第90回史跡巡りシリーズ・三重編Part3 
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(2022年6月4日(土)天気:晴れ) (39名参加) 6.4は都合により欠席。
下見・2021年4月24日(土)、都合で欠席。再下見・2022.4.16(土) (9名参加) 歩数:29,605歩

コース:桑名市西部&南部コース
(Home:7:25発→尾張中島バス停:7:41発→尾張一宮発8:01→B名古屋乗換J→桑名駅8:50着)
スタート−9:00・近鉄(JR)桑名駅照源寺大福田寺諸戸水道遺構増田神社太夫の大楠冷水庵
御膳水走井山公園有王塚町屋橋跡安永常夜灯晴雲寺城南神社神館神社→桑名駅(11Km)

『解説』集合写真コースマップ(PDF90mapkuwana)「桑名の歴史と桑名藩」桑名市旧跡案内(桑名市Web)

第80回三重編P2・桑名市(2019.6.1 (参考)本多忠勝/松平定信のお墓 /「桑名の歴史と桑名藩」


桑名駅(2019.(H31)4.27)80m001

桑名駅(2022.4.16)西口 kuwa01

受付会場(例会・桑名駅東) 2019.6.1 80m01

照源寺へ (2019.6.180m186

照源寺本堂 (2019.6.180m192 

松平定綱及び一統の墓所(照源寺)80m194 (2019.6.1

楽翁源公(松平定信)の墓(照源寺)80m196  (2019.6.1

照源寺) (2019.6.180m202

大福田寺へ 80m178 (2019.6.1

大福田寺 80m182 (2019.6.1

諸戸水道遺構解説kuwa13 (2022.4.16)

諸戸水道遺構kuwa15 (2022.4.16)

増田神社の太神楽 (2019.6.180m171 

太夫の大樟 (2019.6.180m167

太夫の大樟kuwa25 (2022.4.16)

太夫の大樟kuwa22 (2022.4.16)

井坂山冷水庵 (2022.4.16) kuwa26

上野御膳水 (2022.4.16) kuwa30

走井山公園と愛宕山庚申碑80m160

走井山公園80m164 

益生駅 masuos
益生駅(ますおえき)は、三重県桑名市大字矢田にある
近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。駅番号はE14。

有王塚 80m148

町屋用水建設記念碑52(2022.4.16)

員弁川53(2022.4.16)

東海道53次(桑名は42次) 80m088

町屋橋跡kuwa57(2022.4.16)

安永第一公園59(2022.4.16)

伊勢両宮常夜灯(安永常夜灯) 61 (2022.4.16)

晴雲寺へ 64 (2022.4.16)

晴雲寺本堂屋根旧鬼瓦 67 (2022.4.16)

城南神社70 (2022.4.16)

神館神社74 (2022.4.16)

西桑名駅78 (2022.4.16)

桑名駅へ80 (2022.4.16)

全員集合(走井山公園)  Top

『解説』   コースマップ(pdf)   Top
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近鉄(JR)桑名駅(wikipedia)     Top
桑名駅は、三重県桑名市大字東方にある、東海旅客鉄道(JR東海)近畿日本鉄道(近鉄)養老鉄道の駅である。
駅番号はJR東海がCJ07、近鉄がE13。
JR東海の関西本線、近鉄の名古屋線、養老鉄道の養老線の3路線が乗り入れている。養老線は当駅が起点である。
また、三岐鉄道北勢線の西桑名駅が近接しており、乗り換えが可能である。 
『桑名駅と桑名市物産観光案内所・上部に照源寺・下部に大福田寺』(88ksd65)

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桑名市(市名のいわれ)
「桑名」の最古の表記は日本書紀に見られます。しかし「くわな」は漢字が日本に入ってくる以前から使われ
ていた呼称で、その由来には諸説があります。
?桑の木があった場所(桑野)からとする説
?「く」は屈曲、曲がりくねったところ、「はな」は岬、端、鼻(先端)の意で地形語源説
?魏志倭人伝の「鬼奴(きな)国」に由来する説
などなど。
 実際は桑名の開発の祖、豪族「桑名首(おびと)」からとられたとする説が有力です。
ちなみに、「桑名首」の祖神である「天津彦根命」は今でも桑名の鎮守として、春日神社に祭られています。
人口:142,274(男:70,288 女:71,986)世帯数:59,245(H31.3.31現在) Top
照源寺(WEB)   Top
寛永元年(1624)桑名藩主松平定勝が死去したため、その子定行が創建しました。定行は伊予松山へ移封しましたが
弟定綱が藩主を継いだので、松平家の菩提寺として存続しました。「松平定綱及び一統之墓所」(県指定文化財)には
藩主ら二十八基の墓石があります。境内には定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植した金龍桜があります。

