第99回河川探訪・木曽川編R1 11km 
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  (令和5年(2023)12月2日(土)・天気:晴れ) (37名参加/18,224歩/12.2の例会は都合により遅刻早退した)
下見・令和5年11月4日(土) 晴れ:歩数:28,431歩 (9名参加)

コース:小信中島(iバス停) 8:10発→名鉄萩原駅8:45着
スタート: 9:00・萩原駅市川房枝生家跡吉藤城址(多良街道)小塚直持墓碑西中野の渡し→(新濃尾大橋現場)→
→富田山公園→聖徳寺跡尾西歴史民俗資料館→起(バス停)


コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 全員集合 寺さんWeb 一宮友歩会一宮市博物館一宮市観光協会
萩原町ウオーキング(2009.1.11)健康作り萩原町ウオーキング(2011.3.5)第66回・西尾張編Part15(2017.2.4)

美濃街道 萩原宿 萩原橋 美濃路探訪(2014.10.26尾西歴民主催)・・・高札場掲載 『朝日史跡めぐりマップ』
木曽川・美濃路・起村・小信川跡・日光川筋map(「大徳の歴史」10.24)



名鉄萩原駅(2017.2 No.66) n66004 

郷土資料館 95

舟木一夫の映画ポスター等展示(郷土資料館内)mh26047

舟木一夫ゆかりの地(美濃路沿いの生誕地)跡 n8394

みうら郷土館(萩原小学校南・佐藤一英等の展示)9921919

正瑞寺の石鐘(戦時下梵鐘供出の為に石鐘を置いた)9904

美濃路萩原宿問屋場跡の碑 84

萩原宿の馬頭観音(左)、屋根神様(中央)、地蔵菩薩(右)

市川房枝生家跡の旧説明板n83d087(19.12.07)mapB

市川房枝生家跡記念広場として整備(2023年3月)

市川房枝生家跡記念広場の解説2023.12.2

吉藤城址 yosi07 mapC

吉藤城址mapC)9906

多良街道(西中野〜萩原/mapA)を歩く 9908

朝日村道路元標(右下)/朝日東小学校内 9911mapI

小塚直持の墓碑9918 mapL

小塚直持の墓(左側)(2023.11.4) 9919

間宮英宗頌徳碑 18 mapM

西中野の渡し(愛知県営渡船場)9932(2023.11.4)

西中野の渡し(堤防の上から)(2023.11.4)9934

西中野渡船に乗船(2023.12.2)

西中野渡船場から出発(2023.12.2)

西中野の渡し(14人乗り船)(2023.11.4)9935

西中野の渡し(対岸・羽島側に降りる人)9943

新濃尾大橋を舟から見る(25年開通/全長約760m)9938

新濃尾大橋工事現場2023.11.04(北側から)9963
新濃尾大橋と接続先(一宮市側は国道155号線と接続する)2025年完成予定 99noubi.jpg

新濃尾大橋工事現場9956

尾西文化広場へ 9958

富田山公園東隣接(北川邸内)に加賀野井渡船場跡
(萩原〜大垣)の道標があった。9960(地図N

グリーンプラザへ (左)9965&(右)9966
(左はパターゴルフ場、右はWoodDesignPark紡つむぎ)
『ウッドデザインパークいちのみや-紡-』の案内

長野から愛知岐阜三重に流れ、伊勢湾に注ぐ一級河川木曽川。
世界に誇る尾州紡績のふるさと、一宮。
この豊かな自然を、ぜひ身近に感じて下さい。

パターゴルフ(いちのみや -紡-)
広々パターゴルフコースがしっかりと18ホール!
当施設で、クラブとボールの貸出をしております。
※パターゴルフ場はウッドデザインパークの施設ではなく、
公共施設です。(入場無料)

