友歩会第110回ウオーキング史跡巡り三重編Part6(雨天の為Sコースに変更約5Km)

下見2025.9.23・例会2025.10.4(雨天)(詳細版:r6110.htm)/(拡大版r6110w.htm)
(下見2025.9.23歩数:24,637歩(5人参加)晴れ/例会2025.10.4 歩数:20,538歩、参加者22名、雨天)
用語解説
家6:00→中島バス停6:26→JR一宮6:52→名古屋JR乗り換え7:20発→三重冨田駅8:02着
コース:富田駅飛鳥神社冨田一本松其角句碑四日市ドーム(4km・昼食)→(Sコース:霞ヶ浦駅5km)→
→(今回(10.4例会)は、雨天のため、Sコースに切り替えて、霞ヶ浦駅で解散した。
稲葉翁記念公園旧四日市港伝七邸JR.四日市駅(10km)>帰宅 (コースmap(110map.pdf)参照)
全員集合(四日市ドーム) 四日市港管理組合HP 四日市観光協会 四日市散策海岸巡り編(pdf) 
三重県(HP) 四日市公害(#kou) 四日市コンビナート(#yo) 四日市港(#y)「四日市コンビナート夜景クルーズ」



JR関西線・冨田駅jrtomita.jpg

出発式(予定地) 110/r611003

受付(雨天のため富田駅構内で)p61002

出発式とガイドの村田三郎さん(右)05

治水事業完成記念碑06

ガイドの村田さんに治水事業についての話を聞く 08

伊勢湾台風時1959年(S34.9.26)の潮位を示す最大潮位標09


飛鳥神社110asuka.jpg
創立は弘仁二年(八二四)八月一三日と伝えるも、
由緒不詳。
毎年8月14日、15日の「けんか祭り」が有名。

飛鳥神社 110/r611010

飛鳥神社(力石r611011)

飛鳥神社力石の説明10

うだつがある旧家16

富田一色公会堂15

山平水産のお店見学19

山平水産のお店見学17

山平水産のお店見学18

水と緑のせせらぎの広場 r611013

水と緑のせせらぎの広場 r611014

富田の一本松跡s109tomita.jpg

ガイドの村田さんから富田の一本松の説明を受ける22

富田の一本松の後、村田さんと別れる24

富田浜海岸の松並木を歩くr611024

其角句碑
r611028

四日市市富田浜海岸小公園の榎本其角句碑
r611029.jpg

榎本其角の句碑を見る25

四日市港を望む26

四日市港を望む27

四日市港を望む29

霞ヶ浦緑地案内図(第三野球場まである) r611041

霞ヶ浦緑地で休憩 r611036

四日市ドームに到着 110/s109yokaiti.jpg

四日市ドームr611045

四日市ドーム 47

四日市ドーム 48

四日市ドームで昼食31

四日市ドームで園児たちの運動会があった32

四日市ドーム前で昼食後全員集合(110tzentai2.jpg)36

霞ヶ浦駅で解散(雨天のためショートコースに変更した)38

霞ヶ浦駅
(近鉄)名古屋線の駅
駅番号はE18。 110/s109kasumi.jpg

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以下の写真は下見の時(9.23)のものです。
2025.10.4は雨天のためにショートコースに
変更になり次回に回すことになりました。

コースmap(110map.pdf)参照)


波止改築紀念碑は、防波堤改築を記念して明治27年
(1894)に作られた碑です。
稲葉三右衛門君彰功碑は、明治30年(1897)に建て
られた顕彰碑です。110/photo_52.jpg

110/s109hatoba.jpg

旧四日市港(対岸は「潮吹き防波堤」)r611066

旧四日市港(稲葉翁記念公園)r611073

稲葉翁記念公園・旧四日市港潮吹き防波堤の仕組みr611077

稲葉翁記念公園(潮吹き防波堤のレプリカ実験)r611085
みなとまち歩きマップ(稲葉翁記念公園、伝七邸、旧四日市港、みなと公園、JR四日市駅) s109inaba.jpg

