第85回友歩会史跡巡りシリーズ・岐阜編Part13
詳細大垣城資料
(令和2・2020年10月3日(土)天気:晴れ) (33名参加)  歩数:26,991歩
下見・令和2年9月5日(土)晴れ・(10名参加)・歩数:25,796歩

コース:
スタート−8:14・JR尾張一宮発→垂井着8:42→(受付)スタート→垂井宿→垂井追分(中山道・美濃路)→
タルイピアセンター美濃路松並木綾戸古墳長松城址平林荘塩田常夜灯正覚寺発句塚
むすびの地記念館→大垣駅(12Km)

羽島〜垂井美濃路ウオーキング2009.10.31太夫内) (美濃路探訪2012.11.24太夫内


垂井町 垂井町観光ガイド タルイピアセンター大垣市 奥の細道むすびの地記念館 大垣観光パンフレット
中山道垂井宿(HP参照) コースマップ(PDF) 『解説』欄へ



JR垂井駅(2020.9.5)

受付(垂井駅前2020.10.03)

中山道・垂井宿(亀丸屋西村家) t95009

中山道・垂井宿本陣跡(10.3)

垂井宿(松井家・丹波屋) t95012

垂井町福祉会館の街角ギャラリー007

南宮大社石鳥居説明
85t015 

南宮大社石鳥居016

中山道東の見付(宿場の入口)020

垂井追分道標025
垂井追分道標の説明w027

中山道ミニ博物館のある民家

タルイピアセンター

左木曽路の道標(タルイピアセンター)t95031

右美濃路の道標(タルイピアセンター)t95032
松並木解説w036

美濃路松並木(垂井)

綾戸古墳へ041
綾戸古墳の説明w043

熊坂長範物見の松解説044

六社神社047

六社神社由緒

長松城址052

平林荘へ055
平林荘の説明w056

平林荘057

平林荘060

平林荘で昼食(10.3)54

史跡・平林荘門前で全員集合(10.3)59

静里町塩田常夜灯へ068

塩田常夜灯070

H30.9.4の台風で破損した常夜灯

杭瀬川にある塩田の常夜灯075

杭瀬川を渡る078

正覚寺発句塚(芭蕉・木因遺跡)081
芭蕉・木因遺跡w082

句碑086

奥の細道むすびの地記念館092

むすびの地記念館でクールダウン(10.3) 70

むすびの地記念館で解散式(10.3) 71

水門川沿いに大垣駅に向かう093

舟町道標096

飯沼欲斎(10.3) 76

大垣城と戸田氏鉄騎馬像(10.3) 78

大垣共立銀行本店

大垣城東門101

大垣駅前の水都の泉t95104

大垣駅(14:22)88

『解説』  垂井町観光ガイド  コースマップ(PDF)    Top
美濃路
「美濃路とは、中山道垂井宿から、大垣・墨俣・起・萩原・稲場・清須・名古屋の7宿を経て、東海道宮宿(熱田)
 へと続く全長14里24町(約58km)余りの街道。中山道に付属する脇街道として幕府の道中奉行の支配下に
 置かれた道です。佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・境川(小熊川)・起川(木曽川)に渡し場が設けられ、
 将軍や朝鮮通信使などの通行の際には、いくつもの船をつなげて作られた「船橋」が架けられた。
 美濃路の原型は鎌倉街道と考えられており、又、関ヶ原の合戦において、徳川家康が凱旋した道でもあること
 から、江戸時代には「御吉例街道」とも呼ばれた。
 美濃路は東海道の鈴鹿峠や伊勢湾を渡る「七里の渡し」のような難所が比較的少ないため、朝鮮通信使や
 琉球使節などの外国使節、象などの珍獣、権威を誇った大名行列や御茶壷行列などの特殊な通行が頻繁に
 行われる道となっていった。」

