第104回史跡巡りシリーズ・岐阜編Part16・11km(
詳細拡大
(2024年10月5日(土)天気:晴れ) (名参加) 下見・令和6(2024)年9月7日(土)・歩数:歩(欠席
下記画像は、下見・例会病気欠席のため、ほとんどがH28(2016.6.4)の例会時のものです。

コース:スタート−9:00・JR東海道本線・美濃赤坂駅赤坂港跡赤坂宿昼飯大塚古墳延長寺→(Sコース・8km:垂井駅へ)
円興寺美濃国分寺跡国分尼寺跡→JR垂井駅 (11km)
(養老鉄道北大垣駅・下見14km) コースマップ(PDF) 『解説』 壬申の乱解説は拡大編をご覧ください。
壬申の乱・関連年表(jin1、jin2、jin3.jpg) 赤坂・青墓地域観光マップ(Tさん)

大垣市観光協会地球の起原日本・人の起源(地球史年表wikipedia)地質時代 平尾御坊願證寺
友歩会第62回(H28)例会岐阜編p9(H28/2016.6.4) 友歩会索引に戻る 壬申の乱関連年表(PDF)



美濃赤坂駅(2023年8月・駅舎)wikiedia
r6104akasaka Top
中山道歩き旅(赤坂宿)から
赤坂大橋〜赤坂湊跡
赤坂大橋を渡ると●赤坂宿へ入る。
美濃赤坂駅にも近く、人通りが多くなってきた。
左手には時の鐘モニュメントが立ち右手に常夜燈が立つ。
中山道歩き旅(赤坂宿)から
「赤坂宿御使者場跡」
中山道歩き旅(赤坂宿)から
赤坂湊跡
赤坂・青墓地域観光マップ    Top

中山道(左)の道標 62o049

中山道赤坂宿 62o058

常夜灯と赤坂港会館ak62015

杭瀬川と赤坂港の説明を受けるak62018

赤坂港会館(m8警察屯所として建築) 62o064

中山道と谷汲街道の分岐点に建つ 62o067

水運で賑わった杭瀬川の赤坂港跡 (62o066)

赤坂宿本陣跡・背後は和宮碑(本陣公園) 62o070

所郁太郎の像(赤坂本陣公園内) 62o073

旧清水家住宅(江戸時代の町役人を務めた家格) 62o087

清水家住宅の庭から見る020

矢橋家住宅022

『赤坂宿』(中山道131里の道程に69次中57番目の宿場)62ow093
 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶ
ことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川の船運を
中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができてい
たとされ、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、米、材木、酒、
特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下り
する舟が数百艘も見られたという。 本陣1脇本陣1旅籠17

谷汲への道標 (64o095)

矢橋家住宅 62o098

中山道赤坂宿脇本陣跡 62o100

矢橋グループ本社023

和宮お嫁入り普請探訪館(2階建てに見えるが1階建て)026

普請探訪館(背後)前でガイドさんの説明を聞く025

普請探訪館内の御行列図027

和宮御膳再現の店 103

濃尾八景・金生山(217m)に登る032

金生山神社に着く035

金生山神社で昼食037

ここが金生山化石館038

化石館駐車場からの展望(東に金華山が見える)041

化石館駐車場からの展望(大垣市内)043

化石館内の標本(ウミユリ他)047

アンモナイトの化石 051

オオジャコガイ065

デボン紀以前&石炭紀・ベルム紀のパネル054

中生代・新生代のパネル(地球史年表wikipedia)053

館内の展示標本 ak62050

サンゴの石灰岩 ak62059

地質学者ドイツ人ギュンベル(1823-1898)の紹介056

化石館を後にする066

延長寺 r6104entyou.jpg  Top

願証寺 r6104wgan.jpg  Top

昼飯大塚古墳(円墳に登る)(下見) 62o160

復元ゾーンの解説62o161

昼飯大塚古墳の概要を知る068(H28・2016年)

円墳の頂上でガイドさんの説明を受ける071(H28)

左は美濃国分寺跡/上は参道と幢竿支柱(左下の黒い柱)
(大垣市HP参照)

美濃国分尼寺跡推定地碑(不破郡垂井町平尾)
尼寺跡は不破郡垂井町平尾の地に推定され、現在は石碑
が建てられている。同地は美濃国府跡と美濃国分寺跡の
間に位置し、出土瓦には国分寺跡と同じ文様が認められ
ている。
2004年(平成16年)以降には発掘調査が実施されており、
建物基壇が検出されている。

