友歩会第67回・岐阜編Part10(下見)&例会レポート (
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下見・H29(2017).2.18(土)&例会・H29(2017).4.1(土)
天気:下見:(6名)晴れ歩数:34,442歩、例会:曇り(40名)歩数:30,021歩

コース:JR穂積駅(9:00)→別府観音→観音院→中川の桜(レンギョウ)→犀川の桜→
    →墨俣一夜城→墨俣宿→境川の桜→美濃路一里塚→西方寺→南宿(ゴール)


(コースマップ)友歩会(HP) 全員集合


用語解説コーナー


JR穂積駅g67001

受付 h294001

別府観音 g67002

別府観音(十一面観世音菩薩立像)年に一度の御開帳 h294008

別府観音(十王・閻魔大王等)006

別府観音(地蔵菩薩等)005

秋葉神社の大イチョウ(瑞穂市)g67t011

秋葉神社の大イチョウ(瑞穂市天然記念物) g67012


この木は、雄木であるがこの木の雄花から発する花粉が風に

よって市内はもとより近郊諸処へ運ばれ、各地の雌木に実を

結ばせている。

太い枝の根本から乳根が垂れ下がっているのが見える。

樹齢不詳。樹高18m。目通り4m。

秋葉神社の大イチョウ・乳根が見えるg67010

観音院へ g67014

観音院本堂 g67016

観音院住職の説明を受けた012

中川のレンギョウ019

中川の橋から見た伊吹山(左)と池田山(右)2.18 g67029

一夜城遠望 手前は犀川g67030

墨俣一夜城へ031

墨俣一夜城032

墨俣一夜城築城の説明048

一夜城公園の催し会場041

墨俣一夜城・参加者の皆さん050

犀川遊水池の解説 g67031

墨俣一夜城(築城450年)  g67032

墨俣一夜城を後にする g67035

桜祭り会場(左は犀川)058

墨俣宿脇本陣へ g67037

脇本陣の吊りびなと雛飾り068

脇本陣の飾り雛 g67039

墨俣一夜城(築城450年)の案内 g67043

津島神社沿革 g67044

琉球使節通行記念灯籠(津島神社内) g67045

大江川堤防の桜 g67056

桜の古木 g67060

桜が一部咲いていた083

大江川沿いの桜(2017.4.1)095

岐阜市柳津町高桑の星桜の巨木(染井吉野) g67061

高桑箒桜(2017.2.18) g67064

境川(沈下橋)096

境川(沈下橋)を渡る g67068

美濃路一里塚跡(2017.2.18) g67t071

美濃路一里塚跡(2017.2.18) g67070

羽島市には美濃路一里塚が2カ所ある。

背後の木はイチョウの木だが、かつては榎が植えられていた。

(2017.4.1には、このイチョウの木が根本から切られていた。)

美濃路一里塚跡のイチョウの木が伐採されていた(2017.4.1)

親鸞聖人旧跡と美濃路・右(2017.4.1)

親鸞聖人旧跡と西方寺案内の碑(左鎌倉街道/右美濃路)g67073

西方寺へ g67076

西方寺の聖徳太子・親鸞上人遺跡の碑 g67078

西方寺本堂 g67080

西方寺住職の説明を聞く107
「西方寺」

推古天皇時代7世紀初頭の推古10年(602)創建

(法相宗太子寺)9世紀に天台宗西方寺となり、

鎌倉時代の嘉禎元年(1235)親鸞聖人が滞在した

とき浄土真宗に改宗される。

(西方寺は、鎌倉街道沿いに面している。下記Map参照)

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西方寺裏手から金華山を遠望 g67083

名鉄羽島線・南宿駅に到着 g67088

『用語解説』 (コースマップ) topへ

瑞穂市(HP)
「地理」(wikipedia)
濃尾平野の北西部、岐阜市と大垣市にはさまれた地域に位置する。なお呂久地区のみ揖斐川の右岸にある。
これは明治時代まで揖斐川(伊尾川)が呂久の西を流れていた名残りで、現在でも小さな川が流れている。
河川: 長良川、揖斐川、糸貫川、犀川、五六川、中川、新堀川、など、大小を問わず多くの河川がある。
別府観音(瑞穂市HP・場所:岐阜県瑞穂市別府491) topへ

