第83回史跡巡りシリーズ・西尾張編PartR1 
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  (令和元年(2019)12月7日(土)・天気:晴れ) (45名参加/27,738歩)(12Km)
下見・令和元年10月19日(土) 歩数:27,392歩 (7名参加)

コース:小信中島バス停8:22発→名鉄一宮駅8:55発→8:57妙興寺駅着(下見)→(例会)は、自転車で萩原駅→妙興寺駅
スタート: 9:00・名鉄妙興寺駅七つ石中島宮本養寺中島城址万葉公園(昼食)・樫の木文化資料館→鞆江緑地公園
鞆江神社天神の渡し跡舟木一夫生家跡萩原駅


コースマップ(PDF) 『解説』欄へ 全員集合 寺さんWeb 一宮友歩会一宮市博物館一宮市観光協会佐藤一英
萩原町ウオーキング(2009.1.11)健康作り萩原町ウオーキング(2011.3.5)第66回・西尾張編Part15(2017.2.4)

美濃街道 萩原宿 萩原橋 佐藤一英の樫の木文化論と資料館の説明(PDF)



妙興寺駅 072

一宮市博物館(西口)駐車場で受付(n83d001)(2019.12.07)

七つ石(n8306)

七つ石(大和町戸塚) n8307

中島宮 n8310

本養寺(萩原町中島) n8313

本養寺の大楠   n8316

中島城址 18

銀杏畑の黄葉@ n83d017(2019.12.07)

銀杏畑の黄葉A n83d018(2019.12.07)

中島廃寺 n8319

高木城跡の説明(Mさん・拡大版参照)(n83d020)(2019.12.07)

万葉公園高松分園・樫の木文化資料館前n83d033(2019.12.07)

大正78年シベリア出征記念碑(八剱社)n83d037(2019.12.07)

万葉公園高松分園  n8324

高松分園の餅つき石臼(大鏡餅奉納用) 025

国府宮裸祭の歌(佐藤一英作)・記念碑 n8327

樫の木文化資料館(添付のPDF参照) 032

くだまき車(資料館内)n83d029(2019.12.07)

むしろ織り(資料館内)n83d027(2019.12.07)

万葉公園案内図38

佐藤一英の歌碑(万葉公園)45

万葉公園の黄葉@d041(2019.12.07)

万葉公園の黄葉Ad048(2019.12.07)

八剱社42

河津桜46

鞆江緑地公園 n8352

鞆江池(右は鞆江神社) 054

鞆江神社朱色が美しい山門(神門)(2019.12.07)

鞆江神社へ n8356

大銀杏 n8359

鞆江神社の大いちょう n8361

鞆江神社参道の黒松並木(2019.12.7) n83d082

鞆江神社の黒松並木 62

鞆江神社(参道両側に黒松並木) n8365

鞆江神社 68

銀杏畑の黄葉Bn83d086(2019.12.07)

市川房枝(生家跡)の説明n83d087(2019.12.07)