 国分尼寺跡:岐阜県不破郡垂井町平尾(願證寺付近)
 wikipedia参照

コースマップ(PDF)

垂井駅前・竹中半兵衛重治公(2020.9.5) 88t003

JR垂井駅(2020.9.5)
壬申の乱関連年表(PDF)  壬申の乱解説は拡大編をご覧ください。

『解説』   コースマップ(PDF)   大垣市観光協会 Top
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
美濃赤坂駅(wikipedia参照)   Top
美濃赤坂駅は、岐阜県大垣市赤坂町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・西濃鉄道の駅である。
JR東海・JR貨物の東海道本線支線(通称:美濃赤坂支線)、西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる。
付近の金生山から石灰石が産出されるため、その輸送のための貨物列車が1日3便発着する。
ただし、旅客列車では終着駅である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
★延長寺と周辺の史跡(美濃国分寺跡、粉糠山古墳)  Top
美濃国分寺跡、美濃国分尼寺跡

美濃国分寺跡、美濃国分尼寺跡、美濃赤坂駅(右端)
Top
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
円興寺(大垣市web参照)     Top
円興寺は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像。西美濃三十三霊場
第三十二札場。 かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔など
が残る。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 延暦9年(790年)に創建された古刹で、当時は七堂伽藍を備え大いに繁栄しましたが、幾度となく焼失し、万治元年
(1658年)に現在地に移ったとされています。境内には樹齢300年をこえる大クスノキがあり、秋には、本堂に向かう石段
から北側を眺めると、モミジの赤、イチョウの黄、クスノキの緑の対比が美しく、紅葉景勝地として飛騨・美濃紅葉33選
にも選ばれています。
Top

赤坂港会館と川湊跡 (大垣市web参照) Top 指定番号:28号 (指定日:平成22年10月1日) 住 所:赤坂町2939 内 容:赤坂湊跡<市史跡> ※一般公開(建物内部は一部非公開)しています。 ※開館日 土曜日・日曜日及び祝日 「概要」  赤坂湊跡に建つ洋風建築の赤坂港会館は、明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所でした。 現在の建物は復元されたもので、内部は資料館となっています。赤坂湊跡はかつては水運で賑わい、500艘もの船が往来 する川湊でした。しかし、美濃赤坂線の開通に伴い、合わせて下流に水門が建設されたことにより船の航行が困難となり 廃絶しました。現在は親水公園として整備されています。
−−−−−−−−−−−−以下、中山道歩き旅(赤坂宿)から引用
 杭瀬川は今流れている場所より西へ200m位の所を流れ、揖斐川の本流であったといわれる。享禄3年(1530年)
の大洪水で水路が大きく変わり、川幅も狭くなって支流となってしまったが、上流の「池田山」からの豊富な湧き水で港と
しての機能は十分に果たし、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、舟運が大正時代まで続いていた。後に鉄道により衰退し、
現在では公園にその姿を残し、●当時の常夜燈が残るだけである。
   Top

下記WEB記事も参照中山道歩き旅)   Top

参考:『赤坂宿』   Top
 東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川
の船運を中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができていたとされ、江戸時代には、「赤坂港」が設けられ、
米、材木、酒、特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下りする舟が数百艘も見られたという。
この舟運も大正に入り、鉄道に取って代られ衰えていった。今では公園に痕跡が残るのみ。
 本陣1 脇本陣1 旅籠17
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
本陣公園(赤坂)(大垣観光モニターツアー参照)   Top
赤坂本陣公園
入口に、皇女和宮が赤坂本陣に宿泊したことを記念した、和宮の碑が置かれています。
また、本陣公園内には、美濃赤坂宿出身の所郁太郎の像があります。所郁太郎は、井上馨(外務大臣)が襲撃を受けて、瀕死
の重傷を負ったとき、畳針で傷口を縫い、一命を助けた人物として知られています。
住所
〒503-2213
岐阜県大垣市赤坂町 
「概要」
中山道69次の宿場町の一つで江戸時代大名が参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館であった赤坂本陣公園。
現在は建物も無いが新しく幕末の青年の志士所郁太郎の国家社会に尽くした功績を顕彰して銅像が建立された。
また、江戸末期の文久元年(1861)公武合体の名目で、第14代将軍徳川家茂と婚儀が成立し皇女和宮が降嫁された際宿泊され
た赤坂本陣跡に和宮をしのぶ顕彰碑がある。  Top

