第78回史跡巡りシリーズ・知多編Part3 (詳細・拡大)
(平成31年2月2日(土)天気:晴れ) (53名参加)歩数:24,327歩
下見・平成30年12月15日(土)天気:晴れ 歩数:21,493歩 (7名参加)
★コース:(尾張中島バス停7:57(始発)→JR尾張一宮8:16→名古屋8:31→大府8:44着)
スタート−9:00・JR大府駅→あいち健康の森公園→げんきの郷→常福寺→七社神社→
→吉川城址→熊野神社→石ヶ瀬川→大府駅(11Km)
★コースマップ(PDF) ★『解説』欄へ ★全員集合
JR大府駅西口006 |
受付(JR大府駅西口)782301(2019.2.2) |
JR大府駅西口(あいち健康の森まで1.8km)782305 |
鞍流瀬川を渡る009(2018.12.15) |
大日寺 78o011 |
大日寺の地蔵 014 |
国立長寿医療研究センター018 |
あいち健康の森公園 78o019 |
あいち健康の森公園 78o020 |
あいち健康プラザ022 |
フォレストブリッジを渡る023 |
フォレストブリッジから北を展望025 |
げんきの郷の店内78o030 |
常福寺へ78o031 |
生目八幡宮 78o032 |
常福寺の塚78o033(2018.12.15) |
常福寺本堂78o042 |
万年山常福寺と芦沢の井の由来78o043 |
常福寺の石仏782320 |
常福寺で全員集合782324 |
常福寺を去る 78o048 |
七社神社へ049 |
芦沢井戸へ 78o050 |
景清神社(景清公旧跡の碑) 051 |
七社神社 78o057 |
街道脇の常夜灯 059 |
ボランティアガイドによる常夜灯の説明782334 |
桃林山清涼寺へ061 |
清涼寺 062 |
清涼寺のくろがねもち(大府市保存樹木)782335 |
吉川城址 78o064 |
正宮墳 070 |
熊野神社へ074 |
熊野神社 78o076 |
熊野神社の十二支078 |
熊野神社の由来o079 |
熊野神社の御神木梛の木782347 |
熊野神社総代さんの説明782342 |
熊野神社の御神木・梛(なぎ)の木の説明 |
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石ヶ瀬川を下る 78o082(2018.12.15) |
愛知用水から引かれた灌漑用の水道78o086 |
石ヶ瀬川緑道の桜並木 78o088(2018.12.15) |
緑道の古戦場の絵78o090 |
石ヶ瀬川古戦場の絵 78o091 |
石ヶ瀬川沿いにある愛知県の雨水貯留浸透施設782355 |
雨水貯留浸透施設内に建築された人間環境大学782359 |
大府駅に到着78o097 |
『解説』 ★コースマップ(PDF) Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★JR大府駅(wikipedia) Top 大府駅(おおぶえき)は、愛知県大府市中央町三丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。 当駅の所属線である東海道本線と、当駅を起点とする武豊線が乗り入れている。 『右上:JR大府駅、左下:あいち健康の森公園と常福寺』 Top Top |
★鞍流瀬川(WEB参照)Top この川は名古屋市緑区桶狭間にある大池が源で、大府市の中央北西部から南東部にかけて流れた後東浦町との境で石ヶ瀬川に 合流します。 鞍流瀬川は合戦があったと言う訳ではないのですが桶狭間の戦いに繋がりが有る場所で、今川義元が桶狭間の戦いで敗れた 今川軍が敗走の際、大雨で増水した川に落ち、人や馬は助かりましたが鞍だけが流された事でこの川が鞍流瀬川と言う名前に なったそうです。★石ヶ瀬川 この川は大府市馬池町付近が源で大府市南部から東方に流れている川です。この2つの川はかの有名な織田信長、今川義元の 合戦、桶狭間の戦と大きな関わりがあるのです。 戦国時代織田信長の支配下にあった尾張の国は、今川義元に狙われて永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)に かけて、織田信長と今川義元、そして織田氏と連合する水野信元と今川勢の松平元康(後の徳川家康)が石ヶ瀬川を挟んで 3度衝突しました。これを石ヶ瀬川の戦いと言います。 ちなみには桶狭間の戦いで今川義元が討たれ松平元康が織田・水野氏と和睦したため勝敗はつきませんでした。 |