美濃路マップ 垂井〜大垣=10.5km 大垣〜墨俣=8.0km 墨俣〜起=9.7km 起〜萩原=3.9km 萩原〜稲葉=5.9km 稲場〜清洲=5.9km 清洲〜名古屋=7.9km 名古屋〜宮宿=5.9km  合計57.7km
垂井宿(岐阜県垂井町)
垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県不破郡垂井町。
西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。
毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。
大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。
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亀丸屋西村家      Top
亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、200年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している貴重な
旅館である。
安永6年(1777年)に建てられた間口5間・奥行6.5間の母屋と離れに上段の間を含む8畳間が3つあり、
浪花講、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、2階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。Top
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『垂井追分道標』
追分は中山道と美濃路の大切な分岐点でした。ここには宝永6年(1709)、垂井宿の問屋奥山文左衛門が
建てた「是より右東海道大垣みち左木曽街道たにぐみみち」と刻まれた自然石の道標があり、中山道250余
の道標中7番目に古く、歴史的に非常に価値の高いものです。Top
タルイピアセンター  Top
開館	1994年
所在地	〒503-2121.岐阜県不破郡垂井町2443
タルイピアセンターは岐阜県不破郡垂井町にある図書館、歴史民俗資料館、歴史文献センターなどで構成
された文化施設のことである。垂井町で毎年11月に朝倉運動公園で行われる「ふれあい垂井ピア」と混同
されることがある。
美濃路松並木  Top
美濃路は中山道と東海道を結ぶ脇街道です。かつては道の両脇に松が植えられていましたが、大半は消滅し、
ここが美濃に残る唯一の松並木です。
綾戸古墳
直径40m 円墳 武内宿禰(たけのうちのすくね)の墓という事になっています。、古墳の上には、平将門の怨霊
を調伏したときの幣(しで)を掛けた松であるとか、12世紀中頃の大盗賊、熊坂長範(くまさかちょうはん)
が「物見の松」とも「幣掛けの松」といわれる高さ5mの松があったとも言われています。
本当の被葬者は不明です。Top
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熊坂長範物見松跡(岐阜県不破郡垂井町綾戸)  Top
円墳上に残る松の切り株と熊坂長範の伝説
古墳時代終末期の円墳の綾戸古墳の墳上に、かつて生えていた松の切り株。平安時代の伝説上の大盗賊・熊坂長範
が、この松の木から東山道や鎌倉街道の旅人を見張っては、身ぐるみをはいでいたという伝説が残っている。
長範は、謡曲「烏帽子折」「熊坂」にも出てくる盗賊で、奥州に向かう牛若丸を襲ったが、逆に討たれてしまった
とも伝えられている。現在この松は枯れたため、切り倒されてその切り株が残っているのみ。
なお、同じ場所に、古事記や日本書紀に登場する武内宿弥(武内大神)の墓があり、綾戸古墳は町指定の史跡と
なっている。
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武内宿弥(wikipedia)
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
「考証」
『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には、歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う
人物像等が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が
共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれていると指摘がある。ただし、『古事記』では
『日本書紀』に比して物語が少ないことから、『旧辞』の成立より後、蘇我馬子・中臣鎌足ら忠臣がモデルと
なってその人物像が成立したと推測する説がある。また、弟の甘美内宿禰(味師内宿禰)とともに「内宿禰」を
称することから、大和国宇智郡を根拠とした豪族の有至臣(内臣)との関連も指摘される。
『三国史記』には、倭王の命を受けて新羅を攻め、舒弗邯の于老を処刑した于道朱君という倭人が登場するが、
この者の名が「うちすくん」と見られること、暦年研究から助賁王や沾解王の在位年代が神功皇后の活動年代と
同時代と見られることなどから、于道朱君とは「内宿禰」であり、武内宿禰と同人であると見る説がある。
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長松城址
長松城は岐阜県大垣市に存在した中世の平城である。豊臣秀吉の参謀・竹中重治の従弟(甥とも)であった竹中重利
が、重治から長松城周辺を分知され、築城した。
文禄3年(1594)重利が加増を受けて豊後高田へ移ると、代わって豊臣秀吉に仕えた武光忠棟が入るも、忠棟は慶長
5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北、長松城は廃城となった。現在の大垣市立荒崎小学校付近が城域であった
が、遺構は残っておらず、小学校の校門付近に石碑が立てられているのみとなっている。Top
平林荘
平林荘は、江戸時代後期の蘭法医で植物学者として著名な飯沼欲斎が、その晩年を送った隠居所であり、植物学の研究
に専念した研究所でもあります。欲斎は慶応元年(1865)、84歳で没するまでこの平林荘で植物学を研究し、
安政3年(1856)、「草木図説」を刊行しました。  Top
塩田常夜灯(市重要有形民俗文化財)
杭瀬川旧塩田橋の河畔にあるこの常夜燈は明治13年(1880年)の建立です。この付近にはかつて塩田湊があり、生活物資
や石灰などの運搬が頻繁に行われ賑わっていました。この塩田湊に出入りする船の安全を見守ってきたのがこの常夜燈
です。またこの常夜燈は伊勢神宮の遙拝所となっています。  Top
正覚寺発句塚
大垣藩の近藤如行(じょこう)をはじめ多くの門弟を門下にした。元禄7年大阪で病死すると、正覚寺に芭蕉の追悼碑
を最も早くたてた。また、木因の死後、木因碑をたてて、この地を「芭蕉・木因」遺跡とした。

  "あかあかと 日はつれなくも 秋の風"
  (あかかかと ひはつれなくも あきのかぜ)
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元禄2年8月21日(1689年10月4日)駒にたすけられて(馬に乗って)大垣に入り"蛤の ふたみに別 行秋そ"
を詠んで奥の細道最後の句にした。 そして、再び船町港 から 伊勢神宮 へと旅立った。 Top
奥の細道むすびの地および記念館(大垣)  Top

徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、俳人・松尾芭蕉は江戸深川を旅立ち、約5か月をかけて全行程約2400キロメートルを
旅し、ここ大垣市で「奥の細道」紀行を終えました。芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を
出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ
2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。
『奥の細道むすびの地記念館』は、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を
紹介する「芭蕉館」、大垣の歴史や文化・芸術を築き上げた幕末の先賢の偉業を紹介する「先賢館」、大垣市と西美濃地域
の観光情報や全国の芭蕉関連施設を紹介する「観光・交流館」の3館と、大垣藩藩老・小原鉄心の別荘で、市指定文化財で
ある「無何有荘大醒?」から構成されています。  Top
大垣宿 (岐阜県大垣市)
大垣宿(おおがきじゅく)は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市にある。
大垣宿は大垣藩の大垣城城下町でもある。このように宿場町であり城下町である場所は加納宿等がある。
大垣宿は西口〜東口までの長さは約2.9km、京口門(西総門)〜名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、
大規模な宿場町であった。京口門と名古屋口門は有事の場合、大垣城の7箇所の門と同時に閉鎖される仕組みで
あった。現在の大垣市の地名でいうと、伝馬町〜本町〜竹島町〜俵町〜船町〜久瀬川町が該当する。
大垣市はかつての大垣宿の歴史・文化を利用した景観まちづくりを策定している。  Top
全員集合(平林荘)2020.10.03
t85w059


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