旧清水家住宅(又、大垣市Web参照)  以下は、記者発表資料(平成26年6月27日pdf)から引用 Top 「旧清水家住宅の整備について」 1 趣 旨 旧清水家住宅(大垣市赤坂町2966-1)は、平成24年11月16日に旧所有者(清水暘子氏)より大垣市に建物 (主屋:木造瓦葺・土蔵:土蔵造瓦葺)と土地(352.81u)を寄付いただき、平成25年2月21日に市重要文化財(建造物) 指定がされました。 享保15年(1730)もしくは安永4年(1775)建造ともいわれ、建造物調査により赤坂宿内の現存する建物の中では最古級の 町屋遺構のひとつであることが判明した文化財的価値が高い建造物です。 今回の事業では、中山道に面した主屋(おもや)の修復工事を行い、文化財の保全をはかり、トイレ・給湯室の利便施設を 設け、地域を活性化させるまちづくり活動の拠点施設として整備します。 4 工事概要 【主 屋】 文化財的修復工事を実施し、可能な限り現在使用されている部材を再利用し、文化財としての保護を図ります。 修復に際しては、建造物調査で判明した本来の姿(米問屋)が理解できるように、ミセ・オクミセの板間・ドマや 蔀しとみ戸どを復元します。 また、中山道に面した部分では、玄関には跳はね上げ大戸おおどを、窓には格子を復元設置し、フェンスの木柵への変更や 銅製..の設置など修景にも配慮します。また、施設利用にも配慮し、空調設備を設置します。 この他、旧清水家住宅や赤坂宿に係る古文書等の展示コーナーも設けます。  Top
矢橋家住宅主屋[やばしけじゅうたく・しゅおく]登録有形文化財(WEB参照) Top ■指定別 国 ■所在地 大垣市 ■所有者 個人所有 ■登録年月日 平成9年7月15日 ■年代 天保4年 矢橋家住宅主屋  矢橋家は中山道赤坂宿のほぼ中央に位置し、中山道に北面する平入の大型町家である。すぐ北に金生山(きんしょうざん) と呼ばれる石灰岩の山がある。主屋は中山道に直接面している3棟のうち最も東寄りに建つ「つし」2階の建物であり、 木造2階建、延床面積365.37平方メートルの規模である。門構えを持たずに街道に面し、往時は年貢米を積んだ馬車が広い 通り庭を通って屋敷奥に建つ米蔵へと運んだようである。街道に向けられた主屋の姿は、長大な梁間に架けられた大屋根の 瓦が威容を誇り、2階の軒裏やうだつを黒漆喰塗りとし、1・2階ともに千本格子をはめる等、正面外観は瀟洒な意匠になる。 大規模ながら二階を「つし」とする点等に、江戸時代末期の地方都市における大型町家の特徴がよく表れている。 天保4年(1833)に建造されたと考えられている。なお、矢橋家住宅主屋は中山道に面しているので道路から見ることは可能 であるが、現住家屋であるため庭や建物内部は一般公開していない。  Top
金生山化石館 (下記WEB解説参照)  Top 

昭和39年(1964)に化石研究に生涯を捧げられた故熊野敏夫先生の業績と化石標本の展示・保存のため、赤坂町・赤坂商工会
・熊野先生顕彰会の努力によって設立された。
現在の建物は昭和60年(1985)に建てられ、平成8年(1996)に大垣市へ寄贈された。
 金生山の自然と文化を、さらに調査・研究し、資料の収集・整理・保存に力を入れ、化石についての理解を図る施設です。
『展示資料』
・ジオラマ「赤坂の海」解説
・金生山(217m)とは「地質図・航空写真・地質模型等」
・失われた世界「図説」
・金生山産化石および各地の化石標本   Top

