友歩会第56回・名古屋編Part5・下見&例会レポート  (
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H27.4.11(土)下見&H27.6.6(土)例会 
天気:下見4.11:晴れ歩数24,984歩(8名)、例会6.6(42名):晴れ歩数:26,625歩

コース:名鉄鳴海駅(9:00)→城跡公園鳴海球場跡砦公園中島砦大高緑地丸根砦
    春江院大高城址公園長寿寺鷲津砦公園明忠院鳴海八幡社鳴海駅

(コースマップ)参照  友歩会(HP) 名古屋市 緑区 (名古屋市) 全員集合
桶狭間の戦い鳴海宿平部町常夜灯萬乗醸造桶狭間の戦い(wikiipedia)




名鉄鳴海駅西口003

東福院山門(根古屋城の廃材利用56s011

鳴海城址公園014(今川)

鳴海宿高札場021

誓願寺内芭蕉最古の供養塔t019

丸根砦跡t070(信長)

鳴海城(根古屋城)祉 025(今川)

成海神社碑 029

鳴海球場跡(S2〜S33) 56s031

鳴海絞り開祖・三浦の碑 034

禅照寺砦跡 036(信長)

砦公園 038(信長)

龍蟠山瑞泉寺本堂 044

瑞泉寺 045

中島砦跡047

中島城祉 048

平部町常夜灯 051

大高緑地055

大高緑地 056 (コースマップ)参照

大高緑地公園・(昼食) 062

丸根砦跡 067

丸根砦慰霊碑 069

大高山春江院へ 072(今川)

春江院本堂 074

春江院の境内 076

春江院(庫裏) 078

萬乗醸造の酒倉 081

大高城跡へ 082   topへ

大高城公園 086

大高城跡公園から展望 088

長寿寺へ 092 (コースマップ)参照

鷲津砦公園094

鷲津砦跡 097

明忠院103

鳴海八幡社 105 (コースマップ)参照

鳴海駅に到着114  topへ

全員集合(大高緑地公園) 56n20

鳴海八幡社のクスノキの巨木 56n45
城跡公園・緑区(HP参照) 以下(Wikipedia)参照  topへ
鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した城である。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。
「概要」
室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった成海神社は北の乙子
山に移された。宗範の死後、廃城になったといわれる。戦国時代の天文年間には尾張国の織田信秀の支配下にあり、配下
である山口教継が駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継
は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。天文22年(1553年)、信長は800の兵を
もって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれたため(信長の計略に
よるともいわれる)しかし義元にその謀略も逆手にとられてしまい、結果的にいつ寝返るかわからない外様の山口氏から
今川家譜代の岡部元信に城主が変更され今川家直轄の重要拠点になった。これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)
ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点の各砦の排除を敢行し、残り
の鳴海城に付けられた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、作戦総司令部である義元本陣が織田本隊
の強襲により総大将義元が討ち取られ総崩れとなってしまった、
しかしあくまで本隊が敗北したのみであったので、砦排除のため待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を維持していた
と思われ無傷であった。
信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。
戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。現在でも彼の名にちなんだといわれ
る「作町(さくまち)」という地名が城下に残っている。
城の規模は記録によっては一定しないが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようだ。たとえば『鳴海誌』によると
「東西75間半、南北34間」とされている。現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社の
ある東の小さな高台あたりといわれる。これらには碑が立っているほか、近辺にある東福院という寺院には、鳴海城の
廃材で造られたというが存在する。それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の
地形が存在する。   topへ
(コースマップ)参照

