第75回史跡巡りシリーズ・名古屋編Part11 (詳細・資料)
(平成30年7月7日(土)天気:雨) (13名参加)(西・東日本・記録的大雨)(都合により欠席)
下見・平成30年5月19日(土)天気:晴れ 歩数:21,248歩 (7名参加)
★コース:
スタート−9:00・名鉄・東枇杷島駅→清音寺→八坂神社→押切公園→丹羽長秀邸址→蜂谷宗意宅址→興西寺→名城公園→
浅間神社→鴨塚→菊水寺→地蔵院→産業技術記念館→栄生駅(11Km)
★コースマップ(PDF) ★『解説』欄へ
名鉄東枇杷島駅 |
子安地蔵尊 75n003 |
中島黒体龍王神社 75n004 |
美濃路の碑 007 |
清音寺 008 | |
屋根神様 75n011 |
屋根神様説明 75nw010 |
八坂神社(5.19.20例大祭)012 |
八坂神社(5.19.20例大祭の準備)018 |
880の提灯を取り付ける・八坂神社の提灯祭り 019 |
美濃路を歩く22 |
押切公園024 |
押切公園 75n025 |
旧志水家車寄 75n027 |
丹羽長秀邸址 75n029 |
児玉白水社032 |
しゃんしゃん馬・碑 75n034 |
蜂谷宗意宅跡 041 |
弁天通商店街案内75n043 |
福禄寿像(弁天通商店街) 053 |
興西寺・徳川候由緒地48 |
由緒説明(綱誠つななり) 75nw047 |
名古屋城 75n064 |
鷹匠橋の説明 063 |
富士浅間社 065 |
鴫(しぎ)塚説明 75n067 |
鴫塚(宝蔵寺内) 069 |
菊井古跡と菊水観音 75n072 |
桜木公園(休憩) 073 |
地蔵院 75n075 |
地蔵院 076 |
トヨタ産業技術館案内 75n077 |
パートナーロボットのバイオリン演奏 086 |
パートナーロボットのバイオリン演奏 087 |
繊維機械館シンボルの環状織機 75n089 |
産業技術記念館を後にする 091 |
名鉄栄生駅 75n093 |
東枇杷島駅・栄生駅とトヨタ産業技術館及び名城公園・名古屋城・マップ Top |
『解説』 ★コースマップ(PDF) Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★名鉄・「東枇杷島駅」&「清音寺」 Top ご連絡先 : 052-541-6318(名鉄名古屋駅) 住所 : 〒451-0053 名古屋市西区枇杷島一丁目18番9号 Top |
★清音寺(WEB参照) (451-0053 愛知県名古屋市西区枇杷島3丁目10?6) Top西源寺の道路をはさんで反対側に松峰山と号する清音寺(曹洞宗)があります。治承3年(1179年)に太政大臣藤原師長 は平清盛により尾張国井戸田(現,瑞穂区)に流されました。許されて帰路につく際,そこで寵愛した村長の娘が名残惜 しんでこの付近まで見送ったため,師長は薬師如来と自分の白菊の琵琶を形見として娘に手渡した。しかし,彼女は悲嘆 にくれて「四つの緒の調もたえて三瀬川沈み果てぬと君に伝えよ」の一種を琵琶の甲に書きつけて池に身を投じたため, 人々は池を琵琶池といい,周囲の地名が琵琶島と呼ばれるようになったといいます。師長は娘の菩提をとむらうために 建立した寺が清音寺の起源と言われ,寺号はその娘の法号「清音院」に由来しています。永正年中(1504〜21)に正眼寺 の八世和尚が中興の祖となり,その際に曹洞宗に改宗しました。 美濃路開設以前は,現在地より600mほど北の枇杷島村の中心部にありました。木曽の御嶽教の開祖である覚明がかつて この寺で修行していたことでも知られています。 また,明治期の俳人で西枇杷島に住んだ大木静処(1828〜92)による明治26年建立の「海のそら苫屋の露にしつみけり」 の塚があります。 Top |
★八坂神社(wikipedia)(←京都→)★京都・八坂神社の歴史(WEB) ★名古屋市西区の八坂神社案内参照 Top 以下、京都「八坂神社の歴史」から引用 当社は慶応4年(1868)5月30日付の神?官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。 創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した 素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。 また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が 東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。 伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに 『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、 その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。 