「金生山化石館について」(大垣市WEB参照)  Top 金生山は、2億5千万年前(古生代ペルム紀)、赤道直下のサンゴ礁に生息した、フズリナ、サンゴ、ウミユリ、巻貝、二枚貝 などの化石が豊富に産出し、「日本の古生物学発祥の地」「古生物のメッカ」として知られています。 中でもシカマイアという二枚貝やウミユリは、世界一の大きさを誇っています。金生山化石館は、金生山産の化石や鉱物を 約700点展示するとともに、わくわく体験活動や講座などを実施して、金生山の化石や地質を紹介しています。 『参考』 金生山に行ってみよう金生山・wikipedia “日本の古生物学発祥の地 金生山  (PDF)” (大垣市金生山化石館(化石館だより No.21) (2013年1月). 2013年5月16日閲覧。)   Top (地球史年表wikipedia)地質時代 参照
地球の起原(鮎起源探訪webから)   Top 「地球の成り立ち」 地球は太陽を回る太陽系に属していて、太陽系(50億年前に誕生)は銀河系の中にある。銀河系の中と言っても銀河系の中心 ではなく中心から2/3ほどの外側に位置している。太陽系は銀河系(直径約10万光年)を約2億2000万年かけて一周する。 地球は23.4度傾いていて自転しながら太陽を1年かけて一周する。この傾きにより地球のどの位置に国があるかで一年の気温 変化が異なる。日本は地球の北側1/4ほどに位置している事で太陽を一周するうちに太陽光線の強度が変化し気温が変わり四季 が生ずる 「地球誕生」 地球は46億年前に誕生したと考えられていて、原始太陽を中心に高温の塵やガスが渦を巻きながら廻り、冷えて集まり小さな 惑星(微惑星)を作る。この小さな惑星がぶつかりあって大きな原始惑星が作られる。こうして作られた原始惑星(地球) はさらに小さな惑星との衝突を繰り返し大きくなっていった。衝突による高熱で表面はマグマで覆われ大気は噴出ガス (Co2・N2・水蒸気)で覆われていた。やがて衝突がおさまり表面が冷えて雲を作り雨が降り続いて海が作られた。 ・・・原始地球に酸素はまだ無い。 「生物の発生」 生物の発生については定かでない様であるが、約40億年前、海底で蛋白合成が行われ最初の生命が誕生したと考えれている。 38億年前、単細胞生物である原核生物(バクテリア「嫌気性好熱菌」・核が無い)が誕生した。 「酸素の放出」 27億年前、海の浅い所にラン藻類が誕生し光合成により酸素を放出するようになる。 6億年前、氷期が終わり酸素濃度は急激に増加する。 「大陸の出現」 激しいマグマの噴出が続いき19億年前、巨大大陸が初めて出現する。 その後10億年前・5億5000年前・2億5000年前と分裂と融合を繰り返し様々な大陸を形成していく。8〜6億年前は地球上を 氷で埋め尽くすほどのもっとも寒冷な氷期となる。2億5千年前に融合した大陸がその後しだいに分裂していく。 この大陸の分裂と融合の間に氷河や海水位の変化で多くの生物が絶滅している。2億5000年前の融合に伴う大規模な火山 活動が起こり、噴出された溶岩や粉塵、ガスなどで植物が少なくなり、このことで酸素濃度が大きく下がり地球上の多く (約95%)の生物が絶滅している 「生物界の発展」 15億年前に真核生物(核を持つ)が誕生し生物界(原生生物・菌類・動物・植物)の源となり、酸素を利用する生物が 誕生する。10億年前に多細胞藻類が誕生し、多くの酸素を放出する様になる。5億7000万年前から海中に多くの多細胞 生物(動・植物)が生まれ進化していくこととなる。4億5000万年前にオゾン層ができ紫外線が少なくなった事で生物が 陸地に進出する様になり、4億3800万年前から陸上に植物(シダ類)や節足動物が現れ、4億800万年前に四肢動物が 現れる。3億7000万年前に両生類や爬虫類が現れる様になり、2億2000万年前に恐竜類が現れる。 これ以降、陸と海に多くの生物が生まれ繁栄していく。 「地球環境の大変化」 6500万年前、地球への巨大隕石の衝突による粉塵で太陽がさえぎられ地球環境が大きく変化しこれに適応できない植物 や動物・恐竜類などの多くが絶滅している。 「ほ乳類」 ほ乳類は2億800万年前にネズミほどの小動物として誕生しているが6500万年前以降に繁栄することとなる。 人類はさらに後で600万年前に誕生し現在に至る。 「絶滅の歴史?」 地球の歴史は絶滅の歴史と言う人もいる。 生物が誕生してから地球環境の様々な変化に対応できず多くの生物が今までに絶滅している。初期の地球環境に生息し ていた生物は現在まで生き残っているものは少ない。海に生息していた無顎類(あごが無い)の生物の大半は3億4000万 年前に絶滅しており、2億2000万年前から繁栄した恐竜類も地球環境の変化に適応できず6500万年前に絶滅している。 マンモスやナウマンゾウなども1万年前には絶滅しており、人類においても600万年前に発祥した猿人やその後進化した 原人も絶滅している。 自然環境下で種の多くは100個体以下になると絶滅の一途をたどると言う人がいる。 100個体以前に保護をし環境を改善しなければ絶滅に向かうと考えられている 鮎にかぎって言えば現在まで200万年生息しているが、川の環境が悪化すれば絶滅も考えられる。地球環境が変われば 魚や植物だけでなく人についても絶滅しないと言う事は断言できない。 「余 談 人はいずれ何になる?」 人類は地球から見れば地球人だが宇宙から見れば宇宙人。 地球に住む人類は現在多くの人種と国があるが元をただせばアフリカ人さらに溯れば猿類とどんどん溯ると菌類 (バクテリア)にたどり着く。菌類−藻類−魚類−両性類−爬虫類−ほ乳類−霊長類−人類と約40億年をかけて大きく 変異してきた。これから先、何万年、何億年、何十億年とたつ時、人類は何に変異しているのでしょうか?  Top 地質時代
