第92回友歩会史跡巡りシリーズ・岐阜編Part14
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(令和4・2022年10月1日(土)天気:晴れ) (26名参加)  歩数:28,569歩
下見@・令和3年9月4日(土)曇り・(6名参加)・歩数:27,788歩(例会はコロナ禍の下中止
下見A・令和4年9月3日(土)曇り・歩数:10,296歩(不参加

コース:
スタート−7:21尾張中島バス停→7:44・JR尾張一宮発→垂井着8:17→(下見)スタート→垂井の泉→垂井宿高札場→西の見付→
垂井一里塚→常夜灯→徳法寺→五明稲荷神社→伊富岐神社禅幢寺竹中氏陣屋跡菁莪記念館→安立寺→南宮御旅神社
→美濃国府跡→相川→東の見付→垂井駅(13Km)


垂井町 垂井町観光ガイド 中山道垂井宿(HP参照) 竹中半兵衛(解説) コースマップ(PDF)
垂井町観光ガイドブック(PDF) 見どころ説明 『解説』欄へ
(参考HP:羽島〜垂井美濃路ウオーキング2009.10.31太夫内) (美濃路探訪2012.11.24太夫内



JR垂井駅(2020.9.5)

受付(垂井駅前2020.10.03)

垂井駅前・竹中半兵衛重治公 88t003

垂井の泉88t008

臥竜山玉泉寺1628.2建立(裏清水) 88t016

臥竜山玉泉寺88t015

南宮大社石鳥居説明
85t015 

南宮大社石鳥居85t016

垂井宿/本龍寺と高札場/左は明治天皇垂井御小休所の碑

中山道・垂井宿/高札場88t022

垂井宿・西の見付88t025

垂井一里塚(江戸から112番目・南側1基のみ現存)030

垂井の茶畑を通る033

相川を渡る035

常夜灯88t036

垂井町のエコドーム(資源回収センター)88t040

垂井町の国道沿いに建てられた近世の戦国時代末期に秀吉
の参謀・軍師として歴史を動かした竹中半兵衛重治公の史跡
案内看板と同時に現代の資本主義時代末期を告げる「非核
平和都市宣言の町」の看板が好対照となって目についた。
垂井町は中山道垂井宿や美濃路追分があり史跡の宝庫である。
駅前には「垂井町観光案内所」がある。(2022.10.1)022

岩手のヤマモモr410019

五明稲荷神社のイチョウの木(垂井)049

伊富岐神社へ053

伊富岐神社055

伊富岐神社057

伊富岐神社の大杉059

伊富岐神社の大杉解説
88toosugi

禅幢寺へ068

禅幢寺櫓069

禅幢寺/(竹中氏の菩提寺)070

禅幢寺/竹中氏の墓所図(上段左が重治の墓)074

竹中半兵衛重治の墓076

竹中氏の墓所図を確かめる079

竹中氏陣屋跡(現在岩手小学校裏、西側へと続いている。085

竹中氏陣屋跡087

10.1ガイドさんの説明を聞いて石垣の上に登る61

右下には竹中半兵衛の像が見える(2022.10.1)58

竹中氏陣屋跡(堀がある)090

竹中半兵衛重治takenaka,jpg
(1544〜1579)

菁莪記念館098

菁莪記念館内/五明稲荷神社のイチョウの木の展示111

菁莪記念館seiga.jpg

菁莪記念館内/五明稲荷神社のイチョウの原木
r410067

南宮御旅神社119

南宮御旅神社121

美濃国府跡123

美濃国府跡125

美濃国府跡126

中山道垂井宿観光マップ(現在地に「東の見付」)88t129
寺澤会長さんによる見どころ説明(2022.10.1)

『解説』  垂井町観光ガイド  コースマップ(PDF)   Top
美濃路
「美濃路とは、中山道垂井宿から、大垣・墨俣・起・萩原・稲場・清須・名古屋の7宿を経て、東海道宮宿(熱田)
 へと続く全長14里24町(約58km)余りの街道。中山道に付属する脇街道として幕府の道中奉行の支配下に
 置かれた道です。佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・境川(小熊川)・起川(木曽川)に渡し場が設けられ、
 将軍や朝鮮通信使などの通行の際には、いくつもの船をつなげて作られた「船橋」が架けられた。
 美濃路の原型は鎌倉街道と考えられており、又、関ヶ原の合戦において、徳川家康が凱旋した道でもあること
 から、江戸時代には「御吉例街道」とも呼ばれた。
 美濃路は東海道の鈴鹿峠や伊勢湾を渡る「七里の渡し」のような難所が比較的少ないため、朝鮮通信使や
 琉球使節などの外国使節、象などの珍獣、権威を誇った大名行列や御茶壷行列などの特殊な通行が頻繁に
 行われる道となっていった。」

