友歩会第48回・名古屋編Part3・下(下見)&例会レポート  (
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H25.10.29(火)下下見(12.21下見)&H26.2.1(土)例会
天気:下下見10.29:晴れ歩数32,574歩、下見(7名)歩数:30,023歩。
例会:晴れ(54名)の歩数:28,600歩 

コース:地下鉄 JR千種駅(9:00)→今池西公園9:15発→高牟神社光専寺吹上観音吹上公園
    光明寺一畑薬師寺蝮ヶ池龍神社日泰寺揚輝荘城山八幡宮見付公園桃厳寺→本山駅

(コースマップ)参照  友歩会(HP) 名古屋市 名古屋を歩こう(千種区)


用語解説:

高牟神社光専寺吹上観音吹上公園光明寺一畑薬師寺蝮ヶ池龍神社日泰寺揚輝荘城山八幡宮
見付公園桃厳寺



JR千種駅003

今池西公園へ 006

今池西公園(集合・受付)chi001

会長挨拶(参加者は54名) chi002

高牟神社008

高牟神社本殿011

高牟龍神社013

高牟神社保存樹のアベマキ017

八幡社034

八幡社のムクノキ035

皇国の為に・・・(紀元2600年記念)032

八幡社033

小塚氏名古屋新田開墾記念碑(左の石柱)039

吹上観音 040

吹上ホール043

吹上公園(元・名古屋刑務所)045

公園内・友好の泉のパネル画(南京市・長江大橋) 050

馬頭観音(塩付街道) 058

一畑山・薬師寺060

一畑山薬師寺境内の弁財天ほか063

丸山神明社 066

丸山神明社 067

蝮ヶ池龍神社(飛池) 070

蝮ヶ池八幡宮073

蝮ヶ池八幡宮 074

蝮ヶ池八幡宮を下る080

蝮ヶ池八幡宮083

水道みち緑道案内図086

名古屋空襲による陸軍造兵廠の外塀の痕跡chi008

千種公園で全員集合chi012

左・西山公園090

鉈薬師(医王堂)097

覚王山日泰寺102

日泰寺・山門 104

日泰寺・五重塔 chi016

日泰寺・本堂112

日泰寺・釈尊御遺形奉安塔道を下る 111

揚輝荘庭園119

池泉回遊式庭園 122

伴華楼124

白雲橋 134

白雲橋 135

揚輝荘・北庭園のビューポイント 149

相応寺へ 153

左は鶏霊碑(相応寺内) np3157

相応寺・山門 158

山門を展望 163

相応寺からみた鐘楼 166

相応寺(清水寺に似る展望台)167

城山八幡宮の連理木(アベマキ) 186

城山八幡宮 194

八幡宮・十山字錨(横須賀港で使われた) 198

末森城本丸址の石柱 201

旧昭和塾堂(末森城二の丸跡) 207

城山八幡宮を後にする212

地下に潜る手前の山崎川215

鏡ケ池(名大)通り(東西)から四谷通り(南北)へ 218

大雄山性高院(松平忠吉)の菩提寺(鏡池西) 221

徳川家康第4子松平忠吉(1580〜1607)の菩提寺220

四谷通りから桃厳寺へ(東向き) 224

桃厳寺山門 228

織田信秀公(信長の父親)廟跡(桃厳寺内) 229

愛犬供養塔 235

名古屋大仏(座高10m) 239

大仏(台座には諸行無常・諸法無我・涅槃寂静とある) 243

名古屋大仏を後にして帰途につく 245
今池西公園(マピオン)  (コースマップ)参照     topへ

高牟神社(HP)の説明   topへ
【御祭神】 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
         神皇産霊神(かみむすびのかみ)
         応神天皇(=誉田別尊/ほんだわけのみこと)
  【例祭日】 10月14日(例大祭)、10月15日(氏子大祭)

  高牟神社は、延喜式にも記載されている由緒ある神社で、西暦131年、第13代成務天皇の
御代に鎮座され、865年(貞観7年)第56代清和天皇の御代に社殿を造営。
その折に、勅令により応神天皇が配祀されました。
「高牟」という名は、かつてこのあたりに住んでいた尾張物部氏の武器を納めた倉が後に
なって神社になったことに由来しており、「高牟」の「牟」は、古代武器の代表だった”鉾”
のことで、「高」は その美称です。
境内には、その昔、応神天皇長寿の祝水として産湯に献上し、延命長寿に霊験があるとされ、
つきることなく湧き出している名泉「古井の清水」があり、「元古井町」の地名の由来に
なっています。

