第89回史跡巡りシリーズ・知多編Part5 
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(令和4年4月2日(土)天気:晴れ) ( 38名参加)今日の歩数:34,048歩
下下見・2020年10月30日(金)天気:晴れ 歩数:30,400歩 下見12月19日(土)晴れ・歩数:22,642歩 (10名参加)
再下見2022年2月26日(土)晴れ・歩数:25,859歩 (8名参加)

コース:(尾張中島バス停7:51→JR尾張一宮8:16→大府8:44着)
スタート−9:00・JR大府駅村木砦村木神社入海神社越境寺善導寺乾坤院
於大公園うのはな館於大の道緒川城址地蔵院緒川駅(11Km)(→大府乗り換え→尾張一宮→中島バス停)

コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 全員集合 東浦町観光協会



JR大府駅西口 87h003

受付(JR大府駅西口)87hi01(2022.4.2)

鞍流瀬川を渡る009(写真は2018.12.15)

鞍流瀬川の桜は満開であった。87hi05(2022.4.2)

鞍流瀬川沿いの桜(2022.4.2) 87hi04

村木砦の碑 87h029

村木砦の碑がある八剣社87h024

村木砦の戦い(説明は拡大版参照) 87h025

旧村木村常夜灯跡の碑chi508(2022.2.26下見)

開眼寺 87h032

村木神社chi510

村木神社と信長の戦い(説明は解説欄参照)87h018

村木神社 87h019

入海神社  87c25

入海神社でガイドさんの話を聞く(2022.4.2)87hi07

入海神社伝説の話を聞く(2022.4.2)87hi17

入海神社境内にある入海貝塚の碑(拡大版) 87c28

緒川コミュニティーセンター 87h097

東浦町総合ボランティアセンター 87h098

ガイドと打ち合わせて海量山越境寺へ87c32

越境寺 (おっきょうじ)本堂 87c33

越境寺奥庭の切支丹灯篭87hi27

越境寺の水野氏の墓地の説明を聞く87hi33

善導寺 87c38

初冬の於大公園 87c42

於大公園の大楠木 87c43

大楠に歴代城主名が掲げられていた 87c44

於大公園でガイドさんと分かれる 87hi51

於大公園の桜(2022.4.2) 87hi50

於大公園の桜のトンネル 87hi53 (2022.4.2)

このはな館(於大公園)chi521

このはな館内(大河ドラマの甲冑)chi531

乾坤院へ 87h059

乾坤院/山門 87h062

乾坤院/鐘楼門 87h063

乾坤院/本堂 87h066

乾坤院/禅悦堂 87h067

乾坤院/至言堂 87h066

うのはな館へ 87h074

うのはな館(東浦町郷土資料館) 87h075

徳川家康(左)於大(中央)水野忠政(右)(2.26)chi533

うのはな館のひな祭り(2022.2.26)chi536

於大の道(明徳寺川の桜) 87h079

緒川城址へ 87c49

緒川城址 87c50

緒川村郷蔵 87h088

澤潟の井戸の碑(2022.4.2) 87hi75

地蔵堂のいぶき 、うなり石、澤潟の井戸 87h091

地蔵堂のいぶき 87h092

JR緒川駅 87h100 Top

緒川駅で解散式(2022.4.2) 87hi82

於大公園で昼食後に集合(2022.4.2) 87hi60 Top

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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JR大府駅(wikipedia)      Top
大府駅(おおぶえき)は、愛知県大府市中央町三丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。
当駅の所属線である東海道本線と、当駅を起点とする武豊線が乗り入れている。
『右上:JR大府駅、左下:あいち健康の森公園』      Top

Top

緒川城主水野氏(東浦町観光協会HP)
1475年頃初代緒川城主水野貞守から五代信元まで、その後は忠重など弟たちとその子供たちや、於大の子供たちが水野氏
一族として活躍しました。ここでは、桶狭間の戦い後に水野氏が家康を助け、三河一向一揆を乗り越えて家康が基盤を確立し
たこと。その後も家康を助けさらに、徳川幕府を水野氏一族が支えていた流れを簡潔に整理しました。