美濃路マップ 垂井〜大垣=10.5km 大垣〜墨俣=8.0km 墨俣〜起=9.7km 起〜萩原=3.9km 萩原〜稲葉=5.9km 稲場〜清洲=5.9km 清洲〜名古屋=7.9km 名古屋〜宮宿=5.9km  合計57.7km
垂井宿(岐阜県垂井町)
垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県不破郡垂井町。
西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。
毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。
大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。
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垂井の泉(Wikipedia)        Top
垂井の泉は、岐阜県不破郡垂井町にある県指定の天然記念物である大ケヤキの根本から湧き出している泉。
岐阜県の名水50選に選ばれている。「垂井」の地名の由来となった泉である。
所在地: 〒503-2100 岐阜県不破郡垂井町
『続日本紀』天平12年(740年)12月条に見られる、聖武天皇が美濃行幸中に立ち寄った「曳常泉」はこの
場所とされており古来から由緒ある泉として近隣の住民から親しまれるだけでなく、歌枕(たる井の水)
としても知られ、天下の名泉として多くの人に親しまれてきた。7月第1土曜日は泉まつりが開催される。
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垂井の木として多くの人に親しまれ、また県の天然記念物にも指定されている「垂井の大ケヤキ」は泉の
ほとりの傾斜地にあった。幹周り8.2 m、樹高20 m、樹齢約800年と県下でも稀なケヤキの巨樹であった。
樹勢の衰えがみられるようになったため、1980年代後半より保存修理が実施されてきた。
また、2014年より岐阜県文化財審議会による保存整備の指導が始まったが、2015年9月11日午前2時頃
「垂井の大ケヤキ」は根の一部を残した状態で垂井の泉に覆い被さるようにして倒れた。原因は直前に通過
した台風18号の影響で地盤が緩んだためだとされる。現在、倒れた大ケヤキは根元部分の一部を防腐等の
加工をした上で、タルイピアセンターで展示している。
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高札場
高札とは幕府や領主が決めた法度や掟書などを記し、交通の多い市場や辻などに掲げられた板札のことです。
この高札を人々の目につきやすいように高く掲げておく場所を高札場と言い、垂井町では本龍寺山門前にあった。
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垂井一里塚(Wikipedia)
垂井一里塚は、岐阜県不破郡垂井町にある一里塚である。中山道沿いに設置され、日本橋から112里にある。
南側の1基のみが現存している。中山道の一里塚で国の史跡に指定されている2件のうちの1つである(他の1件は
志村一里塚)。一里塚の整備以前に行われた関ヶ原の戦いでは、この場所に浅野幸長が陣をかまえた。
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徳法寺(中央)/垂井町エコドーム(右)/稲荷神社(五明稲荷)(左)〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手2290 Top

竹中半兵衛と黒田官兵衛 二人の〇兵衛の絆! 
松寿丸(黒田長政)ゆかりの地

天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨平定を進める
中三木城攻めのおり、織田家家臣の荒木村重が
摂津で謀反を企てました。
村重と旧知であり、秀吉の部下であった黒田
官兵衛が説得に当たりましたが、逆に石牢に
幽閉されてしまいます。
黒田官兵衛が裏切り村重に寝返ったと判断した
織田信長は、秀吉に人質として預かっていた
「 黒田官兵衛の嫡男・松寿丸
(後の黒田長政)」を殺すよう命じます。
秀吉の当時の軍師 竹中半兵衛は、黒田官兵衛
の無実を信じ、密かに「松寿丸(黒田長政)」
を五明(岐阜県垂井町)に匿います。
1年後、黒田官兵衛が有岡城から助け出される
と、「 松寿丸(黒田長政)」も許されました。
この地をさるときに「五明稲荷神社境内の
イチョウの木」を植えたと伝えられています。Top
稲荷神社(五明稲荷)(左)〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手2290 gomyou.jpg(500*400) Top