照源寺(HP)は、桑名駅からほど近い歴史あるお寺です。 照源寺は、京都の知恩院を総本山とする浄土宗のお寺です。ご本尊は阿弥陀如来です。 Top
大福田寺(Wikipedia)    Top
所在地:三重県桑名市東方1426 
山号:神宝山、院号:法皇院、宗旨:古義真言宗、宗派:高野山真言宗、本尊:阿弥陀如来 
創建年:(伝)飛鳥時代 、正式名:神宝山法皇院大福田寺、~寶山法皇院大sc寺 
札所等:三重四国八十八ヶ所 1番札所、伊勢七福神 大黒天、伊勢西国三十三所観音霊場 番外札所 

大福田寺は、三重県桑名市東方にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神宝山。院号は法皇院。
本尊は阿弥陀如来。ほかに歓喜天(聖天)を祀り、日本三歓喜天(日本三大聖天)の一つに数えられている。
毎年2月3日に節分祭が行われ、4月1日、2日に桑名聖天大祭が行われる。
また、4月2日には重要無形民俗文化財の「伊勢大神楽」が奉納される。 通称「桑名の聖天さん」と呼ばれている。 
「歴史」
この寺の創建年代については正確ではないが、聖徳太子が開いたと伝えられ、鎌倉時代中期後宇多天皇の代に
額田部実澄・忍性によって再興されたという。 
当初は福田村にあり福田寺と称したが、足利尊氏から「大」の字を賜り、大福田寺と改められたという。
その後、たびたび兵火にあって焼失して寺運は衰えたが、1662年(寛文2年)、松平定重の援助を受けて現在地に
再興された。 歓喜天は松平定信の寄進によるものとされる。 
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諸戸水道遺構(桑名市旧跡web)     Top
初代諸戸清六が、独力で上水道付設を計画し、東方丘陵地の地下水を集めた貯水池を築き、桑名市内に上水道を普及させ
ました。近代的な上水道としては、全国で7番目に完成しました。明治37年(1904)に竣工し、昭和4年(1929)まで使用
されていました。
水道は静六没(明治39年・1906)後の対象13年(1924)に諸戸家より桑名町に寄付され、新しい水道が完成する昭和4年
(1929)まで公共上水道としての役割を果たしました。(諸戸水道貯水池遺構)
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増田神社(左上)/太夫の大楠(その下)/冷水庵/御膳水(下)/走井山公園(右下)    Top
伊勢神宮に参拝できない人のかわりに神楽を奉納する「伊勢太神楽」は、毎年12月24日に増田神社境内で行われます。
「伊勢太神楽」は国の重要無形民俗文化財になっています。社宝に獅子頭があり、室町時代初期の作と推定されています。
天正4年(1575)及び寛永15年(1638)の棟札があります。

