第74回史跡巡りシリーズ・三重編Part1 
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(平成30年6月2日(土)天気:晴れ) (40名参加)  歩数:25,525歩

下下見・平成29年10月31日(火)晴れ・歩数:33,009歩 下見・平成30年4月21日(土)歩数:26,455歩

コース:長島町
スタート−9:00・近鉄長島駅長島城址善明寺願證寺やすらぎパーク→(Sコース:なばなの里6km)→
浄化センター公園大島公園なばなの里アクアプラザながら大智院→近鉄長島駅(13Km)

『解説』集合写真コースマップ(PDF)



近鉄長島駅(H29.10.31)74n003

T会長挨拶(2018.6.2)n746003

光岳寺草創について 74n006

伝通院の墓(左)n417006

光岳寺(伝通院の菩提寺)n417005

伊勢湾台風の水位74n011
長島城址(長島中部小学校敷地内) n417w013

「長島城の面影」

・長島城は、長島中学校・
 長島中部小学校地に
 なっている。根拠地の
 坊舎・願証寺は明治の
 河川改修で長良川左岸
 よりの水中に沈んでいる。

・長島中部小学校敷地内の
 老大松、椋、榎

・「増山氏世系碑」−旧長島
 藩士が建立

・蓮生寺の山門
 (当時の大手門)

長島中部小学校敷地内のクロマツ n417020

長島の大松(幹周り3.15mH24.3月)(樹齢300数十年)n417017

善明寺(長島六坊の1つ)74n026

善明寺本堂74n028

蓮生寺の山門(長島城の大手門・増山家の家紋あり) 74n032

願證寺本堂  n417028

長島一向一揆殉教の碑n417029

願證寺全景n417031  コースマップ(PDF)

長島水辺のやすらぎパークn417032

ぼたん(園)まつりn417033

ぼたん園n417041

ぼたんとふじn417062 (写真は2018.4.21現在)

親水遊歩道n417077

親水遊歩道n417079

水の学習広場n417084

浄化センターn417086

浄化センター公園n417089 コースマップ(PDF)

善宗寺 n417090

善宗寺本堂n417092

蓮如上人像(善宗寺) n417093

大島公園(昼食)n417094

なばなの里(10.31)74n094

長良川河口堰案内n417097

アクアプラザながらn417098

アクアプラザながら展望室から見た河口堰n417105

光栄寺(長島六坊の1つ)n417116

大智院74n112 コースマップ(PDF)

解散式のクールダウンn746073

全員集合(大島公園)n746w046 Top

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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長島町(wikipedia)     Top
三重県の北勢地域、木曽三川河口部の濃尾平野の南西部にかつて存在していた町。2004年12月6日に桑名市・多度町と
合併し新しい桑名市となり廃止した。
三重県南部に北牟婁郡紀伊長島町(現:紀北町)が存在していたため、伊勢長島と称されることもある。
「自然」
木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦低湿。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていた。
地名の長島は、7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされる。
明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに一部の土地は
長良川の新河道となり、現在のような地形となった。1995年全国水の郷百選選定地。
「歴史」
寛元3年(1245年)、藤原道家がこの地に流された記録が残る。戦国時代には一向宗の東海地方の拠点となったが、
織田信長により滅ぼされた(長島一向一揆)。江戸時代には長島藩が、明治維新を迎えて一時期「長島県」が置かれ
たが、その後「安濃津県」を経て三重県となっている。1959年(昭和34年)には伊勢湾台風によって、町を囲む堤防
が15ヶ所で破堤。町域のほとんどが水没し380名余の犠牲者を出した。   Top