通称別府観音と呼ばれているこの観音像は、平安時代の様式(藤原様式)の影響を受けた素朴な木像です。
檜材の一木造りで、豊然上人作といわれています。身丈5尺8寸(約174m)で、伝記によると谷汲山華厳寺の
観音像と同じといわれています。毎月18日の午前8時〜午後11時の間と、その他8 月10日の千日参り及び
2月3日の星供養にも開帳されています。 
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「別府細工」

別府細工というのは、天明年間(1781〜1789)頃、別府村に住んでいた広瀬清八・茂重郎親子が父子二代に
わたって製作した蝋型鋳物細工です。
燭台、香炉、文鎮、根付けなど、やわらかな味わいが素晴らしいものです。 topへ
瑞穂シティガイドマップ(pdf)参照


『別府観音の由来』

御本尊十一面観世音菩薩は、西国三十三番谷汲山の観音像と御同作、御等身で、古来、御兄弟の霊像である
と言い伝えられています。
その故は、人皇50代桓武天皇の延暦年間(782から805年)に奥州(福島県会津)の豪族大口の大領
という者が、京都平安において豊年上人の御作・十一面観音菩薩、甲乙二体を尊像を勧請し、会津に安置た
てまつろうと京都平安の都を旅立ちましたが、近江路(滋賀県)を経て、美濃の国、杭瀬川の東、大野の郷
、川崎(現、西小学校区)の伊久良河の宮(瑞穂市居倉)の辺り(瑞穂市森)に来たところで不思議な霊告
を感じたため、一帯を糸貫川の支流、管瀬川の上流霊感の地に安置しました。これが谷汲山です。
別の一体は会津に安置しようとしましたが、大領が病気になり、美濃の国で逝去したため、その菩薩様は
川崎の森に留まりました。
それから380年の後、源平の役が起きると、岡部六弥太忠澄という者が源氏の範頼・義経方の武将として
一谷の戦いにおいて平家の大将薩摩守忠度を討ち取るという手柄を立て、武功によって美濃の国の領主と
なりました。この六弥太忠澄の母親が別府氏であったため、その母親の病気祈願、二世安楽、息災延命、
五穀成就を願い、十一面観音菩薩を川崎の地よりこの別府の地に遷し、堂等を建立し奉ったのです。
十一面観音とは
1.あらゆる方向からの願いに向き合ってくれます。
2.頭に十一の顔を持つ観音様です。
3.正面の三面の顔は慈悲面といい、おだやかで、やさしい顔をしています。慈悲の心を与えてくれます。
4.向かって左、三面の顔は狗牙上出面といい、優しげな顔に歯が見えています。元気を出して!と励まして
 くれます。
5.向かって右、三面は怒っている顔です、瞋怒(しんぬ)面といいます。悪人を懲らしめ、正しい行いに
 導こうとする顔です。
6.後ろの一面は暴悪大笑面といい大笑いをしている顔で、悪を笑い飛ばし、正しい道に行けと諭す顔です。
7.頭頂部に目立つのが仏面で、仏の道に目覚めた人に教えを説く意味があります。
別府観音堂の御仏像
別府観音堂には、御本尊のほかにも次の御仏像が安置されています。
不動明王(ふどうみょうおう):強きをくじき、弱きを助ける、剛の仏さまです。
 困ったときに力をかしてくれたり、身代りになって災難を引き受けてくれたりする存在です。
毘沙門天(びしゃもんてん)
 七福神のひとりで財産を与えてくれます。
 仏法を守る闘いの役割と、財運を招くという役目があります。
十王
 冥界(冥土)に住む十人の王。閻魔大王などがあります。
観音院 (場所:瑞穂市穂積278番地) topへ
穂積にある観音院では「十一面観世音菩薩」が安置されています。下穂積に安置してあった十一面観世音
菩薩を定継夫婦が名古屋大須の極楽寺に請うて延宝4年(1676年)に堂宇建立を発願し、10年を経た
貞亨3年(1686年)頃に現在の位置に建てられたと言われています。 
観音院では毎年8月9日と10日に千日詣りがあります。観音院の千日詣りの特徴は何といっても大提灯
です。直径4.1m、高さ8.7mという大きな提灯は、作成された当時は桜の木の絵が描かれていました。
これは、提灯の作成当時の穂積町が栄えるようにと願いをこめられたと言われています。
その時に作った提灯は台風で壊れてしまいましたが、その後何回か修復が繰り返され、平成25年には絵が
新しくなり、桜と観世音菩薩、そして夜叉が描かれています。
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中川の桜(Youtobe) 犀川の桜(Youtobe)  topへ
「長良川の支流・犀川と中川の桜並木の堤防」
長良川の支流で、市内を流れる犀川と中川の堤防には、市の木「桜」が植えられていて、花見の名所と
なっている。犀川は、「さい川さくら公園」内の堤防に約1000本の桜が植えられていて、約2kmに
わたって続く。花見の時期には「すのまた桜まつり」が催され、夜間はライトアップし、墨俣一夜城を背景
にして美しく映える。
中川は、ほづみ幼稚園の辺りから国道21号線までの間の約1kmにわたって桜の並木が続き、河川敷の菜の花
とのコラボレーションで、人気スポットとなっている。
犀川(wikipedia)
犀川(さいかわ)は、岐阜県を流れる木曽川水系の河川。木曽三川の長良川の支流である。
「地理」
岐阜県本巣市山口(旧本巣郡本巣町)で根尾川から取水した席田用水の分流である真桑用水が南へ流れ
岐阜県本巣市下真桑(一級河川としての起点)から犀川となる。
瑞穂市を流れ、大垣市墨俣町墨俣からは、長良川と並行し、安八郡安八町大森で長良川に合流する。
古くから洪水が多く、水門、ポンプ場、遊水地が設けられている。昭和初期には河川改修の問題により、
安八郡の住民による暴動(犀川事件)が発生した歴史がある。
大垣市墨俣町の墨俣城の犀川堤は桜の名所であり、飛騨・美濃さくら三十三選に指定されている。
「歴史」
1530年(享禄3年):大洪水により、根尾川の本流は藪川(現在の根尾川)に移る。この洪水により、
犀川ができる。
1641年(寛永18年):席田用水と真桑用水とで水量を巡る争いが発生する。幕府裁定により、席田用水
が6割、真桑用水が4割に決まる。
1929年(昭和4年)1月7日:河川改修工事を巡り、安八郡の7町村の町村長及び役場全職員は県知事に対
し辞表を提出。これをきっかけに住民と警察、軍隊が衝突する(犀川事件)。
「主な支流」
長護寺川・五六川・中川・天王川