伝七邸r611087

伝七邸r611091

JR.四日市駅へr611095

整理運動
四日市ドーム前にて食後全員集合(2025.10.4) 110/p61037.jpg      Top
用語解説  (コースmap(110map.pdf)参照)Top
三重JR関西線・冨田駅(#tomi)   Top
富田駅は、三重県四日市市富田三丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)・三岐鉄道の駅である。駅番号はCJ09。
駅の西側に旧東海道が通っている。
Top
飛鳥神社(wikipedia) 三重県四日市市富田一色町 616   Top
創立は弘仁二年(八二四)八月一三日と伝えるも、由緒不詳。明治四〇年、神饌幣帛料供進社に指定となり、同年、
無格社厳島神社を合祀して現在に至る。
主祭神	《主》八重事代主命,《配》建御名方命,市杵島姫命,大山祇命
ふりがな	やえことしろぬしのみこと たけみなかたのみこと いちきしまひめのみこと おおやまつみのみこ
110/110asukazinjya.jpg
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解説は拡大版参照。
水と緑のせせらぎの広場(wikipedia)  Top
水と緑のせせらぎ広場は三重県四日市市にある公園。
「概要」
かつて四日市市富田地区の東富田本町から富田一色の富洲原港口までを結んだ塩役運河を暗渠化して公園としたもの
で、「水緑景観モデル事業」として1992年(平成4年)から整備され、1998年(平成10年)に供用を開始した。
元々は運河であった(後に雨水の排出先として利用されていた)ことから、幅は平均して20mほどしかないが長さは
東西に約900mあり、せせらぎが設けられて上流部は山、中流部は川を、下流部は運河をイメージしたデザインとなっ
ている。また、せせらぎの水は雨水幹線から汲み上げたものを高度処理して利用している。
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「富田地区」(wikipedia)
・江戸時代に東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の「間の宿」として栄えていて、東海道富田の一里塚がある。
「その手は桑名の焼き蛤」と呼ばれた桑名の焼き蛤は、実際は桑名藩であった「富田の焼き蛤」の事であり、富田
立場が設置されて売店で蛤を売っていた。美田であった事から富田となり、代々伊藤勘作を襲名している伊藤家が
経営する網勘製網での漁網製造や東富田町では「花かつを」の製造が盛んであった歴史があり、四日市市北部の
中心地である。
・四日市市北部の中心地で茂福地区には、富田文化幼稚園があり、富田駅付近の十四川の堤防沿いの桜並木は花見
の名所である。東富田町には塩役運河跡地の水と緑のせせらぎ広場と史跡で老松の富田の一本松がある。
冨田一本松 (wikipedia) Top
富田の一本松は、 三重県四日市市富田地区の老松で史跡。所在地は国道1号線沿いの四日市市東富田町。樹齢が
700年を超えていて、永年の風雪にも良く耐えていたが、1960年(昭和35年)に枯れて、その後四日市市の史跡と
なった。
「一本松の歴史」
1936年(昭和11年)富田商工会の観光案内の内容に「八間道路の南端、十四川のほとりに一本松の老松あり、樹齢
700年を経過する」と書いてあった。東富田付近が波打ち際であった頃に、伊勢湾の内海航路の船、伊勢湾の漁船
の目印となっていた。「伊勢軍記」によると茂福合戦があり、羽津城の田原氏と茂福城の茂福氏の戦争で、鈴鹿の
神戸勢の援護を受けた茂福氏が勝利したとされている。石碑が立てられており、碑文がある。
富田地区民の心のふるさとの神の松も 「永年風雪に耐え 樹齢七百年を経て枯死する。ここに往時を偲び 史跡
として永久に記念し 後世に伝えるためこの碑を建てたものである」と富田文化財保存会の名で刻まれている。
樹齢700年を数え、高さ12mの立派な松でその後は2007年(平成19年)まで高さ5mの幹の部分だけが残っていた。
かつてこの地に居住していた俳人山口誓子の「町なかの 昔の松の 春の暮」の句碑がそばに立っています。
戦国時代の1560年(永禄3年)の茂福合戦の折には、救援に富田浜に上陸した神戸氏軍による伊勢湾からの上陸作戦
の目印として、1568年(永禄11年)の織田信長の伊勢侵攻で家臣の滝川一益の織田軍上陸の際も一本松を富田地域
攻略の目印とした。江戸時代の1780年(安政9年)の富田の大火の際に富田の一本松が奇跡的に炎上しなかったので、
それをあがめて「瑞祥の松」とも呼ばれていた。この大きい大松は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の高潮被害を
受けて、翌年の1960年(昭和35年)に富田の一本松が枯れて死んだ。
「現在」
その後、第2世の2代目富田の一本松が順調に育ち1974年(昭和49年)10月23日に四日市市の文化財の指定を受けた。
富田の象徴である富田浜地区東富田のシンボルで神の松として、富田地区の東富田町住民に親しまれて、天狗の松、
竜王の松の異名がある。老松の松の根本の部分が5メートル位残って保存されていたが、2007年(平成19年)9月7日
の台風の余波の被害でとうとう枯れ果てた。台風被害と同時に富田の一本松の灯篭一基も台風で破損したので四日市
市・富田地区連合自治会・富田地区民が修理をした。枯れ果てた富田の一本松は厳かに鳥出神社の宮司である喜多嶋
家の神官の手によって、年末に鳥出神社で行われる大晦日の篝火として葬られた。また、二基の富田の一本松の灯篭
は1934年(昭和9年)に三重郡富田町の有力者の勝野秀・飯田左三の寄進によるものである。富田の一本松の横に
俳人の山口誓子の句碑を建設して後世に伝えている。句碑のは山口誓子の直筆が刻み込まれている。山口誓子の直筆
は以下で「町なかの 昔の松の 春の暮れ」と詠まれていた。 Top
其角句碑(Web参照)(HP蕉門・榎本其角)(Web参照)         Top
焼き蛤といえば、桑名市名産品の代表格ですが、歌川広重の東海道五拾三次 桑名に描かれている絵は、現在の桑名市
ではなく、四日市市の富田立場です。桑名宿と四日市宿の間には、小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷
立場の5つの立場という休憩所がありました。その中でも、富田立場の焼き蛤が一番有名で、江戸時代の富田は桑名藩
領であった事から、富田ではなくて 『桑名の焼き蛤』 と呼ばれていました。
また、十返舎一九の東海道中膝栗毛に 「打興じてなを村おぶけ村にたどりつく。此あたりも蛤の名物・・・・」と
書かれ、なを村=縄生、おぶけ村=小向、で共に現在の桑名市ではなくて三重郡朝日町です。
江戸時代の 「伊勢参宮名所図会 巻三」 の挿絵に 「蛤の焼かれて啼なくや敦公(ほととぎす) 其角」 と記述
されていますが、これも富田の焼き蛤です。其角は松尾芭蕉の門弟で、四日市市の富田浜に、この句碑が残ります。
<其角句碑 説明板より>
この句碑は、元禄時代に俳人宝井其角(たからいきかく)が、当時桑名領に属していた、富田庄茶屋町(現在富田三丁目)
を通過の際、旅籠尾張屋にて焼蛤を食し、その風味を称えて読んだ句を、当時の主人がその筆跡を模して石に刻み、自己
の庭池の泉水石にしたものである。この句碑は、いつしか羽津村の森玄銓(現羽津病院)の手に移ったが、昭和五年
(1930年)に富田保勝会の有志が羽津病院から譲り受けて、この地に移設されたものである。 
昭和六十三年十一月三日
場所は、国道23号線名古屋方面から、富田浜町交差点を右折、すぐの交差点を左折し100m位の右側で、地図A地点
です。Top


