第79回河川探訪シリーズ・二之枝川編Part 2 
詳細拡大未完
  (平成31年4月6日(土)・天気:) (名参加)
下見・平成31年2月23日(土) 歩数:27,551歩 (9名参加)

コース:小信中島バス停7:47発→名鉄一宮駅8:07発→8:25栄生乗り換え8:32→江南駅8:50着→
スタート: 9:00・名鉄江南駅→般若用水(宮田用水)→一宮地域文化広場新般若用水浅井山公園長誓寺有隣舎跡→(昼食会場)
大乗公園大江川照手姫袖掛の松彦田公園名鉄妙興寺駅(13Km)

名鉄江南駅木曽川「お囲堤」二之枝川の川筋の地域かつての木曽川本流
コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 全員集合
寺さんWeb 一宮友歩会



名鉄江南駅79n001

受付

般若用水(左)(79n002)

一宮地域文化広場公園入り口 009

一宮地域文化広場(プラネタリウム館) 79n010

一宮地域文化広場(有隣会館) 012

有隣会館内の雛飾り/2019.2.23    79n013

新般若用水 006

一宮地域文化広場(緑の散歩道) 79n017

浅井山公園へ 021

浅井山公園/温故井池  79n022

浅井山公園/温故井池 027

長誓寺へ 79n032

長誓寺/カイズカイブキ 036

長誓寺/シダレザクラ 79n037

大江川へ 048

鷲津有隣舎の碑 79n050

昼食会場 79n0

大乗公園の空爆殉難記念碑(20.7一宮空襲の慰霊碑) 79n058

大江川 055

大江川の桜 79n062

大江川/千年碑 059

東一宮・岩倉線の橋台跡(web参照) 79n063

照手姫袖掛の松(牛野神明社) 066
一宮線の路線図一宮・岩倉線の橋台の跡(web参照)
名鉄の 前身で ある 名古屋電鉄 一宮線は 1912年 8月6日
複線で 竣工、開通しました。
開業 当時は 押切町−西印田間 18.3キロで、西印田−
東一宮間 0.6キロは 次の年の 1913年 1月 25日に 延長
されました。
所要 時間は 押切町−西印田間で 46分、運転 間隔は
 20分で、料金は押切町−西印田間 19銭 (通行税を含む)
でした。
戦後、クルマの 普及に より 支線の バス 転換が進み、
一宮線は、1965年(s40) 4月 25日に 廃止されました。
この 案内板の 基礎 付近に 残る石積み づくりの 構造物
は、大江川に かかっていた、はしの 橋台 あとです。
(web参照)

彦田公園(解散式) 

妙興寺駅 072

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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名鉄江南駅(wikipedia)と浅井山公園  Top
江南駅は、愛知県江南市古知野町にある、名古屋鉄道(名鉄)犬山線の駅である。駅番号はIY10。 
江南市では当駅を中心とした周辺地域を市の中心核と位置付けている。
島式1面2線ホームの地上駅で、終日駅員が配置されている。全ての営業列車が停車する。
なお、駅構内に分岐器は設けられていない。ホームは犬山方を向いて、右にカーブしている。 
改札口は地下に2箇所あり、自動券売機と自動改札機を備える。このほか、エレベーター専用の改札口が別途設置され
ている。駅構内にトイレは設置されておらず、駅北側の踏切に隣接した場所の公衆トイレを利用することとなる。 Top

