第87回友歩会史跡巡りシリーズ・西尾張編PartR2 
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(令和3・2021年4月3日(土)天気:晴れ) (42名参加)  歩数:28,852歩
下見・令和3年2月20日(土)晴れ・(11名参加)・歩数:24,610歩

コース:
スタート−9:00・名鉄・新木曽川駅→木曽川資料館(受付)スタート→黒田城址→法蓮寺→籠守勝手神社→
→田所遺跡→光明寺霊園→光明寺城址→(光明寺公園)→河野妙性坊→北方代官所跡→(森春濤碑)→
→宝江の渡し跡→(尾西線木曽川橋駅跡→雀の宿公園)→宇夫須奈神社→賀茂神社→名鉄・玉ノ井駅(12Km)

ICC「街ネタプラス」2021年4月5日放送分(友歩会4.3例会:木曽川町など)YOUtubeの報道をご覧ください。


木曽川商工会 一宮市観光協会 一宮市 コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 全員集合



新木曽川駅(2015.1.17)

木曽川商工会館前で受け付け(2021.4.3) 87k01

出発式前にICCの取材を受ける(左)2021.4.3   87k02

木曽川資料館(旧木曽川町議事堂) np12083

黒田城跡(山内一豊生誕地)に到着np12003

黒田城址(黒田小学校内)背後は町制百年記念碑107

山内一豊公(黒田小学校内) 85r003

黒田城跡解説(85r006)(拡大版参照)

山内一豊の父(盛豊)と兄(十郎)の墓(法蓮寺内)
<左:祝/町制百年&黒田城主・澤井雄重公
没後4百年記念碑(黒田小学校内)

山内一豊公出生の地碑(法蓮寺内)np12010

法蓮寺山門np12011

山内家の墓(法蓮寺内)54k110

墓の解説(弘治3年(1557)・山内但馬守と彫刻)54k112

法蓮寺本堂np12014

籠守勝手神社np12017

籠守勝手神社(継体天皇伝説=「鎌倉街道p46」)
父を殺害された2皇子が難を逃れる為真清田神社
に向かう途中,黒田大明神の杜森に籠を留め籠の
中で一夜を過ごした。村人にもてなされたが、夜明
けを待たずに出発した。これ以後黒田明神を籠守
勝手神社と尊称するようになったと伝えられている。

籠守勝手神社85r016

籠守勝手神社85r018

田所遺跡85r020

田所遺跡解説85r021(拡大版参照)

光明寺霊園85r025

光明寺霊園(女工焼死事件)85r026

光明寺霊園85r027

光明寺城址 85r031

高野長英寓居の地碑85r037

北方渡し跡85r038

河野妙性坊本堂039

河野妙性坊由緒040

河野妙性坊境内で昼食 87k43

河野妙性坊で全員集合  87k44

北方代官所跡043

北方代官所跡の解説を読む 87k47  2021.4.3

明治天皇御駐驛記念塔(右/北方尋常高等小学校跡)85r047

森春濤詩碑85r052

木曽川漁協(木曽川堤駅東)85r054

大正天皇(皇太子の時)御野立所85r059

右津しま起道の道標85r062

宝江渡し跡85r064

尾西鉄道木曽川橋駅跡85r068
木曽川橋駅

電化前の様子。
手前に伸びる
線路は木曽川
港方面の貨物
線。
開業年月日1914年
(大正3年)8月4日
廃止年月日1959年
(昭和34年)
11月25日備考:貨物駅
(旅客駅の終点)
臨時電車が
乗り入れた
木曽川港駅
(1922年)
開業年月日
1918年
(大正7年)
5月1日
廃止年月日1959年
(昭和34年)
11月25日
備考:貨物駅

宇夫須奈神社073

宇夫須奈神社086

宇夫須奈公民館071

雀の宿公園(野鳥観察)081

白鳥の飛来(木曽川)083

雀の宿公園で休憩 87k56

奥村井筋の桜 87k59   2021.4.3

賀茂神社087

霊泉玉井090

賀茂神社に集合  87k60

賀茂神社(解散式)  87k62

名鉄・玉ノ井駅107(2021.4.3はPM3.01分発に乗車した)

一宮市木曽川資料館 ksiryoukan01&02(山内一豊略年譜)   Top


『解説』   コースマップ(PDF872map)    Top
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木曽川資料館  Top
山内一豊を中心に、浅野長政、兼松正吉、奥村永福など一宮市ゆかりの戦国武将、史跡などを紹介している。
建物は大正13年(1924)に竣工した旧木曽川町会議事堂で貴重な歴史的建造物としても現存している。 