 地図A地点(其角句碑)110kuhi .jpg
←110hama.jpg
110kuwana Top
立場(Web参照)
街道には伝馬人足が休憩する場所として決められた立場がありました。人足が使った杖を立てておく事から立場と
いうようです。また、立場には伝馬人足だけでなく一般の旅人も利用し旅の疲れを癒しました。
立場の中でも宿場と宿場の中間にあるものは、間(あい)の宿といい、茶店が建ち並ぶ風景は、ちょっとした宿場
のようで、ところによって名物があり、旅の楽しみともなりました。
四日市ドーム(wikipedia参照)Top
四日市ドームは、三重県四日市市の霞ヶ浦緑地公園内にある多目的ドーム施設である。四日市市はドームの運用に
ついて「四日市ドーム条例」を定めている「歴史」
1997年(平成9年)8月1日開場。四日市市の市制施行100周年記念事業の一環で建設されたドーム施設である。
アリーナはアメリカンフットボール、サッカー、テニス、グラウンドゴルフ、ソフトボールなど各種スポーツに利用
できる。なお野球に関してはアリーナが狭隘であるため硬式野球、軟式野球では使用できず、利用は少年野球のみに
限定されている。また2024年以降全国高校野球選手権三重大会開会式が当地で開催された。
また、この他に展示会などのイベントでも利用可能としている。
Top
霞ヶ浦駅(wikipedia:Sコース) 110/s109kasumi.jpg   Top
霞ヶ浦駅は、三重県四日市市八田一丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。駅番号はE18。
Top
四日市港の姿(四日市管理組合HP)   Top
明治32年(1899)8月4日に開港した四日市港は、主に羊毛、綿花の輸入港として栄え、昭和27年(1952)には、外国貿易上、
特に重要な港として特定重要港湾に指定され、平成23(2011)年には国際拠点港湾に名称が改められました。
 四日市港は中部圏における代表的な国際貿易港として、また、我が国有数の石油コンビナート等を擁するエネルギー供給
基地として重要な役割を担っています。
 昭和44年(1969)からコンテナ貨物の取り扱いを開始するなど国際海上輸送のコンテナ化にも迅速に対応し、東南アジア、
中国航路をはじめとするコンテナ定期航路網は年々充実しつつあります。
 これからの四日市港は、多様化する物流需要に応えるため、また、物流合理化の進展に対応すべく、一層の港湾機能の
拡充を進めるとともに、広く市民に愛され親しまれるウォータフロントの創造をめざし、港づくりを進めていきます。
 オーストラリア東部に位置するシドニー港と四日市港は、古くから羊毛の貿易を通じてつながりが深く、その関係から
昭和43年(1968)10月24日に姉妹港提携を締結しました。また、シドニー港では、平成13年(2001)3月に、ボタニー湾を一望
できる公園に、両港の友好を記念した展望台が設置されました。 Top
四日市港の歴史(四日市港管理組合HP)  Top
四日市港は幕末から明治初期にかけて伊勢湾内における最大の商業港として船舶の出入りや、旅客の往来、物資の集散
が盛んでした。明治3年には四日市〜東京間にはじめて汽船による貨客定期輸送が開始されこの定期航路の開通により、
港勢は飛躍的に伸展しました。
 四日市港の建設工事に第一歩をしるし、近代港湾への基礎を築いたのは稲葉三右衛門でした。当時の土木技術では港
の修築や造成は予想以上の難工事となり、幾多の困難に遭遇しましたが、自らの私財をなげうつなど強い信念で初志を
貫徹、今から一世紀以上も前に港の発展に身も心も捧げました。
明治32年8月4日、四日市港は開港場に指定され、文字どおり国際貿易港としての第一歩をしるすことになりました。
 開港当初の四日市港の貿易は、食料品、肥料の輸入が中心でしたが、その後は綿花の輸入が始まり、繊維原料の輸入港と
しても活気を呈しました。
 戦後は羊毛の輸入が大幅に伸びる一方、石油化学コンビナートの立地に伴って原油がこれを追い抜き、四日市港は典型
的な工業港へと発展しました。
昭和30年代には、日本で最初の大規模な石油化学コンビナートが塩浜地区に誕生したのを端緒として、その後、四日市港は
3つの石油化学コンビナートを擁することとなりました。
 現在、四日市港は原油のほかLNG(液化天然ガス)、石炭の我が国における主要な輸入基地であり、自動車、石油化学製品
などの輸出基地としても確固たる地位を築いています。また、コンテナ航路をもつ港としても発展を続けています。
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波止改築紀念碑(左)は、防波堤改築を記念して
明治27年(1894)に作られた碑です。