この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、 日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・ 和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。 天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりとも されている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円 (ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。 |
★押切公園 (名古屋市西区天神山町9) Top Top |
★丹羽長秀邸址 (WEB参照) Top名古屋市西区児玉3丁目の丹羽長秀邸址は、織田信長に仕えた戦国武将・丹羽長秀(五郎左衛門)の生誕地といわれる場所です。 ■丹羽長秀邸址の住所:名古屋市西区児玉3丁目13-40 Top 丹羽長秀は尾張国守護である斯波氏の家臣・丹羽長政の次男として、天文四年(1535)に現在の名古屋市西区)に 生まれます。ちなみにあまり知られていませんが、長秀は5人兄弟の次男で、男は兄・長忠、弟・秀重がおり、妹が2人います。 15歳で信長に仕えた長秀は、信長と共に各地を転戦。稲生の戦いや桶狭間合戦、そして後の観音寺の戦いなどで名前が残って います。 長秀は後世に創られた織田家四天王、織田五大将のひとりに数えられるくらいの人物で、合戦での武功はもちろん、普請奉行と して安土城の築城に携わるなど、意外な功績を残しています。 当時、織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があったといわれていますが、長秀は米の 様に必要な人物だったと認識されていました。 「刀で目を悪くした」 丹羽長秀のエピソードで、刀で目を悪くしたという、あまり知れていないオハナシがあります。 信長の父・織田信秀が健在だった頃、尾張の織田氏と美濃の斎藤道三は敵対しており、一進一退の攻防を続けていましたが、 ある時、織田信秀が美濃の大柿城(大垣城のこと)を落とします。 これに対し斎藤道三は近江から援軍を頼み、大垣城を攻めたのですが、信秀家臣・千秋季光が、もと平景清が所有していた 名刀・【あざ丸】を差していて討死しました。このあざ丸を敵の美濃方であった、陰山一景が手に入れて差していたところ、 合戦で矢が飛んできて、両目を失明してしまいます。 その後、このあざ丸は丹羽長秀の所有となりましたが、その途端に長秀は眼病にかかってしまいます。 そこで人々が、目に禍いをもたらすあざ丸を熱田神宮に奉納する様に薦めると、長秀はすぐに熱田神宮へ奉納しました。 するとすぐに目も良くなったそうです。 なお長秀は天正十年(1582)の武田家滅亡後、信長より休暇をもらい、草津温泉で湯治したという記録が残るほか、 死因は寸白(すばく:条虫または回虫などの人体の寄生虫)といわれており、体調不良や健康に関するエピソードが残る 武将です。 「ここも城」 そんな長秀の生誕地といわれる場所が、現在の名古屋市西区児玉3丁目なのですが、戦国武将の館(邸)址という事で、 城郭研究では【城】として認識されています。 城というと、名古屋城みたいに天守があり、石垣があり、水堀があると思いがちですが、あれは江戸時代近くになって からできる近世城郭というものなんです。 当時の戦国武将は、主君に仕える家臣として認識されていますが、それと同時に村をいくつか支配しており、そこから 年貢を徴収していた、いわば【小領主】でもありました。長秀の丹羽氏も、尾張時代にはこの周辺にあったいくつかの 村を所有しており、そこから年貢を徴収していた小領主でした。 そしてわかりやすく言うと、そういった尾張国の小領主をたくさん束ねていたのが斯波氏、そして後には織田氏だった という事です。 Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ■丹羽長秀 ・1535年〜1585年 ・尾張の国春日井郡児玉村生まれ ・15才で信長に仕える ・秀吉と共に明智光秀を討伐 ・賤ヶ岳の戦い後に越前「北庄城」に居城 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−Top ★蜂谷宗意宅址【蜂谷宗意(はちやそうい)宅跡】 Top 香道(こうどう)の家元で志野流十五世。享和三年(1803)京都で生まれたが、父と共に明治維新の兵乱を避けて名古屋 に移住し、明治十四年七十九歳で没した。 香道とは、室町時代中期に完成された日本独特の芸道で、香木をたき心を傾けて香りを楽しむものである。 当時、公家の間で行われていた御家流(おいえりゅう)に対し、志野宗信が足利義政(室町幕府八代将軍)の知遇を受けて 大名、武家にふさわしい香道を創始し、その流儀を志野流とよんだ。市の無形文化財に指定されている。 (名古屋市教育委員会の標札から転記) Top |