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伊富岐神社       Top
所在地:岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1
伊富岐神社(いぶきじんじゃ)は、岐阜県不破郡垂井町にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
美濃国二宮とされる。
社殿は東南東を向いており、伊吹山を背後にした形で造られている。
伊富岐神社の祭神ははっきりしていない。幾つかの説があるが、古代、この地域に勢力があった伊福氏
の祖神を祭っているという。説としては、多多美彦命(夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう 伊吹山の神)
八岐大蛇、天火明命、草葦不合尊、などがある。
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伊富岐神社境内の社殿に向かって左側にこのスギがある。根元の幹周囲9.6m、目通り幹周囲6.6m、樹高30m、
枝張り東6.5m、西4.0m、南6.0m、北10.0mで樹勢は良好である。(2022年樹齢440年/本能寺の変1582年
に植えられたと仮定した場合です。)
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竹中重治(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) Top

(竹中半兵衛
時代	戦国時代 - 安土桃山時代
生誕	天文13年9月11日(1544年9月27日)
死没	天正7年6月13日(1579年7月6日)
改名	重虎(初名)、重治
別名	半兵衛(通称)
戒名	深竜水徹
墓所	栄運寺(兵庫県三木市)
禅幢寺(岐阜県不破郡垂井町)
浄土寺(滋賀県東近江市)
主君	斎藤龍興→浅井長政→織田信長
氏族	桓武平氏良文流鎌倉氏系竹中氏
父母	父:竹中重元、母:杉山久左衛門の娘(妙海大姉)
兄弟	重行、重治、重矩、彦八郎
妻	正室:得月院(安藤守就の娘)
子	重門
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竹中 重治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。 通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」 「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと 見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。 「生涯」 「斎藤氏時代」 天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・ 竹中重元の子として同地に生まれる。 弘治2年(1556年)長良川の戦いが初陣となる。斎藤道三に味方したが、父が不在のため代わりに 大将を務めた。籠城戦の末、斎藤義龍の軍を退けている。永禄元年(1558年)、父は不破郡 岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)菩提山城を築いて居城を移し重治もこれに従う。 永禄3年(1560年)、父の死去または隠居(一説に父の死去は永禄5年(1562年)とも)により家督 を相続し、菩提山城主となった。そして長良川の戦いで勝利した美濃国の国主・斎藤義龍に仕えた。 永禄4年(1561年)に義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。 この頃、尾張国の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢を よく防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興は若年だったために家臣団に動揺が走り 一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長が、永禄4年(1561年) 7月に美濃に侵攻し、永禄6年(1563年)にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために 斎藤勢は勝利したという。 ところが、主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や 西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月6日白昼、舅・安藤守就の 軍勢と龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を襲い、齋藤飛騨守ら6名を討ち取り、龍興を逃亡させた。 これを機に信長は美濃への圧力を強めていくことになる。7月29日あたりまでは稲葉山城の占領は続い ていたが(『敬念寺文書』)、8月には龍興に奪還されたようである。自ら龍興を諌め諭し、稲葉山城 を龍興に返還したともされるが、半年にわたり戦闘が継続していたことから龍興を支援する勢力の攻撃 により稲葉山城を放棄したとするのが正しい。城を放棄した後は隠遁生活を送る。 永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われ、没落すると斎藤家を去り、 北近江の戦国大名・浅井長政の客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して 旧領の岩手へと帰り、隠棲した。 「斎藤家滅亡後」 竹中重治が天正7年に使用した花押。「千年おゝとり」(鳳凰)を表した珍しい花押で、織田信長の 「麟」字型花押と同様に、平和への願いがこめられているといわれる。 信長は、浪人していた重治を自分の家臣として登用したいと考えた。美濃攻めで頭角を現していた木下 秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘ったとされる。重治はこのとき、 秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したと される。竹中重門の著した『豊鑑』には、信長が秀吉の要請を受けて、牧村利貞、丸毛兼利と共に与力 として秀吉の下に付けたことが記されている。 後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治は浅井家臣団との人脈を利用して、 主に調略活動で活躍した。元亀元年(1570年)には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に 寝返らせている(『浅井三代記』)。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に 信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じたと推測 される。 秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。天正6年(1578年) 5月24日、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させ、この報告のため京都に赴き信長 に賞賛され銀子100両を授けられて播磨へと帰陣した(『信長公記』)。同年、信長に謀反を起こした 荒木村重に対して(有岡城の戦い)、秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で 捕縛・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝高の嫡男 ・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を 提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。 のち、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。 天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ、陣中にて6月22日に死去した (『信長公記』)。享年36。
Top
禅幢寺(ぜんどうじ)/垂井町観光協会  Top
禅幢寺は岐阜県不破郡垂井町岩手の菩提山山麓にある曹洞宗の寺院。この地方の領主であった竹中重治の
菩提寺として知られる。また、西美濃三十三霊場16番札所としても知られる。 室町時代の明応3年に岩手
の領主であった岩手典長が薩摩国金幢寺の住職であった盛庵正蹟を招聘して開いた。
所在地:〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手1038
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当寺には昭和36年4月に町指定絵画となった「竹中半兵衛重治像」があります。
また竹中半兵衛公と父・重元公の墓上屋は令和元年度に改修されました。
竹中氏陣屋跡  Top
戦国時代の智略が飛び交う中で、豊臣秀吉の名軍師、竹中半兵衛重治とその一族の活躍には目を見張る
ものがありました。
拠点であった陣屋跡には白壁の正門、がっしりとした石垣が残っており、一族の隆盛を物語っています。
所在地:〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手619−2
−−−−−−−−−−−−−−−以下wikipedia参照         Top
竹中氏陣屋は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった江戸時代の陣屋。安土桃山時代には
岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため、城は陣屋と呼ばれるように
なった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、
敷地を囲む大規模な堀(水堀など)と石垣などがあり、陣屋というより小型の城と言ったほうが正しい。
元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、
麓に岩手城を築いたという。
現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残って
いる。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。わかりにくいが、櫓門から北側へも道沿いの
家の裏手に土塁が続いていて、岩手小学校裏、西側へと続いている。
1956年(昭和31年)に、岐阜県指定史跡となっている。 Top
菁莪記念館 Top