稲葉三右衛門君彰功碑(右)は、明治30年(1897)
に建てられた顕彰碑です。

これらは潮吹防波堤とともに国の重要文化財に指定
されています。
Top
稲葉翁記念公園・旧四日市港潮吹き防波堤の仕組みが分かるレプリカ 110/s109kyuuyokkaiti.jpg Top

四日市コンビナート(wikipedia) Top
四日市コンビナートは、三重県四日市市にある石油コンビナートである。 当コンビナートは、造成順で、第1コンビナート
(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)および第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の、3箇所の地区から成る。
第2次池田内閣(1960年12月8日 (成立)において1960年12月27日に閣議決定された『国民所得倍増計画』は重化学工業を軸に
経済成長を目指す政策であった。既存の四大工業地帯の周辺に鉄鋼・石油精製・石油化学・火力発電所を結ぶコンビナート
を造る『太平洋ベルト地帯構想』が要締の一つであり、そのトップを切ったのが四日市コンビナートであった。
「コンビナート形成と公害発生から現在まで」
初の公選市長である吉田勝太郎(8代四日市市長・10代四日市市長)と吉田千九郎(9代四日市市長)が、コンビナートを誘致の
計画と【旧】大日本帝国海軍の第2燃料廠の跡地を【旧】三菱財閥系の三菱油化・三菱化成工業・三菱モンサント化成や
シェル石油と資本提携していた昭和石油をはじめとする企業などへの、激しい企業間競争の末の、払い下げで、コンビナート
施設を建設するための下地を整えた。 (11代四日市市長)の平田佐矩が日本で最初のコンビナートを誘致した。 原油から蒸留
分離されたナフサなどが各工場間をパイプライン輸送されて、石油化学製品が製造された。
当時、四日市の都市計画を作った東京大学の都市工学科のグループは、石炭を使った戦前型の古い工業地帯と違って石油を軸
にした最新鋭の設備であるから「太陽と緑の新しい工業空間」になる、と海外にまで紹介した。
コンビナートの誘致に成功した四日市市は、全国の地方自治体の羨望の的であったが、当時は公害対策の考えが乏しかったこと
もあり、地域開発の旗手だと思われていたコンビナートが後に四日市ぜんそくとして全国的に知られる深刻な大気汚染公害を引
き起こし、大きな問題となった。 1972年7月24日 (53年前)に四日市ぜんそくの公害訴訟の判決があり、津地方裁判所四日市支部
は第1コンビナート(塩浜地区)と第2コンビナート(午起地区)に立地していた被告の6社(石原産業・中部電力・昭和四日市石油・
三菱油化・三菱化成工業・三菱モンサント化成)を共同不法行為があったと認定して原告9人への賠償を命じた。 現在では、有害
物質の排出が規制され、公害も収束してきている。
近年では、四日市コンビナートの事業所が共同で、三重大学の(化学とは関係の薄い)機械や電気・電子を専攻する学生を対象に
見学会を開催している。四日市コンビナート内の事業所は、第2コンビナート(午起地区)形成当時と第3コンビナート(霞ヶ浦地区)
形成当時のそれぞれについて、四日市公害と環境未来館によって纏められている。
第1コンビナート(塩浜地区)
当コンビナートは四日市市長(当時)の吉田千九郎および吉田勝太郎によって誘致された。なお、稼働する頃には四日市市長は平田
佐矩に代わっている。嘗て、この地区の企業によって、磯津地区・塩浜地区・三浜地区・浜田地区・日永地区・三重郡楠町に公害
が拡大し、塩浜ぜんそく(初期の四日市ぜんそく)の原因となった。 公害対策として、初めは煙突を高くしたが、効果が見られなか
った。 次に、硫黄酸化物削減方法として、硫黄分の少ない原油の輸入の増加と国と企業による脱硫装置の研究開発がなされ、大気
汚染が改善された。
「現存稼働している事業所」 Top
石原産業 四日市工場 ‐ 1941年1月 (84年前)設立
石原エンジニアリングパートナーズ
昭和四日市石油 四日市製油所 ‐ 1957年11月 (67年前)設立
コスモ石油 塩浜油槽所 ‐ 1958年6月 (67年前)設立
三菱ケミカル(?旧?三菱油化) 三重事業所 ‐ 1959年5月 (66年前)設立
三菱ケミカルシステム 中部センター
三菱ケミカルエンジニアリング 四日市事業所
MECT 中部事業所
三菱ケミカルフーズ 受注物流グループ
三菱ケミカル物流 YCF立体倉庫四日市合成 本社 四日市工場 ‐ 1959年10月 (65年前)設立
ENEOSマテリアル 四日市工場 ‐ 1960年4月 (65年前)設立
パナソニック電工 四日市事業所 ‐ 1961年4月 (64年前)設立
パナソニック電工 四日市事業所 南工場
パナソニック電工四日市 南四日市工場