鳴海宿     topへ 鳴海宿は、東海道五十三次の40番目の宿場である。現在の愛知県名古屋市緑区にある。(wikipedia参照) 電柱に宿の史跡紹介があるので、それを読みながら歩くと宿の概要がわかる。 丹下町常夜燈:1792年、宿の西の入口に設置された。平部町常夜燈:1806年、宿の東の入り口に設置された。 鳴海は寺の多い街【鳴海寺詣り歌】わらべ唄 東海道の鳴海宿   寺銭用意しなされや   西よりはじまる寺参り風呂敷かぶりの光明寺    花井小路の長翁寺   ちょっと入った東福院お腹に仏の如意寺   出たり入ったり誓願寺    三猿がまえ圓道寺縁の高いは円龍寺   まんまん曲がって万福寺   木林山を真っ二つ右に構える浄泉寺 中島橋の三つ股を   左に行けば浄蓮寺右にとれば善明寺   平部はずれの金剛寺    松原越えて四本木の左に傾く神明社   右に行けば御諏訪社   中におさまる二殿様越えて絞りの有松の 左に高い天満社   右にとれば桶狭間信長公の奇襲戦   義元公の首塚に  その霊まつわる長福寺 topへ
平部町常夜灯(Web)  topへ 鳴海宿の東の入口である、平部町に建てられたものである。 表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。 文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社 (火防神)に祈願した。 大きく華麗な常夜燈であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影を偲ぶことができる。topへ
鳴海球場跡(HP)の説明   topへ 鳴海球場(なるみきゅうじょう)は、かつて愛知県愛知郡鳴海町(現在の名古屋市緑区)にあった野球場。 名古屋鉄道が運営管理を行っていたが、1958年(昭和33年)限りで閉鎖された。 (コースマップ)参照
砦公園(HP参照)   topへ 善照寺砦は、今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つ。 「概要」 1559年(永禄2年)の山口教継、教吉親子の切腹により、鳴海城は南の大高城とともに今川義元直属 支配下となった。織田信長はこれに対抗すべく、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦 三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築いた。 善照寺砦には佐久間信盛、信辰兄弟が配置された。砦の建築は孤立した前線基地へ敵勢をおびき寄せる 目的もあった。 善照寺砦には鳴海城の東に伸びた丘陵の東端にある寺跡が利用された。砦は一辺50メートルの堀と土塁 を巡らせた館型であった。西の屋根続きに出入口があり、出入口南側の土塁は櫓台状になっていた。 現在の城跡は砦公園として整備され、鳴海絞りを広めた三浦玄忠の慰霊碑が建つ。 topへ (コースマップ)参照
中島砦(HP参照) topへ 中嶋砦は、今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つ 沿革 尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継 が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は大高城に対して丹下砦・善照寺砦 ・中嶋砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。 中嶋砦は守将として梶川高秀が置かれた。永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)、今川義元が尾張に 侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣するが、鷲津・丸根両砦は落とされてしまった。 信長はまず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移った。そのとき義元は「おけはざま山」で休息しており、 信長がさらに中嶋砦に移ろうとしたところ、脇は深田で一騎ずつしか通れない道で敵から丸見えなため 家老衆が止めたが、信長は振り切って中嶋砦に移った。その時点で信長軍は2千足らずだったが、またし ても家老衆が止めるのを、敵方は戦闘で疲れていると判断した信長は義元本隊に突撃し、ついに義元を 敗死させた(桶狭間の戦い)。その結果、今川軍は尾張から撤退し中嶋砦も役割を終えた。topへ (コースマップ)参照
桶狭間の戦い(wikipedia)(下記参照)topへ 桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。 目次 1 概要 2 合戦の経過 2.1 合戦以前の情勢 2.2 合戦までの経過 2.3 桶狭間の合戦 2.4 合戦後の情勢と影響 2.5 参戦武将 2.5.1 織田軍 2.5.1.1 本隊  2.5.1.2 丸根砦 2.5.1.3 鷲津砦 2.5.1.4 善照寺砦 2.5.1.5 丹下砦 2.5.1.6 中島砦 2.5.2 今川軍 2.5.2.1 駿府城留守居  2.5.2.2 本隊  2.5.2.2.1 本隊先発隊 2.5.2.3 丸根砦攻撃隊  2.5.2.4 鷲津砦攻撃隊  2.5.2.5 鳴海城 2.5.2.6 大高城 2.5.2.7 沓掛城 2.5.2.8 清洲方面展開 3 合戦の実態をめぐる議論 3.1 今川軍の総兵力 3.2 義元の尾張侵攻の理由 3.3 合戦場と奇襲の問題 3.3.1 合戦場 3.3.2 奇襲 3.3.3 簗田出羽守の手柄 概要 2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に 対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却 させた、日本の歴史上有名な戦いである。 戦後、東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の 制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった。 別名「桶狭間村・田楽狭間の戦い」 topへ
