第104回史跡巡りシリーズ・岐阜編Part16・11km(詳細・拡大)
(2024年10月5日(土)天気:晴れ) (名参加) 下見・令和6(2024)年9月7日(土)・歩数:歩(欠席)
※下記画像は、下見・例会病気欠席のため、ほとんどがH28(2016.6.4)の例会時のものです。
★コース:スタート−9:00・JR東海道本線・美濃赤坂駅→赤坂港跡→赤坂宿→昼飯大塚古墳→延長寺→(Sコース・8km:垂井駅へ)
→円興寺→美濃国分寺跡→国分尼寺跡→JR垂井駅 (11km)
(養老鉄道北大垣駅・下見14km) ★コースマップ(PDF) ★『解説』 ★壬申の乱解説は拡大編をご覧ください。
★壬申の乱・関連年表(jin1、jin2、jin3.jpg) ★赤坂・青墓地域観光マップ(Tさん)
大垣市観光協会地球の起原日本・人の起源(地球史年表wikipedia)地質時代 平尾御坊願證寺
友歩会第62回(H28)例会岐阜編p9(H28/2016.6.4) 友歩会索引に戻る ★壬申の乱関連年表(PDF)
美濃赤坂駅(2023年8月・駅舎)wikiedia r6104akasaka Top |
★中山道歩き旅(赤坂宿)から 赤坂大橋〜赤坂湊跡 赤坂大橋を渡ると●赤坂宿へ入る。 美濃赤坂駅にも近く、人通りが多くなってきた。 左手には時の鐘モニュメントが立ち右手に常夜燈が立つ。 |
★中山道歩き旅(赤坂宿)から 「赤坂宿御使者場跡」 |
★中山道歩き旅(赤坂宿)から 赤坂湊跡 |
赤坂・青墓地域観光マップ Top |
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中山道(左)の道標 62o049 |
中山道赤坂宿 62o058 |
常夜灯と赤坂港会館ak62015 |
杭瀬川と赤坂港の説明を受けるak62018 |
赤坂港会館(m8警察屯所として建築) 62o064 |
中山道と谷汲街道の分岐点に建つ 62o067 |
水運で賑わった杭瀬川の赤坂港跡 (62o066) |
赤坂宿本陣跡・背後は和宮碑(本陣公園) 62o070 |
所郁太郎の像(赤坂本陣公園内) 62o073 |
旧清水家住宅(江戸時代の町役人を務めた家格) 62o087 |
清水家住宅の庭から見る020 |
矢橋家住宅022 |
『赤坂宿』(中山道131里の道程に69次中57番目の宿場)62ow093 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶ ことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川の船運を 中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができてい たとされ、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、米、材木、酒、 特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下り する舟が数百艘も見られたという。 本陣1脇本陣1旅籠17 |
谷汲への道標 (64o095) |
矢橋家住宅 62o098 |
中山道赤坂宿脇本陣跡 62o100 |
矢橋グループ本社023 |
和宮お嫁入り普請探訪館(2階建てに見えるが1階建て)026 |
普請探訪館(背後)前でガイドさんの説明を聞く025 |
普請探訪館内の御行列図027 |
和宮御膳再現の店 103 |
濃尾八景・金生山(217m)に登る032 |
金生山神社に着く035 |
金生山神社で昼食037 |
ここが金生山化石館038 |
化石館駐車場からの展望(東に金華山が見える)041 |
化石館駐車場からの展望(大垣市内)043 |
化石館内の標本(ウミユリ他)047 |
アンモナイトの化石 051 |
オオジャコガイ065 |
デボン紀以前&石炭紀・ベルム紀のパネル054 |
中生代・新生代のパネル(地球史年表wikipedia)053 |
館内の展示標本 ak62050 |
サンゴの石灰岩 ak62059 |