TEL:0586-63-1120
電話受付:11:30〜14:00・15:00〜17:00

聖徳寺跡(信長・道三の会見場所) 9968

聖徳寺跡9967

尾西歴史民俗資料館9972

起宿の高札場(2023.8.5完成披露時)kousatuba07.jpg

起宿渡船場跡okositosenba28(2023.8.5)  Top

起宿の旧高札場(2023.12.2現在再建中)kousatuba08

尾張名所図会「起川」okosigawa 右下に高札場が見える
実際は、高さ約4.3m、横幅約5.6m、奥行きは約1.7m。
(享和2年(1802)の分間御絵図御用宿方明細書上帳)

起バス停から帰る(2023.11.4下見) 9975  Top

解説欄 コースマップ(PDF)99map      Top
吉藤城址 mapC    Top
織田信長に仕えた遠藤三郎右衛門の居城と伝えられる。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、織田信雄方の砦となった。
天保12(1841)年の吉藤村絵図に「古城」と記された場所がある。工業団地東側の細い道路脇に、石碑(昭和50年建立)のみ。
市川房枝生家跡:市川房枝(wikipedia参照)mapB                      topへ
(市川 房枝)1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家
(元参議院議員)。愛知県中島郡明地村(現在の一宮市)生まれ。第二次世界大戦の前後に渡り、日本の婦人参政権
運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)の名誉市民となる。
1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。topへ
多良街道(萩原宿・美濃路から上石津町多良を結ぶ街道で西中野渡船場から木曽川を渡った。) mapA  topへ
萩原宿は、天保14年(1843年)の資料によると、人口・家族ともに美濃路の中では最も小さい宿場で、宿役は萩原・
西之川・串作の3村が勤めていました。
小さな宿場ではありましたが、幕府の巡見使が通った巡見街道が交わり、西美濃に続く多良街道の起点でもあった
ため陸上交通の重要なターミナルでもありました。
西美濃(輪之内町)の多良街道西のマップも参照。 topへ

『朝日史跡めぐりマップ』
(下図・茶色の線「街道」@美濃路A多良街道B加賀野井新道C津島道D尾張水道みち史跡は緑色 
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小塚直持(1796〜1873)(web参照) mapL topへ
幕末から明治の初めに生き、本居大平の門下で国学、漢学などを学んだ小塚直持の墓碑。学者であり文人でもあって、尾西地方
の優れた文化人であった。小塚直持の墓碑は小塚家の墓所にある。  topへ
職原図解(小塚直持/撰)(愛知県)
『職原抄』を元に図表化した実用的な官職の図解。
『職原抄』は南北朝時代の北畠親房による有職書で、江戸期には、『職原抄』を中心とした官職学に関する解説書や講釈が盛行
した。著者の小塚直持(1796-1873)は尾張祖父江の国学者。名は理蔵(利蔵とも)、岑雄。富農の家に生まれ、尾張藩士・
横井十郎左衛門家の祖父江における留守居役として、同家の公私の仕事に従事した。
横井家には本居宣長の著書『古事記伝』の出版に貢献した横井千秋がいる。
直持は若い頃から河村正雄、本居大平ら宣長門人に師事し、和歌・雅楽にも通じた。『名区小景』『尾張名所図会』に出詠して
いる。天保10年(1839年)の直持の日記によれば、四書五経や和歌書に加え、『職原抄』についても度々講釈を行っており、
直持の関心の高さが伺える。この『職原図解』は直持生前唯一の刊行本である。
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間宮英宗(方廣寺派管長)mapM topへ
諱は義雄、室号は青龍窟。愛知県中島郡中野村に生まれる。明治12年(1879)、 三島・龍沢寺の天眼老師に就いて出家。
岐阜霊松院の聨芳学校卒業後、京都天龍僧堂の橋本我山老師に参じ、明治33年、 師の示寂により天龍寺を退き、静岡県御殿場
の建長寺派青龍寺に住す。以後、鎌倉円覚僧堂の釈宗演老師に参じ、師の印可を受く。大正3年(1914)、京都嵯峨の臨川寺に
転住、大正7年、奥山方廣寺派管長に就任。山口玄洞氏の寄進によって設立された 京都市寺町の仏教会館と方廣寺を拠点として
日本国内及び台湾・朝鮮・中国東北・南洋を布教飛錫。
昭和2年(1927)、 方廣寺を辞し、京都に栖賢寺を再興して退任後も布教に従事し、昭和20年3月21日、巡教途上の上海で病を
得て遷化。 75才。著書に「碧巌録講話」、「臨済録夜話」、「禅道俗話」等多数ある。topへ
西中野の渡し(web) topへ
西中野渡船は、県道羽島稲沢線として愛知県一宮市西中野から岐阜県羽島市下中町へつなぐ、木曽川を渡ることができる県管理
の無料の渡船です。Top
新濃尾大橋・・・再評価調書(愛知県)   Top
地 区 名:一般県道 羽島稲沢線 新濃尾大橋(仮称)
事業箇所:岐阜県羽島市下中町〜愛知県一宮市明地
事業のあらまし:
一般県道羽島稲沢線は、岐阜県羽島市を起点とし、愛知県一宮市を経由して稲沢市に至る路線であり、岐阜県と愛知県を結ぶ
主要な路線である。本路線のうち、岐阜県と愛知県境を流れる一級河川木曽川を渡る区間は渡し船(西中野渡船)により結ば
れており、自動車交通は上流の濃尾大橋((主)大垣一宮線)や下流の馬飼大橋(桑原祖父江線)への通行を余儀なくされている。
このため、「陸・海・空一体の国際競争力の強化」、「地域の活性化」を主な目的として、木曽川に隔てられた両県の産業
振興並びに災害時の迅速な復旧活動など、平常時、災害時問わない地域間の連携強化のため、当該区間に新濃尾大橋(仮称)
の新設を含むバイパス道路を整備するものである   Top