日光川に架かる萩原橋を渡る n8370

明治24年の震災記念碑(宝光寺内) 74

史跡・天神の渡し跡 n8378

美濃路萩原宿問屋場跡の碑 84

萩原宿の馬頭観音(左)、屋根神様(中央)、地蔵菩薩(右)n8385

美濃路・萩原宿を通って帰る 90

舟木一夫ゆかりの地跡 n8394

郷土資料館 95

名鉄萩原駅(2017.2 No.66) n66004 

解散式(萩原駅前2019.12.7)n83d106

解説欄
名鉄妙興寺駅  Top
所在地:愛知県一宮市大和町妙興寺北浦宮地48
駅構造:高架駅 
ホーム:2面2線 
乗降人員:-統計年度-2,302人/日・2013年
開業年月日:1924年(大正13年)2月3日 
備考:無人駅(駅集中管理システム導入駅)
*1993年高架化
妙興寺駅(みょうこうじえき)は、愛知県一宮市大和町妙興寺北浦宮地と花池四丁目に跨がった、名古屋鉄道名古屋
本線の駅である。駅番号はNH49。 Top
七つ石  Top
日本武尊は、熱田神宮を出て伊吹山の荒ぶる神を平定に行く途中に一宮市辺りを通り、まず七つ石(剣研石)で刀を
研いだとされています。ここは大和町戸塚の東郷という集落の中です。東郷の集落は古い集落の面影を留めている
ところで、「こんなところに」という細い道の脇に史跡があります。大きな石がごろごろと転がっていますが、この
辺りは木曽川の運んだ砂礫の堆積地で、このような大石は自然にはありません。一説にはかつてこの辺りにあった
古墳の石室に使われていたのではないか、と言われています。この辺りの地名戸塚は、古くは砥塚と書いたようです。
ひょっとすると、剣研石のある塚が語源かもしれませんね。
またこの辺りは、中世には熱田神宮領となっていたことがあります。中世には地元の豪族などが税金を逃れるために、
盛んに寺社に土地を寄進し、自分が管理者に収まっていたようです。東郷の「郷」も、多分荘園であった時の名残で
しょうね。下の写真は集落内に立つ「熱田社旧跡」という石碑。熱田社というのがどのようなものであったかはわかり
ません。日本武尊は熱田神宮をたって伊吹山へ向かっていますから、熱田神宮領時代に、日本武尊に結び付けられたの
かもしれませんね。    Top
中島宮  Top
大和国の小国が大和朝廷としてこの国を統一していく物語は、 武力制圧として倭武(ヤマトタケル)や四道将軍の
派遣があり、政治的融和として倭姫(ヤマトヒメ)の巡国安撫があると見る事ができる。 神護景雲2年(768)
選集の「倭姫命世記」は次のように伝えます。 皇女倭姫命は皇祖天照大神を奉じて十余か所の諸国巡廻を行う。 
垂仁天皇10年に美濃国伊久良河宮(岐阜県本巣郡川崎村大字居倉)に4年滞在、 その後、尾張国中嶋宮に遷座、
3カ月逗留。 のち伊勢国桑名野代宮(三重県桑名郡野代村)を経て五十鈴川のほとりに遷座。 これより、皇大神宮
としての伊勢神宮となる。 
ヤマトタケルは伝説上の人物。壬申の乱により政権を樹立した 大海人皇子(天武天皇)が、それまでの故事を編纂
して皇神の叙事詩を書上げた。 「古事記」をそう解釈することができる。 史実ではないが、それなりの歴史的事実
が元になっているのは確かだろう。 ヤマトヒメも伝説上の人物。だが、「倭姫命世記」にも、 それなりの歴史的
事象があるはずだ。 それでは、尾張国中嶋宮はどこであったか。 
  当地、愛知県一宮市萩原町字丸宮には天照大神を祭神とする丸宮神明社があった。 倭姫が伊勢国に出立のとき
大きな白張り提灯をつけて送ったとの口伝がある。 この故事により 竹棹に12、3個の白張り提灯を結び、4地区
から1本ずつ奉納し 夏から秋、月6回献灯する行事を古来から受け継いできた。
昭和24年10月、名古屋大学考古学教室が 二子字三昧(現在の一宮西高校敷地)を発掘。 弥生式土器と鉄鏃と
管玉を出土。 二子遺跡と呼ぶことになる。 土器は流砂のためか、横倒しで発見された。 その後、萩原中学の敷地
から住居跡の竪穴を発掘。 中島小学校の敷地からべにがらを塗った土器を発掘。
  この地の東1kmの地点に戸塚という地名があり、「剱研石」がある。 西南の戸刈の神社には「駒止めの石」
がある。 二子という地名は、かって二子山があった場合が多い。 前方後円墳は二子山と呼ばれた。 今は土を流失
したが、これら石群は石室の一部と推定される。
  弥生時代の集落、往古の小国を思わせる古墳の存在。 この地は、遠い昔の歴史を想起させる。 
昭和29年秋、国府宮神社に田島仲康氏が宮司として着任。 長隆寺の阿弥陀堂の本尊を拝見され、その由緒の深さ
を直感された。 その後、八剱社の宝物を拝見、その感を更に強められた。 八剱社には、大正7年丸宮神明社はじめ
5社が合祀されていた。 氏を驚嘆させたのは、丸宮神明社のものと思われる 御神体、陶製こま犬、五大尊御絵像
である。 氏は「尾張地名考」の著者津田正生の嫡子の愛弟子を祖父とする。
 八剱社は中嶋城主、中嶋蔵人が城郭の鎮守として勧請したもので 明治まで長隆寺の境内社であった。
大正7年の6社合祀は 八剱社が敷地として最も広かったからである。 田島仲康宮司はこの合祀で丸宮神明社の故事
が消滅するとし、 八剱社の中嶋宮への改名に尽力することになる。    Top
本養寺  Top
所在地:愛知県一宮市萩原町中島字南方郷北ノ切2514
最寄り駅:名鉄尾西線「萩原」駅 / 名鉄尾西線「二子」駅 / 名鉄尾西線「苅安賀」駅 
宗派:真宗大谷派 
交通案内:名鉄尾西線 二子駅から1.6km
寺院名:本養寺     Top

