友歩会例会史跡巡り・岐阜編Part18   
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 (令和8(2026)年4月4日(土)天気:曇り)(歩数:,632歩)参加者名)


午前9時、(★笠松町笠松駅>八幡社(出発式)→陣屋・県庁跡→歴史未来館→(鮎鮨街道碑>高嶋家前>杉山邸>杉山邸の改装土蔵)
>土蔵内の写真展>>木戸跡)→笠松湊公園→川湊石畳→大臼塚跡→蓮台寺遺跡(白鬚神社)→信長・道三別れの地(白髭神社内解説)
→東流廃寺(蓮台寺)塔礎石(白髭神社内)→イオン→道の駅柳津(昼食)→境川佐波八幡神社・旧佐波小学校跡・原三渓生家
→山田省三郎碑→観音寺→西方寺(解散式)→南宿駅(ゴール・11km)→帰宅
(解説) コースマップのPDF 友歩会鎌倉街道 笠松湊 歴史未来館

友歩会例会史跡巡りPart3(2010.10.2)


笠松駅

八幡社(出発式)

陣屋・県庁跡

歴史未来館

高嶋家前にある鮎鮨街道の標識
高嶋家前にある案内板拡大はここ)

高嶋家は鮎鮨街道の宿次(荷の受渡)を務めた
問屋場で古文書が残っている(高嶋:左4人目)

善光寺本堂005 木曽川のかくれキリシタン処刑場に
あった石碑が善光寺境内に移された(右の写真)

かくれキリシタン処刑場にあった石碑006
左:南無妙法蓮華経右:南無阿弥陀仏

笠松東別院山門013

別院内蓮台寺(東流廃寺)塔礎石017
(044参照)

産霊神社019

法伝寺024

笠松歴史民俗資料館展示の大船 kh006

資料館展示の笠松湊の様子と石畳 kh011

杉山醸造店の暖簾osusi114

杉山邸2Fから見た改修土蔵osusi121

杉山邸土蔵改修(2010/03)028

土蔵内で可児幸彦写真展開催029

杉山邸

笠松湊公園11:09

木曽川笠松渡船場跡

笠松港の石畳(ここを鮎鮨荷が通った)

笠松湊の石畳を降りる kh024

木曽川橋をくぐる kh025

大臼塚跡(1697年)ここで隠れキリシタンが処刑された
ここにあった
2つの石柱は善光寺に移された

蓮台寺遺跡(白鬚神社内)042 (解説)
信長と道三がここで最後に別れた

蓮台寺塔礎石
(017参照)(拡大解説)044


柳津駅

道の駅柳津

佐波八幡神社

旧佐波小学校跡

原三渓生家

山田省三郎碑


「解説」                ★Top
鮎鮨街道:街道は「岐阜−稲沢」が妥当と高橋さん
はその著「鮎鮨街道いま昔」で指摘している。
長良川の鮎が「お鮨所」で加工されて、江戸城まで
46宿、5日間かけてリレー搬送された。江戸に着く
頃ちょうど食べ頃となるという。古文書ではこのリレ
ーを「縦立」「宿次」と記述している。鮎鮨荷は、
ひと夏で「三荷で10回」が定型とされ、幕末まで
続いた。
街道の略図は、「鮎鮨街道いま昔」に詳しい。
「杉山邸」     ★Top
明治24年「濃尾大震災」直後に建造された町屋風
造りで杉山栓二郎さんの邸宅。
2006年国の登録文化財。1Fに7部屋2Fに5部屋
ある。敷地面積530u。総床面積230u。「笠松を
語り継ぐ会」(代表:高橋恒美さん)が邸宅を管理
運営している。
毎月第4土日に一般開放。平成21年9月笠松町
に譲渡された。
笠松の町おこしの拠点として歴史民俗資料館と
ともに今後の活躍が期待される。
なお、土蔵が平成22年3月に修復されている。