地質学者ドイツ人ギュンベル(1823-1898)の紹介056 |
化石館を後にする066 |
延長寺 r6104entyou.jpg Top |
願証寺 r6104wgan.jpg Top |
昼飯大塚古墳(円墳に登る)(下見) 62o160 |
復元ゾーンの解説62o161 |
昼飯大塚古墳の概要を知る068(H28・2016年) |
円墳の頂上でガイドさんの説明を受ける071(H28) |
左は美濃国分寺跡/上は参道と幢竿支柱(左下の黒い柱) (大垣市HP参照) |
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美濃国分尼寺跡推定地碑(不破郡垂井町平尾) | 尼寺跡は不破郡垂井町平尾の地に推定され、現在は石碑 が建てられている。同地は美濃国府跡と美濃国分寺跡の 間に位置し、出土瓦には国分寺跡と同じ文様が認められ ている。 2004年(平成16年)以降には発掘調査が実施されており、 建物基壇が検出されている。 国分尼寺跡:岐阜県不破郡垂井町平尾(願證寺付近) wikipedia参照 ★コースマップ(PDF) |
垂井駅前・竹中半兵衛重治公(2020.9.5) 88t003 |
JR垂井駅(2020.9.5) |
★壬申の乱関連年表(PDF) ★壬申の乱解説は拡大編をご覧ください。 |
『解説』 ★コースマップ(PDF) 大垣市観光協会 Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★美濃赤坂駅(wikipedia参照) Top 美濃赤坂駅は、岐阜県大垣市赤坂町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・西濃鉄道の駅である。 JR東海・JR貨物の東海道本線支線(通称:美濃赤坂支線)、西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる。 付近の金生山から石灰石が産出されるため、その輸送のための貨物列車が1日3便発着する。 ただし、旅客列車では終着駅である。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★延長寺と周辺の史跡(美濃国分寺跡、粉糠山古墳) Top |
美濃国分寺跡、美濃国分尼寺跡 美濃国分寺跡、美濃国分尼寺跡、美濃赤坂駅(右端) |
Top −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★円興寺(大垣市web参照) Top 円興寺は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像。西美濃三十三霊場 第三十二札場。 かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔など が残る。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 延暦9年(790年)に創建された古刹で、当時は七堂伽藍を備え大いに繁栄しましたが、幾度となく焼失し、万治元年 (1658年)に現在地に移ったとされています。境内には樹齢300年をこえる大クスノキがあり、秋には、本堂に向かう石段 から北側を眺めると、モミジの赤、イチョウの黄、クスノキの緑の対比が美しく、紅葉景勝地として飛騨・美濃紅葉33選 にも選ばれています。 Top−−−−−−−−−−−−以下、★中山道歩き旅(赤坂宿)から引用 杭瀬川は今流れている場所より西へ200m位の所を流れ、揖斐川の本流であったといわれる。享禄3年(1530年) の大洪水で水路が大きく変わり、川幅も狭くなって支流となってしまったが、上流の「池田山」からの豊富な湧き水で港と しての機能は十分に果たし、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、舟運が大正時代まで続いていた。後に鉄道により衰退し、現在では公園にその姿を残し、●当時の常夜燈が残るだけである。 