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友歩会第73回・岐阜編Part11(下見)&例会レポート (
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下見・H30(2018).2.17(土)&例会・H30(2018).4.7(土)
天気:下見:(8名)晴れ歩数:27,013歩、例会:曇り(名)歩数:27,606歩

コース:JR穂積駅(9:00)→糸貫河川公園→馬場公園→美江寺→美江寺城址→千体仏→
    →浄水公園→小簾紅園→十九城址→十九条駅(ゴール)(14km)


(コースマップ)友歩会(HP) 全員集合


用語解説コーナー


JR穂積駅g67001

受付 h294001

駅から北進する g73003

糸貫川へ降りるg73004

糸貫河川公園を歩く006

熊野神社へ009

神明(熊野)神社由来g73w010

瑞浪市郷土資料館g73011

馬場公園g73012

糸貫川のカモたちg73013

延命地蔵 g73016 (コースマップ)
延命地蔵の解説

延命地蔵 g73016

延命地蔵017

道標 右岐阜加納に至る 左北方谷汲に至る021

美江寺観音 g73034
美江寺宿名所遺跡案内g73w022

美江寺観音(両側にわらじ)g73035

中山道美江寺宿038

高札 g73039

高札場跡  g73050

自然居士(じねんこじ)の墓 g73t028

美江寺宿g73t049

美江神社 g73051

美江寺宿の旧家053

美江寺宿本陣跡 g73054

美江寺城跡(中小学校内) g73056

美江寺城跡解説 g73w057

美江寺城址 g73058 (コースマップ)

道標(右大垣赤坂に至る 左大垣墨俣に至る) g73064

美江寺千手観音像 g73069

犀川沿いの中山道を歩く(田之上地区) g73076

大月浄水公園 g73081 (コースマップ)

中山道宿場町の石柱が並ぶ 090

巣南町・合併30年碑 g73093

瑞穂市西部複合センター(図書館他) g73096

小簾公園内の和宮和歌の碑 g73106

「落ちて行く 身とは知りながらもみじ葉の 人なつかしくこがれこそすれ」
和宮が揖斐川呂久渡船の時岸辺の紅葉を詠んだ歌 g73108

再び犀川を渡る
 g73117

むかい地蔵のいわれ  g73078

むかい地蔵(男・古橋側)が中央に見える(上犀川橋)g73080

十九条公園 g73124

十九条駅(樽見線) g73125

『用語解説』 (コースマップ) topへ

瑞穂市(HP)  topへ
「地理」(wikipedia)
濃尾平野の北西部、岐阜市と大垣市にはさまれた地域に位置する。なお呂久地区のみ揖斐川の右岸にある。
これは明治時代まで揖斐川(伊尾川)が呂久の西を流れていた名残りで、現在でも小さな川が流れている。
河川: 長良川、揖斐川、糸貫川、犀川、五六川、中川、新堀川、など、大小を問わず多くの河川がある。topへ
糸貫河川公園(1)岐阜県瑞穂市本田・穗積駅1.1km 馬場公園(8)馬場上光町2丁目107   topへ

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瑞穂シティガイドマップ(pdf)参照 (コースマップ)参照


本田地蔵堂(延命地蔵)
高さ90Cmの石仏座像で彫りが美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大阪屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳
(1809年)8月24日建立、濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。毎年8月24日には盛大な地蔵祭が行われている。



美江寺観音(WEB)
美江寺観音の本尊、脱乾漆十一面観世音菩薩は、 美濃十六条村(現 瑞穂市美江寺)より、 斉藤道三が稲葉山城の城主と
なった時に、南西の守護として美江寺観音を移された時の城下の鎮護のため安置されたものです。
 瑞穂の美江寺は、秘仏である十一面観世音菩薩の代役の御前立像を本尊とし、 経堂をに収めました。
元々は、伊賀国名張郡伊賀寺に安置されたものを、木曽・長良・揖斐の河川の氾濫を鎮める為に、本尊を十六条村に移した
ところ、三川の氾濫が治まった為、美しい長江の意の 美江寺という名が付けられたとの謂われがあります。
土岐家家臣和田佐渡守が、応仁の乱で焼失した寺を再興し、その勢力が拡大していた為、道三が、勢力を抑え、自らの力を
示すために、移転したとも言われています。
その後も、織田信長上洛の際、祈願文を奉納、織田信孝が月成夫銭三千一貫文寄進、徳川家康より寺領十石を賜る等、戦国
武将との造詣も深い寺院です。