「信長・家康を同盟させ 支えたのが水野信元」
水野信元と徳川家康のかかわり(東浦町誌の年表に挙げられている事柄は以下のもの。)
1541(天文10)年 於大、岡崎城主松平広忠へ嫁ぐ
1542(天文11)年 12月於大、竹千代を生む
1543(天文12)年 7月12日水野忠政没す、乾坤院葬
1544(天文13)年 8月水野信元、織田信秀と同盟。 同年於大は岡崎を離縁され、後に久松俊勝と再婚
1554(天文23)年 水野信元と織田信長が、今川方の村木砦を落とす
1558(永禄1) 年 水野信元、松平元康と石ケ瀬で戦う
1560(永禄3)?年 桶狭間の戦いで、水野信元は大高城の松平元康に今川義元の戦死を告げ帰国を促す
水野信元と織田信長のかかわり
1561(永禄4)年 このころ水野信元が立ち会い、織田信長と松平元康が清洲城で会談し同盟を結ぶ
1563(永禄6)年 水野信元、三河一向一揆に参戦
         同年水野信元、松平元康・織田信長と並んで足利義輝の外様在国衆として記される
1568(永禄11)年 水野信元は織田信長に従い入京し、イエズス会の会堂を宿舎とする
1570(元亀1) 年 水野信元・忠重、姉川の戦いに参戦
1574(天正2) 年 3月に水野信元は、足利義昭から信長討伐を命ずる文書を受ける
(この文は家康にも送られ、甲州の武田勝頼と協力せよというもの。しかし、信長は将軍のこうした動きを察知していた。)
1575(天正3) 年 12月に水野信元は、織田信長の命令で殺される
信長の美濃進出から天下への道
その前提として徳川家康との同盟なくしてはあり得ません。その同盟を仲介したのは水野家四代忠政の子、水野信元です。
この意味で信元は、信長の天下統一の前提条件をつくったと言えます。
桶狭間後の家康の三河における基盤
きわめて脆弱なものでありました。それを支えたのが水野信元であり、特に三河一向一揆は信元・忠重の助けがあったから
乗り切ることができたのです。
桶狭間の戦い後
信長、家康、信元が清洲城で同盟を結んだ以降、信元が三河の支配に関与している古文書がいくつも見つかっています。
(三河平坂の山の開発権を無量寿寺に与える水野信元安堵状、三河一向一揆後の紛争処理に信元が関与していたことを示す
本光寺文書…など)
※このように二人の英雄が活躍したことは、水野信元の存在抜きに考えられません。
老中7人を輩出、多くの大名、旗本として幕府を支えた
260年余続いた徳川幕府において本家筋・分家筋として存在感を示し、幕府の老中7人(忠善の系統から忠元、忠之、忠邦、
忠精が、勝成の弟忠清の系統から忠友、忠成、忠誠)をはじめ多くの大名を輩出しています。
享保の改革の時の水野忠之、天保の改革の時の水野忠邦など。それに、よく知られている赤穂浪士47士の討ち入りでは、
討ち入り後に赤穂浪士は松平家・細川家・毛利家・水野家に預けられましたが、神崎与五郎ら9名が預けられたのが水野家。
この水野家は水野忠之であり、忠善の孫で3代後の岡崎藩主その後老中です。
※大名と旗本の違い…大名は1万石以上で藩主、その中でも徳川家の血を引く親藩大名(徳川御三家)と関ヶ原の戦い
以前から仕えていた譜代大名、関が原以後に仕えた外様大名に分かれる。旗本は1万石以下で将軍直々の家臣。
役割は大名が藩の守護者で旗本は幕政の実務者。両者は将軍に直接会うことが出来た。