「遊水池等の説明」(下記PDF参照)
犀川統合排水機場説明資料(国土交通省PDF)

犀川圏域河川整備計画(岐阜県PDF)

墨俣一夜城(大垣市)  topへ

永禄9年(1566年)、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城。
その城跡に、当時の砦のような城ではなく、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が、平成3年4月
に開館しました。史実については、太閤記や断片的資料で概要を知る程度でしたが、昭和52年に愛知県江南市
の旧家に伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、その全貌が明らかに
なってきました。
墨俣一夜城(歴史資料館)では、この資料に基づいて墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心とした展示構成とし、
太閤・秀吉についての学習の場として広く活用していただけるようになっています。
「住所」 〒503-0102 大垣市墨俣町墨俣1742-1

概要[wikipedia] 築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前から しばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。 また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎 (後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。 これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。
戦国武将列伝



犀川堤(桜堤防・あじさい街道)[2011年1月1日]
「概要」
墨俣地区にある犀川・新犀川の堤には、約1,000本の桜並木が約2kmにわたって続きます。
新犀川の堤にある桜は昭和20年代に料芸組合が、犀川堤の美観と組合の発展を願い、観光名所となる
よう期待を込め、植樹されました。
今では、桜トンネルができるくらい見事な桜並木となり、花見期間には、車の通行もなく桜見物には
最高。犀川堤に咲いているので、別名「桜堤防」ともいわれ、毎年行われる「さくらまつり」には、
桜並木のトンネルを行き交う人たちで大変にぎわいます。
また、新たに平成18年から地域の皆さんの手によってアジサイを毎年植えており、6月の新しい花の
名所となっています。その他にも、町内を通る美濃路沿線や寺町界隈でも色々なアジサイが見られます。
墨俣宿(wikipedia)
墨俣宿は、美濃路の宿場である。現在の岐阜県大垣市墨俣地域自治区(旧安八郡墨俣町)にある。