改修前
 木曽川笠松湊渡船場跡・石畳

笠松は、陣屋や県庁が置かれた所であったことから
交通の要であり、木曽川は荷物を運ぶなど、大切な
川でした。湊で荷揚げされた荷物は、大八車で各地
に運ばれました。
その大八車の車輪が食い込まないように、大きな石
を敷いて地面を固くしたものが石畳です。
現在の石畳は明治11年(1878)、明治天皇
巡幸の折、改修工事で山石を敷いたものと伝えられ
ており、岐阜県の重要文化財に指定されています。
美濃郡代笠松陣屋・県庁跡   ★Top
江戸時代、笠松には陣屋(役所)が置かれ、年貢
の徴収、民治、裁判などの仕事をしていました。 
陣屋は、明治政府の誕生とともに廃止され、慶応
4年(1868)に美濃国の一部が笠松県となった
際に、陣屋の跡に笠松県庁が置かれました。明治
4年(1871)岐阜県庁となりますが、明治6年
に県庁舎が岐阜市に移るまでは、ここで様々な仕事
が行われ、笠松は岐阜県の中心地でした。
また、当時、知事官舎として使われていた建物
が現在養老公園内にあり、「孝子館」として、
町民の皆さんに幅広く利用されています。
郡役所跡(新町)

明治12年(1879)郡役所が県下で16箇所に
置かれ、笠松村には羽栗・中島両郡の郡役所が置か
れましたが、明治24年(1891)の濃尾震災で
燃えてしまいましたが、同27年新町に移転改築さ
れました。
その後、羽栗・中島郡役所は新郡制が施行されると
羽島郡役所となり、大正15年(1926)に廃止
されました。
東流廃寺(蓮台寺)の塔礎石(白鬚神社内)
昭和32年(1957)、長池東流地区で土地改良
工事を行っていた時、土中から礎石や瓦等が発見さ
れました。礎石には二重の穴があいていて、その大
きさから塔の高さは30メートル近くあったのでは
ないかと推測されます。
このお寺は、出土した場所から東流廃寺と呼ばれ、
いくつかの建物や門などがあったと思われます。
この礎石は2つに割られ、西宮町の東別院と田代の
白鬚神社に残されています。Top
道三・信長両将別れの地(白鬚神社内)

斉藤道三は、娘を信長の嫁にしています。
天文22年(1553)富田(愛知県尾西市)の
正徳寺で親子対面し、両将は帰路を共にし、田代
の八幡神社(白鬚神社合祀)で別れの儀式をした
後、道三は稲葉山(金華山)の居城に、信長は
那古野(名古屋市)の居城に引き揚げました。

鎌倉街道 中世において鎌倉から関東諸国をとおり信濃や 越後、そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、 いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と 馳せ参じた道であり、 鎌倉時代から戦国時代 までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道で ある。しかし実態としては詳細な道筋や姿は あきらかでなく「幻の道」と呼ばれている。
道の駅柳津交流センター(HP)
環境に優しく自然あふれる都市型道の駅
「道の駅 柳津」は、岐阜市と名神高速道路岐阜羽島
ICやJR東海道新幹線岐阜羽島駅を結ぶ幹線道路
(主要地方道岐阜・南濃線)沿線に立地し、岐阜市の
南玄関に位置する「都市型 道の駅」です。境川が育む
豊かな自然を活用し、憩いと安らぎの空間を提供する
ほか、地域の魅力を発信し、人・物・情報の交流拠点
として機能しています。
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境川(wikipedia)Topへ 境川は、木曽川水系の一級河川。岐阜県各務原市・岐阜 市・羽島郡岐南町・羽島郡笠松町・羽島市を流れる。 長良川・揖斐川を経て伊勢湾に至る木曽川の3次支川