美江寺(wikipedia)
美江寺(みえじ)は、岐阜県岐阜市にある天台宗の寺院。山号は大日山。院号は観昌院。通称「美江寺観音」。
正式名称より通称で呼ばれることが多い。本尊は十一面観音。
美濃三十三観音霊場第十八番札所。岐阜観音札所第三番札所。東海白寿三十三観音第三十一番札所。topへ

瑞穂市美江寺については、美江寺宿を参照。  中山道は慶長7年(1602)東海道の裏街道として67の宿駅(美濃には16宿)が設けられ、それから 遅れること35年の寛永14年(1647)4月に美江寺宿は公式設置されました。また、幕府役人や大名 たちの宿泊施設に供された本陣の建設は、さらに遅く寛文9年(1669)のことでした。 当時美濃地方には、東に加納宿、西に垂井宿という大きな宿場があり二つの宿場の距離は25キロメートルで、 当時の旅人が1日で歩くことができる距離でした。 美江寺宿は二つの宿場の間にあった「間の宿(あいのしゅく)」であったため整備が遅れたと考えられます。 美江寺宿は、江戸から56番目にあたり、現在の瑞穂市の中央を流れる五六川はこの宿場にちなんで名づけられ ました。topへ
美江神社 中山道美江寺宿にある。かつてはこの地に天台宗の寺院である美江寺が存在した。この美江寺は1549年(天文8年)、 斎藤道三の稲葉山城の築城時に、城の裏鬼門を守護するために移築している(現在の岐阜市美江寺)。 美江神社の境内にある美江寺観音は、1567年(永禄10年)、織田信長の命で建立されたものである。 topへ
中山道  江戸幕府を開いた徳川家康は、江戸を中心とした政治体制を確立するために、五街道(東海道・中山道・ 甲州街道・奥州街道・日光道中)を制定しその整備に着手しました。 これは、単に道路を整備するだけでなく通信や物資の輸送を円滑にするための宿場整備や伝馬制の確立をめざ したもので、当初は軍事的色彩を色濃くしたものでした。topへ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 『中山道概要』  top 南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対し、北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を 共にする。江戸から草津までは129里(約507.7km)あり、67箇所の宿場が置かれた[3]。また、江戸から京都 までは135里(526.3km)である。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県 ・京都府にあたる。 『経路と宿場』 中山道は、江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て京都の三条大橋まで 六十九次ある。距離は約530kmあるが、これは東海道よりも約40kmほど長く、宿場も16宿多い。 宿場数が密であったのは、比較的険しい山道が多いうえ冬場は寒さも厳しい内陸の地域を通り、降雪時に通行が 困難であったために、1日の歩行距離は短くなり限界があったからだと考えられている。 東海道に比べ大回りをするルートで和田峠越えや「木曽のかけはし」通過などの難所もあったにもかかわらず 往来はさかんであった。船が許されず川越人足であった大井川、安倍川や、険しい箱根峠など交通難所が多い うえ、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかった東海道を避けて、中山道を選ぶ者も多くいたと いわれている。中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる。 信濃の下諏訪では、日本橋を立ち甲府を経由する五街道の一つである甲州街道と再び合流する。 また、美濃の垂井で脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、東海道の宮(熱田)と連絡した。