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太夫の大楠(web)   Top
●名称 :太夫の大樟	
●所在地:三重県桑名市太夫
●撮影日:2006/10/14
●指定 :桑名市指定天然記念物 (S34年7月17日指定)
●アクセス :JR・近鉄桑名駅からバスで「太夫」で下車し、南西へ徒歩10分。
●桑名市の国道258号線・西別所ICの近く、住宅街に隠れるように「太夫の大樟」(たゆうのおおくす)がありました。
「太夫の大クス」は、もとは氏神さまの境内にあった神木だったそうです。
 1959年(昭和34年)9月26日、東海地方に大被害をもたらした伊勢湾台風で、枝張りが多少変わったものの樹勢は今も
旺盛です。 地上0.5mほどで二本に分岐した各々の目通り幹周は、南側の幹が5.9m、北側の幹は4.6mで、合わせると
10.5mになります。
かって「六本楠」と称されたクスノキ群がこの辺りにありました。天正年間(1573〜79年)三河のある武士が、このクスノキ
に隠れて一命を助かり、後年その巨木が枯死した時、記念のため植樹したのが現在の大クスだという話が伝わります。
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井坂山冷水庵(HP) (pdf解説:2008.9.15レポート
曹洞宗海蔵寺末寺 開山は不詳元禄頃に海蔵寺の弟子愚白禅納が再興して、愚白庵と称したが後に冷水庵と称した。
本尊の虚空蔵菩薩は弘法大師の作と言われている。現在は、上野地区の人達によって守られている。
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御膳水(pdf解説:2008.9.15レポート)   Top
上野御膳水は北側の丘陵から湧き出る水を導いたもので、筧からこんこんと流れ出ている。江戸時代には藩主の
飲用水はここから毎日運んでいたと言われる。冬は暖かく、夏は冷たい。竹林の道を登ると井坂山冷水庵へ出る。
この寺では桑名歴史案内人の会の元会長加藤勝己氏から寺の歴史を聞く。開基は不詳だが曹洞宗で、本尊は
虚空蔵菩薩像である。現在の本堂は棟札によれば文化 13(1816)年 4 月に建てられたもので、鬼瓦には文化
 9(1812)年 11 月の銘がある。
境内に阿波国出身で桑名藩校進脩館の副教をつとめた佐父理希亮(1774〜1820)の墓で、亀に乗った亀跌がある。
その傍らに妻柔の墓もある
走井山公園(WEB)   Top
戦国時代に矢田城があった場所に造られた公園です。春には100本以上の桜が咲き乱れる花見の名所として市民に知ら
れています。 
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益生駅   Top
益生駅(ますおえき)は、三重県桑名市大字矢田にある近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。駅番号はE14。
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有王塚(wikipedia)   Top
有王(ありおう、生没年不詳)は、平安時代後期の人物。
「概要」
法勝寺執行俊寛の侍童だったが、安元3年(1177年)俊寛は鹿ケ谷の陰謀に連座して鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されて
しまう。『平家物語』によると、師を慕う有王は鬼界ヶ島をおとずれ、変わり果てた姿の俊寛と再会。有王は俊寛の娘
の手紙を渡し、それを読んだ俊寛は死を決意して食を断ち自害する。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を持ち帰り、
高野山奥院に納め、蓮華谷で出家して菩提を弔ったとされる。 
有王の墓は、和歌山県かつらぎ町と三重県桑名市(有王塚)にある。 Top
東海道53次(桑名宿)(wikipedia)
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桑名宿は、東海道五十三次の42番目の宿場である。現在は三重県桑名市。脇往還佐屋街道もここから分岐していた。
徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。江戸時代後期の調査では、
本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されて
いる。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および、伊勢参りの玄関口となっていた。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、市街地は西に
シフトした。話し言葉(方言)において木曽三川が東京式アクセントと京阪式アクセント(関西式アクセント)の境界
であることから、桑名宿は東海道における京阪式アクセント地区最東端の宿場町となっている。
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東海道五十三次は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。または、日本橋から京都
までの53の宿場町を繋げたもの。古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の
題材にもしばしば取り上げられた。なお五十三次と称す場合は京都までの場合であり、さらに大坂までを加えて
東海道五十七次とする説 もある。また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から
常陸の雄薩(おさか)駅まで55駅が設置されている。日本橋が起点。なお、徳川家康が整備した東海道五十三次は、
善財童子を元にした巡礼の道、登竜門とする説もある。
数は品川宿からの通し番号である。 江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル (km)。 
東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。
人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった。
特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒とその数は群を抜き、その対岸の
桑名宿も120軒あった。宮宿は旅籠の数では、東海道はもとより日本一大きな宿場町であった。他に100軒を超えた
のは、岡崎宿の112軒である。箱根八里の東麓に位置する小田原宿は95軒、西麓の三島宿にも74軒の旅籠があり、
その手前の大磯宿(66軒)、平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)と比べると多かった。このほか旅籠の多い宿場は、
品川宿(93軒)、川崎宿(72軒)、戸塚宿(75軒)、浜松宿(94軒)、四日市宿(98軒)、草津宿(72軒)、
大津宿(71軒)があった。
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町屋橋跡   Top
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、また町屋川の舟運の船着場でも
あったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の繩生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永十二年(1635)にはじめて架橋され、
川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変っている。
下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように幅がやや広くなっていた。
 昭和八年(1933)国道一号線の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。
             桑名市・桑名市教育委員会