墨俣は、美濃路が設定される以前より、古くから宿場町として栄えていた。室町時代迄の鎌倉街道
(京〜鎌倉)の宿場町は大垣市墨俣町上宿付近にあり、美濃路の設定時に大垣市墨俣町墨俣付近に移設
された。揖斐川と長良川に挟まれており、重要な宿場であった。
長良川には墨俣の渡しという渡し船があった。近くには豊臣秀吉ゆかりの墨俣城(墨俣一夜城)がある。

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美濃路起宿 - 墨俣宿 - 大垣宿
起宿と墨俣宿の間の南宿村(現・羽島市足近町南宿)には、間の宿が設置されていた。

墨俣宿解説(Web)

墨俣宿と美濃路(WEB解説参照)       topへ
境川の桜  topへ 
羽島市観光協会
美濃路(wikipedia)
美濃路は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(脇街道)である。
美濃路の原型は古代において東海道から尾張国の国府を経由して美濃国にあった東山道の不破関に
出る経路であったと考えられている。当時の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に
渡ることになっていたが、東国から馬で奈良・京都に向かう場合に馬と一緒に伊勢湾を渡ることが
できず、近隣の住人に馬を預けてトラブルになることがあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。
このため、徒歩あるいは馬で西に向かう人はこのルートを用いたとみられている。
関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市)から美濃へ進軍し、
戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。
朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。
東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい
難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれる
ことがあった。
宿場一覧
1.宮宿 (愛知県名古屋市熱田区)(東海道と接続)
2.名古屋宿 (愛知県名古屋市中区)
3.清須宿 (愛知県清須市)
4.稲葉宿 (愛知県稲沢市)
5.萩原宿 (愛知県一宮市)
6.起宿 (愛知県一宮市)
7.墨俣宿 (岐阜県大垣市)
8.大垣宿 (岐阜県大垣市)
9.垂井宿 (岐阜県垂井町)(中山道と接続)
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一里塚跡(羽島市内) 「東小熊・西小熊一里塚」 境川堤防の南側(西小熊)に往時の榎はなく、イチョウが植えられ塚なし。 反対側、北塚(東小熊一里塚) 「不破一色・坂丸一里塚跡」 羽島市正木小学校内に説明板と塚はなく石碑があります。 交通:名鉄竹鼻線須賀駅から徒歩10分
西方寺 topへ
「道標」
「西方寺への道標」
境川左岸堤防を南へ下る所に、親鸞聖人御旧跡西方寺まで「従是東5丁」と刻まれている。


「西方寺」 推古天皇時代7世紀初頭の推古10年(602)創建(法相宗太子寺)9世紀に天台宗西方寺となり、 鎌倉時代の嘉禎元年(1235)親鸞聖人が滞在したとき浄土真宗に改宗される。 topへ
南宿駅(wikipedia)
南宿駅(みなみじゅくえき)は、岐阜県羽島市足近町南宿北出にある、名古屋鉄道竹鼻線の駅である。
駅番号はTH03。列車の交換が行われる。かつて急行運転が行われていた際は、この駅で運転停車が行
われていた。駅集中管理システム(名鉄岐阜駅管理)導入済の無人駅。
JR穂積駅(wikipedia) topへ
穂積駅(ほづみえき)は、岐阜県瑞穂市別府にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道
(JR貨物)東海道本線の駅である。瑞穂市及び旧・本巣郡穂積町の代表駅である。

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東海道・中山道・美濃路、下記マップ参照 (墨俣宿は美濃路の大垣宿と起宿の間にある) topへ

全員集合(一夜城にて)  topへ



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