Top★下記WEB記事も参照(中山道歩き旅) Top 参考:『赤坂宿』 Top 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川 の船運を中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができていたとされ、江戸時代には、「赤坂港」が設けられ、 米、材木、酒、特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下りする舟が数百艘も見られたという。 この舟運も大正に入り、鉄道に取って代られ衰えていった。今では公園に痕跡が残るのみ。 本陣1 脇本陣1 旅籠17−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★本陣公園(赤坂)(大垣観光モニターツアー参照) Top 赤坂本陣公園 入口に、皇女和宮が赤坂本陣に宿泊したことを記念した、和宮の碑が置かれています。 また、本陣公園内には、美濃赤坂宿出身の所郁太郎の像があります。所郁太郎は、井上馨(外務大臣)が襲撃を受けて、瀕死 の重傷を負ったとき、畳針で傷口を縫い、一命を助けた人物として知られています。 住所 〒503-2213 岐阜県大垣市赤坂町 「概要」 中山道69次の宿場町の一つで江戸時代大名が参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館であった赤坂本陣公園。 現在は建物も無いが新しく幕末の青年の志士所郁太郎の国家社会に尽くした功績を顕彰して銅像が建立された。 また、江戸末期の文久元年(1861)公武合体の名目で、第14代将軍徳川家茂と婚儀が成立し皇女和宮が降嫁された際宿泊され た赤坂本陣跡に和宮をしのぶ顕彰碑がある。 Top |
★金生山化石館 (下記WEB解説参照) Top 昭和39年(1964)に化石研究に生涯を捧げられた故熊野敏夫先生の業績と化石標本の展示・保存のため、赤坂町・赤坂商工会 ・熊野先生顕彰会の努力によって設立された。 現在の建物は昭和60年(1985)に建てられ、平成8年(1996)に大垣市へ寄贈された。 金生山の自然と文化を、さらに調査・研究し、資料の収集・整理・保存に力を入れ、化石についての理解を図る施設です。 『展示資料』 ・ジオラマ「赤坂の海」解説 ・金生山(217m)とは「地質図・航空写真・地質模型等」 ・失われた世界「図説」 ・金生山産化石および各地の化石標本 Top |
★美濃国分寺跡(大垣市WEB) Top所在地:大垣市青野町 指定年月日:大正10年3月3日 (追加指定)昭和46年7月22日、昭和49年5月22日、令和元年10月16日 指定面積:65,312.70平方メートル 概 要:美濃国分寺跡は、大谷川(おおたにがわ)や相川(あいかわ)によって形成された、標高21〜24mの段丘化した 扇状地上に位置します。 奈良時代、全国に建立された国分寺の一つで、伽藍(がらん)は大官大寺(たいかんたいじ)式を採用しています。 在地の豪族(ごうぞく)が建立した白鳳(はくほう)期の寺院を利用しながら国分寺を創建したと考えられます。伽藍のほぼ 全域が整備されており、伽藍周辺にも付属する施設が存在していることが、発掘調査で確認されています。大正時代に 周辺一帯の耕地整理が行われた際に、金堂(こんどう)の基壇が確認されました。その時に金堂の基壇と七重塔の基壇付近 が国有化され、国史跡に指定されました。 昭和43年度から本格的な発掘調査が始まり、昭和56年度に現在の史跡公園が整備されました。七重塔はその基壇の大きさ から、高さは60mほどあったと推定されています。伽藍北東にある丘陵には国分寺の瓦を焼いた瓦窯の跡が確認されていて 、伽藍部分と合わせて国史跡となっています。 平成14年度には南門前の伽藍外に、参道(さんどう)跡と儀式の時に旗(幡(ばん))を掲げた支柱(幢竿支柱(どうかん しちゅう))がみつかっています。また、その用途は不明ですが、庇(ひさし)の付く掘立柱建物(ほったてばしらたてもの) 跡も確認されています。出土品は隣接する大垣市歴史民俗資料館にて展示されています。Top |
