第80回史跡巡りシリーズ・三重編Part2 
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(2019年6月1日(土)天気:晴れ) (42名参加)  歩数:18,650歩
(ガイドさんの解説を聞く為にコースマップの十念寺で折り返し桑名駅に戻る。後半は来年度に持ち越すことになった。)
下見・2019年4月27日(土)歩数:28,610歩(コースマップのとおり見学した。)

コース:桑名市(十念寺までが今回のウオーキングコースです。)
スタート−9:00・近鉄(JR)桑名駅海蔵寺浄土寺七里の渡し跡九華公園春日神社
本統寺石取会館十念寺(森陳明之墓)→有王塚走井山公園大福田寺照源寺→桑名駅(13Km)

『解説』集合写真コースマップ(PDF)「桑名の歴史と桑名藩」桑名市旧跡案内(桑名市Web)



桑名駅(H29.10.31)80m001

桑名駅80m004

受付会場(桑名駅東) 80m01

宝暦治水薩摩義士の碑(海蔵寺)007

海蔵寺(薩摩義士墓所) 008

海蔵寺(十字紋は島津家の家紋、左は薩摩平田氏の家紋)m011

治水観音80m014

薩摩義士と桑名との関係を説明するガイドの加藤さん 80m14

東海道桑名宿三崎見附跡の説明80m16

徳川四天王:本多忠勝公の墓(浄土寺)80m027

本多忠勝公本廟(浄土寺)021

六華苑の洋館80m034

七里の渡し跡へ 80m046

伊勢国一の鳥居 80m050

幡龍楼へ054

本多忠勝像069  コースマップ(PDF)

鎮国守国神社(桑名城本丸跡地)80m44

戊辰殉難招魂碑(桑名城本丸跡地にM20年に建立)80m47

九華公園へ071

九華公園074

九華公園075

九華公園079

東海道53次(桑名は42次) 80m088

春日神社の銅鳥居80m092

春日神社山門80m095

春日神社本堂 80m097

寺町商店街を通って本統寺へ80m104 コースマップ(PDF)

本統寺 80m108

本統寺で2人のガイドさんと分かれる。64

本統寺で昼食。65

寺町商店街 80m115

旧東海道の道標 80m119

石取会館 80m123

十念寺80m128

桑名義士森陳明墓所としての十念寺80m129

森陳明(もりつらあき)墓所の碑(十念寺)80m137

有王塚80m148

走井山公園と愛宕山庚申碑80m160

走井山公園80m164 

太夫の大樟80m167

増田神社の太神楽80m171 

大福田寺へ 80m178

大福田寺80m182 

照源寺へ80m186

照源寺本堂80m192 

松平定綱及び一統の墓所(照源寺)80m194

楽翁源公(松平定信)の墓(照源寺)80m196 

解散式予定地(照源寺)80m202

全員集合(本統寺にて) 80mw69 Top

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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近鉄(JR)桑名駅(wikipedia)     Top
桑名駅は、三重県桑名市大字東方にある、東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・養老鉄道の駅である。
駅番号はJR東海がCJ07、近鉄がE13。
JR東海の関西本線、近鉄の名古屋線、養老鉄道の養老線の3路線が乗り入れている。養老線は当駅が起点である。
また、三岐鉄道北勢線の西桑名駅が近接しており、乗り換えが可能である。 
『桑名駅・海蔵寺・七里の渡し跡・九華公園』
Top
桑名市(市名のいわれ)
「桑名」の最古の表記は日本書紀に見られます。しかし「くわな」は漢字が日本に入ってくる以前から使われ
ていた呼称で、その由来には諸説があります。
?桑の木があった場所(桑野)からとする説
?「く」は屈曲、曲がりくねったところ、「はな」は岬、端、鼻(先端)の意で地形語源説
?魏志倭人伝の「鬼奴(きな)国」に由来する説
などなど。
 実際は桑名の開発の祖、豪族「桑名首(おびと)」からとられたとする説が有力です。
ちなみに、「桑名首」の祖神である「天津彦根命」は今でも桑名の鎮守として、春日神社に祭られています。
人口:142,274(男:70,288 女:71,986)世帯数:59,245(H31.3.31現在)
海蔵寺(桑名市観光HP)  Top
宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年工事は完成され
ましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃しました。
これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡と
なっています。Top