本養寺の真北(上)に中島城址と中島小学校、右上に中島宮と萩の里が見える。(no83whon.jpg)
中島城址  Top
中島城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾張国中島郡中島村(現在:愛知県一宮市萩原町中島)にあった豪族
中島氏(中嶋氏)の居城
中島城址 石碑 一宮市
「城主」
尾州中島城主本居山城守 源氏孝(戦国時代)
「略歴」
承久3年(1221年)6月5日に嵯峨源氏の流れをくむ中島氏が当地に土着したと伝えられる。 
城主は中島左衛門尉宣長を名乗り、子孫は歴代中島蔵人とも号した。 
戦国時代中期以降、織田信長らにより落城したが領地を得た。 落城後、中島氏は豊臣秀吉の家臣となり、中島式部
少輔氏重(のち中島氏種)は大坂城に移り大坂七手組頭に任じられた。 
「資料」
中島城址碑(一宮市萩原町中島字北方北浦)
「尾張ノ豪族中嶋氏ノ城址ナリ 中嶋氏ハ嵯峨源氏ノ末流 平安末期コノ地ヲ領シテ勢アリ 城主ノ子滅宗 妙興寺
ヲ創建スルヤ百町歩ヲ寄進ス 城ハ室町末期廃サレ 一族全国ニ散在ス」一宮市長
万葉公園  Top
万葉集の題材が多い萩が群生していたことに因んで、萬葉公園と命名。14基の歌碑と45基の歌詩板が園内に設置され
ており、万葉の古を偲びながら散策できます。また、高松分園では、38種1700株以上の花しょうぶが植えられ、
6月に花しょうぶ祭が開かれます。そこではお茶会や琴の演奏が行われ、ミス七夕・ミス織物との記念撮影なども
行われます。
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一宮市の萬葉公園は、佐藤一英さんが、『万葉集』巻十に収められている萩の歌が、この地で詠まれたと提唱したことに
ちなんで造られた公園で、3か所からなっています。高松分園以外ではバーベキューができます。
 佐藤一英( いちえい)さんは、明治32年生まれで、一宮市萩原町で詩人として活躍された方です。
この地方の多数の学校の校歌の作詞もしています。
毎年6月上旬に、この萬葉公園高松分園で、花しょうぶ祭りが開催されます。
一宮市萩原町萬葉公園高松分園内には「大和し美し(やまとしうるわし)」の一節、「母をさながら光浴びたり」の詩碑
があるほか、北側に樫の木文化資料館が建てられ、一英が保存を呼び掛けた樫の木の民具が収蔵されています。