江南駅・市役所・市歴史民俗資料館・青木川(右下)  Top
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浅井山公園(wikipedia)  Top
「概要」
上空から見た浅井山公園の温故井池。南に流れているのは日光川である。温古井池(かつての木曽川の支流跡の河跡湖)を
中心にした公園であり、広さは3.56ha。池の北側にアスレチックジム、砂場があり、南側は噴水、バラ園、緑地となって
いる。また、池のまわりはサクラの名所である。池は釣りをすることが可能。また、アヒルなどが放し飼いにされている。
過去には貸しボートも行われていた。(90年代前半に廃止)水の出入りが少ない池のため、水質の悪化が進んでいたが、
1998年(平成10年)より水質浄化や水生動物の生息場所として、岸や人工の浮島に水生植物を植えている(ビオトープ)。
「歴史」
温古井池は、平安時代尾張三名泉の一つである「浅井の温故井」に由来する。温故井は浅井神社(温古井池の北にある)
付近にあったという。温古井池は、尾張藩が所有していた池であった。1811年(文化8年)、尾張藩主徳川斉朝が落馬で
負傷したさい、御殿医の森林平(浅井万金膏の製造・販売者)の治療で完治する。そのお礼として温古井池が与えられ、
以降、森氏の庭園となるが、太平洋戦争の影響で手入れが行き届かず、荒れ果ててしまったという。
1962年(昭和37年)、森氏は温古井池を一宮市に寄贈する。市は公園として整備し、1965年(昭和40年)に開園する。
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長誓寺 Top
長誓寺本堂は、名古屋城三の丸にあった尾張藩の重臣渡辺半蔵家の書院を、長誓寺が譲り受け、明治7年(1874)に現在地
に移築したものである。
単層入母屋造で、上段の間には、書院窓、武者隠しの遺構を残しており、江戸初期の武家屋敷建築の特徴をよく伝えている。
長誓寺は、浄土真宗に属し、蓮如上人が滞在したと伝える名刹である。現在の本堂は、名古屋城三の丸にあった渡辺家本邸
の大書院を移したものと伝え、この建物は明治初年の廃藩置県に際して渡辺家より譲り受け、明治5年(1872)より取り壊し
が始められ、堀川を船で海に下り、木曽川を遡って河田渡しに着船し、そこから陸路で運搬されたという。

本堂は、桁行6間(実長12間)、梁間3間半(実長8間)、しころ屋根、桟瓦葺、南面建ちとし、現在は浄土真宗本堂の形式に
改められている。しかし、間取りは正側3面に幅1間半の広縁、背面に幅1間の廊下を巡らし、その内部に前後2列横3列の6室
を構えており、室部分では1間毎に柱を立て、柱間に敷居、鴨居、内法長押を巡らし、室境に引違い戸を立て、広縁では柱間
2間毎に繋虹梁を渡し、上部に疎垂木・木舞打を見せ、柱上には舟肘木を載せるなど、江戸時代初期の旧家老邸の書院の姿を
よく残している。   Top
丹羽有隣舎のモニュメント    Top

 一宮市丹羽の有隣舎跡に、著書「毅堂集」の形のモニュメント「鷲津有隣舎乃碑」がある。
碑は池上年先生(1890〜1978)の作である。

有隣舎は、江戸時代に鷲津幽林(1726〜1798)が丹羽村(一宮市丹羽)に漢学塾「萬松亭」を開き,明治半ば過ぎまで多く
の門人を育て、鷲津毅堂森春涛など多数の著名人を生んだ。三代目鷲津益斉(1804〜1842)が「有隣舎」と改めた。
モニュメントは、昭和37年(1962)8月1日に設置された。池上年先生は福岡県中学修獣館教師として「都府楼址の研究」
などの論文を「考古学雑誌」に発表。岡崎市に「岡崎石造美術研究所」を創設し、石造美術の研究者として活躍。