topへ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 武蔵(現・東京都、埼玉県) 日本橋(江戸) - 板橋 - 蕨 - 浦和 - 大宮 - 上尾 - 桶川 - 鴻巣 - 熊谷 - 深谷 - 本庄 - 上野(現・群馬県) 新町 - 倉賀野 - 高崎 - 板鼻 - 安中 - 松井田 - 坂本 - 信濃(現・長野県) 軽井沢 - 沓掛 - 追分 - 小田井 - 岩村田 - 塩名田 - 八幡 - 望月 - 芦田 - 長久保 - 和田 - 下諏訪- 塩尻 - 洗馬 - 本山 - 贄川 - 奈良井 - 藪原 - 宮ノ越 - 福島 - 上松 - 須原 - 野尻 - 三留野 - 妻籠 - 馬籠 - 美濃(現・岐阜県) 落合 - 中津川 - 大井 - 大湫 - 細久手 - 御嵩 - 伏見 - 太田 - 鵜沼 - 加納 - 河渡 - 美江寺 - 赤坂 - 垂井 - 関ヶ原 - 今須 - 近江(現・滋賀県) 柏原 - 醒井 - 番場 - 鳥居本 - 高宮 - 愛知川 - 武佐 - 守山 - 草津 - 大津 - 山城(現・京都府) 三条大橋(京) topへ
美江寺宿(WEB) 美江寺という地名は想像の通りここにあった同名の寺社に由来する。養老年間(717〜724年)の創建と 伝わる美江寺は伊賀国の伊賀寺に安置されてた十一面観音を美濃国に移したことに由緒があるという。 この古刹を中核にして人々が集まり門前町を形成していったのだろうが、戦国時代の天文8年(1549年) 肝心要の十一面観音は斎藤道三によって稲葉山城下(現岐阜市内)に移されてしまったという。しかしながら 町名にその名だけは留め、太閤秀吉が天下人となった頃には問屋場が設けられ、荷継ぎの役にあたるほどに栄 えていたようだ。 寛永14年(1637年)徳川の世となって中山道が整備されるにあたり宿場町となったが、本陣が置かれた のは遅れること32年後の寛文9年(1669年)のことであった。宿場は大雨が降ると長良川の逆水により 浸水し、そのうえ幕末頃には治安も悪かったようで、旅人の評判は良くなかったらしい。 美江寺宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西4町28間(約486m)、人口582人、 家数136軒、本陣1、脇本陣なし、旅籠11軒。明治24年(1891年)の濃尾大地震で壊滅的な被害に 遭ったので、現在の町並みに古い建物はほとんど残っていない。topへ
美江寺城址(WEB) L字形の街道筋に家を連ねる美江寺宿。その2辺に囲まれるようにして美江寺城址がある。美江寺城は応仁・ 文明年間(1467〜1487年)頃、美濃守護土岐氏の家臣和田八郎が築いたと伝わる。 以後和田氏の居城となるが、下克上の雄斎藤道三が美濃で台頭すると、天文11年(1542)和田氏は 土岐頼芸と連合して斎藤氏に抗したが、時流には逆らえず城は灰塵に帰し滅亡。その後美江寺城は廃城と なった。現在の美江寺城址は中小学校の敷地となっており、遺構は何も残っていない。わずかにその跡地を 示す小さな石垣のモニュメントと石碑、説明板があるだけだった。戦国期の早い段階で廃城となったため、 江戸幕府が作成した分間延絵図を見ても城跡は草木と鳥居の記載が見られるくらいで、荒地か農耕地にでも なっていたようだ。中山道は城跡の北辺から北西角で折れ曲がり西辺を通っている。topへ
美江寺宿場まつり(開催場所:美江神社(岐阜県瑞穂市美江寺917)) topへ
穂積にある観音院では「十一面観世音菩薩」が安置されています。下穂積に安置してあった十一面観世音
菩薩を定継夫婦が名古屋大須の極楽寺に請うて延宝4年(1676年)に堂宇建立を発願し、10年を経た
貞亨3年(1686年)頃に現在の位置に建てられたと言われています。 
観音院では毎年8月9日と10日に千日詣りがあります。観音院の千日詣りの特徴は何といっても大提灯
です。直径4.1m、高さ8.7mという大きな提灯は、作成された当時は桜の木の絵が描かれていました。
これは、提灯の作成当時の穂積町が栄えるようにと願いをこめられたと言われています。
その時に作った提灯は台風で壊れてしまいましたが、その後何回か修復が繰り返され、平成25年には絵が
新しくなり、桜と観世音菩薩、そして夜叉が描かれています。 topへ
top
千体仏(WEB)
犀川を越えると、田之上の集落に入る。街道は、すぐに千躰寺にぶつかり、左に曲がる。
 浄土宗西山派・千躰寺には高さ12〜23cmの檜一木造の阿弥陀如来立像千体が8段に並べられており、千躰仏と
呼ばれている。 千躰仏は、鎌倉後期に美江寺の地で没した遊行僧・自然居士が造立したもので瑞穂市指定有形
文化財である。 topへ