日本・人の起源 (鮎起源探訪webから)     Top 「日本列島の成り立ち」 200万年前から1万年位前の間は氷期と間氷期が何度も繰り返され、その都度潮位は大きく変化していて日本列島は そのたびに形を大きく変えていた。約60万年前(氷期)の日本列島は日本海が大きな湖の様であり、北は北海道と 樺太(カラフト)、南は九州・中国地方・中国・朝鮮半島の東シナ海の北部が陸続きであった。 約2万年前には東シナ海が広がって北は北海道と樺太(カラフト)、南は九州・中国地方と朝鮮半島が陸続きであった。 この頃は亜寒帯湿地気候で現在より4〜8度は寒かったため海の潮位は現在より100m以上も低かった。 7万年前〜2万年前の間は低い潮位が続いている。その後しだいに温暖となり海の潮位が上がり、大陸から少しづつ 別れ約1万年前に日本列島が形成された。 「日本人はいつから居たの?」 人類は猿人(約600万〜100万年前)、原人(約180万〜3万年前)、新人(約16万年前〜現代)と年代順に進化して きた。現代人の祖先は新人からで猿人・原人とは違う(猿人・原人は絶滅している)。現代人の発祥地は東アフリカ とされていて北上し中東・ヨーロッパ・アジア・他各地へと移住していったと考えられている。移住して行った 新人は気候や環境・食などにより体格や肌の色などが少しづつ変化していきいろいろな人種が生まれていった。 4〜1万年前には世界中のあちこちに新人は住んでいた。日本人の祖先と考えられたいるのは陸続きの日本列島に 6〜2万年前の中央アジアや東南アジアに住んでいたモンゴロイド系の人々がマンモスやナウマンゾウ・オオツノシカ の狩猟や植物の採食をしながら移動生活をし陸続きの北と南のルートから日本に移住してきたとされ、3万年前頃には 人が住んでいたと考えられている。アジアからの移住を裏付ける様にミトコンドリアDNA解析によると、現代の日本人 は9種の型に分けられ、この型は日本列島付近の中国各地やロシアに住む人々とも類似していて、これら先人達が日本 に移住してきた事が解る。 BC(紀元前)1万1千年前には中央アジア(モンゴロイド)に住んでいた人々が中国・朝鮮半島を通り日本に移住して きて縄文時代を築き、さらにBC(紀元前)350年前頃東南アジアから新たに人々が中国・朝鮮半島経由で移住してきて 弥生時代を築いた。 「旧石器時代の生活」 旧石器時代(BC1万1千年以前)の生活は穴蔵・洞窟に住み、食を求めての狩猟をしながらの移動生活であった。 当時は亜寒帯性湿地環境で現在より気温が寒かったが、このころすでに火は使っており火で暖をとったり食べ物を 焼いたり蒸したりして食べていた様である(土器は使用していない)。 火は25万年前にすでに使われていたので大陸から移動してきた旧石器人が火を使っていても不思議ではない。 石器は石を打ち砕いて作った打製石器でナイフ形の石器や尖頭器などで動物を突き刺したり捌(さば)いたりする のに使用していた。   Top
昼飯大塚古墳(国史跡)(Web参照)  コースマップ(PDF)    Top 昼飯大塚古墳は今から約1600年前(四世紀末)に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。その特徴は墳丘の長さが 150mにもなることやその構造が三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という 3つの埋葬形態が存在する点にあります。 保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています。 畿内の大王墓に準ずる傑出した内容を持ち、東海地方の古墳時代の政治・社会を考える上で、不可欠の古墳)と 説明しています。(河合幸男著「鎌倉街道」P25参照) [古墳の築造年代]  4世紀末(古墳時代中期) [古墳の規模] 墳丘長 約150メートル  後円部径 99メートル  高さ 13メートル 前方部高 9.5メートル  周壕含む総全長 約180メートル [出土遺物] (墳丘)円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋・盾・靫・甲冑形)、勾玉・ガラスなどの玉類、土器・土製品など [埋葬施設] 竪穴式石室(北棺):過去に盗掘を受ける。未調査。 粘土槨(南棺):未調査。 木棺直葬(西棺):棺外から鉄剣・鉄刀、鉄製の工具などが出土。棺内は 未調査。 [史跡の指定]:平成12(2000)年9月6日 「追加指定」:平成26(2014)年3月18日  面積:14,081.71平方メートル     Top
昼飯大塚古墳画像 文化遺産オンライン youtube   Top 南宮大社の刀剣(参考)
美濃国分寺跡(大垣市WEB) Top
所在地:大垣市青野町 指定年月日:大正10年3月3日 
(追加指定)昭和46年7月22日、昭和49年5月22日、令和元年10月16日