光専寺ほか(HP参照)   topへ   (コースマップ)参照
吹上観音 topへ 吹上観音について(千種区吹上1−5−7) 中央に千手観音が、その脇に地蔵菩薩・弘法大子像・重軽(おもかる)地蔵があります。また、入り口には白龍大神も 祀られています。千手観音は、もともと北側の100m道路にあった小塚家の屋敷裏の小道に置かれていました。 この千手観音の背面には、小塚村常の守護仏として文政四年(1821)につくられ、合わせて以前この地にあった古墳 の霊を追悼するためと由来が刻まれています。
吹上公園(wikipedia) topへ 吹上公園(ふきあげこうえん)は愛知県名古屋市昭和区にある都市公園。 「概要」 若宮大通の東端近くに位置している。この地に置かれていた名古屋刑務所が1962年(昭和37年)に三好町 (現・みよし市)に移転したことから、1969年(昭和44年)に鶴舞公園の分園として開園した。 園内には噴水などに加えてテニスコートや野球場が整備されている。また、公園西側に名古屋市中小企業 振興会館(吹上ホール)が、また南側には名古屋市昭和スポーツセンターが置かれている。 なお、この地にはかつて茶臼山古墳と太郎塚と呼ばれる2つの古墳があったと伝わるが、刑務所の設置に 際して取り壊され、その所在を示すものは残っていない。
光明寺(真宗大谷派)  topへ 住所: 名古屋市千種区桐林町1丁目5 ■TEL: 052-751-4667 ナビ
一畑山薬師寺(一畑山薬師寺) topへ 住所 愛知県名古屋市千種区春岡1丁目30-9 電話番号 0527612105
蝮ヶ池龍神社(HP)  topへ 【由緒】  千種区の西部は以前は古井村と呼ばれ、水の乏しい台地で、その大部分は山林原野でした。江戸時代初期の慶長 十五年(一六一〇)名古屋城が築かれるとともに、その南方に広大な城下町が造られました。城下町の人口が増加 するとともに、古井村の原野に目をつけて、開墾を始める人たちが出てきました。これらの開墾地は名古屋新田と 呼ばれ、北は大曽根、鍋屋上野から、南は瑞穂区の井戸田や大喜の村々にわたって散在していました。 蝮ヶ池八幡宮は、第百九代明正天皇の御代兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、当所自邸に近い西八幡社の地 に祭ったのがその始まりと伝えられます。後に現在地に社殿を造営し、名古屋新田の人たちの鎮守としました。 (龍神社は現在、飛地境内になっています。) (HP参照)
日泰寺(wikipedia)   topへ 覚王山日泰寺 (かくおうざん にったいじ) は、愛知県名古屋市千種区にある超宗派の寺院である。 タイ王国 から寄贈された仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために、創建された。「覚王」とは、釈迦の別名。 また「日泰」とは、日本とタイ王国を表している。 どの宗派にも属していない日本で唯一の超宗派の寺院であり、各宗派(現在19宗派が参加)の管長が、三年交代 で住職を務めている(ただし境内北側に設置されている僧堂は、曹洞宗が管轄している)。 住職は宗派の違うお経を上げることもあるという。なお仏舎利は、本堂のある境内からやや離れた「奉安塔」の 中に安置されている。境内には仏舎利を日本に寄贈したラーマ5世の像もあり、在日タイ大使は誕生日に参拝 するのが習わしになっている。また在日タイ人もしばしば参拝に訪れるという。 毎月21日に、境内と約600メートルの参道に日用雑貨、生鮮食品、外食の屋台が100店ほど出店して、多くの人で 賑わう。 名古屋を歩こう(千種区)
揚輝荘(HP)   topへ 揚輝荘は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長15代伊藤次郎左衛門祐民(すけたみ)によって構築された 別荘です。かつては迎賓館、社交場として華やぎ、国際的なコミュニティを形成した場所でもありました。 その後、世の移ろいを経て、5棟の文化財と庭園が残されています。