長島町について(史跡探訪のWEBから)・(伊勢湾台風と長島一向一揆)
 木曾三川流域も、堤防決壊の恐怖にさらされてきた。平成十一年九月三日(金)付の毎日新聞に掲載された記事を要約
すると:
■三重県長島町は、揖斐、長良、木曾の木曾三川に囲まれた輪中(わじゅう)。天井川から町を守るため、全長二十六キロ
メートルの堤防が築かれている。伊勢湾台風では、その堤防が十五カ所決壊し、人口八千七百八人中三百八十三人が死亡
した。 町誌によると、慶長元年(1596)から明治十年(1877)までの約二百七十年間に、洪水、高潮など五十回を越す水害
に見舞われている。だが、明治四十五年(1912)に完了した木曽三川改修後、堤防決壊はなかった。
防災意識が風化しつつあった矢先の伊勢湾台風であった。
ここは、長島一向一揆で名高い。真宗第三世覚如はここに願証寺を建て、第八世蓮如は第十三子連淳を寺主とした。
これ以来、願証寺は一向一揆の根拠地となる。 天正二年(1574)、信長は七万の大軍を率い、三度目の長島攻めを行った。
志摩の九鬼水軍を始め、楠・白子(しろこ)・津・知多の野間等の船を中心に城や砦の周りを取囲み、兵糧攻めをする。
三ヶ月の籠城戦の後、さしもの堅塁も九月二十九日、遂に落城した。この日、長島城は降伏を申し出て、信長これを許した。
生き残った者は、船に乗り城から退散しようとしたが、信長の鉄砲隊に岸から狙い撃ちされ、多くは川に落ち、大川は死者
の血で真っ赤に染まった。また、最後まで残っていた対岸の屋長島・中江城の者達は、城の周りに幾重にも柵を設けられ、
四方から火を放たれ、女子供も生きながら殺された。その死者二万。願証寺は、明治の河川改修により長良川左岸(中堤)
寄りの水中に沈んでいる。