指定面積:65,312.70平方メートル
概 要:美濃国分寺跡は、大谷川(おおたにがわ)や相川(あいかわ)によって形成された、標高21〜24mの段丘化した
扇状地上に位置します。
奈良時代、全国に建立された国分寺の一つで、伽藍(がらん)は大官大寺(たいかんたいじ)式を採用しています。
在地の豪族(ごうぞく)が建立した白鳳(はくほう)期の寺院を利用しながら国分寺を創建したと考えられます。伽藍のほぼ
全域が整備されており、伽藍周辺にも付属する施設が存在していることが、発掘調査で確認されています。大正時代に
周辺一帯の耕地整理が行われた際に、金堂(こんどう)の基壇が確認されました。その時に金堂の基壇と七重塔の基壇付近
が国有化され、国史跡に指定されました。
昭和43年度から本格的な発掘調査が始まり、昭和56年度に現在の史跡公園が整備されました。七重塔はその基壇の大きさ
から、高さは60mほどあったと推定されています。伽藍北東にある丘陵には国分寺の瓦を焼いた瓦窯の跡が確認されていて
、伽藍部分と合わせて国史跡となっています。
平成14年度には南門前の伽藍外に、参道(さんどう)跡と儀式の時に旗(幡(ばん))を掲げた支柱(幢竿支柱(どうかん
しちゅう))がみつかっています。また、その用途は不明ですが、庇(ひさし)の付く掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)
跡も確認されています。出土品は隣接する大垣市歴史民俗資料館にて展示されています。
Top
国分尼寺跡(岐阜県:堅田遺跡・美濃国分尼寺東遺跡)(発掘状況:県Web参照) Top
 堅田遺跡と美濃国分尼寺東遺跡は濃尾平野の北西部に位置し、堅田遺跡の東側には美濃国分寺跡、美濃国分尼寺東遺跡の
西側には美濃国分尼寺跡があります。また両遺跡の南側には、東山道推定ルートが通ります。
堅田遺跡は平成26年度と27年度に、美濃国分尼寺東遺跡は平成26年度に発掘調査を行い、美濃国分寺の前身寺院が創建され
た6世紀後半から、美濃国分寺が衰退した13世紀にかけて、継続して人々が活動していたことが分かりました。
また、縄文時代晩期と近世の遺構も確認しました。
 遺物の中心は須恵器、灰釉陶器、山茶碗類です。墨書をもつ須恵器の坏身や転用硯、水瓶、大型の火舎香炉の蓋など、
寺院との関連が考えられる遺物が出土しました。また、陰刻花文の施された灰釉陶器の皿も出土しました。
Top
平尾御坊願證寺(WEB)参照 Top