赤坂離宮御苑型石燈籠など独自の石造美術の設計・制作に尽力。日本石材工業新聞に論文多数。岡崎市明大寺町。
池上先生の作品は、艶金興業株ュ祥の地である墨会館に置かれていた「羊石」が、一宮市豊島資料館に収蔵されている。
 有隣舎があった鷲津邸は、童謡歌手・NHKうたのお姉さん・大学教授等として活躍の小鳩くるみ(鷲津名都江)さんの
生誕地である。
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鷲津毅堂(わしづきどう:尾張藩儒者:文政8年(1825)11.8〜(1882)(明治15年)10.5)   Top 尾張藩校明倫堂督学。尾張国丹羽郡丹羽村の人。幕末明治期の漢学者。名、宣光・監。字、重光。 通称、郁太郎・貞助・九蔵。号、毅堂・蘇州・泉橋外史。祖父、鷲津松陰 (この松陰に佐藤牧山(1801-1891)が学んでいる。HP参照) 曾祖父は、医師で文人で学舎有隣舎の基礎をつくった鷲津幽林父は幽林の孫の益斎(通称徳太郎)、母は磯貝貞。 ・・・宣光はやがて中津藩士の女川田美代と再婚、二人の問に長女友、二女恒ら三男二女が生まれた。 この恒が宣光の門人永井匡温と結婚、のち永井荷風を生む。安政元年以来下谷徒士町に住み、塾を開いていたが、慶応元年 十一月、尾張藩の招きに応じて、明倫堂教授になるため江戸を出発。明倫堂教授から督学になった宣光は、村々を巡回し 島民に講義を聴かせ、校内に他藩の学生の寄宿を許し、武術を盛んにするなどの改革を行った。 慶応三年徳川慶勝に従って京都へ行き、幕府と薩長諸藩との間をとりもった。慶応四年八月京都総裁局の徴士となったので、 明倫堂督学を辞任した。 Top
大江匡衡(おおえのまさひら)(952〜1012)    Top
没年:長和1.7.16(1012.8.6)/生年:天暦6(952)
平安中期の学者,官人。正四位下,式部大輔。父は左京大夫重光。幼くして祖父維時の教えをうけ長じておよぶものが
なかったというほどの才学の持ち主。24歳で文章生となり,次いで秀才(律令制下で式部省の登用試験に合格した者)に補せ
られ,検非違使ほかの京官を歴任し,38歳で文章博士となった。さらに東宮学士,一条天皇の侍読,侍従などを務めた。
長保3(1001)年に尾張守となり妻の赤染衛門と共に任国に下り善政を行った。
匡衡の整備した灌漑用水は大江用水の名で呼ばれ,いまもその余恵を施している。寛弘6(1009)年再度,尾張守に任じられた
が,このたびは任なかばで希望して近国の丹波守にかわっている。このとき尾張学校院を建てたというが,実現はしなかった
とみられる。ときの権力者藤原道長の信望厚く,文章の代作や願文の類を多作した。また詩宴,歌会によく出席し,序者,題者
となるなど詩才,歌才は衆目の認めるところであった。その一端は詩文集の『江吏部集』や歌集の『匡衡朝臣集』などから
うかがえる。また博識をもって知られる藤原実資とも交友があり,匡衡の死に際し実資は「名儒として比肩する人なし,文道
の滅亡」とまでいっている。妻の衛門は「重ねてし衣の色のくれなゐは涙に湿める袖となりけり」と詠じた。
かつて稲荷社の神官の娘へ通いつめた匡衡は,衛門から一首の歌を送られ,恥ずかしくなって衛門のもとへ戻ったという。
ふたりの間に挙周,江侍従という子がいる。<参考文献>大曾根章介「大江匡衡」(『漢文学研究』10号)   Top
平成13年、水路開削1,000年を記念し、一宮市制80周年の関連
事業として、「大江川千年碑」が緑道内に設置された。 Top
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大江匡衡(おおえのまさひら) (952〜1012)  Top
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宮田用水(般若用水)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  Top
延長:9.8 km 
水源:愛知県犬山市 
河口・合流先:木曽川(一宮市) 