町内に残る水野家・於大の方に関わる史跡
「緒川城址」 Top
水野貞守が文明年間(1469〜86)に築城したと伝えられ、今も当時の土塁の一部が保存されています。
目印は数本の松の木がそびえ、城址内には家康の生母「於大の方」出生地の碑が建っています。
1601年には水野分長が1万石の緒川藩主になり、1606年新城移封になるまで緒川は城下町だったのです。
「乾坤院」 Top
1475年水野貞守によって創建された曹洞宗の寺院。水野氏の先祖を祀る一方、門葉は尾張・三河・遠江に
広がり、江戸時代には末寺60か寺、小末寺19か寺を抱える中本山として大きな勢力を持っていました。
本堂は火災で焼失してしまいました(令和元年再建)。そして、境内に水野家四代の墓所があり、さらに
於大公園を挟んで緒川城主三代の墓所があります。
「善導寺」(1443年創建・浄土宗) Top
岡崎の松平に嫁いだ於大は、松平家が浄土宗だったことから地元緒川の浄土宗の善導寺へたびたび参詣し
寄進をしています。お寺には於大の夜着が今も保存され、於大と家康の位牌が並んでいます。他にも
県指定の文化財「異国降伏祈願施行状」が保管されています。境内にある塔頭の乗林院は、明治初めに
緒川と石浜共同の郷学校をここで始めました。
「沢瀉の井戸」 Top
地蔵院にあるこの井戸は水野家三代目清忠の妻が、子宝に恵まれるように祈願しました。その結果、
子宝に恵まれたと言います。
「村木砦跡」Top
水野信元は織田信長の助勢を得て、今川軍を破りました。今は鉄道と県道が通り抜け、且つ宅地開発が
進み昔の面影はありませんが、隣接する八剱社に説明板や石碑が建てられています。  Top

村木神社(WEB) Top 「由緒」 創建時期は不明だが、古くから津島社があり、延徳3年(1491年)に社殿を再建した記録が残っている。 現在の森岡保育園がある場所には、かつて水野信元の家臣が創建した八幡社があり、大正2年(1913年) に津島社に合祀して名称を村木神社と改めた。天文23年(1554年)の村木砦の戦いでは、織田信長が この辺りに本陣を置いたとされている。 「例祭」東浦町無形民俗文化財 森岡の村木神社おまんと祭り 例年、9月最後の日曜日に行われる祭りで、若衆が走る馬に飛びついて人馬一体となって疾走するもの である。尾張一円と三河の一部で豊作・村民安全祈願のため、馬を飾り立てて神社に奉納する祭礼で あり、馬の塔(おまんと)と呼んでいる。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元に勝利すると、村人が戦勝祝いとして清洲城 へ馬を走らせたのが始まりで、以後各村が社寺の祭礼行事として馬の塔を行うようになったという。 村木神社のおまんと祭りも、信長の戦勝祝いで馬を走らせたのが始まりと伝えられている。 走る馬に飛びつく馬駆けは、明治中期ごろから始まったとされる。 Top


入海神社の斜め左下に越境寺と善導寺がある。
入海神社 Top
入海神社(いりみじんじゃ)は、愛知県知多郡東浦町緒川屋敷壱区にある神社。近代社格では郷社。東浦町おまんとうまつり
の一社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
日本武尊が東征の際、相模の走水から上総に渡ろうとした時、海が荒れていたので、弟橘姫が日本武尊の難に代わろうと海神
に祈って海中に身を投じた。すると、海が鎮まり、日本武尊は海難を回避し、無事走水の海を渡りきった。
ここまでは『古事記』に記載されている。
当地では日本武尊の東征は、紅葉川から船に乗って出発し、海神に身を捧げて海を鎮めた弟橘姫の櫛が、紅葉川に流れついた
といわれる。関東地方には多い、弟橘姫の遺品の漂着伝承ではあるが、当地当りが西限か。ともかく、創祀は奈良時代の宝亀
年間(770年-781年)と伝えられる。ただ、ここに出てくる紅葉川は不詳。また、その後の由緒もよく分からない。
御祭神は弟橘媛命。相殿に弁天神社(宗像三神)を祀るという。
毎年9月中旬には八幡社山神社例祭が当社境内で行われ、やはり景品付きの餅投げがある。7月中旬には津島社の祭典として、
お天王祭が行われ、茅輪くぐりがある。
毎年10月に駆馬神事、いわゆる「おまんと」が行われる。鈴を背に着けた馬が当社境内に設えた柵の中を疾走、若衆の
「ハイヨー」の掛け声とともに馬につかまり、伴走する。
東浦町では、当社を含めて五つの神社で、9月から10月にかけてこの神事が行われ、総称して東浦町おまんと祭りと呼ばれる。