平尾御坊願證寺は、永正年間(1504〜1521)に本願寺8世蓮如上人の六男蓮淳法印が勢州長島(現在の三重県桑名
郡長島町)に開基したのが始まりです。 天文4年(1535)4月蓮淳法印は石山本願寺に移り、外孫にあたる證如上人の
後見役、補佐職として終生本願寺に留まり、石山本願寺初期の最大の実力者となったと言われています。
永禄3年(1560)11月21日正親町天皇より院家を勅許され、寺格・格式・上納高等益々興隆を窮めたとあります。 
長島一向一揆
 元亀元年(1570)織田信長から石山本願寺の明け渡しを申し渡された顯如上人は、法燈を護るため、全国の門徒に仏敵信長
と戦えと下知を飛ばされました。 その頃、本願寺より総大将として、下間三位頼旦、下間頼盛が願證寺へ下がり織田信長と
の戦に備えたのです。  同年11月21日願證寺は長島輪中に於ける一向一揆の門徒勢が、尾張小木江城を守っていた織田
信興を攻め、木江城は落城、城主織田信興を自害に追い込み、願證寺側が勝利となった戦でした。
 元亀2年(1571)5月12日織田信長は弟信興の弔い合戦と称し、長島願證寺に5万5千の兵を出し、信長自身も津島
まで出陣しましたが、殿軍をつとめていた柴田勝家は右手を負傷し、さらに勝家にかわって防戦した大垣城主氏家ト全が戦
死するという信長軍にとっては敗北の戦となりました。  天正元年(1573)4月12日武田信玄が上洛の陣中にて俄に
没したので、反信長勢力は大きく影をおとしはじめます。織田信長はこの好機をのがさず年来の怨敵長島願證寺を討つため、
同年9月24日信長は岐阜を発し、大柿に入り、同26日桑名に着陣、10月8日東別所に陣をかまえましたが、長島願證
寺は風雨に乗じて多芸山を奇襲し、信長軍は再び惨敗し、10月26日岐阜に逃げ帰ったということです。 
真徳寺創建と願證寺落城断絶
 天文年中(1532〜1555)西美濃惣門徒の嘆願によって、證如上人は蓮如上人の外孫にあたる願證寺2世實慧
法眼次男の證榮僧都を、濃州平尾眞コ寺へ連枝住職として仰せつけられ開基せられました。     天正2年(1574)
4月7日織田信長は再び長島願證寺を攻める為、岐阜を発し、同年7月13日信長信忠親子は津島に着陣、信長は
九鬼、滝川の水軍によって願證寺を包囲、門徒勢は、篠橋砦、大鳥居砦 中之江城砦 長島砦 符丁田砦 森島砦にた
てこもり、「欣求浄土 厭離穢土」を旗印に、「死ナバ極楽浄土」を合言葉に抵抗、同年8月2日大鳥居砦に籠城中の
門徒勢が撃って出たが、男女千余人が切り捨てられ全滅、8月14日篠橋砦籠城中の門徒勢が長島城においこまれ、
3ヶ月の籠城の末、食糧もつき2千余人が餓死者病死者、3千余人が餓死寸前という中で長島城は開城、最後まで抵抗
した中之江城の願證寺は、幾重にも幾重にも柵をはられ、四方から火を放たれ老若男女2万余人の門徒勢が焼き殺され
ました。 ついに長島願證寺七堂伽藍は悉く焼亡し、門徒勢もさることながら女性、子供や赤児までも容赦なくが焼き
討ちにあわせ完膚無きまで、願證寺の息をとどめたのでした。世に言う「根切り」です。終に願證寺は落城断絶。時に
天正2年9月29日のことでありました。 しかし、そうした中で九死に一生を2、3人の坊官女官と一緒に、絹布団
と蓑にくるまれて、3歳の幼な子がかすかな声をあげながら伊尾川沿いに舟が出て行きました。三日経ったその日もあ
ちらこちらの砦は燃えており、どこまで行っても背後には願證寺や、砦の黒煙が燃え上がっていたと言うことです。
この幼な子が、後の濃州平尾眞コ寺3世榮壽僧都であります。  Top