龍蟠山瑞泉寺  topへ 龍蟠山と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、 大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501、永正元年等 の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。20世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛 の援助により、宝暦5年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の 形式の門で、県の有形文化財に指定されている。 topへ
大高緑地 (HP参照)topへ   (コースマップ)参照 「概要」 愛知県営の緑地公園である。公園面積は121.2haで、2011年現在99.9haが供用されている。 1940年(昭和15年)、環状緑地帯として都市計画決定され、1952年(昭和27年)に事業着手して1963年 (昭和38年)4月に開園。以降、各種施設(後述)を整備して供用面積を順次拡大、2016年(平成28年) に全体供用を開始する予定となっている。 敷地内にはゴーカートのある交通公園やプール、ベビーゴルフ場、野球場、テニスコート、ゲートボール 場、デイキャンプ場などが整備されている。 2012年に名古屋市が主催した第1回名古屋まちなみデザイン セレクションの市民投票において、「大高緑地 竹林散策路」がまちなみデザイン20選(第1回)に選定 された。 交通公園 面積 25,000平方メートル 水泳場 4槽、面積 18,825平方メートル、収容人員 約5,000人 野球場 3面、面積 22,600平方メートル(軟式野球、ソフトボール兼用) 庭球場 14面、面積 21,650平方メートル(全天候型14面、テニス・ソフトテニス兼用) ベビーゴルフ場 18ホール、面積 511平方メートル バーベキュー炉(デイキャンプ場) 面積 4,700平方メートル(デイキャンプ場全体)topへ
丸根砦 (HP参照) topへ 丸根砦は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた 「歴史」 永禄2年(1559年)、織田信長が今川義元との領土争いの前線として鷲津砦や善照寺砦とともに整備した。 場所は、鷲津砦の東南400メートル大高城からは東に約800メートルに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端 に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。 永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いの前哨戦が行われ、佐久間盛重を将とする織田軍が立てこもっ たが、松平元康率いる今川軍に破れ全滅したといわれている。その後、三河で独立した徳川家と織田家が 同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄された。  topへ
春江院大高城址公園 (HP参照) topへ 大高城(おおだかじょう)は、名古屋市緑区大高町にあった日本の城。 桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこ なったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。 「歴史」 築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代 には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている (為善については異説もある。また忠守は水野忠政の息子の水野忠守とは別人)。 天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命 で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。 しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに 今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。 永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。 翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日夜には、大高 城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死 (桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。 (ただしもっと早く、永禄元年に元康の「兵糧入れ」が行われたと記す史書もある。また、永禄二年と する史書もある。その史書の記述が間違いである可能性もあるが、大高城が今川方に落ちた直後にも元康 が兵糧入れを行ったのではないか、と考える研究者もいる。) まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年(1616年)にここに館を設けてから代々住む ようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。 topへ 「現在」 昭和13年(1938年)に国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されている。かつては 二重の堀が張り巡らせてあったというが、現存する主な遺構は、本丸及び二の丸の曲輪跡、それらの間に 存在する土橋と空堀などである。また本丸隅の一段高くなった区画には城山八幡社と、明治40年(1907年) に建てられた城址碑がある。近辺には、弘治2年(1556年)に大高城主水野大膳が父の水野忠氏 (和泉守、籐九郎近守)を弔うために建てた曹洞宗寺院、春江院がある。 topへ (コースマップ)参照
萬乗醸造 topへ 株式会社萬乗醸造(ばんじょうじょうぞう)は愛知県名古屋市緑区にある酒造メーカーである。 代々の当主が「九平治」を名乗る久野家の9代目から日本酒を醸しはじめた。 現在は15代目である久野九平治とその友人である杜氏の佐藤彰洋が中心となって酒を造っている。 主要銘柄である「醸し人九平次」は国内外でも人気が高く、山田錦で造られる純米大吟醸である別誂は パリにあるミシュラン認定の3つ星レストランでも提供されるほどである。 萬乗醸造主屋・旧精米作業場・瓶詰作業場・元蔵・中蔵・新蔵・白米倉庫・離れ・土蔵・内井戸・旧仕込 蔵及び樽修理場・外井戸は、登録有形文化財となっている。 「略歴」 1789年(寛政元年) - 創業 1960年(昭和35年) - 会社設立 1997年(平成5年)- 醸し人九平次シリーズ出荷   (コースマップ)参照 topへ