境内の拝殿・本殿東の段丘崖に沿って幅約10メートル、長さ約80メートルの貝層が弧を描くように分布している。
いわゆる入海貝塚で、国の史跡に指定されている。縄文時代早期後葉の貝塚で、貝塚からは縄文土器を中心に、石器・骨角器
などが出土している。
縄文土器は尖底で砲弾型をしており、口縁下に数条の突帯をめぐらし、突帯にヘラなどで刻みを入れているのが特徴で、
「入海式土器」と呼ばれ、東海地方の縄文時代早期末の基準土器。
上層には弥生式土器の散布もみられ、宮西貝塚へも貝層は続いている。
貝は75%がハイガイ、15%がカキ、残りがアサリやシジミである。Top
越境寺 (おっきょうじ)(東浦町観光協会HP) Top
日遵上人(1487年没)が創建。天正3年(1575年)に水野信元が信長によって殺害された後、佐久間信盛によって破壊され
たが、佐久間追放の後、再建された。水野信元の朱印状、血曼荼羅、慶長法難の主題軸などがある。 
Top


切支丹燈籠(きりしたんとうろう) Top
越境寺境内の奥庭にある石灯籠。隠れキリシタンが礼拝の対象とした灯籠と伝えられている。 材質は、竿・笠ともに天城石で、
竿の長さは90cm、胴回りは100cmから105cm、やや上部が太り、上に笠が乗る。笠は高さ38cm、天に擬宝珠を置き、なだらかな
八角形に広がる。円柱の笠の前後には三段線で縦17cm、横13cmの十字架の模様を貫き、内部は広くくり抜いて火袋とする。
笠の両横も十字架と同様の文様浅彫りにし、その内部に右側三日月、左側日輪を彫り込んでいる。
尾張藩では寛文年間に切支丹の弾圧があった。(町指定文化財) Top
善導寺(東浦町観光協会HP) Top
浄土宗・鎮西派。京都知恩院の末寺。嘉吉3年(1443年)音誉聖観上人が創建した。寺は始め海辺にあり、度々潮水の害を受けた
ので、慶長10年(1605年)緒川城主水野分長が現在の山上に移し再建した。家康の生母伝通院於大の方は、度々生まれ故郷の
この寺に参拝し、彼女の寄進した三尊阿弥陀如来像、善導大師木像・同師自画像、同師所持の柄香炉が今も保存されている。
尾張藩の頃、寺領21石9斗6升を給せられ、歴代藩主の黒印状がある。
県指定文化財「異国降伏祈願施行状」のほか、後柏原院御宸翰、宮本武蔵筆円光大師像、於大使用の夜着等を所蔵している。
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於大公園(東浦町観光協会HP) Top
於大公園(おだいこうえん)は乾坤院(けんこんいん)東隣の自然地形を生かして作られた都市公園です。面積12.1ヘクタール、
外周散策コース約1.4キロメートル、四季折々の緑や花が溢れ、野鳥や昆虫も多く集まる自然豊かな環境が特徴です。
「於大の方(おだいのかた)」の夜着の柄である菊の花びらをモチーフに建築されたこのはな館公園事務所が公園の中央にあり、
公園の自然や植物、生き物をテーマに緑の講習会や緑の展示会を開催しています。
薬木約100種類、薬草約60種類を植栽している薬木薬草園、絶滅危惧種のオニバスを栽培するオニバス池、400本の桜、60本の
枝垂れ梅、緑に囲まれた小さなバラ園、花菖蒲、竹林、沿道やこのはな館まわりの花を中心とした植栽、緑のカーテン、紅葉など、
1年を通して散策を楽しむことができます。
有料施設としましては、自然の中で楽しめるマレットゴルフ場、バーベキュー広場、子供たちに大人気のおもしろサイクル広場が
あります。
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武将のふるさと愛知  Top