★国分尼寺跡(岐阜県:堅田遺跡・美濃国分尼寺東遺跡)(発掘状況:県Web参照) Top堅田遺跡と美濃国分尼寺東遺跡は濃尾平野の北西部に位置し、堅田遺跡の東側には美濃国分寺跡、美濃国分尼寺東遺跡の 西側には美濃国分尼寺跡があります。また両遺跡の南側には、東山道推定ルートが通ります。 堅田遺跡は平成26年度と27年度に、美濃国分尼寺東遺跡は平成26年度に発掘調査を行い、美濃国分寺の前身寺院が創建され た6世紀後半から、美濃国分寺が衰退した13世紀にかけて、継続して人々が活動していたことが分かりました。 また、縄文時代晩期と近世の遺構も確認しました。 遺物の中心は須恵器、灰釉陶器、山茶碗類です。墨書をもつ須恵器の坏身や転用硯、水瓶、大型の火舎香炉の蓋など、 寺院との関連が考えられる遺物が出土しました。また、陰刻花文の施された灰釉陶器の皿も出土しました。Top |
★平尾御坊願證寺(WEB)参照 Top 平尾御坊願證寺は、永正年間(1504〜1521)に本願寺8世蓮如上人の六男蓮淳法印が勢州長島(現在の三重県桑名 郡長島町)に開基したのが始まりです。 天文4年(1535)4月蓮淳法印は石山本願寺に移り、外孫にあたる證如上人の 後見役、補佐職として終生本願寺に留まり、石山本願寺初期の最大の実力者となったと言われています。 永禄3年(1560)11月21日正親町天皇より院家を勅許され、寺格・格式・上納高等益々興隆を窮めたとあります。 長島一向一揆 元亀元年(1570)織田信長から石山本願寺の明け渡しを申し渡された顯如上人は、法燈を護るため、全国の門徒に仏敵信長 と戦えと下知を飛ばされました。 その頃、本願寺より総大将として、下間三位頼旦、下間頼盛が願證寺へ下がり織田信長と の戦に備えたのです。 同年11月21日願證寺は長島輪中に於ける一向一揆の門徒勢が、尾張小木江城を守っていた織田 信興を攻め、木江城は落城、城主織田信興を自害に追い込み、願證寺側が勝利となった戦でした。 元亀2年(1571)5月12日織田信長は弟信興の弔い合戦と称し、長島願證寺に5万5千の兵を出し、信長自身も津島 まで出陣しましたが、殿軍をつとめていた柴田勝家は右手を負傷し、さらに勝家にかわって防戦した大垣城主氏家ト全が戦 死するという信長軍にとっては敗北の戦となりました。 天正元年(1573)4月12日武田信玄が上洛の陣中にて俄に 没したので、反信長勢力は大きく影をおとしはじめます。織田信長はこの好機をのがさず年来の怨敵長島願證寺を討つため、 同年9月24日信長は岐阜を発し、大柿に入り、同26日桑名に着陣、10月8日東別所に陣をかまえましたが、長島願證 寺は風雨に乗じて多芸山を奇襲し、信長軍は再び惨敗し、10月26日岐阜に逃げ帰ったということです。 真徳寺創建と願證寺落城断絶 天文年中(1532〜1555)西美濃惣門徒の嘆願によって、證如上人は蓮如上人の外孫にあたる願證寺2世實慧 法眼次男の證榮僧都を、濃州平尾眞コ寺へ連枝住職として仰せつけられ開基せられました。 天正2年(1574) 4月7日織田信長は再び長島願證寺を攻める為、岐阜を発し、同年7月13日信長信忠親子は津島に着陣、信長は 九鬼、滝川の水軍によって願證寺を包囲、門徒勢は、篠橋砦、大鳥居砦 中之江城砦 長島砦 符丁田砦 森島砦にた てこもり、「欣求浄土 厭離穢土」を旗印に、「死ナバ極楽浄土」を合言葉に抵抗、同年8月2日大鳥居砦に籠城中の 門徒勢が撃って出たが、男女千余人が切り捨てられ全滅、8月14日篠橋砦籠城中の門徒勢が長島城においこまれ、 3ヶ月の籠城の末、食糧もつき2千余人が餓死者病死者、3千余人が餓死寸前という中で長島城は開城、最後まで抵抗 した中之江城の願證寺は、幾重にも幾重にも柵をはられ、四方から火を放たれ老若男女2万余人の門徒勢が焼き殺され ました。 ついに長島願證寺七堂伽藍は悉く焼亡し、門徒勢もさることながら女性、子供や赤児までも容赦なくが焼き 討ちにあわせ完膚無きまで、願證寺の息をとどめたのでした。世に言う「根切り」です。終に願證寺は落城断絶。時に 天正2年9月29日のことでありました。 