三崎見附跡80mw15 Top
本多忠勝(1548―1610) (徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将)の一人)  Top
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。
代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。
ときに忠勝は2歳。13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)
大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も
手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎ
たるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。84年(天正12)
長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。88年従(じゅ)五位下中務大輔
(なかつかさたゆう)。90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。1601年(慶長6)伊勢
(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。
慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。墓は同地の浄土寺(桑名市清水町)にある。 Top
浄土寺(桑名市観光HP)  Top
慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、
本多忠勝本廟となりました。「慶長の町割り」とは、忠勝が、慶長6年(1601)桑名に封ぜられてから積極的に
町づくりを行い、町中へ三州に分かれて流れ込んでいた町屋川を上野、金井間あたりから塞きとめ、流れを変える
等現在の街並の大部分を完成させた都市計画事業です。また、当寺にまつわる幽霊飴の話が伝えられており、
現在でも8月23、24日の地蔵盆には夕刻から幽霊飴が売られます。  Top
『浄土寺(マーク地点)・七里の渡し跡・九華公園・春日神社・本統寺』
Top
七里の渡し跡(WEB) Top
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。
当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ること
から「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。 
 慶長6年(1601)正月、江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の
渡船と定められた。のち佐屋宿(現愛知県海部郡佐屋町)へ川路3里の渡船も行われた。宮までの所要時間は3〜4時間
と思われるが、潮の干満によりコースは違っており、時間も一定ではなかった。
  ここは伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781〜1789)に、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、以来
伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
  明治になって、東海道制度は廃止となったが、揖斐川上流の大垣との間に客船や荷物船の発着場となっていた。
  昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく
変化し、港としての機能は全く失われた。昭和63年から平成元年(1989)にかけて、付近の整備修景工事が行われた。
  なお現存する常夜燈は江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔
になるので、ここへ移築された。元は天保4年(1833)建立のものであったが、昭和37年に台風で倒壊したので、
台石は元のままであるが、上部は多度大社から移したもので、安政3年(1856)銘。Top
九華公園(WEB)        Top
桑名城の本丸跡と二の丸跡に造られた公園で、約7.20haの広さがあります。かつて「扇城」と呼ばれ、海道の名城と
たたえられた城の面影を残し、沢山のさくらやつつじ、花菖蒲が植えられ、市民の憩いの場として親しまれています。
4月の「さくらまつり」や5月の「金魚まつり」、6月の「花菖蒲まつり」など、季節に応じて多彩な催しが開かれ、
大勢の市民でにぎわっています。また、園内には松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公・守国公)を祭る鎮国守国
神社があります。Top
春日神社(wikipedia)    Top
「桑名宗社」
所在地:三重県桑名市本町46番地 
主祭神:天津彦根命、天久々斯比乃命、天日別命、春日四柱神 
社格等:式内社、旧県社 
創建:不詳 
本殿の様式:神明造(二宇) 
別名:桑名神社、春日神社 
主な神事:石採御神事 

桑名宗社は、三重県桑名市本町にある神社である。
「桑名神社(三崎大明神)」と「中臣(なかとみ)神社(春日大明神)」の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く
崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。
桑名神社と中臣神社は、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載されている式内社である。旧社格は県社。 
8月に行われる石取御神事はユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」を構成する祭りの一つで、天下の奇祭として
も有名である。 

桑名市)  Top
本統寺  Top
本統寺は、徳川家茂や明治天皇が宿泊した由緒あるお寺で、桑名御坊とも称され、俗に「ご坊さん」の名前で市民には
親しまれています。境内には、俳聖松尾芭蕉が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折り、この地で詠んだ句
「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています。  Top
石取会館 Top
石取会館(いしどりかいかん)
石取会館の画像石取祭を紹介している施設です。館内展示の漆仕上げの祭車は、江戸時代末期の作で、当時の技術の
粋を集めたものです。彫刻は、幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。
永年諸戸家が所有、保存していたものを、平成元年12月に寄贈を受け、漆塗装、天幕等の補修を行い、当時のままに
修復しました。当館では、ビデオなどで祭の時期以外でも”日本一やかましい祭り”を体感することができます。
市内40数台の石取祭車は、各町毎の石取庫に大切に収められています。 Top
十念寺(wikipedia)   Top
十念寺は、三重県桑名市伝馬町にある浄土宗の寺院。山号は仏光山。院号は九品院。本尊は阿弥陀如来。
毎年11月23日に七福神まつりが開かれる。 
「歴史」
この寺は、757年(天平宝字元年)行基によって創建されたと伝えられ、当初は現在の三重県三重郡菰野町にあったが
その後寺地を転々とし現在地に移ったのは慶長年間(1596年 - 1615年)のことである。 Top