江戸幕府は朱子学を官学とし、藩校などでは武士教育が盛んに行われ、儒学が浸透していきました。
岩手の旗本竹中氏は天保年間に道場菁莪堂をつくり、文武両道を指導。明治になって菁莪義校、菁莪学校
として発展しました。
現在、岩手小学校の東南に菁莪記念館が建てられています。 Top
安立寺(〒503-2114 岐阜県不破郡垂井町府中2435-1)
真宗大谷派
Top
南宮御旅神社 Top
住所:〒503-2114 岐阜県不破郡垂井町府中2506番地
由緒由来:創祀不詳。里伝に曰く、府中村は往昔国府なり。時の守護職金山彦神社を称して南宮
と言ふ。今の南宮神社是なり。該神社を御旅神社と称するは金山彦命の御旅所なればなり。
往昔より五月五日該神社へ南宮神社の御輿を始め摂社の御輿共に渡御あり。然るに明治六年新たに
同郡垂井村八重垣神社にて其の祭式ありしが、明治十一年に至り、其の祭式復古。該神社へ御輿
先例の如く渡御あり。又該神社境内中央に御幸道と言へる小路あり。文和の頃北帝垂井の行在所
より当村民安寺に御幸まします事ありし由。故にや其の道の名称あり。然るに其の後当村中央より
垂井に達する三間の大道を開き右道に代へ祭典行幸の道とす。但其の道開設年紀を知らず。 Top
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南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ)は、岐阜県不破郡垂井町に鎮座する神社。
かつての美濃国総社と伝えられている。
かつての美濃国国府が存在した地といわれている。国府之宮とも呼ばれていたという。
一説では、南宮大社は現在地に移転するさい、古宮の南の宮ということから、「南宮」と名づけ
られたという。このときの古宮が南宮御旅神社のことという。
現在は、南宮大社の摂社である。南宮大社の神輿は、相川を禊ぎ川渡りしてこの宮に到る。
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「沿革」
創建時期は不詳。かつての南宮大社とすると、神武天皇の時代に創建となるが、実際には美濃国
国府が築かれた以降と推測される。
時期は不明であるが、南宮大社の神輿は、相川を禊ぎ川渡りしてこの宮に到るという儀式が行な
われるようになる。このことから、南宮大社の神輿のお旅所として南宮御旅神社と改称したという。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失するが、1642年(寛永19年)徳川家光が再建する。
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美濃国府跡     Top
美濃国府跡(みのこくふあと)は岐阜県不破郡垂井町府中に所在する古代の官衙遺跡である。
濃尾平野の西端にあり東西を川に挟まれた微高地上に位置する。律令制下の美濃国の中心、
そして不破の関を管轄する役割のあった施設である。発掘調査により美濃国府政庁は8世紀前半に
創設され2度の建て替えを経て10世紀中頃には廃絶しておりこの付近一帯に美濃国府があったと
判明している。また、政庁が廃絶してからも13世紀初頭頃まで「一般集落とは異なる、比較的
大きな勢力」が存在したと推測されている。2006年(平成18年)に国の史跡に指定された。
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全員集合(禅幢寺にて 2022.10.1)  r410w049


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