名古屋市緑区 (HP参照) topへ 緑区は、名古屋市を構成する16区のうちのひとつ。名古屋市の南東部に位置する。1963年4月1日、愛知郡 鳴海町が名古屋市に編入されたとき新設された区である。 1964年12月1日、知多郡有松町・大高町も名古屋市に編入)。2004年8月1日現在の人口推計において中川 区を抜き、名古屋市の区の中で最も人口の多い区となった。 伝統工芸の「有松・鳴海絞り」(ありまつなるみしぼり)で有名な有松があり、織田信長軍が今川義元を倒 したことで知られる1560年の桶狭間の戦いの舞台のひとつが、有松町桶狭間である。 鳴海には東海道の鳴海宿があった。大高は伊勢湾岸自動車道(新東名高速道路)・名古屋高速道路・知多 半島道路の交わる高速道路の要衝である。昭和40年代(1965年 - 1974年)以降、区の北東部の開発 (土地区画整理事業)が進み、これが人口急増の原因となっている。 「地理」 天白川をはじめとする河川に沿った平地とゆるやかな丘陵地で形成され、大高緑地公園に代表される公園 および緑地が多い。河川:天白川、扇川、大高川。 池:四郎曽池、新海池(にいのみいけ)、琵琶ヶ池 緑区南部に位置する大高町に氷上山がある。またそこには熱田神宮の元宮である氷上姉子神社がある。 昔は氷上ではなく、火上であった。大火事があり、火上から氷上に変更されたという噂がある。 従来から区南部にはJR東海道本線と名鉄名古屋本線が通っており、住宅も区の南部に多く、区の北部は里山 が多かったが2011年3月に地下鉄桜通線が区の北部に延伸したのちは、北部も住宅街の発達が著しくなった。 topへ
鷲津砦公園 (HP参照)   topへ 鷲津砦は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。 「沿革」 大高城の北東約 700mの丘陵上に築かれ、東西 25m、南北 27mの規模だったという。 尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主 山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は、鳴海城に対して 丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦 築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた。 永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)早朝、尾張に侵攻した今川軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始 した。その報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差し掛かった時には、すでに両砦は 落城したらしく、煙が上がっていたという。このとき鷲津砦を攻撃した今川方の武将は『武徳編年集成』 等の後世の史料では朝比奈泰能とされているが、泰能は弘治3年(1557年)に死去しているため実際は 子の泰朝で、親子を誤ったものと見られている。 その日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にして今川軍は尾張から撤退し、今川氏から独立した三河の松平 元康との間に清洲同盟が成立したため、鷲津砦が再び使われることはなかった。topへ 「現況」 大高城・丸根砦と共に1938年(昭和13年)に国の史跡に指定されており、史跡鷲津砦址の碑が立つ。 周辺は鷲津砦公園として整備されている。砦址のある丘陵の麓には長寿寺という寺があり、この寺は もと真言宗長祐寺と称していたが、鷲津砦の兵火により焼失したという。topへ (コースマップ)参照
長寿寺(HP)(詳細は下記のブログ参照)   topへ 【名古屋市緑区大高町鷲津山13】【052-621-4652】 鷲頭山 長寿寺【ちょうじゅじ】 【長壽寺】 【臨済宗永源寺派】【本尊/木像阿弥陀如来坐像】 【知多四国87番】【知多西国26番】【知多百観音1番】 ブログ参照 (コースマップ)参照
明忠院 (Web) topへ 天正元年(1573年)鷲津山領主山口海老之丞が父母の追善のため創建。元は中之郷に明忠庵と称し 真言宗に属して六坊の密院を建て広い寺域を持っていたが、兵火で焼かれ廃寺同様になっていた。 元和5年(1619年)海老之丞の孫ら山口一族が再興し、春江院の善庵和尚を中興開山として曹洞宗に改宗 享保17年(1732年)現在地に移転。JR大高駅東方200メートルの鷲津山の北麓にあり大木が茂り、 中でも「いぶき」は有名。本尊は釈迦如来金銅座像で三国伝来と伝えられ、堂宇は本堂、地蔵堂、 毘沙門堂、庫裡、書院、山門等がある。毘沙門天は大和の信貴山朝護孫子寺より勧請し、裏参道には 青峰山観音がある。なおこの明忠院は先代の住職が大正10年(1921年)に県下で初めての保育施設を開設 し、その記念碑がある。また精霊殿という屋内墓地があり、位牌を小箱に入れて祀られている。 (コースマップ)参照
鳴海八幡社 (HP参照)   topへ 江戸時代から鳴海宿と大高の中間に前之庵という集落があり、古鳴海とともに鳴海の枝郷の一つで、 その地に鎮座。末社が10社あり、北野天満宮、稲荷社、香良洲社、祓戸社は別殿に祀られている。 境内には楠の大木があり、明治以降八幡社と称されていたが昭和44年にもとの八幡宮になった。 祭神は応神天皇、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神功皇后 (じんぐうこうごう)、月読命(つきよみのみこと)であり、鳴海の宿場の氏神様である。 元は成海神社の分社のようで詳しくは分からないが、宿場町の氏神として祭礼行事が執り行われていた。 江戸中期、祭礼が成海神社の裏方と八幡宮の表方に分かれ、それまでの傘鉾行列(かさぼこ)、馬の塔 (おまんと)などの祭りから、裏方の山車の引き回ような一層賑やかな祭りに変わり、後発の表方は豪華 な彫り物の飾ったお囃子車を導入、ともに小太鼓、大太鼓、笛、鉦など熱田神楽など奏でて脈々と現在 までも続いている。また表方の祭りには猩々が登場する。 なお白壁の社務所は旧鳴海町 (明治36年建築)の役場庁舎を移築したものである。 topへ

全員集合(大高緑地公園)       topへ


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