森陳明之墓(もりつらあきのはか) Top  正面「森陳明之墓」(松平定敬書)、三面に墓銘あり(明治八年十月高松徳重撰、江間政発書)。 この墓を建てた若槻陳義は森陳明の長男、父姓森氏を避け若槻氏に復した。 十念寺門前には仰忠会による「桑名義士森陳明翁墓所」(昭和8年)碑がある。 戦後墓地を横断する道路ができたため、この墓地は道を隔てた一角になり、また昭和44年築土し施工されて、森家の 墓所にまとめられた。 桑名藩士森陳明(つらあき)は、松平定敬侯京都所司代に在職中、公用人として 公を助け、勤王佐幕のことに心を 砕き、戊辰戦争当時は、公に従って函館に立て籠ったが、敗れてのち、朝廷は桑名藩より反逆の主謀者を出だせと 命じた時、陳明進んで全藩に代わって出頭し、明治2年11月13日東京深川藩邸で死に就いた。 年44歳、法号智勇院清挙忠誠義剣居士。 九華公園には、別に殉難旌節の「精忠苦節」の碑がある。 Top
有王塚(wikipedia)   Top
有王(ありおう、生没年不詳)は、平安時代後期の人物。
「概要」
法勝寺執行俊寛の侍童だったが、安元3年(1177年)俊寛は鹿ケ谷の陰謀に連座して鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されて
しまう。『平家物語』によると、師を慕う有王は鬼界ヶ島をおとずれ、変わり果てた姿の俊寛と再会。有王は俊寛の娘
の手紙を渡し、それを読んだ俊寛は死を決意して食を断ち自害する。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を持ち帰り、
高野山奥院に納め、蓮華谷で出家して菩提を弔ったとされる。 
有王の墓は、和歌山県かつらぎ町と三重県桑名市(有王塚)にある。 Top
走井山公園(WEB)   Top
戦国時代に矢田城があった場所に造られた公園です。春には100本以上の桜が咲き乱れる花見の名所として市民に知ら
れています。 
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大福田寺(Wikipedia)    Top
所在地:三重県桑名市東方1426 
山号:神宝山 院号:法皇院 宗旨:古義真言宗 宗派:高野山真言宗 
本尊:阿弥陀如来 
創建年:(伝)飛鳥時代 
正式名:神宝山法皇院大福田寺、~寶山法皇院大sc寺 

札所等:三重四国八十八ヶ所 1番札所
伊勢七福神 大黒天
伊勢西国三十三所観音霊場 番外札所 

大福田寺は、三重県桑名市東方にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神宝山。院号は法皇院。
本尊は阿弥陀如来。ほかに歓喜天(聖天)を祀り、日本三歓喜天(日本三大聖天)の一つに数えられている。
毎年2月3日に節分祭が行われ、4月1日、2日に桑名聖天大祭が行われる。
また、4月2日には重要無形民俗文化財の「伊勢大神楽」が奉納される。 通称「桑名の聖天さん」と呼ばれている。 
「歴史」
この寺の創建年代については正確ではないが、聖徳太子が開いたと伝えられ、鎌倉時代中期後宇多天皇の代に
額田部実澄・忍性によって再興されたという。 
当初は福田村にあり福田寺と称したが、足利尊氏から「大」の字を賜り、大福田寺と改められたという。
その後、たびたび兵火にあって焼失して寺運は衰えたが、1662年(寛文2年)、松平定重の援助を受けて現在地に
再興された。 歓喜天は松平定信の寄進によるものとされる。
Top
照源寺(WEB)   Top
寛永元年(1624)桑名藩主松平定勝が死去したため、その子定行が創建しました。定行は伊予松山へ移封しましたが
弟定綱が藩主を継いだので、松平家の菩提寺として存続しました。「松平定綱及び一統之墓所」(県指定文化財)には
藩主ら二十八基の墓石があります。境内には定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植した金龍桜があります。
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照源寺(HP)は、桑名駅からほど近い歴史あるお寺です。
 照源寺は、京都の知恩院を総本山とする浄土宗のお寺です。ご本尊は阿弥陀如来です。 Top
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楽翁公の墓について(WEB記事紹介)
「松平定信のお墓は、深川の寺町の一角、霊巌寺にあります。国指定史跡にも指定されており、歴史好きの方ならご存知
の方も多いと思います。
しかし、定信の墓が松平家の領地だった三重県桑名に建立されているというのは、あまり知られていないかもしれません。
 桑名の墓所は、松平家の菩提寺照源寺にあります。
 現在こちらには、広大な面積に桑名藩主松平家の墓所が形成されており、初代定綱を筆頭に、6人の藩主や正室、側室、
子女など、計20基以上の墓碑が林立しています。その中に松平定信の墓があります。
 墓碑正面には「樂翁源公之墓」とあり、立派な墓所ですが、代々の墓碑に比べて同じくらいかやや小ぶりな墓石でした。
 寛政の改革を行い、幕府の中枢にいたということが、教科書や歴史書などで注目される人物ですが、国元と江戸にある
彼の墓碑を見ることで、彼の生き様が垣間見えるような気がしました。」
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『照源寺と大福田寺(下)と桑名駅(右下)』
「桑名の歴史と桑名藩」(WEB解説)  Top