「大和し美し(やまとしうるわし)」の一節
そはわが子いかに見悪(みに)くからむも そをはぐくむこころには人目もあらず胸をはだける母をさながら光浴びたり

佐藤一英の樫の木文化論と資料館の説明(PDF)
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佐藤一英氏 (以下、萩原町ウオーキング(2009.1.11)から引用) Top

明治32年(1899年)10月13日〜昭和54年(1979年)8月24日(79歳)
愛知県中島郡祖父江町下丸渕山新田、佐藤源兵衛方で生まれる。父は広三郎(萩原町高松本郷)
一英氏は、故郷をこよなく愛し、一宮、尾西、など尾張部の学校の校歌、社歌、病院歌、青年団歌
にも多くの詩を残しており、今回の歌曲集には四十四曲の作品が掲載されている。
('91,11,3一宮タイムス)「佐藤一英歌曲集(ふる里のうた)」紹介文

上記の校歌のうち6校の校歌→(萩原小、萩原中、朝日西小、朝日東小、万葉保育園、萩原保育園)


早稲田(わせだ)大学英文科予科中退。予科時代、吉田一穂(いっすい)、中山義秀
(ぎしゅう)、横光利一(りいち)らと知る。
菊池寛(かん)論『軽さと重さ』(1919)によって注目されたが、のちに春山行夫(ゆきお)
らと詩誌『青騎士』を創刊。
また『文芸時代』『詩と詩論』『新詩論』などに精力的に詩、評論を発表。
おもな詩集に、若々しいロマンチシズムに彩られた処女詩集『晴天』(1922)、
『故園の莱(あかざ)』(1923)、『魂の楯(たて)』(1942)などのほか、
第二次世界大戦後の時代状況を歌った『乏しき木片』(1947)、『幻の鐘』(1948)などがある。
新韻律詩を実践提唱したことでも知られ、『新韻律詩論』(1940)がある。 
(Yahoo!百科事典)       Top

第一詩集「晴天」を大正 11(1922)年に発表し、萩原朔太郎に認められ中央詩壇に新進詩人として 登場し、 一貫して日本詩における韻律の探求と実践に努めた。   Top
一宮市立 萩原中学校校歌
         佐藤一英 作詞
           森  一也 作曲
      昭和33年3月11日制定

「佐藤一英歌曲集(ふる里のうた)」より



1、その名もゆかし 萩原の
   土にわれらは産まれけり
  照る日のめぐみ 身に浴びて
   群れ咲く花の「生」を識る
  ああ われら萩原の子よ

2、中島宮の あとどころ
   伝えいかしき 石文に
  いにしえ人の 心読み
   みなもと遠き「生」を識る
  ああ われら萩原の子よ

3、伊吹の風に よみがえる
   土のいのちの 尊さよ
  そのことわりを 胸に彫(え)り
   こころ根深き「生」を識る
  ああ われら萩原の子よ
佐藤一英作詞「愛知県立 尾張病院の歌」
                大中 寅二作曲
                    昭和33年6月制定


1、ミタケ、ノリクラ、ヤリ、ホダカ
 遠い垣根の山々よ
 ああ広い野の護り手よ
 その身をつつむ白雪の
 聖心(ひじりごころ)をわれ学ぶ
 日毎白衣をまとう身は
2、木曽の流れの隅もなく
 野べを内外うるおして土のいのちはよみがえる
 しずかに止まぬその力
 日毎病む子の手をとりて
3、花咲く道のそのはては
 黄金みのりをつげる道
 病む子の道は同じ子が
 あした明るく笑う道
 尾張の道の美しさ
 尾張病院光る道
4、広い平野の広い空
 伊吹山(いぶき)いでくる白雲よ
 空のまことの伝え手か
 白鳥の羽と変る見て
 幸よぶすがたわれ学ぶ
 ひろい心を ねがう身は
一宮市博物館・特別展「生誕120年記念・佐藤一英展」リーフレット(2019.10.12〜11.24)    Top