黒田城址(wikipedia)  Top
黒田城は、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)に戦国時代から安土桃山時代にかけてあった日本の城。平城。
一宮市指定史跡。初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城とされる。
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WEB解説(黒田城)   Top
山内一豊の父盛豊は、岩倉城を本拠とする岩倉織田氏の家老を務め、支城の黒田城を預かっていた。
天文14年(1545)に、一豊はこの地で生まれたとされ、弘治3年(1557)の敵襲を受けるまで、黒田を中心に暮らしたことであろう。
山内氏の退去後は織田広良が入城し、次いで和田氏、澤井雄重が城主を務めた。信雄失脚後は、秀吉家臣の一柳直盛が入り、慶長5年
(1600)の転封まで使用された。
現在、市街化が進み遺構は残らないが、江戸時代の絵図によれば、城は野府川を北の備えとし、東には後の岐阜街道を抑えていた。
天守に相当する櫓もあったと思われる。
この小公園は平成10年に整備され、冠木門(模擬)の右手奥には一豊顕彰会寄贈の一豊立志像がある。
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WEB解説(豊臣・徳川武将、山内一豊)   Top
 山内一豊の面白いところは武功ではなく、たった一言で土佐24万石の大領を手に入れたことだ。
1600(慶長5)年7月のことである。徳川家康は上洛命令に従わない会津の上杉征伐のため、下野国・小山にいた。実は家康の狙いは
上方の石田三成を討つことにあった。だが、そのためには自分に従っている諸将の本心を確かめておく必要があった。このとき一豊は、
一同が度肝を抜かれるような発言をした。  「居城・掛川城を家臣ごと献上します」 ただ味方をするというだけでなく居城をしかも
家臣ごとそっくり差し上げるという破格の提言だった。これには家康も狂喜して天下分け目の関ヶ原で勝利した後、一豊に土佐24万石を
まるまる与えたのだ。だが、一豊は土佐に入ってから苦労した。旧領主の長宗我部系遺臣を力づくで弾圧したために一揆が頻発した。
そのため、領内を巡察するときには常に影武者5人を連れていたので、これを六人衆と呼んだという話が伝わっている。
ちなみに一豊の妻は、内助の功で知られる千代。無名時代の夫に名馬を買い与え、織田信長の目に留まって一豊が出世するきっかけを
つくったことでよく知られている。賢妻・千代がいなかったら一豊は城持ち大名になれなかった。もしかすると、あの破格の提言
「城を家臣ごと献上します」も、千代のアドバイスだったかもしれない。   Top
法蓮寺(WEB)   Top
妙王山法蓮寺は本尊を日蓮聖人尊定大曼茶羅とし、日蓮宗身廷山久遠寺の直末寺であり、明応元年(1492)、身延山第十一世、日朝上人
の弟子、日妙師が諸国を巡歴の途中当地へ来られ、この地の信徒の「宗門の寺院が近隣にない・・・」とのせつない願いにより、一宇を
建立、翌、明応二年に本山をまいり、山号、寺号を受け、これを開基とする。この寺は山内氏の菩提寺となったが、古記録に「黒田城主
山内但馬守盛豊、天文年間より、永禄二年まで城主」とあるところから、天文年間(1532〜1555)岩倉城主織田信康の重臣として黒田
城主に赴任した盛豊公は、永禄二年(1559)岩倉合戦で戦死するまで、菩提寺として当寺を崇拝したものと考えられる。弘冶三年(1557)
織田信長の夜討ちにあって戦死した長男・十郎とともに当寺に墓が現存(宝篋印塔)しており、墓域は美しく整えられ、今日もなお歴史
を物語っている。また、法蓮寺の妙見堂は、日本三大妙見の一つに数えられる妙見菩薩で有名である。法華経の校本で日相本として世に
知られる日相上人は、当地の生まれでこの寺の十三代の住職である。
法蓮寺本堂北には、一豊の父・山内但馬守盛豊と兄・十郎の墓がある。兄は弘治3年(1557)に黒田城で夜襲にあい死亡。父は永禄2年
(1559)に岩倉城落城時に死亡したとされる。 Top
籠守勝手神社(Wikipedia)  Top
籠守勝手神社は、愛知県一宮市木曽川町(旧葉栗郡木曽川町)にある神社である。旧社格は郷社。式内社の尾張国葉栗郡「黒田神社」と
いう。籠守勝手神社は黒田神社の古くからの通称であった。正式に籠守勝手神社と改称したのは明治時代初期である。
億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が雄略天皇から逃れるさい、ここに宿泊したと伝えられ、これを後世に伝えるために
行なわれているのが御駕籠祭(おこもりまつり)である。厄払い、豊年を祈願する祭であり、1500年以上の歴史がある。
かつては、神社に勝手に籠もり心より願をかけると、必ず成就するといわれていた。現在は行なわれていない。
概況
創建時期は不明。億計王と弘計王の父である市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されたのが安康天皇3年(456年)とされているので、それ
以前には創建されていたと推測される。黒田神社が正式名称であったが、このころには籠守勝手神社とも呼ばれていたという。
古くから重要な神社とされ、称徳天皇、宇多天皇の時代に奉幣の記録がある他、天暦5年(951年)には村上天皇の使いが病気平癒の
祈願を行なっている。天正10年(1582年)、黒田城城主沢井雄重(織田信雄の家老)により再建される。
江戸時代は「黒田大明神」「白山神社」と呼ばれていた。1872年(明治5年)に葉栗郡北西部(黒田村、内割田村、外割田村、玉ノ井村
三ツ法寺村、里小牧村、北方村、中島村、曽根村)の郷社になったさい、籠守勝手神社に改称される。 Top
光明寺霊園(wikipedia) Top