鎌倉街道(wikipedia) 鎌倉街道の説明(WEB)                    Topへ

古道としての「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網である。鎌倉幕府の御家人
が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道でもある。
鎌倉政庁自らの記録である吾妻鏡に、鎌倉街道という言葉は見られない。
あたかも鎌倉政庁により上道、中道、下道という名の「鎌倉街道」を整備していたかのように思われがちだが、
当時の記録にはそのような名前の道は見られず、また枝道なども鎌倉街道と呼ばれ各地にその名が残っている
ものの、実際のところ「鎌倉街道」の由緒については不明である。

しかし、「鎌倉との往還道」という意味では、以下のような記述が散見される。

1.京や駿河・遠江と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総・常陸に向かう道として東海道
2.鎌倉から武蔵東部や下野に向かう中路
3.さらに中路を経て奥州に向かう奥大道
4.鎌倉から武蔵西部や上州に向かう下道
5.下道からさらに信濃・越後に向かう北陸道
これらのうち、「東海道」と「北陸道」は道路の意味よりむしろ地方の名称、すなわち律令制五畿七道の一道
の意味合いで用いられているとも解される上、「中路」はもともと官道の規格を表す表現として用いられて
きたものでもある。
一般的な解釈として、鎌倉から武蔵西部を経て上州に向かう道路が「上道」とされているが、吾妻鏡の中に
「上道」の記述は見当たらず、むしろ鎌倉から上州を経て北陸道へ至る道を「下道」としている。

鎌倉街道の特徴 
なるべく平坦な直線距離を取る。
見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。
尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。
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歴史未来館
笠松湊  Topへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Topへ

笠松湊(川灯台) 
木曽川笠松渡舟場跡(石畳)笠松湊(かさまつみなと)とは岐阜県羽島郡笠松町港町にあった川港である。
木曽川水運の中継地点として発展していた。現在は笠松みなと公園として整備されており、川灯台が建てられている。
港までの道には河原石を敷き詰めた石畳が今でも残っている。 笠松渡船場跡石畳は県指定史跡(昭和42年11月)。

 概要 
寛文2年(1662年)美濃国奉行(美濃郡代)名取半左衛門長知が郡代陣屋を移し、傘町から笠松に改称してから
約200年にわたり、笠松陣屋を中心に、徳川幕府直轄地支配や治水行政の中心地、地方物資の集散地となった。 
木曽川水運の拠点としても発展し、下流の桑名、四日市、名古屋からは海産物や塩、衣類などが運ばれ、上流からは
年貢米や材木、薪炭などが運ばれた。 
かつては問屋や倉庫、船宿、料亭などが立ち並び木曽川随一の繁栄を誇っていた。
明治18年(1885年)には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、明治25年(1892年)ごろ
までは桑名からの蒸気船が1日2往復していた。
大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となったが、近年鉄道の普及、自動車の発達に
より笠松港の役割は終わった。 Topへ