万葉公園、高松分園(万葉公園東)、名鉄尾西線萩原駅の位置  Top
鞆江緑地公園と鞆江神社  Top
Top
鞆江神社  Top
鞆江神社(ともえじんじゃ)は、愛知県一宮市明地鞆にある神社。『延喜式神名帳』にある「鞆江神社(尾張国・中島郡)」
に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
 創祀年代は不詳。御祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰。素盞鳴命・大山咋命を合祀する。
一説に、天照大神や徳川家康も。 『日本三代実録』によれば、貞観7年(865年)10月28日、従五位下に叙された。
元慶5年(881年)には官社に列した。
 今は縮小されているが、明治期まで、神江川が流れ出ていた、かなり大きな池だっという放生ケ池(放生池)がある。
 奈良時代の養老4年(720年)の疫病蔓延や、鎌倉時代の弘安4年(1281年)の蒙古軍襲来時に大量の死者が生じたために、
毎年生魚を放流するようになった、と伝えられる。
 蒙古襲来の際は、当社の別当である神江寺で大般若経が奉読されてもいるという。
 江戸時代は「神江明神」「八幡宮」と称していた。現在も第二鳥居から第三鳥居に至る参道には長い黒松並木が続く。
この並木は、『尾張名所図会』にも描かれたもので、市の史跡に指定されている。
 第三鳥居をくぐると、朱色が美しい山門(神門)がある。拝殿の前には風雪を感じさせる蕃塀がある。
拝殿の扁額は「鞆江大明神」。
 拝殿の前に巨大なイチョウの樹がある。「鞆江のいちょう」として、市の天然記念物に指定されている。
樹高15メートル、幹回り4メートル。この木には、乳と呼ぶ下に垂れた気根があり、母乳の出のよくない婦人は樹皮を煎じて
飲むと、乳の出がよくなるといわれた。
 戦前には、春に「乳祭り」という祭りが行われ、祭礼の2日ほど前から、参道の黒松並木に縄が張られ、赤・白・黄・桃など
色とりどりののぼりで飾られたという。 現在でも、時折、樹皮が欲しいという依頼があるという。
 以前まで、境内では氏子たちが神主の占いの結果を聞いて、田畑や農作業をする人たちなどを表した立体模型を作り、拝殿
の傍らに飾る風習があったという。 参詣に来た人たちはそれを見て、その年の米の出来具合を判断したという。
 現在、例祭は4月8日。境内社に、秋葉社がある。他に複数の境内社がある。 【ご利益】 安産・子育て、厄災除け、諸願成就
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美濃路天神の渡し跡  Top

 今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。
 当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。 この渡しの辺りは萩原川とも言った。
 斉藤道三が信長と会見の後、信長を見送りに来た。織田信長が木曽川沿いの聖徳寺で、美濃の斎藤道三と会見した帰りに、道三が
渡し場まで見送りにきたという伝説がある。
(当時は木曽川の本流はこのあたりを流れていたと思われる。川幅も数百bもあり天神の渡し跡(西)は現在もかなり離れた場所にある
 天正十四年(1586)の大洪水以降、主要流路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に
移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推測される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」などに
よって知られよう。
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 江戸時代終わりの頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。 織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した
帰り、道三がこの渡しまで見送ったと伝えられる。
 江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。
 徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
                       (一宮教育委員会)                Top
(旧)尾西市西萩原・天神神社の渡し跡(右)(日光川の西側)
一宮市宮町の天神社の渡し跡(日光川の東側)
市川房枝(wikipedia参照)                      topへ
(市川 房枝)1893年(明治26年)5月15日 - 1981年(昭和56年)2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家
(元参議院議員)。愛知県中島郡明地村(現在の一宮市[注 1])生まれ。第二次世界大戦の前後に渡り、日本
の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)の名誉市民と
なる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。topへ