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安永常夜灯(web)      Top
 この常夜燈前の道路は旧東海道筋にあたり七里の渡から約1里(4km)の地点である。南に面する町屋川には
ここから川向うの縄生まで木橋(終戦後滅)が架かりそこに1里塚がある。
町屋川の清流に臨み上流からの遊舟や筏と旅人茶店などで賑わったという。常夜燈は昔の灯標で伊勢神宮への
祈願を兼ねたものである。
文政元年(1818)に、桑名在住の材木商が連名で寄進し、「作名」は石工根来市蔵ほかとある。

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晴雲寺(真宗大谷派)〒511-0839 三重県桑名市安永町578
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城南神社(御由緒)      Top
当神社は元神明宮にて、第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大御神を永遠におまつり申し上げるべき宮地を求めて、 
御神慮のまにまに南勢へ御巡幸されたとき暫時御停座の御旧地と伝承されております。故に古来、神宮式年御遷宮ごとに、 
皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっております。
明治41年、旧城南村各大字の神社を合祀、城南総鎮守となりました。 当神社に合祀の延喜式内長倉神社の相殿には
少彦名命を奉斎し、古老の言い伝えにも薬の祖神としてあがめられ、病気平癒の祈願が行なわれたと伝えられております。
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神館神社(コウダテジンジャ)
古代に神宮鎮座の地を探して倭姫命が大和・伊勢を巡幸した時、ここに休憩所として館が建てられ、神宮が伊勢に定まった
後、神領の神明社として館後に神館神社が創建されたといわれ、神館神明宮・神館明神とも称されています。
神宝として、永享7年(1435)の銘きものの草分け的存在である信行作で 貞享4年(1687)の銘のある鉄釉菊花文御神酒壷
(市指定文化財)と宝永元年(1704)銘の狛犬、桑名の刀工村正の作で天正22年(1553)の銘のある剣と太刀
(市指定文化財)など、貴重な文化財が納められています。 Top
(参考)本多忠勝(1548―1610) 
(徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将)の一人) 
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。
代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。
ときに忠勝は2歳。13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)
大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も
手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎ
たるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。84年(天正12)
長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。88年従(じゅ)五位下中務大輔
(なかつかさたゆう)。90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。1601年(慶長6)伊勢
(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。
慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。墓は同地の浄土寺(桑名市清水町)にある。 
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楽翁公の墓について(WEB記事紹介) 「松平定信のお墓は、深川の寺町の一角、霊巌寺にあります。国指定史跡にも指定されており、歴史好きの方ならご存知 の方も多いと思います。 しかし、定信の墓が松平家の領地だった三重県桑名に建立されているというのは、あまり知られていないかもしれません。 桑名の墓所は、松平家の菩提寺照源寺にあります。 現在こちらには、広大な面積に桑名藩主松平家の墓所が形成されており、初代定綱を筆頭に、6人の藩主や正室、側室、 子女など、計20基以上の墓碑が林立しています。その中に松平定信の墓があります。 墓碑正面には「樂翁源公之墓」とあり、立派な墓所ですが、代々の墓碑に比べて同じくらいかやや小ぶりな墓石でした。 寛政の改革を行い、幕府の中枢にいたということが、教科書や歴史書などで注目される人物ですが、国元と江戸にある 彼の墓碑を見ることで、彼の生き様が垣間見えるような気がしました。」 Top
「桑名の歴史と桑名藩」(WEB解説)  Top