流域:愛知県 
宮田用水は、岐阜県各務原市と愛知県犬山市の県境である木曽川犬山頭首工を取水源とする農業用水である。
濃尾用水(羽島用水、宮田用水、木津用水)の一つである。宮田導水路ともいう。 
宮田用水自体は、延長10kmに満たない用水であるが、丹羽郡扶桑町と江南市の農業用水という役割のみでなく、大江用水
新般若用水奥村用水に水を供給する役割が大きい。これらの用水網は、愛知県尾張地方北部〜西部に網羅される。 
宮田用水土地改良区や東海農政局などは、大江用水、新般若用水、奥村用水も宮田用水系の用水路として管理している。 
2006年(平成18年)、濃尾用水として疏水百選に選定される。 
犬山頭首工にて他の濃尾用水とともに取水する。岐阜県側は羽島用水、愛知県側は宮田用水、木津用水の取水口がある。
犬山市木津にて木津用水と分かれ、西進する。丹羽郡扶桑町から江南市草井町までは地下のパイプラインとなっている。
この間の江南市中般若町で御囲堤をくぐる。ほぼ御囲堤に沿って西進し、江南市宮田町で、大江用水、新般若用水を
分流する。一宮市浅井町黒岩で木曽川の支流である南派川に合流する。  Top
「沿革」
「御囲堤」の構築と用水の開削
1608年に徳川家康の命によって、木曽川を利用した木曽ヒノキの輸送を確保と大阪の旧豊臣勢からの防衛を目的として、
犬山から弥富に至る木曽川左岸に約47kmにわたる連続堤御囲堤(おかこいつつみ)が完成。これに伴い、木曽川から
濃尾平野に流れていた支流を全て塞き止めることになり、一帯の農地は水源を失うことになった。 
そこで、木曽川本流から直接取水することになり、1610年(慶長15年)に葉栗郡大野村(現:一宮市浅井町大野)と
般若村(現・江南市般若町)の2箇所に取水用水門が完成。ここから大江用水、新般若用水への導水路が築かれた。
これらの用水は尾張藩直営となり、郡奉行(=代官)より地位が高い水奉行という役職を設置すると共に、農民に
「井組」と呼ばれる管理組織を作らせて実際に運用に当たらせた。 
「取水門の移動と宮田用水事件」
しかし、木曽川からの取水は洪水による土砂の堆積が起きると水量が減るという難点に加え、地形的な川筋の変化が齎す
河底の侵食は取水の不安定さを招いた。1650年頃には大野村の水門が使用できなくなり、葉栗郡宮田村(現:江南市宮田町)
と黒岩村(現:一宮市浅井町黒岩)の境付近に新たな水門を設けざるを得なくなった(この水門は、現在の宮田用水と南派川
の合流地点である)。 
近代に入ると、1924年に大井ダムが完成すると共に木曽川に流れる水量が減少、これに対して用水を利用していた農民が
慣行水利権を主張して、発電用水利権を主張した大同電力と争った。結局、1939年に今渡ダムを建設して用水の取水量を
確保することで両者に和解が成立した。 
「近代化と「見えない用水路」」
戦後に入って、1957年に国営濃尾用水事業により宮田用水の大幅改良が開始。1967年に犬山頭首工が完成し、宮田・木津
・羽島の3用水を濃尾用水として共同で取水し、安定取水が実現した。だが、用水に工業汚水や生活汚水が大量に排出され
水質が悪化、農作物にも悪影響が出始める。 
そこで、1969年(昭和44年)から国営事業により日本初の「用水路のパイプライン化(地中化)」工事が始まり農業用水路
の大部分を地下化、従来の用水路は排水路に転用することになった。この工事は1988年に完成し、2006年に濃尾用水として
疏水百選に選ばれた。 
「流域の自治体」
愛知県犬山市、丹羽郡扶桑町、江南市、一宮市
「関連する用水」
「新般若用水」
1650年頃、葉栗郡宮田村(現:江南市宮田町)と黒岩村(現:一宮市浅井町黒岩)の境付近に新たな水門を設けた際に、
新たに築かれた用水。般若用水の水不足を補う役割がある。一部は木曽川の支流であった水法川の跡を利用。
江南市宮田町で宮田用水から分流一宮市と江南市との境沿いに南下し、一宮市時之島で般若用水と合流し、一宮市平島で
青木川と合流
「大江用水」
1001年(長保3年)、尾張国国司である大江匡衡(おおえまさひら)が築いた用水。大江用水の名前は大江匡衡から名づけ