濃洲平尾真徳寺
 長島願證寺から少数の坊官女官の手によって3歳の時護り助けられた、濃州平尾眞コ寺3世榮壽僧都が30才前後こ
ろの、慶長年中(1596〜1615)に石川主殿頭忠總公より大垣中町を寺地として上納され、そこに眞コ寺掛所
(現在真宗大谷派大垣別院開闡寺)を建立開基し、益々佛法興隆につとめられました。 慶長7年(1602)徳川家
康公は、本願寺12世教如上人に京都東六条の寺地四町四方を寄進し、ここに東西両本願寺の別立をみることになるの
です。 東西分派の流れのなか慶長11年(1606)榮壽僧都は断然教如上人に帰依し、東本願寺に帰参したのです。
 慶長19年(1614)宣如上人は、平尾眞徳寺・草道島西圓寺・小野專勝寺・大垣等覺坊・横井永徳寺の五ヶ寺を
西美濃御末寺触頭に任命されこの五ヶ寺の触頭において、本山の命を末寺に伝達するとともに末寺よりの願い事の手次
をするよう仰せつかりました。  寛永元年(1624)3月宣勝僧都のとき、大垣城主岡部内膳正殿より眞コ寺掛所
を大垣中町より、伝馬の地に移転するよう申し入れがあり、三町歩と替地し、一層の諸殿充実をはかりました。
 元禄7年(1694)10月4日常榮權少僧都の時、一如上人の御沙汰によって、西美濃の触頭 平尾眞徳寺 草道
島西圓寺 小野專勝寺 大垣等覺坊 横井永徳寺の五ヶ寺であったのを平尾眞徳寺一ヶ寺と改められました。 このた
め西圓寺 專勝寺 等覺坊 永徳寺の四ヶ寺はこれまでどうり、西美濃五ヶ寺連名の触頭の職を永代にわたり嘆願した
が、ついに一如上人のお許しはありませんでした。  この時より西美濃408余ヶ村、末寺380ヶ寺、26の講を有
し、眞コ寺の地位は高まっていきました。  寛保3年(1743)眞如上人より 「平尾眞コ寺儀従本山自舊御御坊申被
申付格式被取立併住職以下諸式是迄之舊地之通」という御沙汰がありこの時に御坊の尊称として平尾御坊の尊称と寺紋
として、牡丹の落牡丹紋と、勅許院家の証の高塀定規筋(五本の白線)を下付されました。 延享三年(1746)
12月、従如上人より、「眞コ寺掛所開闡寺御坊格被申付寺跡被取立」の御沙汰によって以来、平尾御坊眞コ寺掛所大
垣御坊と称し、本寺、掛所 共々参詣の人絶える事がなかったということです。美濃の御同行より平尾御坊さん、
お平尾さんと呼ばれ親しまれています。  宝暦7年(1757)1月22日従如上人の思召しによって、美濃平尾御坊
眞徳寺御再建釿始めとなり、宝暦10年(1760)には上棟式が執行、宝暦年間(1751〜1764)約8年の歳
月をついやして現本堂、鐘楼、山門が落成、并に旧本堂を広間に改修、御殿 客殿 太鼓堂 経堂 茶所 高塀 東
司 庫院 御蔵 高廊下 水茶屋 土塀 対面所 土蔵等真宗寺院様式としての七堂伽藍を完成したとあります。 明和
年中(1764〜1772)に蓮如上人御廟造営の許しを賜り、京都東山大谷祖廟と同じ様式で造営されました。
 Top
粉糠(こぬか)山古墳  Top
 大垣市街地から北西方の低位段丘上に築造された前方後方墳で、前方後方墳としては東海地方で最大規模。
「粉糠山」の古墳名は、青墓宿の遊女が化粧に使用した粉糠を捨てて積もったことに由来するという。現在の墳丘上は
共同墓地として利用されている。古墳域は1967年(昭和42年)に大垣市指定史跡に指定されている
Top
喪山古墳(もやまこふん)  Top
 僧都山・送葬山とも呼ばれ「日本書紀」「古事記」に記された神話の国譲りの中に出てくる。伝説では天稚彦
(あめのわかひこ)の墳墓と伝えられる。周囲約200m・高さ40m。 山頂には2つの円墳がある。

美濃の喪山神話(WEB参照)
Top
壬申の乱・関連年表(PDF) 壬申の乱の解説は拡大編をご覧ください。  Top
(jin1、jin2、jin3.jpg) 
Top
Top
Top

ホーム  コースマップ(PDF) 詳細拡大  Top