パナソニックデバイスマテリアル四日市
三菱ケミカル(?旧?三菱油化・三菱化学MKV・三菱樹脂) 四日市事業所 川尻工場 ‐ 1962年1月 (63年前)設立
E‐TEC 本社・四日市工場・研究所 ‐ 1963年 (62年前)設立
JSP 四日市第一工場 ‐ 1963年2月 (62年前)設立
JSP 四日市研究所
味の素(?旧?クノール食品) 東海工場 ‐ 1963年4月 (62年前)設立
BASFジャパン 六呂見工場 ‐ 1963年2月 (62年前)設立
三菱ガス化学 四日市工場 ‐ 1963年 (62年前)設立
三菱ケミカル 三田タンクヤード ‐ 1967年4月 (58年前)設立
東邦化学工業 四日市工場 ‐ 1967年10月 (57年前)設立
エラストミックス 本社・四日市工場 ‐ 1967年10月 (57年前)設立
日本アエロジル 四日市工場 ‐ 1968年11月 (56年前)設立
大陽日酸エネルギー 三重支店 四日市営業所 ‐ 1968年8月 (57年前)設立
日本トランスシティ タンクヤード ‐ 1969年8月 (56年前)設立
四日市合成 六呂見分工場 ‐ 1968年11月 (56年前)設立
三菱マテリアル 四日市工場 ‐ 1972年6月 (53年前)設立
昭石化工 四日市工場 ‐ 1989年10月 (35年前)設立
三菱ケミカル(?旧?日本エタノール) 四日市事業所 大治田工場 ‐ 1972年4月 (53年前)設立
ロンビック 四日市工場
三菱ケミカル物流 SE雨池倉庫
日通・パナソニックロジスティクス 四日市事業所
ライオン・スペシャリティ・ケミカルズ(?旧?ライオンアクゾ・?旧?ケッチェンブラック・インターナショナル)
 四日市事業所 ‐ 1980年7月 (45年前)設立
中部海運 本社事務所・東邦町製品ターミナル・サカエ倉庫 ‐ 1982年4月 (43年前)設立
新菱 三重工場
リサイクルテック 三重工場
スズカファイン 本社
太陽化学 研究所・塩浜工場
中部エコテクノロジー
テクノポリマー 開発研究所
日本カラリング 本社・工場
MCCアドバンスドモールディングス(?旧?三菱油化・油化電子) 本社・工場
ユニオン昭和 四日市工場
第2コンビナート(午起地区)
当コンビナートは四日市市長(当時)の平田佐矩によって誘致された。なお、稼働する頃には四日市市長は九鬼喜久男に代わって
いる。この地区の企業によって、大気汚染公害がさらに四日市港周辺の臨海部の地区に拡大し、四日市ぜんそくへと問題が拡大
していった。午起地区は、嘗ては白砂青松の地であったが、埋め立て事業が1957年に田中覚三重県知事(当時)によって施行された。
四日市市営住宅と分譲住宅が建てられ、大協石油を中心企業とする第2四日市コンビナート造成されるのと同時期に国鉄が午起駅
が臨時駅として設置した。四日市ぜんそくの被害が東橋北地区・西橋北地区・海蔵地区・納屋地区・中部東小学校区と中部西小学
校区の共同地区・同和地区・中央地区・港地区・羽津地区に拡大した。
「現存稼働している事業所」
日本板硝子 四日市工場 ‐ 1936年12月 (88年前)設立
第一工業製薬 四日市工場 千歳工場 ‐ 1939年4月 (86年前)設立
コスモ石油 第一陸上出荷場・第二陸上出荷場
コスモ石油 四日市製油所 ‐ 1943年7月 (82年前)設立
コスモ石油ルブリカンツ 四日市工場
コスモ石油ルブリカンツ 四日市トレーニングセンター
JERA(?旧?中部電力) 四日市火力発電所 ‐ 1963年6月 (62年前)設立
KHネオケム 四日市工場 午起製造所 ‐ 1963年10月 (61年前)設立
レゾナック・ガスプロダクツ(?旧?昭和炭酸) 四日市工場 ‐ 1969年4月 (56年前)設立
第3コンビナート(霞ヶ浦地区)
当コンビナートは九鬼喜久男四日市市長(当時)によって誘致された。
富田浜地区の富田浜海水浴場と霞ヶ浦地区の霞ヶ浦海水浴場の沖合を埋め立てた人工島(ポートアイランド)のシドニー港通り
(霞一号幹線)を挟んだ南側が該当する。当初はこの地区に八幡製鉄所の誘致計画が有った。
このコンビナートが発足したのは、四日市公害裁判判決が下りたのと同年の、1972年 (53年前)であった。
「現存稼働している事業所」
第一工業製薬 四日市工場 霞工場 ‐ 1939年4月 (86年前)設立
コスモ石油 四日市霞発電所 ‐ 1943年7月 (82年前)設立
KHネオケム 四日市工場 霞ヶ浦製造所 ‐ 1970年4月 (55年前)設立
協和発酵ケミカル(?旧?協和油化) 四日市工場 霞ヶ浦製造所
東ソー 四日市事業所 ‐ 1971年4月 (54年前)設立
大洋塩ビ 四日市工場・技術研究センター ‐ 1971年4月 (54年前)設立
霞共同事業 ‐ 1971年6月 (54年前)設立