近鉄長島駅   Top
建設:1938年
近鉄長島駅は、三重県桑名市長島町西外面にある、近畿日本鉄道名古屋線の駅である。駅番号はE12。
 名古屋線では三重県最東端・最北端の駅で、東へ木曽川を越えると愛知県に入る。 Top
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長島城址(wikipedia)  Top
「概要」
長島城の起源は、寛元3年(1245年)、藤原道家が館を築いたことにさかのぼる。文明14年(1482年)、北勢四十八家
の一人、伊藤重晴によって城が再建された。元亀元年(1570年)、一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳の曽孫)に
よって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城
なった。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため
清洲城に移った。
江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で当地に封じられ、長島城を改修し藩庁として用いた。
元和7年(1621年)、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となった。
慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興された。
元禄15年(1702年)には、4代将軍家綱の生母の弟増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、
以後8代続き明治維新に至った。この間に城郭は順次拡大されたが、天守は上げられなかった。
明治5年(1872年)、廃藩置県と共に廃城となった。   Top
善明寺 願證寺 (城下町長島の歴史:PDF) Top
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長島一向一揆と願証寺  Top 願証寺のある長島は、木曽三川が伊勢湾に流れ込むデルタ地帯にできた砂州の島で、伊勢に属してはいるものの 北勢・尾張海西郡・南濃域が一体化した「河内」と呼ばれる生活圏を形成していた。 また、伊勢湾が現代より内陸に広がっていた当時においては、伊勢桑名・尾張熱田間の海上交通を扼する要衝 でもあった。長島は本願寺一族寺院である願証寺の領域として、大名や領主の権力の及ばない事実上の治外法権 を有するに至り、織田信長に敗れた斎藤龍興がここに逃げ込むなど、信長にとっては敵方の巣窟となっていた。 元亀元年(1570年)8月、本願寺第11世顕如は圧迫を強める信長と敵対する意を表して、各地の門末に檄を飛ば し、それを受けて長島でも一向一揆勢が蜂起した。同年11月には、信長の弟信興が守る古木江城を攻め、信興を 討死させた。また、翌年5月に信長が長島に侵攻すると、激戦の末に氏家卜全や蜂須賀正元らを討死させるが、 長島側も願証寺庶子の顕栄らが戦死した。また、6月6日には、願証寺4世の証意(佐玄)が織田側により暗殺さ れ、証意嫡子の顕忍(佐尭)が11歳で5世の座を継承した。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 三重県桑名市長島町又木の願證寺境内にある長島一向一揆殉教之碑1975年(昭和50年)に一向一揆400年追悼 法要が、同寺で行われた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 天正元年(1573年)9月、信長が二度目の長島侵攻を行うと、北勢域を制圧されてしまうが、10月には退却する 織田軍を追撃して、林通政を討死させた。 しかし、天正2年(1574年)7月には信長の三度目の侵攻で長島本島に攻め込まれ、一揆勢は篠橋・大鳥居・ 屋長島・中江・長島の五城に籠城した。8月に入ると大鳥居が陥落し、篠橋の籠城者は長島城へ追い入れられた。 各城では餓死者が続出し、9月29日に、ついに長島城の籠城者は退去を始めるが、信長側の一斉射撃に合って 男女約1000人が殺害され、生存者は逆襲して信長側と死闘の末、北伊勢方面へ逃れた。 残る中江・屋長島は四方より火をかけられて、男女約2万人が焼き殺された。しかし、長島城の最後の戦闘では、 織田信広・秀成・信成・信次・信直・佐治信方など、多くの織田一門を討死させている。 一方、願証寺は長島城陥落の日に5世顕忍が討死し、2世実恵の妻が海に入水、3世証恵の弟証栄も死亡した他、 4世証意に嫁いでいた武田勝頼妹菊姫も同日に死亡したという伝承がある。 また、14歳だった顕忍は自刃して果てたとも伝わっている。しかし、顕忍の弟で2歳の顕恵は川から救出されて 生き延び、願証寺家臣の手によって大坂本願寺へ送り届けられ、本願寺により正統と認められた。 顕恵はのちに近江国日野に願證寺を興した。長島一向一揆の激しい戦いは、上宮寺絵伝や長島一向一揆殉教の碑 に偲ばれる。  Top
やすらぎパーク(桑名市HP)        Top 長島水辺のやすらぎパークは、発電用施設周辺地域振興事業の観光施設として補助金を受け、昔のたたずまいの 風情を楽しんでいただけるように旧久我邸を改修し、休憩施設として整備したものです。久我家は江戸時代、 長島藩の重職にありました。 しかし、明治4年(1871年)の廃藩置県によって一時は長島県が置かれ、当時の藩主増山氏が知事になりましたが 時を経ず、安濃津県に編入され、明治5年(1872年)には三重県と改称されました。この時、久我氏は戸長に任命 され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治め、明治22年(1889年)市町村制が施行される まで続きました。昭和21年(1946年)、農地改革が施行され、地主として所有してきた農地が解放され、今日の 屋敷が残りました。家屋は明治12年(1879年)に建築されたもので、後、少々改修されたもののほぼ原型を留め ており、明治の生活様式を知る上で貴重な建物であることから、後裔は長島町を離れ、空家となっていた家屋敷 を平成15年(2003年)長島町が譲り受け、観光客などの休憩施設として改装をし「長島水辺のやすらぎパーク」 として利用することとしました。親水広場には約240本の牡丹がある。   Top
長島浄化センター   Top Top n74mapj
大島公園・善宗寺 Top
Top
n74mapz 善宗寺
Top
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なばなの里(wikipedia) Top
「概要」
里内には8店舗のレストランがあり(長島地ビール園、ベーカリーレストラン「マルセイユ」、
イタリアンレストラン「麦」、とんかつ「かつ○」、中国料理「桃仙」、日本料理「翡翠」、
「カフェ・ラ・テラス」、麺料理「芭蕉庵」)、他にもベーカリーショップ10・2・5
(テンツーファイブ)や、売店の「村の市」では特産品や地ビール、お土産などを購入できる。
また長島温泉を利用した日帰り温泉施設「里の湯」がある。隣接している東海地区最大級の
「花市場」(地元の野菜や季節のお花が買える)がある。
「オープン」:1998年7月12日
「花まつり」
 花をテーマにした施設としては東海地区最大級のお花畑(13000坪)を有し、春はチューリップ、
秋はコスモスや超大輪のダリアなどが咲く。
「ウィンターイルミネーション 冬華の競演」
冬季に行われるLEDを使用したイルミネーションイベント。夕方になると多くの客で会場はごった返す。Top
アクアプラザながら    Top
長良川と人とのより良い関係を目指して、水害から地域を守り、将来にわたる水資源を確保するため、
長良川河口堰は建設されました。長良川のこと、河口堰のことをもっともっと知ってもらいたい。
これが「アクアプラザながら」のテーマです。ここは、長良川や河口堰を見て、触れて、感じることの
できるスポット。河口堰本体が間近に見えるのはもちろん、映像や各種パネル・模型などから、その働き
や仕組みについて学ぶことができます。(桑名市)(水資源機構)  Top
大智院  Top
元禄2年松尾芭蕉が奥の細道の旅を大垣で結んだ後、伊勢神宮の遷宮を参拝の旅につきました。その最初
に立ち寄ったのが長島大智院で、芭蕉は挨拶句「うき我を さひしからせよ 秋の寺」をしたためました。
その直筆の色紙「真蹟懐紙」が残されています。また、芭蕉来訪の100年後に藩主増山正賢(雪斎)は
近習などを集めて詩文をつくったり、記念の石碑を建立しました。
大智院は、長島藩主・松平定政公の祈願所として建立された真言宗の寺で、本尊は不動明王です。
  Top