 桑名は古代から東海地方と畿内における交易の中継地として栄えました。 室町時代には商人たちによる自由都市が
形成され、堺、博多、大湊と並ぶ日本屈指の貿易都市となり、「十楽の津」とよばれました。 
江戸時代には桑名藩11万石の城下町、および東海道五十三次で知られる東海道42番目の宿駅・桑名宿として栄えました。
桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)との間(海路7里(約28km))の七里の渡しが有名です。幕末には、佐幕派の中核を
なす、いわゆる一会桑政権(一橋慶喜、会津藩、桑名藩)の拠点の一つとなりました。 
 桑名藩は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城でした。(桑名市吉之丸) 
 天正18年(1590年)、伊勢を支配していた織田信雄(織田信長の次男)は、豊臣秀吉の駿河転封を拒絶して改易され、
伊勢は豊臣氏の家臣が分散して入封することになりましたが、桑名にはかつて美濃三人衆として信長の下で勇名を轟か
せた氏家直元の次男・氏家行広が2万2000石で入りました。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで行広は西軍に与して
桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に徳川家康によって改易されました。
 慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩
しました。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、武田信玄や織田信長らからも賞賛され
た武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物です。忠勝は関ヶ原では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇
ばかりが際立って目立つが、桑名藩の藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩の
藩政を確立した名君でもありました。慶長14年(1609年)、忠勝の嫡男・本多忠政が第2代藩主となり、大坂の役にも
参加して武功を挙げたため、西国の抑えとして元和3年(1617年)7月14日に播磨姫路藩に移封されました。
 代わって徳川家康の異父弟である松平定勝が、山城伏見藩から11万石で入りました。当山はこの松平定勝公以下松平家
一統の菩提寺であります。
 元和6年(1620年)には伊勢長島領7000石を与えられて11万7000石となり、定勝の後を継いだ第2代藩主・松平定行は、
寛永元年(1624年)に7000石を弟の松平定房に分与したため、再び11万石となりました。定行は水道の設置、城下に
おける湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年(1635年)7月28日に伊予松山藩に移封されました。
 このため、美濃大垣藩より定行の弟・松平定綱が11万3000石で入り、定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに
尽力しましたが、桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では6万4000石もの被害をもたらす大惨事と
なりました。その後、第4代藩主・松平定良を経て第5代藩主となった松平定重は、53年にわたって桑名を支配するという
長期政権でありましたが、この時代には天災が相次ぎ、家臣の減給やリストラが頻繁に行なわれました。
このため、定重は8石3人扶持の小者であった野村増右衛門を郡代に抜擢し、藩政の再建に敏腕を振るい、これは大成功で
したが、譜代の無能な家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)5月29日に野村は死罪に処されました(野村騒動)。
そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられました。
 次に藩主となったのが、奥平松平家の当主・松平忠雅で、備後福山藩から10万石で入りました。第3代藩主・松平忠啓
時代の天明2年(1782年)に洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末でした。
第4代藩主・松平忠功や第5代藩主・松平忠和は紀州徳川家の出身で、学問の奨励などを中心とした藩政改革を行ない、
藩校の進修館創設の基礎を築いている。第7代藩主・松平忠堯時代の文政6年1823年)3月24日、武蔵忍藩に移封を命じられ
るが、これに反対する一揆も起こるほどでした。 
代わって、陸奥白河藩から松平定永が11万石で入りました。定永の久松松平家は、かつて桑名藩主であった定重の系統
でありました。定永は寛政の改革を行なった松平定信の嫡男であり、この移封は隠居の定信が桑名の港の利権を求めて
嘆願したものともいわれています。しかし定永の後に藩主となった第2代藩主・松平定和や第3代藩主・松平定猷時代は
天災が相次ぎ、藩財政を苦しめました。
 本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、幕末動乱の時期に第4代藩主となった
松平定敬です。定敬は会津藩主・松平容保や尾張藩主・徳川慶勝らの実弟であり、佐幕派として行動した人物であり、
一説では坂本龍馬暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で、京都所司代を
務めたこともあります。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の惨敗後、定敬は徳川慶喜に随行しました。
このため、桑名藩は藩主不在となり、前の藩主の実子である松平定教が第5代藩主として擁立され、定敬には相談せず、
無血開城して新政府軍に恭順しました。しかし定敬や立見鑑三郎など一部の藩士は抗戦し、江戸、会津、箱館へと戊辰
戦争を転戦したため、桑名藩は逆賊として取り潰されました。
 明治2年(1869年)に定敬が降伏したことや大久保利通らと親交が厚い同藩出身の箏曲師椙村保寿の嘆願もあって、
8月15日に桑名藩は再興を許され、定教は桑名藩知事に任じられます。ただし所領を11万3000石から6万石に減らされた
上でありました。明治4年(1871年)の廃藩置県で桑名藩は廃藩となり、桑名県、近隣の県との合併によって安濃津県
(後の三重県)を経て、三重県に編入されました。   Top


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