上野製薬 四日市工場 ‐ 1971年6月 (54年前)設立
四日市オキシトン ‐ 1972年4月 (53年前)設立
DIC(?旧?大日本インキ化学工業) 四日市工場 ‐ 1974年7月 (51年前)設立
四日市エルピージー基地 霞事業所 ‐ 1983年11月 (41年前)設立
JERA 四日市LNGセンター ‐ 1987年4月 (38年前)設立
BASFジャパン 四日市霞工場 ‐ 1988年9月 (37年前)設立
BASFジャパン R&D
東邦ガス 四日市工場 ‐ 1991年10月 (33年前)設立
丸善石油化学(?旧?日曹油化) 四日市工場
日本ポリプロ 四日市工場
JNC石油化学 四日市工場
POSCO Japan PC 四日市工場・四日市PIPE工場 ‐ 2009年7月6日 (16年前)設立
「沿革」
1959年5月 (66年前) 第1コンビナート(塩浜地区)の発足
1963年6月 (62年前) 第2コンビナート(午起地区)の発足
1972年2月 (53年前) 第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の発足
エボニック(モノシラン ジャパン)四日市工場 - ドイツ企業であり、日本進出として石油化学産業が盛んな四日市市に工場
を建設した。2011年(平成23年)にドイツのクリスティアン・ヴルフ大統領による視察が行われた。
2012年(平成24年)9月30日閉鎖した。
「観光」
旅客船での遊覧による四日市コンビナートのクルーズが催されている。 かつては、四日市市都市整備公社所有のもとで、四日
市ポートサービスが旅客船『いなば』および『いなば2』で日中・夕方・夜のクルーズが運行されていた。 これらは、日露首脳
会談の日程の最中の1998年4月19日 (27年前)に日本の橋本龍太郎首相(当時)とロシアのボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン
大統領(当時)が城ケ崎海岸沖で釣りをするために、四日市市から伊東市に派遣されたことで有名である。
 後年、本事業はセラヴィ観光汽船に引き継がれるも、同社の経営難により、2008年 (17年前)に運航が中止された。
その後は、第一観光によって、旅客船『第二志ほかぜ』と『はやぶさ』で、夜間クルーズや貸し切りクルーズが運行されている。
 また、同社によるバスや勢の國交通のタクシーで陸地側からコンビナートを周遊することもできる。 Top
四日市公害(四日市公害と環境未来館HP) Top
昭和30年頃になると、当時の日本は戦後復興から高度経済成長期に入りました。経済優先の社会背景のもと、本市を含む全国各地に
大規模な工場が次々と建設され、工場周辺ではさまざまな公害が発生しました。
 本市でも、大気汚染によって多くの人々がぜん息にかかるなど「四日市公害」と呼ばれる深刻な公害問題が発生しました。こうした
状況を受けて、全国に先駆けて昭和40年に本市が実施した公害健康被害者に対する公費による医療費負担制度、そして昭和42年に提起
された四日市公害裁判などは、日本の公害問題の解決への道を開き、産業の発展と環境保全を両立させるきっかけとなりました。
 市民、企業、行政が一体となった環境改善の取り組みにより、昭和51年度には、ぜん息の主な原因とされる二酸化硫黄濃度が、国の
基準を市内全域でクリアするなど、大幅に環境が改善されました。
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稲葉翁記念公園(WEB) Top
国際的な港である現在の四日市港の少し南に位置する四日市旧港の一部が公園になっています。四日市港の発展に尽力した、
四日市市民なら誰もが知る稲葉三右衛門から名づけられた稲葉翁公園。ここのお楽しみポイントは、なんといっても重要文化財
の指定されている潮吹き防波堤のレプリカ!公園から見える実物の潮吹き防波堤が、どんなにすごい役割を担っていたものなのか
を間近で見られます。大きな波が、防波堤に当たって小さくなっていく様子は、ずっと見ていても飽きないです! 公園内には
ブランコ、すべり台、スウィング式の遊具もあります。あまりにかわいいラッコの遊具は、大人も子どももハートを撃ち抜かれ
てしまうかもしれません!公園内には多目的トイレがあるので、安心。ただ、公園には駐車場がありません。
近隣のコインパーキングをご利用されるか、JR四日市駅から徒歩でのお越しをお願いします。 Top
--------------------以下、四日市港管理組合HPから
四日市湊を修築して近代港湾への基礎を築いた稲葉三右衛門の偉業を記念して旧港の岸壁近くに作られた公園です。
潮吹防波堤の仕組みを再現するレプリカ模型が展示されています。 s109inaba.jpg   Top