佐波八幡神社・旧佐波小学校跡・原三渓生家  Topへ
佐波八幡神社
所在地: 〒501-6121 岐阜県岐阜市柳津町下佐波1丁目41
由緒由来  
創立年月は不詳なるも奥村家蒼祖の建立にして、文化三年以来氏子の総意により、社殿の改築をなし、殊に境内には近郷
希に見る老樹ありて、神域の尊厳を保ち崇敬厚し。
旧佐波小学校跡(WEB参照)  Topへ
所在地:〒501-6115 岐阜県岐阜市柳津町丸野1-1
旧佐波小学校(岐阜県羽島郡柳津町、現・岐阜市)は、1960年に柳津小学校と統合し廃校となった歴史ある学校です。
跡地は2020年時点で佐波保育所となっており、地域に親しまれる場所となっています。かつては明治初期の建物が残って
いましたが、震災後に再建された歴史も持ちます。
本校は、岐阜県の郷土の偉人でもある原三渓の出身地として、開設当時より、教育には熱心な風土が地域にあります。
跡地の状況: 佐波保育所が建設され、敷地内には「原三溪顕彰碑」や旧校の門柱跡が残されている。Topへ
「原三溪顕彰碑」(wikipedia参照)
原 富太郎:慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。
号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。
岐阜県図書館解説web参照 「解説」 Topへ
横浜市中区本牧にある三渓園は、横浜を代表する観光地の一つです。
西の桂離宮、東の三渓園と並び称される名園で、園内には文化的古建築物を各地から譲り受けて移築した国の重要文化財が数多くあります。
また、建築物のみならず三渓が蒐集した美術品や、自ら描いた日本画等も展示されています。
三渓園の名は実業家原富太郎の号「三渓」によります。
「原家へ入籍」
原三渓(本名・富太郎)は慶応4(1868)年8月23日、厚見郡佐波村(現柳津町佐波)に青木久衛・妻琴の長男として生まれました。
幼少の頃より勉強が好きで、小学校を卒業すると大垣の儒者野村藤陰の鶏鳴塾で漢籍を学びます。17歳で京都の草場船山の門下生となり、
その後跡見花蹊を頼って上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治・経済を学ぶ傍ら、花蹊が開いている跡見女学校で教鞭をとります。
そこで、のちの妻となる横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会いました。二人は相思相愛の仲となり、結婚を考えるように
なります。双方共に跡取りという難題がありましたが、周囲の理解を得て明治25年結婚し、原家に入籍しました。
「実業家として」
明治32年、善三郎の死去により家業を継ぐことになります。三渓は原商店を合名会社に改組し、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ事業を
発展させました。
大正4年、帝国蚕糸社長、大正9年には横浜興業銀行頭取に就任します。 実業家として成功した三渓ですが、一方で日本美術に深い理解と興味
を示しました。
明治39年には整備をすすめていた三渓園を一般市民に開放。当時としては画期的なことでした。また、新鋭画家の育成に力を入れ、援助を受け
た安田靫彦、今村紫紅はのちに文展で受賞しています。
大正時代、日本美術創造の中心地となっていた三渓園には、小林古径、前田青邨、日本美術院の重鎮・下村観山などが集まり、また美術家のみ
ならず、インドの詩人タゴールも日本滞在時には、三渓園に迎えています。
「晩年の三渓」
大正12年関東大震災が起こり、横浜は大きな打撃を被ります。
三渓は横浜市復興会会長に就任し、身を挺してその復興に尽力しました。
関東大震災以降、三渓は美術品の蒐集をやめてしまいます。そして、自ら書画を描くことが多くなりました。昭和5年には今まで描いてきたもの
を「三渓画集」として自費出版しました。
昭和に入ると生糸は人絹に押され、生糸業界の最盛期は終わりを告げ、事業が急降下していきました。 
晩年の三渓はふるさと岐阜の料亭・水琴亭(岐阜市)を頻繁に訪れたり、日本の各地を旅しました。
昭和12年長男が急逝。以降健康を損ね、昭和14年8月16日、71歳の生涯を閉じました。
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山田省三郎碑(木曽川上流河川事務所・川の記念碑) Topへ
山田省三郎は少年の頃から治水に熱心で、19歳の時には加納藩主に治水の策を建じ堤防修策の急務を説いた。明治11年には有志
の人々と治水共同社を設立し、木曽川下流改修の大事業の遂行に貢献した。明治14年には加納輪中水利士功会の議員となり、
長良川上流改修、境川改修に尽力した。
(wikipedia参照)
山田 省三郎:1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日[1])は日本の政治家。
「概要」
衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。略歴」
1842年(天保13年) - 美濃国稲葉郡佐波村(現岐阜市佐波)に生まれる。
1879年(明治12年) - 岐阜県会議員に当選。
1890年(皇紀2550年)- 第1回衆議院議員総選挙に於いて岐阜県第一区から立候補するも、3位落選に終わる
1902年(明治35年) - 衆議院議員に当選。連続3期に渡って務める。
1916年(大正5年) - 75歳で病没。
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