 桑名は古代から東海地方と畿内における交易の中継地として栄えました。 室町時代には商人たちによる自由都市が
形成され、堺、博多、大湊と並ぶ日本屈指の貿易都市となり、「十楽の津」とよばれました。 
江戸時代には桑名藩11万石の城下町、および東海道五十三次で知られる東海道42番目の宿駅・桑名宿として栄えました。
桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)との間(海路7里(約28km))の七里の渡しが有名です。幕末には、佐幕派の中核
なす、いわゆる一会桑政権(一橋慶喜、会津藩、桑名藩)の拠点の一つとなりました。 
 桑名藩は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城でした。(桑名市吉之丸) 
 天正18年(1590年)、伊勢を支配していた織田信雄(織田信長の次男)は、豊臣秀吉の駿河転封を拒絶して改易され、
伊勢は豊臣氏の家臣が分散して入封することになりましたが、桑名にはかつて美濃三人衆として信長の下で勇名を轟か
せた氏家直元の次男・氏家行広が2万2000石で入りました。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで行広は西軍に与して
桑名城を守備したが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に徳川家康によって改易されました。
 慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩
しました。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、武田信玄や織田信長らからも賞賛され
た武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物です。忠勝は関ヶ原では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇
ばかりが際立って目立つが、桑名藩の藩政では大規模な町割り城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩の
藩政を確立した名君でもありました。慶長14年(1609年)、忠勝の嫡男・本多忠政が第2代藩主となり、大坂の役にも
参加して武功を挙げたため、西国の抑えとして元和3年(1617年)7月14日に播磨姫路藩に移封されました。
 代わって徳川家康の異父弟である松平定勝が、山城伏見藩から11万石で入りました。当山はこの松平定勝公以下松平家
一統の菩提寺であります。
 元和6年(1620年)には伊勢長島領7000石を与えられて11万7000石となり、定勝の後を継いだ第2代藩主・松平定行は、
寛永元年(1624年)に7000石を弟の松平定房に分与したため、再び11万石となりました。定行は水道の設置、城下に
おける湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年(1635年)7月28日に伊予松山藩に移封されました。
 このため、美濃大垣藩より定行の弟・松平定綱が11万3000石で入り、定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成など
尽力しましたが、桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では6万4000石もの被害をもたらす大惨事と
なりました。その後、第4代藩主・松平定良を経て第5代藩主となった松平定重は、53年にわたって桑名を支配するという
長期政権でありましたが、この時代には天災が相次ぎ、家臣の減給やリストラが頻繁に行なわれました。
このため、定重は8石3人扶持の小者であった野村増右衛門を郡代に抜擢し、藩政の再建に敏腕を振るい、これは大成功で
したが、譜代の無能な家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)5月29日に野村は死罪に処されました(野村騒動)。
そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられました。
 次に藩主となったのが、奥平松平家の当主・松平忠雅で、備後福山藩から10万石で入りました。第3代藩主・松平忠啓
時代の天明2年(1782年)に洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末でした。
第4代藩主・松平忠功や第5代藩主・松平忠和は紀州徳川家の出身で、学問の奨励などを中心とした藩政改革を行ない、
藩校の進修館創設の基礎を築いている。第7代藩主・松平忠堯時代の文政6年1823年)3月24日、武蔵忍藩に移封を命じられ
るが、これに反対する一揆も起こるほどでした。 
代わって、陸奥白河藩から松平定永が11万石で入りました。定永の久松松平家は、かつて桑名藩主であった定重の系統
でありました。定永は寛政の改革を行なった松平定信の嫡男であり、この移封は隠居の定信が桑名の港の利権を求めて
嘆願したものともいわれています。しかし定永の後に藩主となった第2代藩主・松平定和や第3代藩主・松平定猷時代は
天災が相次ぎ、藩財政を苦しめました。
 本多忠勝が前期の桑名藩主として有名なら、後期の藩主として最も有名なのが、幕末動乱の時期に第4代藩主となった
松平定敬です。定敬は会津藩主・松平容保や尾張藩主・徳川慶勝らの実弟であり、佐幕派として行動した人物であり、
一説では坂本龍馬暗殺事件は定敬が指示したものともいわれているほど、幕末期では重きを成した人物で、京都所司代
務めたこともあります。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の惨敗後、定敬は徳川慶喜に随行しました。
このため、桑名藩は藩主不在となり、前の藩主の実子である松平定教が第5代藩主として擁立され、定敬には相談せず、
無血開城して新政府軍に恭順しました。しかし定敬や立見鑑三郎など一部の藩士は抗戦し、江戸、会津、箱館へと戊辰
戦争を転戦したため、桑名藩は逆賊として取り潰されました。
 明治2年(1869年)に定敬が降伏したことや大久保利通らと親交が厚い同藩出身の箏曲師椙村保寿の嘆願もあって、
8月15日に桑名藩は再興を許され、定教は桑名藩知事に任じられます。ただし所領を11万3000石から6万石に減らされた
上でありました。明治4年(1871年)の廃藩置県で桑名藩は廃藩となり、桑名県、近隣の県との合併によって安濃津県
(後の三重県)を経て、三重県に編入されました。   Top


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