ、人々の熱い願いを背景に、
この風土に深く根付き、いかに深く関わってきたかを示す証といえます。
長慶寺1 (web) Top
この無縫塔は長慶寺の開山である南山和尚の墓標である。和尚は士雲といい、後に鎌倉の建長寺、
さらに京都の東福寺に移り建武2年(1335)に没した。それぞれの寺には石材が異なる無縫塔があり、
長慶寺の無縫塔は、建長寺、東福寺のそれぞれの塔を参考として造られたと考えられる。
 塔身は高さ22cmと背の低い卵形であり、下に単弁と小花付きの円形の請花(うけばな)を置いている。
その下は塔身を受ける円形の座と中台との接着面にも円形の座を設けている。
 中台は上部に16葉の複弁を彫刻した八角形をしており、竿石は八角形で正面に「開山」と彫刻された2字
がみえる。
 基礎は八角形で、短い足がつき、上部に8弁の複弁と角に単弁の返花を彫刻し、側面は格狭間(こうざま)
とする受け座を造っている。
 京都、鎌倉の作風を受け継ぎながら、硬い砂岩という材料の性質を巧みに利用して作られたものであり、
完全な形で残っている全国的にも珍しい作品である。
(『愛知の文化財 上巻』『愛知県史 別編建造物・史跡』参照)  Top 

長慶寺2 (web) 名古屋市守山区小幡中にある長慶寺(ちょうけいじ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武人で御家人 の山田重忠が建てた寺のひとつとされる。母のための長母寺、父のための長父寺、兄のための長兄寺が そうだということは長母寺を紹介したときに書いた。 長兄寺は字を変えて長慶寺に、長父寺は名を改めて 大永寺になったという。一方、寺伝によると山田重忠の孫に当たる山田兼継を弔うために弟の正親が 建長年間(1249年-1256年)に創建したとなっているそうだ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 山田重忠が創建したという話は、尾張藩最初の地誌『張州府志』(1752年)に出てくる(のちに改訂版 ともいえる『尾張志』1844年が編さんされる)。500年も経ってから書かれたものだから間違いや混乱が あっても仕方がないことではある。ただ、話としては山田重忠が父母兄を思って三つの寺を作ったという 方が収まりがいい。山田重忠という人は信心深い人でこれ以外にもいくつかの寺を建てているから、 あれもこれも重忠さんが建てたことになってしまっているというのはあるかもしれない。  いずれにしても山田氏が建てた寺ということは間違いなさそうだ。
小幡駅  Top
小幡駅(おばたえき)は、愛知県名古屋市守山区小幡南にある、名鉄瀬戸線の駅である。駅番号はST10。

12.02友歩会ウオーキング参加の皆さん(川田公園)


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