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旧四日市港(船の科学館HP参照)   Top
日本有数の臨海工業都市である四日市港(三重県北部)は、明治32年7月の勅命により清水港や武豊港(後に衣浦港)等と共に開港場
(外国との貿易に使用される港)の指定を受け、明治32(1899)年8月4日に開港しました。
意外と思われるかも知れませんが、名古屋港より8年早い開港でした。
四日市は、東海道五十三次の43番目の宿場町として栄え、天然の水深と静かな入江に恵まれた港は、伊勢湾内の最大の商業港として
栄えていました。
しかし、安政元(1854)年に起きた大地震によって壊滅的な被害を受け、港は機能を失い、他の港に転泊する船が続出しました。
すると、窮状を見かねた地元の廻船問屋・稲葉三右衛門(いなばさんえもん)は、莫大な私財を投じて修築工事に取り組み、11年もの
歳月をかけて明治17(1884)年に現在の旧港を完成させました。
ところが、不幸にも5年後の台風によって防波堤等の施設が大破し、オランダ人土木技師デ・レーケの指導によって公営による改修工事
が行われました。その時に完成したのが、現在も旧港に残る通称「潮吹き防波堤」(四日市港旧港防波堤)で、明治27(1894)年に
建設されたものです。総延長199メートルの湾曲した堤防は、波の力を弱めるため、高低差のある大堤と小堤が並行する二列構造になっ
ています。外海から来る波は、外側にある小堤によって弱められ、小堤を越えた海水は両堤の溝を流れて、内側の大堤に設けられた
5角形の潮吹穴から流れ出す構造になっていました。
その後、昭和16(1941)年には外側が埋め立てられて護岸に姿を変え、潮吹穴の殆どが封鎖され、機能は形骸化していますが、平成8
(1996)年には「潮吹き防波堤」を中心とした旧港港湾設備が重要文化財に指定されています。また、旧港港湾設備と共に四日市港の
発展過程を示すものとして、平成10年に重要文化財に指定された「末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)」があります。
「末広橋梁」は四日市港の千歳運河に架かる跳開式の鉄道橋で、列車が通過する時に橋桁が下がる仕組みになっています。
四日市港は、明治35(1902)年から繰綿(実綿から種子を除いた未精製の綿)や大豆の輸入が行われ、昭和に入ると三重県で紡績が
発達したことにより、繊維原料の羊毛や綿花の輸入港になりました。
昭和30年代には、石油コンビナートの立地に伴い、原油の輸入が羊毛を上回り、工業港に発展しました。
現在は、輸入貨物量の約9割は原油やLNG(液化天然ガス)、LPG(液化石油ガス)、石炭等のエネルギー資源が占め、輸出は自動車・
石油化学製品等を扱い、中部圏の代表的な国際貿易港の一つとなっています。 Top