自然居士は、和泉国日根郡自然田村生まれで、行く先々の寺に泊まって旅をする遊行僧でした。生没は不明だが、 大明国師に師事したと伝えられており、鎌倉後期の禅僧であろうと思われ、美江寺で没したと伝えられています。 自然居士は、遊行の途中、美江寺の地で千躰仏を造立し、現在は瑞穂市田之上の千躰寺に祀られています。 topへ
犀川(wikipedia) topへ
犀川(さいかわ)は、岐阜県を流れる木曽川水系の河川。木曽三川の長良川の支流である。
「地理」
岐阜県本巣市山口(旧本巣郡本巣町)で根尾川から取水した席田用水の分流である真桑用水が南へ流れ
岐阜県本巣市下真桑(一級河川としての起点)から犀川となる。
瑞穂市を流れ、大垣市墨俣町墨俣からは、長良川と並行し、安八郡安八町大森で長良川に合流する。
古くから洪水が多く、水門、ポンプ場、遊水地が設けられている。昭和初期には河川改修の問題により、
安八郡の住民による暴動(犀川事件)が発生した歴史がある。
大垣市墨俣町の墨俣城の犀川堤は桜の名所であり、飛騨・美濃さくら三十三選に指定されている。
「歴史」
1530年(享禄3年):大洪水により、根尾川の本流は藪川(現在の根尾川)に移る。この洪水により、
犀川ができる。
1641年(寛永18年):席田用水と真桑用水とで水量を巡る争いが発生する。幕府裁定により、席田用水
が6割、真桑用水が4割に決まる。
1929年(昭和4年)1月7日:河川改修工事を巡り、安八郡の7町村の町村長及び役場全職員は県知事に対
し辞表を提出。これをきっかけに住民と警察、軍隊が衝突する(犀川事件)。
「主な支流」
長護寺川・五六川・中川・天王川 topへ