城山八幡宮(HP)   topへ 「wikipedia」 城山八幡宮(しろやまはちまんぐう)は、愛知県名古屋市千種区城山町に鎮座する神社。 「由緒」 この地域一帯は、江戸時代以前は尾張国愛知郡末森村といわれていた。500年以上前より楠という字 (現在の千種区春里町)に八幡社が鎮座していたが、織田信行が白山比盗_社を勧請して以来末森城址にあった 白山社、ほか末森村内の浅間社、山神社、一ノ御前社を明治41年(1908年)に合祀し、改めて創建となった。 明治45年(1912年)、末森城跡地が八幡社の所有地となり、昭和11年(1936年)に現在地に遷座した。 昭和31年(1956年)に現在の城山八幡宮に改称した。 名古屋を歩こう(千種区)
見付公園(Yahoomap)   topへ [公園] 愛知県名古屋市千種区見附町3丁目 本山(愛知県)駅から徒歩約5分
桃厳寺(wikipedia)   topへ 桃巌禪寺(とうがんぜんじ)は愛知県名古屋市千種区にある曹洞宗の寺院。山号は泉龍山。 「歴史」 天文年間(1532年?1554年)、末森城主であった織田信行(織田信長の弟)が父・織田信秀の菩提を弔うために 城の南に位置する末森村二本松(現在の千種区穂波町付近)に建立した。後に現在の松竹町に替地となった が、正徳2年(1712年)または正徳4年(1714年)に現在地に移されたとされる。 開基は織田信秀とされており、開山は龍泉寺輪住二十世、慈眼寺三世住職などを務めた快翁玄俊。 桃巌寺の寺号は信秀の法名「桃巌道見大禅定門」から取られており、恵心僧都作とされる聖観世音菩薩像を 本尊とし、信秀が所有していたと伝わる辯天画像や竹生島から勧請した十五童子像を守護神として祀る。 「信秀廟所」 城山八幡宮の西南に位置する揚輝荘の敷地南端に面した一角(かつての桃巖寺領)に、信秀の墓石と三基の 五輪塔があった。墓石は信秀250回忌の寛政13年(1801年)に再建されたもので、信秀と信行に加えて柴田 勝家の名も記されていた。昭和26年(1951年)、信秀没後400年にあたって桃巌寺境内に移された。 topへ 名古屋大仏(桃厳寺)(HP) 正式名「泉龍山 桃巌寺」は、名古屋大仏で有名です。街中に、ふいに現れる大仏様は衝撃的です。 坐高10m(台座5m)。1987年に建立、2006年に緑色へ変身しました。 その姿を眺めているだけで、パワーが もらえそうな気がして、時間が過ぎるのも忘れ、しばらくの間ボーっと見上げていました。 桃巌寺は、織田信長の弟・信行(※1557年、信行は信長に討たれる)が父・信秀の菩提を弔うために建立。 弁財天のお寺として親しまれてきました。大仏の他にも、ご利益の大きそうな直径1mの巨大木魚が有名です。 個人的には、赤い山門のある風景が素敵で、心踊ります。
塩付街道(瑞穂区HP)   topへ   江戸時代の中頃まで、南区本星崎町一帯では、さかんに塩を作っていた。ここでとれた塩は、千種区古出来町あたり に集荷され、遠く信州(現在の長野県)まで、俵に詰め運ばれたといわれている。本星崎町から古出来町まで約10kmが 塩付街道と呼ばれる。  俵に詰めて塩を馬で運んだ「中馬(ちゅうま)」といわれる運送業者が往来していた。 topへ 汐路町の道沿いに残る松は、昔の街道の趣きを伝えている。
飯田街道(webHP)   topへ 徳川家康によって作られた、尾張名古屋と信州飯田を結んでいる街道。 現在の国道153号(愛知県名古屋市〜豊田市〜長野県飯田市〜伊那市〜塩尻市)は、ほぼ旧道を走る。関所のわずらわしさ がなかったので、関所逃れの旅人も多かった。静岡県浜松市内の飯田地区に通ずる主要道路。(wikipedia) 今は、都市化が進み、店舗・住宅が増える中で、散策や憩いの場として利用されています。)
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参考:名古屋を歩こう(千種区)
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千種公園で全員集合(201422)

2014.2.1


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