光明寺村女工焼死事件は、1900年(明治33年)1月23日に、日本の愛知県葉栗郡光明寺村字本郷(現・一宮市光明寺本郷屋敷)の織物
工場で、女工31名が焼死した事件である。1900年(明治33年)1月23日午前3時30分、1棟で工場と炊事場と寄宿舎を兼ねる織物工場の
1階にある機織場で火災が発生した。この棟の2階の2間には女工49名が寄宿しており、そのうち18名は脱出できたが残りの31名は女工
をこの空間に閉じ込めるべく設置されていた頑丈な窓の鉄格子に阻まれて逃げることができず、炎上する寄宿舎の中で焼死した。
女工たちの遺体は猛火に焼かれて完全に炭化・白骨化しており、肉親でも見分けがつかないほどであったという。
当時の尾張地方の織物業者の間では、「男性が忍び込むことがないように」との名目で、その実、女工の逃亡を防ぐことを目的として、
寄宿舎の出入り口には施錠し、窓には頑丈な鉄格子を填め込むことが常識になっており、この工場もその慣習に従っていた。
火事に気付いた女工たちは、1階から火が迫ってきたため階段を使うことができず、唯一の脱出口となり得た窓を鉄格子に阻まれたこと
で、逃げ場が全く無い阿鼻叫喚の中で焼け死ぬしかなかったと考えられる。この事件は、当時の繊維工場の労働環境を調査した政府の
報告書「職工事情」にも掲載された。愛知県は、この事件を機に、3か月後の同年4月23日付で「工場及寄宿舎取締規則」を改正し、
労働者を監禁する形の寄宿舎は禁止となった。寄宿舎に避難階段を設け、消防器具などを設置することも、事業主が守るべき規定として
明文化された。また、犠牲になった女工のほとんどが愛知県三河地方にある幡豆郡(現在の西尾市に相当する地域の中核)の出身で
あったことから、同地域では事件に心を痛めた葉栗郡(※事件現場の属する郡)の有力者が発起人となって資金を出し合い、同年7月、
幡豆郡西尾葵町(現・西尾市葵町)に吊魂碑(ちょうこんひ。慰霊碑)が建立された。その一方で、犠牲になった女工たちそれぞれの
墓はと言えば、光明寺墓苑(現・光明寺霊園。所在地現在住所:一宮市光明寺山屋敷100)の敷地内にて誰のものとも分からない多数の
小さな墓石として点在していた。後の世になってそれらが件の女工たちのものと判明し、1975年(昭和50年)8月、墓苑の一角に
「織姫乃碑(おりひめのひ)」が建立されると共に、女工たちの墓石は碑の周りに集う形で安置された。
なお、光明寺(こうみょうじ)というのは事件があった本郷(現・本郷屋敷)が属する地域名で、墓苑(霊園)は2区画隔てた西にある。
事件現場を擁する現在の地方自治体は一宮市である。「せんいの町一宮」を謳う同市は、同地域および繊維業における「負の歴史」を
語るうえで欠かせない事件と位置付けており、一宮市教育委員会が発行した中学校社会科副読本『のびゆく一宮』(2002年刊)にも
掲載している。 Top
北方代官所跡  Top  
天明元年(1781)郡奉行を廃止し、すべて代官とし、百〜百五十石の武士が任命された。
代官所は御陣屋と呼ばれ、北方代官は尾張・美濃の百七十一ヶ村、総高八万七千百九十三石余りの広大な地域を支配した。また川並奉行
所があり、川並奉行は代官が兼務し、主に木曽川から切り出し筏で届く木材の管理をした。 そして、川並奉行所に属する御番所を置き
常に船の積み荷を検視し、夜は船舶の通行を禁止した。この番所に「木曽川徒渡りの者、切り捨てにす事」の額を掲げていた。
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木曽川堤駅  Top   
木曽川堤駅は、愛知県一宮市北方町北方畑下裏にある名古屋鉄道名古屋本線の駅。駅番号はNH55。manacaの利用が可能である。 
4両編成対応の2面2線の相対式ホームを持つ築堤上にある地上駅。高架駅のような趣がある。無人駅であり、2007年3月14日より駅集中
管理システムが導入されている。(管理元は名鉄一宮駅)。 
駅周辺の線路には堤防への勾配があるため、駅ホームも斜めになっている。駅のすぐ岐阜方に堤防道路があり,堤防道路を過ぎるとすぐに
名鉄最長の木曽川橋梁を渡る事になる。かつては、この木曽川橋梁を渡りきるとすぐに東笠松駅があったが、利用者の減少とトランパス
導入に伴う経費削減のため2005年1月29日に廃止された。
『名鉄120年:近20年のあゆみ』によると2013年度当時の1日平均乗降人員は691人であり、この値は名鉄全駅(275駅)中248位、名古屋
本線(60駅)中54位であった。
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宝江渡し跡  Top
慶長五年(1600年)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際,東軍の先鋒池田輝政は一万八千の軍勢を率いてこの地に到着,木曽川越え
は遅々として進まず、北方の高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門(当時は苗字は無かった)の機転により滞留無く渡河し、両名は、その功に
より御船渡守として、船頭給、二十八石五斗と苗字帯刀の恩賞を受けました。次いで、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、岐阜街道を
改修し、この地から対岸への渡船を官道とし、代々の高橋・広瀬の両名が渡しを守りました。明治11年(1878年)10月25日、明治天皇
御巡幸の際、両名は私費をなげうって船橋を架しましたが、翌年流失し、鉄橋架設に至るまで渡船を継続しました。Top
木曽川橋駅(wikipedia)       Top
里小牧 (1.1km)---(0.9km) 木曽川港  所在地	愛知県一宮市北方町  所属事業者:名古屋鉄道・所属路線:尾西線
キロ程	33.8km(弥富起点) 駅構造:地上駅  開業年月日:1914年(大正3年)8月4日 
廃止年月日:1959年(昭和34年)11月25日  備考:貨物駅