美濃街道 萩原宿 萩原橋(Web参照) 日光川に架かる萩原橋は、江戸時代には川は萩原川(萩原古川)、橋は古川橋といい、高欄付の板橋で、 長さ21間(38m)幅2間半(4.5m)、橋杭は3本立10組でした。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 萩原川について・・・現在の木曽川筋は天正14年(1586)に固定したもので、それまで幾筋かに分流 していた。そのうち本流は今の日光川筋で、当時萩原川といわれた。美濃路往来のためここに渡船場が設け られ渡船場東西に天神社が祀られていたので俗に「天神の渡し」といわれた。天正年間以来60石の渡船給 が支給された。この渡船給以来慶長年間には清須三奉行から、慶長13年(1680)には尾張藩三奉行よ り引続き支給されていた。しかし、翌慶長14年に、旧木曽川(萩原川)の築留が行われて、川筋が極端に 縮まったので、長さ22間、欄干付きの橋が架けられ、以来渡船は廃止となった。
萩原宿  topへ
萩原宿は、美濃路の宿場である。現在の愛知県一宮市萩原町にある。日光川の東に位置する。
美濃路の宿場では最も小規模である。現在の一宮市萩原町は宿場としての建物は少なく、商店街になっている。
商店街は昭和30 - 40年代のレトロな感じがある。毎年5月には萩原宿チンドン祭りが行なわれる。topへ


萩原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、家数236軒、人口1002人で、美濃路の中では最も規模の小さい
宿場。東から下町、中町、上町となっており、宿の中央で曲尺手となっていた。正面に高札場があり傍らに
正瑞寺が建つ。 上町と下町の二箇所問屋場が置かれ、上問屋・下問屋と言われていた。
現在商店街となっている町並みは、昭和30〜40年代のレトロな雰囲気をかもし出す。 萩原郵便局跡を過ぎ
商店街を行くと、街道は右手に曲がる。その角左手に 正瑞寺の山門がみえる。
正瑞寺は、蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した寺院。このあたりに高札場があったといわれる。
この角を曲がり、まっすぐ進むと左手に脇本陣、右手に上町問屋場、本陣が軒を連ねて いた。
問屋場跡と本陣跡には碑が立っている。
本陣跡の西にあった萩原城は、秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城であった。 吉房は豊臣秀次の父、秀次が謀反
の疑いで失脚すると、追放され萩原城は廃城となった。江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建て
られていたという。topへ


萩原宿と美濃路(地図と解説)・・・・以下、「No66.htm友歩会第66回・西尾張編Part15」から引用
美濃路萩原宿・映像解説
萩原宿解説(宝光寺にある「脇本陣森半兵衛辞世の句碑」の解説もあります。)
 宝光寺の門を入り右手に脇本陣と村庄屋を勤めた辞世の句碑「我をとう人にたとえよ松の風」文政2年(1819)没、
 脇本陣跡は本陣の向い側(美濃路西南あたり)
東海道・中山道・美濃路、下記マップ参照 (萩原宿は美濃路の中央にあたる) topへ



巡見街道(萩原宿で美濃路と交叉している)