中日新聞(2023年8月4日 05時05分 (8月4日 12時26分更新)Top 一宮市と岐阜県羽島市間を結ぶ「新濃尾大橋」(仮称)について、木曽川両岸の自治体でつくる「新濃尾大橋架橋促進期成 同盟会」の総会が三日、一宮市役所尾西庁舎で開かれ、橋は二〇二五年度に開通予定であることが報告された。  橋は全長七百六十メートルで、名神高速道路や東海道新幹線が通る橋から南に一キロに位置する。 新しい橋から三キロ北にある濃尾大橋周辺の慢性的な渋滞を緩和するほか、災害時の避難や物資輸送に役立てる狙い。 総事業費は二百九十億円。 総会では現在は岐阜県側から橋桁の整備が進んでいるとして、工事の進捗状況の説明があった。 総会後には現地視察もあり、両岸の市長や関係者が出席。愛知県側から約三百メートル地点まで歩いて見学した。同盟会会長 を務める一宮市の中野正康市長は「事業のスケールの大きさを実感した。経済効果など地域への影響も大きいはず」と述べた。  新濃尾大橋が完成すると、愛知県が管理する木曽川唯一の渡し船「中野の渡し」は、現在の県道羽島稲沢線としての役目を 終える。今後の存続については未定だが、中野市長は「市としてはのように残していけるのか、考えていきたい」と話した。  (猿渡健留) Top
冨田山公園(一宮市)  Top
冨田山公園は、一宮市の南西に位置しており、雄大な木曽川に隣接している公園です。公園内には、尾西グリーンプラザ
(多目的ホール、体育館など)、グラウンド、サイクリングロードなど施設があり、地域住民のスポーツ、レクリエーション
など交流の場となっています。また、雄大な木曽川を眺望することができ、冨田山公園から見た木曽川は木曽三川36景にも選ば
れた絶景です。その他に、毎年8月に行われ約20万人の参加がある濃尾大花火も楽しめる場所となっています。
 その公園に更なる賑わいを創出するために市民のみなさんと一緒に考え、また民間活力を視野に入れた再整備計画を検討して
います。 Top
聖徳寺跡(織田信長・斎藤道三会見)  Top
戦国時代、浄土真宗の大寺院であった聖徳寺は、尾張・美濃国境の当地にあった頃、織田信長と斎藤道三が初めて会見した場所
として知られている。聖徳寺は、美濃の大浦(現羽島市正木町)にあったが、洪水等による度々の移転の後、ここへ移った。
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『信長公記』(天文22年(1553)首巻/新人物文庫p53)
「4月下旬の事に候。斉藤山城道三。富田正徳寺まで罷り出ずべく候間、織田上総介殿も是まで御出候はば、祝着たるべく候、
対面ありたきの趣、申し越し候。上総介公御用捨なく御請けなされ、木曽川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出候、富田と
申す所は在家七百軒もこれある富貴の所なり。」Top
尾西歴史民俗資料館(HP)  Top
一宮市尾西歴史民俗資料館は、濃尾平野の大動脈である木曽川と美濃路が交わる起の地に、昭和61年に開館しました。美濃路
起宿の歴史と文化にはじまり、毛織物産業の発展や鉄道敷設など、人々の生活とともに変容する起の町を紹介しています。
また、起宿の脇本陣・船庄屋を務めた林家の旧宅(国登録有形文化財「旧林家住宅」)と、昭和初期に作庭された旧林氏庭園
(国登録記念物)を一般公開しています。  Top
美濃路起宿(HP参照)   Top
美濃路は、江戸時代に東海道宮宿(熱田)と中山道垂井宿を結ぶ街道です。道中には名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、
大垣の七つの宿場が置かれていました。東海道の難所である七里の渡しや鈴鹿峠をさけることができ、徳川将軍の上洛、大名