られている。 大江匡衡は藤原道長に仕えた儒者、歌人。妻は女流歌人の赤染衛門。
江南市宮田町で宮田用水から分流。西進し、一宮市浅井町尾関で奥村用水を分流し南下。一宮市市街、稲沢市を通過し、
あま市で蟹江川に合流する。
「奥村用水」
新般若用水と同時期に築かれた用水。
一宮市浅井町尾関で大江用水から分かれ西進。市内木曽川町で南下し、市内起の濃尾大橋付近で木曽川に合流。  Top
一宮地域文化広場(HP)       Top
一宮地域文化広場は、自然林を取り入れた緑豊かな憩いの場・学習の場として、地域の皆さまから幅広く利用されている
施設です。児童・文化教室などに利用できる「有隣会館」、季節の星空が分かる「プラネタリウム館」、炊事場や宿泊設備
・天体観測室がある「銀河の家」、木々に囲まれ清清しい環境の中で楽しめる 「フィールドアスレチック」、夏休み期間
(7月〜8月)に開設される「おやこプール」などがあります。Top
大乗公園   Top
大乗(だいじょう)公園は、貴船の信号の南側、大江川沿いにある細長い公園です。
 大江川沿いに桜の木が多数あるので、春は桜が川面に映って、その景色は圧巻です。
 空爆殉難記念碑(昭和20年7月の一宮空襲で亡くなった人々の慰霊碑)、防火用具倉庫、中川敏之氏制作 「希望」の
彫塑像があります
遊具は、ジャングルジム、ジャンピング遊具、滑り台、ブランコ、シーソーがあります。
大江川/千年碑   Top
「大江川千年碑」が、大江川沿いにあります。
 大江川(大江用水)は、大江匡衡(おおえのまさひら)がつくらせたということです。平安時代のことで、すでに
千年以上経過。なお、匡衡の妻、赤染衛門(あかぞめえもん)の歌は百人一首にあります。
◎やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
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宮田用水土地改良区    Top
大江川井筋の堤塘敷の利用については、一宮市からの申し入れにより、既存の桜並木を活用し、川と桜とみちの軸
(線的空間)と緑道を4つのゾーン(水の公園ゾーン・お天道広場ゾーン・桜見橋広場ゾーン・おまつり広場ゾーン)
に分けて拠点的空間として整備している。また、平成13年には、水路開削1,000年を記念し、一宮市制80周年の関連
事業として、「大江川千年碑」が緑道内に設置された。
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照手姫袖掛の松(牛野神明社)(鎌倉街道尾張編5)   Top
 浄瑠璃や歌舞伎で名高い照手姫が室町時代中頃、常陸(現在の茨城県)の城主、小栗判官助重との恋の道行の折、
鎌倉街道脇のこの地の松に小袖を掛け、しばし休息したと伝えられています。
 鎌倉街道は、これに因んで小栗街道とも呼ばれたそうです。
彦田公園と名鉄妙興寺駅(左下)    Top
彦田公園は牛野通を西に向かい、JR線を越えたところの信号を右折してすぐのところ花池団地に隣接しています。
ソフトボールなどができる大きめのグラウンドもあり、整備された花壇や遊具もある、このあたりでは大きな公園
で、放課後などには近所の子どもたちがたくさん遊んでいるほか、散歩に訪れる人も多く見られます。
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名鉄妙興寺駅  Top
所在地:愛知県一宮市大和町妙興寺北浦宮地48
駅構造:高架駅 
ホーム:2面2線 
乗降人員:-統計年度-2,302人/日・2013年
開業年月日:1924年(大正13年)2月3日 
備考:無人駅(駅集中管理システム導入駅)
*1993年高架化
妙興寺駅(みょうこうじえき)は、愛知県一宮市大和町妙興寺北浦宮地と花池四丁目に跨がった、名古屋鉄道名古屋
本線の駅である。駅番号はNH49。 Top
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