「五六川」 五六川(ごろくがわ)は、岐阜県本巣市と瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川 に合流する一級河川である。河川名は中山道で川を渡ったところに美江寺宿があり、日本橋から56番目の 宿場であることが由来となっている(美江寺宿は実際には55番目の宿場町)。topへ
大月浄水公園 長護寺川に架かる朱塗りの橋(左)の先に巣南中学校があります。 中学校の向かいに大月浄水公園があり、そこに右に入る石畳の道路(右)が出来ています。 その両側には岐阜県内の中山道各宿場の石柱が置かれています。 又、入口には中山道跡地と言う、瑞穂市内の中山道について細かく記載された説明板があります。topへ
小簾紅園(wikipedia)
小簾紅園(おずこうえん)は、岐阜県瑞穂市にある公園、史跡である。1861年(文久元年)、
孝明天皇の妹である皇女和宮が徳川家茂の元に嫁ぐために、中山道で江戸に下った折、旧暦10月26日、
呂久川(揖斐川)の呂久の渡しを利用した際に、
「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」
の和歌を詠んだという。このことを記念し、1929年(昭和4年)4月26日に開園する。
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むかい地蔵(瑞穂市の昔話)   topへ
結婚を誓った若い男女の物語。 古橋村(川下に向かって右側)の若い男が、毎晩木の橋(昔の橋は、木の板
が3枚ほど置いてあるだけの簡単なものでした)を渡り、十九条(川下に向かって左側)の若い娘のところへ
こっそり通っていました。
昔の土地の習わしや地区意識の違いにより、よそ者同士の結婚はとても難しいことで、両親にも強く反対され
ていました。 
しかし、それでも若い二人はあきらめず、ある大雨の降る晩にこっそり逢いますが、思い悩んだ二人は、体を
紐で結んで、川へ身投げしてしまいます。
二人が亡くなったあと、それまでいがみあってきた二つの村が話しあって、若い男女の御霊(みたま)を祀る
ために、橋の両側にお地蔵さんを建てたという悲しい物語です。
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むかい地蔵(WEB)
地域に伝わる昔話を集めた本「すなみ百話」と「穂積の昔ばなし」の中でも紹介されている言い伝え。
古橋と十九条にかかる上犀川橋の両側に、お互いを見つめあうようによく似たお地蔵様が建っています
 古橋側には、がっしりとした男のお地蔵様
 十九条側には、お化粧をした女のお地蔵様
昔、川を隔てて夫婦になることを誓い合った若い男女が、悲しい結末を迎えたことから、二人の幸せを祈り
たてられたとされています。
 平成25年、瑞穂市合併十周年の記念に、この物語をテーマにした
 「市民創作朗読劇 むかい地蔵 〜川と命 永遠の愛〜」が上演されました
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十九城址(wikipedia)   topへ
大永6年(1526年)、土岐頼純の命により、川手城を防衛する出城の一つとして斎藤利良によって築かれた。
一番外側の出城である。しかし、土岐氏の衰退、美濃国を斎藤道三が支配するようになると存在意味がなく
なり、廃城となる。永禄4年(1561年)、織田信長は墨俣城以外の美濃国攻略の拠点の必要性を考え、かつて
の十九条城跡地に着目する。信長は自ら兵を率いて十九条城跡地を占領。再び十九条城を築き、織田広良が
城主となる。永禄5年(1562年)、斎藤龍興は十九条城を目指して稲葉山城から出陣する。これに呼応して
信長も兵を出し、十四条(現・瑞穂市)と軽海(現・本巣市)で両軍が激突する。
この戦いで十九条城城主の広良は野々村正成に討たれて戦死する。十九条城は焼失し廃城となる。
現在、十九条城の本丸跡は津島神社になっている。 topへ


十九条城(WEB)&「十七条城」
「十九条城」   topへ
形態  平山城
歴史  築城年代は定かではないが織田信長によって築かれた。 永禄4年(1561年)信長は西美濃に侵攻、墨俣
に陣を置き斉藤氏に対峙した。この後に十九条城を築き、織田信益を城主としたが、洪水により交通が遮断
された隙に、斉藤氏は十九条城を攻め信益は討死した。   
説明  現在は津島神社に案内板があるが、特に遺構らしきものは見当たらない。   
城主  織田信益   
案内  最寄り駅(直線距離)
0.2km 十九条駅
0.7km 横屋駅
2.2km 美江寺駅
2.4km 東大垣駅
3.1km 穂積駅
所在地 岐阜県瑞穂市十九条(津島神社) topへ

※美江寺城・十七条城・十九条城の配置図   topへ top
「十七条城」  topへ
合併まえの旧・巣南町役場を東に進み、川を渡って桜コンクリートさんの工場の北東に熊野神社があります。
この神社を北端にして南側に「十七条城」という城があったそうです。
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築城年代は定かではないが南北朝時代に船木頼胤によって築かれたと云われる。 享禄年間(1528年〜1532年)頃
には林正長が改修して居城とし、その子玄蕃は永禄5年(1562年)に西美濃に侵攻した織田信長との合戦で討死した。
正長の二男正成は稲葉重通の養子となり、お福(春日局)と婚姻した。その子正定は尾張徳川氏に仕え千石を領した
が、孫の代に世継なく断絶した。  topへ
十九条駅(じゅうくじょうえき)は、岐阜県瑞穂市十九条にある樽見鉄道樽見線の駅である。
「駅構造」単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅である。
大垣駅−東大垣駅−横屋駅−(十九条駅)−美江寺駅−北方真桑駅−    ★topへ
JR穂積駅(wikipedia) topへ
穂積駅(ほづみえき)は、岐阜県瑞穂市別府にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道
(JR貨物)東海道本線の駅である。瑞穂市及び旧・本巣郡穂積町の代表駅である。
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全員集合(瑞穂市西部複合センター前にて)  topへ



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