光栄寺(長島六坊) 長島一向一揆の際、石山本願寺から寺侍として送り込まれた飯田九蔵を開祖とする。この一向一揆の後、 長島町内に寺基を定めたが、宝暦年間(十七世紀中頃)の洪水で堂宇を現在地に再興した。長島六坊の 1つ。長島六坊として光栄寺の他に深行寺(じんぎょうじ)、善明寺(ぜんみょうじ)、源盛寺(げんじょうじ) 中島寺、安養寺がある。なお、六坊の公称は元禄3年(1690年)以後のことである。
光岳寺(WEB)  Top 光岳寺の創建は不詳ですが古くは弘経寺と称し現在の千葉県関宿にありました。慶長7年(1602)、 徳川家康は母親である伝通院の菩提寺に定め光岳寺に改称しています。当時の領主で家康の異父弟である 松平康元が光岳寺を庇護し、同家の移封先である加納藩(岐阜県岐阜市)、小諸藩(長野県小諸市)に 随行し慶安2年(1649)、当時の当主松平康尚が長島藩に移封になると長島城下に移ってきています。 光岳寺に祀られている沓踏子安延命地蔵菩薩は伝教大師最澄が自ら彫り込んだと伝えられるもので伝通院 の念持仏でした。 Top n417w004
蓮生寺 Top
長島城の大手門は、明治9年に中町の蓮生寺山門となり、現在も残っています。門の瓦には、当時の藩主・
増山家の家紋が見られます。建設時よりは小さくなっていますが、長島城最後の建造物として、貴重な
ものとなっています。 Top
輪中の郷(桑名市長島町西川1093番地 TEL:0594-42-0001)
「輪中」をテーマに郷土の歴史・文化・産業を紹介する複合施設。平成5年の開設以来、心の豊かさを
育む場として、さらに地域産業の活性化を図る場として多くの人に活用されています。
歴史民俗資料館「アミュージアムエリア」と産業体験館「アクティブエリア」からなり、海苔すき体験
や隣接する農園で季節野菜の収穫を体験することもできます。

輪中の郷(wikipedia)
親水遊歩道(参考:水郷景観まちづくり・PDF)


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