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
戦国時代に愛知県で生まれた3人の武将が天下統一を目指しました。
三英傑と呼ばれることもあるこの3人ですが、東浦にも浅からぬ縁があります。
尾張森岡駅の北側付近の国道366号線とJR武豊線に挟まれた取手と呼ばれる地区には、八剱神社を含む村木砦跡という場所があり
ます。三英傑の1人、織田信長は尾張に侵攻した今川方とここで戦いました。村木砦の戦いと呼ばれるこの戦は、信長が鉄砲の
連射という新しい戦法を取入れた最初の戦いで、今川方の降参により終了しますが、この戦いに勝利したことにより、後の
「桶狭間の戦い」に勝利する契機になりました。
また、徳川家康の生母「於大の方」は緒川城主水野氏の娘として東浦で生まれました。小国の城主の娘である於大の生涯は波瀾に
満ちたものでしたが、岡崎城主松平広忠との間に竹千代(後の徳川家康)を授かりました。
「武将のふるさと愛知」では、三英傑を含めた愛知にゆかりのある武将・大名が紹介されています。
それは武将を通じて結ばれた、あなたと愛知県との絆です。 Top
うのはな館(郷土資料館)  Top
郷土の歴史や文化財を紹介する施設として、また、埋蔵文化財や歴史資料の調査・研究の拠点として、1999年(平成11年)11月
に開館しました。
 町内に所在する貝塚や古窯などからの出土遺物や、古文書、民具などの資料を収集・保管し、それらを展示・公開するとともに、
生涯学習の支援のため、歴史講座・陶芸教室などを開催しています。
◎2019年(平成31年)3月、常設展示がリニューアルしました!  Top
於大の道 Top
於大のみちは、愛知県東浦町の中央部を東西に流れる明徳寺川沿いにある散策道。同地で生まれた徳川家康の生母「於大の方」を
モチーフに、彼女の生涯を象徴する広場がある他、散策道に於大の方の夜着をイメージした模様をほどこしている。
桜スポットとしても知られ、明徳寺川の両岸約2kmに約400本あまりのヤエザクラなどが続く。 Top
緒川城址(WIKIPEDIA) Top
緒川城(おがわじょう)は、尾張国知多郡小河(現・緒川)にあった城。城跡は「緒川城址」として愛知県知多郡東浦町指定の
史跡となっている。
「歴史」
文明年間(1469年−1487年)に水野貞守により築城。のち賢正、清忠、忠政、信元と続いた。天正8年(1580年)の水野忠守の
入城に際し、居所の移転がなされる。慶長6年(1601年)に緒川藩が成立、水野分長が城主となるが、新城藩移封に伴い、
慶長7年(1606年)に廃城となる。
「構造」
南から北に、出丸、二つに区切られた主郭、家臣の屋敷、忠守および分長の居城となった曲輪群からなる。貞守の築城による
主郭およびその周囲の曲輪を「緒川古城」と称し、忠守らの居城区域を「高薮城」もしくは「緒川新城」と呼ぶことがある。
それぞれ現在の東浦町緒川字古城と緒川字屋敷三区に相当する。
「遺構」
「緒川古城」の主郭は児童公園となっており、僅かに北側の土塁の一部が残存する。土塁に隣接して「緒川城址」の石標と城趾
全体の縄張り図を含む案内板がある。
「高薮城」周辺は一面宅地となり、当時の面影をとどめていない。かつては石碑(愛知県)が建てられていたが、今は東浦町
役場の北に移動されている。ただし、水野氏菩提寺の乾坤院の総門は「緒川新城」廃城の後に移築されたもので、現存する唯一
の建物であるとの伝承が同寺にある。Top
地蔵院  Top
曹洞宗。本尊の木造地蔵菩薩。境内に水野家家紋ゆかりの「沢潟の井戸」(おもだかのいど)やうなり石がある。