の参勤交代、朝鮮通信使や琉球使節の通行などにも利用されました。また、その重要性から、美濃路は幕府道中奉行の管轄下に
ありました。
起宿は木曽川に沿って町並みが形成され、その木曽川を渡るための渡船場もありました。 明治時代以降、起の町は未曾有の
大地震(濃尾地震)に被災するなど、幾度もの転換期がありました。その中で、毛織物産業の発展や鉄道敷設、にぎやかな人々
の往来とともに変わっていった起の町を紹介します。Top
美濃路天神の渡し跡  Top
 今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある
尾西市・天神神社との間にあったとされる。 この渡しの辺りは萩原川とも言った。 斉藤道三が信長と会見の後、信長を見送り
に来た。織田信長が木曽川沿いの聖徳寺で、美濃の斎藤道三と会見した帰りに道三が渡し場まで見送りにきたという伝説がある。
(当時は木曽川の本流はこのあたりを流れていたと思われる。川幅も数百bもあり天神の渡し跡(西)は現在もかなり離れた場所
にある)  天正十四年(1586)の大洪水以降、主要流路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり
渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推測される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目
証文」などによって知られよう。
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 江戸時代終わりの頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した
帰り、道三がこの渡しまで見送ったと伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として美濃路は繁栄し、萩原宿
や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。(一宮教育委員会)Top
(旧)尾西市西萩原・天神神社の渡し跡(日光川の西側)
一宮市宮町の天神社の渡し跡(日光川の東側)
美濃街道 萩原宿 萩原橋(Web参照)  topへ
日光川に架かる萩原橋は、江戸時代には川は萩原川(萩原古川)、橋は古川橋といい、高欄付の板橋で、長さ21間(38m)
幅2間半(4.5m)、橋杭は3本立10組でした。
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萩原川について・・・現在の木曽川筋は天正14年(1586)に固定したもので、それまで幾筋かに分流していた。そのうち
本流は今の日光川筋で、当時萩原川といわれた。美濃路往来のためここに渡船場が設けられ渡船場東西に天神社が祀られていた
ので俗に「天神の渡し」といわれた。天正年間以来60石の渡船給が支給された。この渡船給以来慶長年間には清須三奉行から、
慶長13年(1680)には尾張藩三奉行より引続き支給されていた。しかし、翌慶長14年に、旧木曽川(萩原川)の築留が
行われて、川筋が極端に縮まったので、長さ22間、欄干付きの橋が架けられ、以来渡船は廃止となった。
萩原宿  topへ
萩原宿は、美濃路の宿場である。現在の愛知県一宮市萩原町にある。日光川の東に位置する。
美濃路の宿場では最も小規模である。現在の一宮市萩原町は宿場としての建物は少なく、商店街になっている。
商店街は昭和30 - 40年代のレトロな感じがある。毎年5月には萩原宿チンドン祭りが行なわれる。topへ