現在の玉ノ井駅から先にあった廃止区間(玉ノ井駅・木曽川港駅間)に存在した駅である。木曽川港駅は貨物駅であったため、旅客駅
としての終点は木曽川橋駅であった。一時期、一ノ宮駅(現名鉄一宮駅)・木曽川橋駅間を木曽川線と称していた。
駅名は1910年(明治43年)に架橋された木曽川橋(木製)より。この木曽川橋は1937年(昭和12年)に木曽川橋(旧道路法国道12号→
新道路法国道22号→岐阜県道・愛知県道14号岐阜稲沢線)の架橋により撤去されている。橋脚跡は残っている。
木曽川橋から木曽川橋駅までの距離は約300m。名岐鉄道名岐線(現在の名鉄名古屋本線)の新一宮から岐阜までが1935年(昭和10年)
に開通し、同線が全通する以前は名古屋と岐阜を結ぶ路線でもあった。当時は、名古屋側のターミナルであった柳橋駅から木曽川線を
直通する急行が運転され、この乗客は終点の木曽川橋駅から木曽川対岸の笠松駅(初代笠松駅。現在の駅より南にあった。笠松駅、
笠松口駅の項目も参照)までを徒歩(のちにバス)で移動し、そこから再び鉄道で岐阜方面へと向かう、という方式がとられていた。