しかし、そうした中で九死に一生を2、3人の坊官女官と一緒に、絹布団 と蓑にくるまれて、3歳の幼な子がかすかな声をあげながら伊尾川沿いに舟が出て行きました。三日経ったその日もあ ちらこちらの砦は燃えており、どこまで行っても背後には願證寺や、砦の黒煙が燃え上がっていたと言うことです。 この幼な子が、後の濃州平尾眞コ寺3世榮壽僧都であります。 Top 濃洲平尾真徳寺 長島願證寺から少数の坊官女官の手によって3歳の時護り助けられた、濃州平尾眞コ寺3世榮壽僧都が30才前後こ ろの、慶長年中(1596〜1615)に石川主殿頭忠總公より大垣中町を寺地として上納され、そこに眞コ寺掛所 (現在真宗大谷派大垣別院開闡寺)を建立開基し、益々佛法興隆につとめられました。 慶長7年(1602)徳川家 康公は、本願寺12世教如上人に京都東六条の寺地四町四方を寄進し、ここに東西両本願寺の別立をみることになるの です。 東西分派の流れのなか慶長11年(1606)榮壽僧都は断然教如上人に帰依し、東本願寺に帰参したのです。 慶長19年(1614)宣如上人は、平尾眞徳寺・草道島西圓寺・小野專勝寺・大垣等覺坊・横井永徳寺の五ヶ寺を 西美濃御末寺触頭に任命されこの五ヶ寺の触頭において、本山の命を末寺に伝達するとともに末寺よりの願い事の手次 をするよう仰せつかりました。 寛永元年(1624)3月宣勝僧都のとき、大垣城主岡部内膳正殿より眞コ寺掛所 を大垣中町より、伝馬の地に移転するよう申し入れがあり、三町歩と替地し、一層の諸殿充実をはかりました。 元禄7年(1694)10月4日常榮權少僧都の時、一如上人の御沙汰によって、西美濃の触頭 平尾眞徳寺 草道 島西圓寺 小野專勝寺 大垣等覺坊 横井永徳寺の五ヶ寺であったのを平尾眞徳寺一ヶ寺と改められました。 このた め西圓寺 專勝寺 等覺坊 永徳寺の四ヶ寺はこれまでどうり、西美濃五ヶ寺連名の触頭の職を永代にわたり嘆願した が、ついに一如上人のお許しはありませんでした。 この時より西美濃408余ヶ村、末寺380ヶ寺、26の講を有 し、眞コ寺の地位は高まっていきました。 寛保3年(1743)眞如上人より 「平尾眞コ寺儀従本山自舊御御坊申被 申付格式被取立併住職以下諸式是迄之舊地之通」という御沙汰がありこの時に御坊の尊称として平尾御坊の尊称と寺紋 として、牡丹の落牡丹紋と、勅許院家の証の高塀定規筋(五本の白線)を下付されました。 延享三年(1746) 12月、従如上人より、「眞コ寺掛所開闡寺御坊格被申付寺跡被取立」の御沙汰によって以来、平尾御坊眞コ寺掛所大 垣御坊と称し、本寺、掛所 共々参詣の人絶える事がなかったということです。美濃の御同行より平尾御坊さん、 お平尾さんと呼ばれ親しまれています。 宝暦7年(1757)1月22日従如上人の思召しによって、美濃平尾御坊 眞徳寺御再建釿始めとなり、宝暦10年(1760)には上棟式が執行、宝暦年間(1751〜1764)約8年の歳 月をついやして現本堂、鐘楼、山門が落成、并に旧本堂を広間に改修、御殿 客殿 太鼓堂 経堂 茶所 高塀 東 司 庫院 御蔵 高廊下 水茶屋 土塀 対面所 土蔵等真宗寺院様式としての七堂伽藍を完成したとあります。 明和 年中(1764〜1772)に蓮如上人御廟造営の許しを賜り、京都東山大谷祖廟と同じ様式で造営されました。Top |
◎粉糠(こぬか)山古墳 Top 大垣市街地から北西方の低位段丘上に築造された前方後方墳で、前方後方墳としては東海地方で最大規模。 「粉糠山」の古墳名は、青墓宿の遊女が化粧に使用した粉糠を捨てて積もったことに由来するという。現在の墳丘上は 共同墓地として利用されている。古墳域は1967年(昭和42年)に大垣市指定史跡に指定されているTop |
◎喪山古墳(もやまこふん) Top 僧都山・送葬山とも呼ばれ「日本書紀」「古事記」に記された神話の国譲りの中に出てくる。伝説では天稚彦 (あめのわかひこ)の墳墓と伝えられる。周囲約200m・高さ40m。 山頂には2つの円墳がある。 ◎美濃の喪山神話(WEB参照)Top |
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