萩原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、家数236軒、人口1002人で、美濃路の中では最も規模の小さい宿場。東から下町、
中町、上町となっており、宿の中央で曲尺手となっていた。正面に高札場があり傍らに正瑞寺が建つ。 上町と下町の二箇所に
問屋場が置かれ、上問屋・下問屋と言われていた。
現在商店街となっている町並みは、昭和30〜40年代のレトロな雰囲気をかもし出す。 萩原郵便局跡を過ぎ商店街を行くと、街道
は右手に曲がる。その角左手に 正瑞寺の山門がみえる。正瑞寺は、蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した寺院。
このあたりに高札場があったといわれる。この角を曲がり、まっすぐ進むと左手に脇本陣、右手に上町問屋場、本陣が軒を連ねて
いた。問屋場跡と本陣跡には碑が立っている。
本陣跡の西にあった萩原城は、秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城であった。 吉房は豊臣秀次の父、秀次が謀反の疑いで失脚する
と、追放され萩原城は廃城となった。江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建てられていたという。topへ


萩原宿と美濃路(地図と解説)・・・・以下、「No66.htm友歩会第66回・西尾張編Part15」から引用
美濃路萩原宿・映像解説
萩原宿解説(宝光寺にある「脇本陣森半兵衛辞世の句碑」の解説もあります。)
宝光寺の門を入り右手に脇本陣と村庄屋を勤めた辞世の句碑「我をとう人にたとえよ松の風」文政2年(1819)没、脇本陣跡
は本陣の向い側(美濃路西南あたり)
東海道・中山道・美濃路、下記マップ参照 (萩原宿は美濃路の中央にあたる) topへ
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巡見街道(萩原宿で美濃路と交叉している) topへ

幕府は1615年以来、将軍がかわるごとに巡見使を全国各地に派遣して村々の様子を見回った。
巡見使が通る街道は定められており、一般に巡見街道と呼ぶ。尾張の巡見街道は犬山・草井から瀬部村を通って一宮に入り、
苅安賀村・萩原村を経て津島に向かった。 巡見街道と地図  topへ
舟木一夫生家跡  Top
美濃路の宿場町の愛知県一宮市、萩原町は舟木一夫の生誕地である。毎年5月と10月にチンドン祭りが開催されるのでも有名で
ある。「萩原宿」は慶長7年(1602年)頃に出来、長さは8町36間(約960m)未だに昔の宿場の面影を残しています。
その宿場町の一角に「舟木一夫」の生家跡がありました。現在は誰も住んで居ないようですが、玄関前に立て札があり次のように
記されていました「1944年12月この地で歌手舟木一夫は生まれ育った。彼が歌った数々のヒット曲の中でも「高校3年生」
は文化庁の日本の歌100選に選ばれ青春時代を表す代表曲になった」と記されている。
−−−−−−−−−−−−−−ある「町おこし参加者」のレポートから引用。
美濃路東海道熱田宮宿から、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七宿あり、中山道垂井宿と結ぶ主要街道
宮から桑名までの「七里の渡し」は船便なので危険を避けて陸路を通る道。大名の参勤交代、女性の往来、朝鮮通信使、琉球使節、
お茶壺道中や物資の輸送など様々な用途で利用された。 萩原駅からすぐ近くに郷土資料館(舟木一夫コーナーを常設)があり、
見学後、記念写真。近くの舟木一夫生家跡には瀟洒なアパートが建っていました。氏の案内で萩原町の史跡であるお茶屋御殿跡地、
萩原劇場跡、問屋場跡、脇本陣跡、本陣跡、市川房江生家などを巡り、チンドン祭り会場の中心地、正端寺門前へ。
チンドン祭りは春(5月第4日曜日)と秋(10月第3日曜日)に開催され、今回は秋の祭りでしたが近郷近在から多くの家族ずれが
訪れて大変賑やかでした。野外ライブもあり暫し耳を傾けていました。Top
萩原町郷土資料館(一宮市萩原町串作1107-1)・主催・運営:萩原町郷土史研究会 topへ
(事務局長:金子光二・090-8131-8333) ・通常開館日:毎月第4日曜日(11:00〜15:00)・冬季は14時まで。
みうら郷土館(萩原小学校南)、萩原町出張所(公民館併設)、萩原町郷土資料館(名鉄萩原駅北・踏切東側)