1914年(大正3年)8月4日 - 尾西鉄道により新一宮駅・当駅間が開業した際に開設。
1918年(大正7年)5月1日 - 貨物線として当駅・木曽川港駅間が開業。
1922年(大正11年)7月10日 - 新一宮駅・木曽川港駅間が電化。
1925年(大正14年)8月1日 - 買収により名古屋鉄道尾西線の駅となる。
1944年(昭和19年)3月21日 - 奥町駅・木曽川港駅間が不要不急路線に指定され休止。
1959年(昭和34年)11月25日 - 休止中の玉ノ井駅・木曽川港駅間の廃止に伴い廃駅。

木曽川港駅 - 木曽川橋駅 構内配線略図(1943年)
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出典:清水武、田中義人『名古屋鉄道車両史 上巻』、アルファベータブックス、2019年、p.184

駅跡は民有地になっているが、プラットホームの痕跡はする。かつてのプラットホームの上に民家が建っている。近くにある北方西
保育園のグラウンドに「尾西鉄道木曽川橋駅跡」の説明看板がある。名鉄名古屋本線木曽川堤駅から南西へ約600m付近である。
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木曽川線廃線跡(航空写真)

(下記WEB参照)

尾西線木曽川橋跡及び

名鉄尾西線・玉ノ井〜木曽川港の廃線跡

木曽川線廃線跡散策
宇夫須奈神社(HP参照)  Top
創立年月は詳かでない。當社は往古「青木宮」と称し青木の里に鎮座されていたが後木曽川堤沿いに移されたもので、現在木曽川中学校
南西に 南青木 中青木 北青木の地名で残され、最近まで青木宮跡といわれる小高い丘があった。東沿いの□□に砂塵が甚だしく
埋まるので正保2年(1645)に現在の神域に遷座されたものである。當社を「青木宮」と称したのは初の祭神の名を取り、五百木宮
と称来し「イオキ」を「アオキ」と唱え、此の五百木を言葉にて青木の如く書きしによるべし、トノ言伝えがある。
明治41年、村社天神社、祭神伊奘諾命、伊弉冉命、が合祀された。
社名「青木宮」は古くは宇夫須奈神社と称していたのを宇夫須奈大明神と称え、大明神だけ宇夫須奈権現としていたが昭和17年に愛知
県知事に申請し、現在の社名「宇夫須奈神社」になった。「宇夫須奈大明神」の名は、延喜式にも見受けられる。
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賀茂神社   Top
賀茂神社は、愛知県一宮市木曽川町(旧葉栗郡木曽川町)にある神社。 式内社の尾張国葉栗郡の穴太部神社である(穴太部神社は岐阜県
岐阜市の天神神社の説もある)。 創建時期は定かでないが、6世紀の欽明天皇の代(539年〜571年)と伝えられる。 
1090年(寛治4年)、賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称する。 
1586年(天正14年)6月に発生した木曽川の大洪水により木曽川の本流は大きく流路を変え、葉栗郡は木曽川によって2分される。木曽川
の右岸となった地域は美濃国羽栗郡となる。これにより美濃国羽栗郡の氏子のために、1599年(慶長4年)、美濃国羽栗郡南及村(現岐阜
県羽島市正木町南及)に分社する。 
1946年(昭和21年)1月に県社に昇格の予定であったが、戦後の神道指令の影響で県社に列されることはなかった。 境内に湧出する清水
は「玉ノ井霊泉」(玉ノ井清水、玉井清水)といい、この周辺の地名「玉ノ井」の由来となっている。この清水は光明皇后の目の病気を
平癒させたといわれている。現在も眼病平癒の信仰がある。 名古屋鉄道尾西線玉ノ井駅より徒歩5分
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名鉄・玉野井駅   Top
玉ノ井駅は、愛知県一宮市木曽川町玉ノ井にある名古屋鉄道尾西線の駅である。駅番号はBS24。尾西線の終点。
「名鉄・尾西線」
尾西線は愛知県弥富市の弥富駅から愛知県一宮市の玉ノ井駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。濃尾平野の西部を縦貫している。
佐屋駅 - 津島駅間は名古屋方面へ直通する列車が多数あるものの、全体的には地域輸送中心の路線であり、名鉄で最も古い路線である。 
運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応
カードが使用できる。 なお、『鉄道要覧』による起点は弥富駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、津島駅
から弥富駅・玉ノ井駅へ向かう列車が下り、弥富駅・玉ノ井駅から津島駅へ向かう列車が上りとなっている。 
かつて路線は玉ノ井駅から先、木曽川河畔の木曽川橋駅まで延びていた。なお、一ノ宮駅(その後、新一宮駅に改称、現在の名鉄一宮駅)
 - 木曽川橋駅間は木曽川線と称していた時期がある。
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全員集合・河野妙性坊/本殿前で(2021.4.3) Top


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