★名城公園(wikipedia) Top城公園(めいじょうこうえん)とは、愛知県名古屋市の名古屋城を中心とした城址公園である。 名古屋市中区二の丸や三の丸から北区名城にかけて所在する。1931年(昭和6年)に開園した。 面積は80.41ヘクタール[1]。管理は名古屋市で分類は都市公園(総合公園)。約2,800本のサクラが植えられている。 「歴史」 名古屋市中区・北区・西区の区境付近に位置している。北園の部分はかつては沼地であり、明治時代に埋め立てられた上で、 陸軍の練兵場として利用されていた。第二次世界大戦中の名古屋大空襲では名古屋城一帯が焦土と化したが、戦後復興計画の 中で都心部の総合公園として整備する計画が立案され、1949年(昭和24年)には現在の北園を中心に造成が開始された。 「園内の施設」 名古屋城の内堀より北側のみ(北園)が名城公園として認識されることが多いが、行政上は内堀より南側も名城公園であり、 その他に外堀など飛び地となっている場所も含まれる。1984年度(昭和59年度)から3年計画で、棚延長660メートル・棚面積 3,300平方メートルの「藤の回廊」が整備された。野田藤、三尺藤、花美短藤など、9種類85本が植えられている。 2013年(平成25年)には、名古屋市が公募した「まちなみデザイン20選」に園内の「藤の回廊」が選定された。 2017年(平成29年)4月27日には、北園にランニングステーション「tonarino(トナリノ)」がオープンし、名誉館長には 野口みずきが就任した。 Top |
★浅間神社 (名古屋市西区那古野1-29-3) Top名古屋市西区那古野町。四間道で有名なあたりです。 堀川に架かる中橋側から正門。昔からの城下町に鎮座するためか、境内はとてもコンパクト。右へ行くと屋根神様などがある 四間道を経由して円頓寺商店街へ。 神社名:浅間神社 鎮座地:愛知県名古屋市西区那古野1-29-3 御祭神:木花開耶媛命 創建:不詳 社格:旧村社 例祭:10月1日・2日 【由緒】 木花開耶姫命を主祭神とする古社であるが、創建は不詳。 「尾張誌」によると、正保四年(一六四七年)この地に遷座したとある。境内に樹齢三百年を越すクスノキやケヤキが七本 あり、市の保存樹に指定されている。毎年十月一日、二日に大祭が行われる。 【社頭由緒より転載】 Top |
★菊水寺(きくすいじ) Top住 所: 名古屋市西区新道1-22-4 宗 派: 臨済宗妙心寺派 山号別名: 慈眼山 本 尊: 聖観世音菩薩 Top |
★地蔵院 (鴫塚) Top Top |
★トヨタ産業技術記念館(HP) (★wikipedia)豊田佐吉の命によって建造された、1911年完成の「豊田自動織布工場」(現:トヨタ紡織)の跡地へ開設。建物は1918年にレンガ 造りへ改築された工場建屋を流用したものである。当初はトヨタテクノミュージアム 産業技術記念館の名称で運営されていたが、 開館20周年を迎えた2014年7月1日以降は現名称を用いている。1994年度には第2回愛知まちなみ建築賞大賞を受賞している。 展示は繊維機械に関する「繊維機械館」と、自動車に関する「自動車館」の大きく2つに分類され、それぞれ納められている。 また、かつての豊田紡織本社事務所も「トヨタグループ館」として修復され、佐吉による設計図や取得した特許証などのゆかりの 品が展示されている。展示物は動態保存されているものが多く、技術の進歩を実演で感じることができる。 なお、工場建物を改築して用いている繊維記念館・トヨタグループ館の2館については、1996年2月27日付で名古屋市都市景観重要 建築物等に指定された。この他、2007年には建設業協会(現:日本建設業連合会)により第48回のBCS賞を受賞している。 名古屋駅から徒歩で行ける距離にあり、トリップアドバイザーの「行ってよかった!工場見学&社会科見学ランキング 2015」では 第1位、「口コミで選ぶ行ってよかった、外国人に人気の日本の観光スポットベスト30」で2014年は、第28位、2015年は第27位に ランクインした。 |
★栄生駅とトヨタ産業技術館 Top栄生駅(さこうえき)は、愛知県名古屋市西区栄生2丁目にある名古屋鉄道名古屋本線の駅である。駅番号はNH37。名鉄病院が併設 されており、駅名標には名鉄病院前の併記がある。 Top |
2018.7.7友歩会ウオーキング参加の皆さん(名城公園)Top (都合により欠席) |