幕府は1615年以来、将軍がかわるごとに巡見使を全国各地に派遣して村々の様子を見回った。
巡見使が通る街道は定められており、一般に巡見街道と呼ぶ。尾張の巡見街道は犬山・草井から
瀬部村を通って一宮に入り、苅安賀村・萩原村を経て津島に向かった。
巡見街道と地図  topへ
舟木一夫生家跡  Top
美濃路の宿場町の愛知県一宮市、萩原町は舟木一夫の生誕地である。毎年5月と10月にチンドン祭りが開催されるのでも
有名である。「萩原宿」は慶長7年(1602年)頃に出来、長さは8町36間(約960m)未だに昔の宿場の面影を残して
います。その宿場町の一角に「舟木一夫」の生家跡がありました。現在は誰も住んで居ないようですが、玄関前に立て札
があり次のように記されていました「1944年12月この地で歌手舟木一夫は生まれ育った。
彼が歌った数々のヒット曲の中でも「高校3年生」は文化庁の日本の歌100選に選ばれ青春時代を表す代表曲になった」
と記されている。
−−−−−−−−−−−−−−ある「町おこし参加者」のレポートから引用。
美濃路東海道熱田宮宿から、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七宿あり、中山道垂井宿と結ぶ主要街道
宮から桑名までの「七里の渡し」は船便なので危険を避けて陸路を通る道。大名の参勤交代、女性の往来、朝鮮通信使、
琉球使節、お茶壺道中や物資の輸送など様々な用途で利用された。
 萩原駅からすぐ近くに郷土資料館(舟木一夫コーナーを常設)があり、見学後、記念写真。
近くの舟木一夫生家跡には瀟洒なアパートが建っていました。氏の案内で萩原町の史跡であるお茶屋御殿跡地、萩原劇場跡、
問屋場跡、脇本陣跡、本陣跡、市川房江生家などを巡り、チンドン祭り会場の中心地、正端寺門前へ。
チンドン祭りは春(5月第4日曜日)と秋(10月第3日曜日)に開催され、今回は秋の祭りでしたが近郷近在から多くの家族
ずれが訪れて大変賑やかでした。野外ライブもあり暫し耳を傾けていました。Top
「萩原駅」  Top
所在地:愛知県一宮市萩原町串作字荒神田面1414(北緯35度16分37秒、東経136度45分27秒)駅番号:BS  09  。
所属事業者:名古屋鉄道 。所属路線:尾西線 キロ程:20.2km(弥富起点)。駅構造:地上駅 。ホーム:2面2線 
乗降人員:-統計年度-2,566人/日、-2013年
開業年月日:1899年(明治32年)7月18日 
備考:無人駅(駅集中管理システム導入駅) 
萩原駅(はぎわらえき)は、愛知県一宮市萩原町串作にある、名古屋鉄道尾西線の駅。駅番号はBS09。
「利用状況」
『名鉄120年:近20年のあゆみ』によると2013年度当時の1日平均乗降人員は2,566人であり、この値は名鉄全駅
(275駅)中164位、尾西線(22駅)中9位であった。『名古屋鉄道百年史』によると1992年度当時の1日平均乗降
人員は2,551人であり、この値は岐阜市内線均一運賃区間内各駅(岐阜市内線・田神線・美濃町線徹明町駅 - 
琴塚駅間)を除く名鉄全駅(342駅)中153位、尾西線(23駅)中8位であった。
『愛知統計年鑑』によると1日平均の乗車人員は2010年度では1,174人である。
「駅周辺」
萩原商店街が執り行うチンドン祭りでチンドン屋が来る際、当駅はその会場の最寄り駅であるため、開催時は
多くの乗客が利用する。
また、駅周辺は歌手の舟木一夫の出身地でもあり、ROCK'N ROLLふるさとの歌詞でも歌われている。 
・愛知県一宮市役所萩原町出張所
・萩原郵便局
・萩原商店街
・舟木一夫生家跡
・萩原町郷土資料館(舟木一夫資料館/記念館)
・萩原小学校
・愛知文教女子短期大学附属萩原幼稚園
・国道155号
・愛知県道137号萩原停車場線
・愛知県道458号一宮弥富線(巡見街道)
・美濃路(美濃街道)・萩原宿
・一宮市循環バス i-バス尾西南コース「萩原駅」バス停
・苅安賀自動車学校スクールバス(萩原・尾西コース)乗場
・萬葉公園
・萬葉公園高松分園
・樫の木文化資料館(佐藤一英が世の平和を願って樫の木文化論を唱えて保存を呼び掛けた樫の木の民具を収蔵)
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