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みうら郷土館(〒491-0353 一宮市萩原町萩原字河原崎108番2 電話:0586-46-3215) topへ
みうら郷土館は、元一宮市議・三浦正義氏が天保年間の土蔵を移築して、美術品等を展示する施設として改築し、平成14年に市に
寄付したものです。作品の発表やコレクションの展示等にご利用いただけます。
「萩原駅」  Top
所在地:愛知県一宮市萩原町串作字荒神田面1414(北緯35度16分37秒、東経136度45分27秒)駅番号:BS  09  。
所属事業者:名古屋鉄道 。所属路線:尾西線 キロ程:20.2km(弥富起点)。駅構造:地上駅 。ホーム:2面2線 
乗降人員:-統計年度-2,566人/日、-2013年
開業年月日:1899年(明治32年)7月18日 
備考:無人駅(駅集中管理システム導入駅) 
萩原駅(はぎわらえき)は、愛知県一宮市萩原町串作にある、名古屋鉄道尾西線の駅。駅番号はBS09。
「利用状況」
『名鉄120年:近20年のあゆみ』によると2013年度当時の1日平均乗降人員は2,566人であり、この値は名鉄全駅(275駅)中164位、
尾西線(22駅)中9位であった。『名古屋鉄道百年史』によると1992年度当時の1日平均乗降人員は2,551人であり、この値は岐阜
市内線均一運賃区間内各駅(岐阜市内線・田神線・美濃町線徹明町駅 - 琴塚駅間)を除く名鉄全駅(342駅)中153位、尾西線
(23駅)中8位であった。『愛知統計年鑑』によると1日平均の乗車人員は2010年度では1,174人である。
「駅周辺」
萩原商店街が執り行うチンドン祭りでチンドン屋が来る際、当駅はその会場の最寄り駅であるため、開催時は多くの乗客が利用
する。また、駅周辺は歌手の舟木一夫の出身地でもあり、ROCK'N ROLLふるさとの歌詞でも歌われている。 
・愛知県一宮市役所萩原町出張所
・萩原郵便局・萩原商店街・舟木一夫生家跡・萩原町郷土資料館(舟木一夫資料館/記念館)・萩原小学校
・愛知文教女子短期大学附属萩原幼稚園・国道155号・愛知県道137号萩原停車場線
・愛知県道458号一宮弥富線(巡見街道)・美濃路(美濃街道)・萩原宿
・一宮市循環バス i-バス尾西南コース「萩原駅」バス停
・苅安賀自動車学校スクールバス(萩原・尾西コース)乗場
・萬葉公園・萬葉公園高松分園
・樫の木文化資料館(佐藤一英が世の平和を願って樫の木文化論を唱えて保存を呼び掛けた樫の木の民具を収蔵)Top
全員集合(2023.12.2)朝日西小学校    Top
Top

木曽川・美濃路・起村・小信川跡・日光川筋 @(「大徳の歴史」2023.10.24)Top

上から美濃路(起の渡し)、駒塚道(富田〜駒塚村)渡し、加賀野井新道(加賀野井渡船場跡)
が見られる。 9960wmap Top
木曽川・美濃路・起村・小信川跡・日光川筋 A

左上から木曽川から小信川が南下し、東五城と西五城を分断して北今で日光川に合流。
こちらが木曽川の本流であった。美濃路天神の渡し跡(西萩原)参照  Top


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萩原町ウオーキング(2009.1.11)健康作り萩原町ウオーキング(2011.3.5)第66回・西尾張編Part15(2017.2.4)