国立長寿医療研究センター(前身:国立療養所中部病院) Top 「標榜診療科」 内科、消化器科、循環器科、呼吸器科、神経内科、外科、呼吸器外科、心臓血管外科、脳神経外科、整形外科、放射線科、 麻酔科、リハビリテーション科、眼科、耳鼻いんこう科、皮膚科、泌尿器科、婦人科、精神科、歯科 「許可病床数」:402床 (一般病床:402床) 「開設年月日:2004年3月1日」 「所在地:〒474-8511 愛知県大府市森岡町七丁目430 」 国立研究開発法人国立長寿医療研究センターは、日本の厚生労働省所管の国立研究開発法人(国立高度専門医療研究センター) である。愛知県大府市に設置されている。 2004年3月1日に、長寿医療を扱う6番目のナショナルセンターとして、旧国立療養所中部病院の地に国立長寿医療センターとして 設立された。2010年に独立行政法人に移行した。 高度専門医療に関する研究等を行う独立行政法人に関する法律第3条第6項により、加齢に伴う疾患の調査、研究、技術の開発、 医療の提供、技術者の研修などを行うことを目的とする。 愛知県の認知症対策「あいちオレンジタウン構想」に位置づけられるなど、地元自治体とも連携している。 Top |
★あいち健康の森公園・げんきの郷・常福寺 Top Top あいち健康の森公園 (都市公園(広域公園))(wikipedia参照) Top 所在地:愛知県大府市森岡町九丁目300 面積:51.5ha 前身:県立大府運動公園 開園:1997年(平成9年)10月[1] 運営者:愛知県(指定管理者:公益財団法人愛知県都市整備協会 設備・遊具:テニスコート、体育館、球技場、ベビーゴルフ、交流センター、遊具等 駐車場:あり(700台) 事務所:あいち健康の森公園管理事務所 事務所所在地:愛知県大府市森岡町九丁目300 公式サイト:あいち健康の森公園 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− あいち健康の森公園(あいちけんこうのもりこうえん)は、愛知県大府市と東浦町の丘陵地にまたがる愛知県営の都市公園 (広域公園)である。 前身は県立大府運動公園で、管理運営は指定管理者である公益財団法人愛知県都市整備協会が行っている。 [概要] 1997年(平成9年)10月、あいち健康の森の関連施設として開園した。あいち健康の森は全体面積約100ヘクタールの広大な 敷地に、健康ゾーン・運動ゾーン・研究ゾーン・生きがいゾーン・福祉ゾーンの5つのゾーンが設置されており、このうち 健康ゾーン及び運動ゾーンの51.5ヘクタールに、テニスコート・体育館・球技場・ベビーゴルフ場・交流センターなどの 施設を設置し、都市公園として整備が行われている。 園内には上記の施設のほかにも、アスレチック風の大型遊具などが設置された子どもの森や大芝生広場、さんさん広場など があり、親子共々楽しめる空間となっている。また、ほたるの里では森岡ホタル保存会の手によって、ホタルの幼虫の放流 が行われ観察会などが開催されているほか、ジョギング・ウォーキングコースは、東浦マラソンの会場としても利用されて いる。 2015年(平成27年)4月28日には、約2.8haの敷地に薬草園が開園した。なお、薬草園の管理・運営は、指定管理者 の愛知県薬剤師会・日誠グループが行っている。 Top |
★げんきの郷(HP)(〒474-0041 愛知県大府市吉田町正右エ門新田1-1)(TEL 0562-45-4080)愛知県大府市にある日本最大級の産地直売所である。あいち知多農業協同組合(JAあいち知多)の子会社である株式会社 げんきの郷が運営を行っている。 −−−−−−−−−−−−−− 開業日:2000年(平成12年)12月23日 施設管理者:株式会社げんきの郷 敷地面積:53,000 m2 営業時間:9:00 - 18:00(一部施設を除く) 駐車台数:540台 ★JAあぐりタウン げんきの郷(ジェイエイあぐりタウン げんきのさと)は、愛知県大府市にある日本最大級の産地直売所で ある。 (wikipedia) あいち知多農業協同組合(JAあいち知多)の子会社である株式会社げんきの郷が運営を行っている。 「概要」 2000年(平成12年)12月23日にオープンした「農」と「食」をテーマとする都市農村交流複合拠点施設。緩やかな丘陵地に あり、周辺にはあいち健康の森公園や国立長寿医療研究センター、あいち小児保健医療総合センターなどの施設が立地する。 主な施設にはファーマーズマーケットやレストラン、温泉、農業研修施設などがあり、週末にはイベントも開催されている。 年間の集客数は200万人を超え、東海地方だけでなく、全国でも有数の集客スポットとなっている。 |