昔、緒川城主水野氏夫妻は子供に恵まれず、当時のこととて神仏にお祈りしていました。
夫人は以前から、近くのかき殻地蔵を深く信仰し、満願の日になって、いつものように身を清めるため、地蔵堂にある井戸の水
を汲もうとしました。ところが、井戸の水面に「おもだか」の葉が浮かんでおり、その上に永楽銭が1枚乗っているのを見つけ
ました。これは何か良い知らせがあると思い家へ持ち帰りました。
 間もなく婦人は懐妊し子供が生まれ、産湯もこの井戸水を使ったそうです。
水野氏はこの地蔵を厚く信仰し、井戸は「おもだかの井戸」と名付けて、家絞も「おもだか」と永楽銭を組み合わせたものに
したと伝えられています。

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緒川駅
緒川駅(おがわえき)は愛知県知多郡東浦町大字緒川字竹塚にある東海旅客鉄道(JR東海)武豊線の駅である。駅番号はCE02。
概要
大府駅と武豊駅を結ぶ武豊線の中間駅(途中駅)の一つ。東浦町北部にあり、大型商業施設「イオンモール東浦」等が立地する
商業地の緒川地区に位置する。
武豊線開通にあわせて1886年(明治19年)に緒川駅は開業したが、北部に大府駅が新設されたのにあわせて翌年に一度廃止さ
れた。1900年(明治33年)に再度設置され、この2代目の緒川駅が現在に至っている。また、1995年(平成7年)に高架化され、
武豊線の各駅のうちで唯一高架化された駅となった。
石ヶ瀬川と大府駅  Top
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石ヶ瀬川の戦い 
戦争:戦国時代 (日本)  
年月日:永禄元年(1558年) - 永禄4年(1561年)  
場所:尾張国石ヶ瀬川畔  
結果:勝敗つかず

交戦勢力:水野軍  松平軍  指導者・指揮官:水野信元  松平元康  
石ヶ瀬川の戦い(いしがせがわのたたかい)は、永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)にかけて、尾張国
で行われた合戦。場所は現在の愛知県大府市と同県知多郡東浦町の境界付近で、3度にわたり戦闘が行われた。 
「概要」
戦国時代、尾張国は織田信長の支配下にあった。 しかし永禄年間になると駿河の今川義元の勢力が尾張国にも
及び、永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)にかけて、織田信長と今川義元、そして織田氏と連合する
水野信元と今川勢の松平元康(後の徳川家康)が石ヶ瀬川を挟んで衝突した。 
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、織田・水野氏は松平元康と和睦した。 Top

石ヶ瀬川 Top
この川は大府市馬池町付近が源で大府市南部から東方に流れている川です。この2つの川はかの有名な織田信長、今川義元の
合戦、桶狭間の戦と大きな関わりがあるのです。
戦国時代織田信長の支配下にあった尾張の国は、今川義元に狙われて永禄元年(1558年)から永禄4年(1561年)に
かけて、織田信長と今川義元、そして織田氏と連合する水野信元と今川勢の松平元康(後の徳川家康)が石ヶ瀬川を挟んで
3度衝突しました。これを石ヶ瀬川の戦いと言います。
ちなみには桶狭間の戦いで今川義元が討たれ松平元康が織田・水野氏と和睦したため勝敗はつきませんでした。Top
★ 全員集合  (於大公園)(2022.4.2) Top


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