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伝七邸(観光三重HP参照)   Top
日本最大の紡績会社、東洋紡績の創始者であり、「紡績王」と呼ばれた第十世伊藤伝七(1852-1924)の別邸として1896年(明治29年)に
四日市市に移設された「伝七邸」。約600坪の敷地に2階建て木造建築と日本庭園を擁し、威風堂々とした「玄関棟」と切妻造りの
「さつき棟」は、国の登録有形文化財(建造物)となっています。 (公式HP)参照
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JR.四日市駅(wikipedia参照)   Top
四日市駅は、三重県四日市市本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)関西本線の駅である。駅番号はCJ11。
三重県最大都市である四日市市の代表駅扱いされることもあるが、約1.2kmほど離れている近鉄四日市駅の乗車人員数は当駅の約10倍
あり、大きな差がついている。三重県の北部(北勢)や近鉄沿線地域では単に「四日市駅」と言った場合は近鉄四日市駅
(あすなろう四日市駅を含む)を指し、当駅は俗に「JR四日市駅」とわざわざ「JR」を冠して呼ばれる。
中心市街地に位置する近鉄四日市駅に対し、当駅は中京工業地帯の工場群が立地する臨海部に位置している。これは当初から貨物輸送
を想定しており、線路を港に隣接して敷設する必要があったためである。ただし、港湾施設は広範囲に及んでおり、石油コンビナート
はかなり離れた所にある。
駅東方の四日市港まで日本貨物鉄道管轄の四日市港線2.5kmが伸びている。途中の千歳運河には国の重要文化財であり、現役唯一の
可動鉄道橋の末広橋梁がある。また、南方の塩浜駅までは、関西本線貨物支線が伸びている。
駅構内の一部に「伊勢鉄道伊勢線」の表記があるが、当駅はあくまでJR関西本線への乗り入れ(直通運転)区間であり正確な案内で
はない。
「歴史」
近鉄路線変更前後の四日市駅付近
1890年、関西鉄道によって開設された。四日市は江戸時代には東海道が通り交通の要衝だったが、明治政府の鉄道計画から外れてしま
ったため、民間の関西鉄道が四日市で設立され、名古屋駅と草津駅を結ぶ鉄道が建設された。1907年、関西鉄道は国有化された。
1920年、四日市港に貨物線が建設された。
開業以来、車両工場を併設していたが、1924年に名古屋駅付近へ移転し現在はJR東海名古屋工場・JR貨物名古屋車両所となっている。
1924年、伊勢電気鉄道(のち近鉄名古屋線)が国鉄駅に隣接して四日市駅を設置した。後に三重軌道より四日市市 - 諏訪間の線路敷
を譲受して桑名へ路線を延伸した。
1956年に急曲線の解消と短絡を目的とした経路変更を行った。諏訪駅の西300mに新たな近鉄四日市駅を建設し(1973年に高架化)、
国鉄併設駅は廃止となった。      110/yokkaitistasion.jp     Top
「四日市コンビナート夜景クルーズ2025」
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ホーム コースmap(110map.pdf)参照) (詳細版:r6110.htm)/(拡大版r6110w.htm)
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