★常福寺(大府市観光協会)〒474-0037 愛知県大府市半月町3-151 建久年間に、平景清が開創したと伝えられています。景清はこの地にきて、つねに観世音菩薩を念じ、自ら観音の木像を 彫刻し草庵を結んで安置したと言われています。 Top −−−−−−−−−−−−−−− ★平景清(たいらのかげきよ)(?―1196) (コトバンク日本大百科全書参照) 平安末期の武将。藤原忠清(ただきよ)の子。1180年(治承4)の北陸道における木曽義仲(きそよしなか)との戦いに平家軍 として参戦、続く84年(元暦1)の一ノ谷の戦いにも奮戦したが敗れた。翌年の屋島(やしま)の戦いで、武蔵(むさし)国 住人美尾屋(みおのや)十郎の兜(かぶと)の錣(しころ)をとった景清は、「是(これ)こそ京童(わら)べのよぶなる上総 悪七兵衛(かずさあくしちびょうえ)景清」と名のった(平家物語)。彼は叔父にあたる大日能忍(だいにちのうにん)を 早合点から殺してしまい、悪七兵衛といわれていた。壇ノ浦における平氏滅亡後も生き延びた景清は、平氏再興を図る知忠 (ともただ)(知盛(とももり)の子)の挙兵に加わった。その後95年(建久6)東大寺供養に上洛(じょうらく)した源頼朝 (よりとも)に降(くだ)り、八田知家(はったともいえ)に預けられたが、やがて飲食を断って死んだという。 謡曲『大仏供養』、浄瑠璃(じょうるり)『出世景清』(近松門左衛門作)などで有名である。[田辺久子]Top |
★七社神社(WEB) ここは平景清のお屋敷跡。1184年の‘一ノ谷の戦い’1185年の‘屋島の戦い’で活躍し、壇ノ浦の戦いで平家が滅びると 源氏に降りて八田知家に預けられた。ここがそこ。芦沢の井戸は景清の屋敷跡にあった井戸。Top Top |
★吉川城址(wikipedia) Top城郭構造:平城 築城主:吉加波入道 築城年:応永4年(1397年) 主な城主:吉川氏・花井氏 廃城年:天正8年(1580年) 遺構:無し 指定文化財:無し 吉川城(よしかわじょう)は尾張国知多郡(現・愛知県大府市吉川町1丁目)にあった日本の城。 「概要」 「清涼寺旧記」によれば応永四年(1397年)、吉加波(吉川)入道によって築かれた平城であったとされるが、 戦国時代に至って花井氏の居城となったという。花井氏の居城となった経緯は不明。 天正年間には花井氏5代・播磨守平次の子・勘八郎が居を構えていたが、寺本城(現在の知多市にあった)に 移ったため、天正八年(1580年)に廃城となったとされる。 「現状」 城のあった周辺はかつて「吉田町城ノ内」と言う地名であったが、廃城となった後の吉川城がどうなったかは 詳しい記録もなく定かでない。また、近年になって区画整理事業が行なわれた際にも発掘調査などが行なわれた 記録は無く、遺構なども全く残されていない。国道155号沿いに城址碑が立ち、城内にあったと伝わる弁財天が 小さな祠に祀られているのみである。 「周辺」 城址碑から国道を挟んだ北側の小山に吉川熊野神社があるが、築城と同時期に創建されたとされている。 「吉川城址」(左側) Top |
★熊野神社(WEB) 愛知県大府市吉田町中ノ坪脇67番地 Top御祭神 事解之男神 伊邪那美命 速玉之男神 創建年代は不詳であるが、古記録などにより、応永4年(1397)吉川城の築城とともに創建されたのではないか と考えられている。(愛知県神社名鑑より) 古来より熊野三社権現と称されたが、明治8年3月20日熊野社に改称され、昭和49年熊野神社に再度改称した。 (大府市誌より)Top |
★石ヶ瀬川と大府駅 Top Top ★石ヶ瀬川の戦い 戦争:戦国時代 (日本) 年月日:永禄元年(1558年) - 永禄4年(1561年) 場所:尾張国石ヶ瀬川畔 結果:勝敗つかず 交戦勢力:水野軍 松平軍 指導者・指揮官:水野信元 松平元康 石ヶ瀬川の戦い(いしがせがわのたたかい)は、永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)にかけて、尾張国 で行われた合戦。場所は現在の愛知県大府市と同県知多郡東浦町の境界付近で、3度にわたり戦闘が行われた。 「概要」 戦国時代、尾張国は織田信長の支配下にあった。 しかし永禄年間になると駿河の今川義元の勢力が尾張国にも 及び、永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)にかけて、織田信長と今川義元、そして織田氏と連合する 水野信元と今川勢の松平元康(後の徳川家康)が石ヶ瀬川を挟んで衝突した。 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、織田・水野氏は松平元康と和睦した。 Top |
★大府歴史民俗資料館 (大府市桃山町5−180−1)(電話:0562-48-1809)JR大府駅から徒歩で約5分の所にある。昭和55年(1980)に市制10周年記念事業の一環として 建設された「大倉会館」の一施設として、開館した。 館内には貝塚や古墳など出土品や農具、生活用具、考古資料などを展示している。 |
★2.02友歩会ウオーキング参加の皆さん(常福寺)@ 78232w Top 全員集合 A (常福寺)(2019.2.2) Top |