友歩会第93回ウオーク例会・河川探訪・二之枝川編Part5 14km (
詳細編資料編
  (例会:令和4(2022)年12月3日(土)(下見・2022年10月22日(土))
  天気&歩数:(下見:晴れ・歩数:33,328歩・10名参加。例会:晴れ・歩数:30,939歩、36名参加)
  (例会時の写真は93p5××です。主に前回及び下見の時の写真です。)

自宅:8:05→尾張中島バス停8:21→名鉄一宮8:45→国府宮駅8:49着→国府宮参道(楼門前集合)→
コース:国府宮駅(参道)→せんき薬師大塚山性海寺国分寺跡下水道科学館屯倉社勝幡城跡→勝幡駅→帰宅
 ウオーキングマップ(参照)全員集合(下水道科学館) 稲沢コミュニティバス(map・pdf)

友歩会第44回例会史跡巡りpart10稲沢ウオーキング(H25(2013).6.1)
友歩会第50回記念例会・稲沢市(H26(2014).6.7)(huruike内) 解説 (澤君遺愛碑)

稲沢市ホームページ 稲沢市観光協会 国府宮神社


名鉄・国府宮駅091

国府宮駅から参道に通じる道(10.22)93kn02

御仮殿(本殿の東に新築)67008

受付(2022.12.3) 93p501

参道でコース説明等67011

 国府宮神社参道(出発/10.22下見) 93kn03

 参道沿いにある中高記念館113

中高記念館67002
中高記念館説明(09/06/06) w113

せんき薬師へ(10.22) 93kn04

せんき薬師(10.22) 93kn05

 せんき薬師(09/06/06)139

大塚山性海寺へ141
性海寺案内図(09/06/06) w117   ウオーキングマップ(93knmap.pdf参照)   Top
性海寺説明(09/06/06)  w142
Top

性海寺の多宝塔147 (09/06/06)

性海寺の西側にある大塚古墳93kn12(2022.10.22)

性海寺のあじさい祭り(09/06/06)

性海寺のあじさい祭り(09/06/06)

性海寺・本尊善光寺如来を安置150  Top

性海寺のムクロジの古木(市指定天然記念物)

尾張国分寺跡の説明看板93kn15

尾張国分寺跡の石柱93kn17

塔の場所を探索93kn18

愛知県下水道科学館へ93kn21

下水道科学館 182  Top

下水道科学館の館内93kn30

下水処理の仕組み93p522

下水道科学館の館内で全員集合93p521

 下水道科学館案内図178

シールドマシン180

下水道科学館(芝生広場で昼食)93p517

ショートコースの名鉄尾西線上丸渕駅(09/06/06)196

澤君遺愛碑 93kn35
澤園兵衛重格二百年祭(PDF参照)

澤園兵衛の位牌を安置する経蔵寺93kn36
(平和町須ヶ谷郷)

ガイドから澤園兵衛の説明を聞く93p526(12.03)

屯倉跡の碑93kn40

 屯倉社 93kn41

屯倉社の木彫りの狛犬93p532

屯倉社でガイドさんの説明を聞く93p538

牛頭山長福寺93kn45

長福寺の仁王像 47

長福寺の仁王像(稲沢市指定文化財) 93kn46

勝幡城跡

勝幡城跡の碑081

橋にかかる勝幡城復元図 93p541

勝幡城跡(日光川沿い)93kn59

勝幡駅前の勝幡城模型np10070

勝幡駅前の信長出生の像(土田御前と織田信秀)002

全員集合(愛知県下水道科学館) 93p5w19      Top

解説       Top
国府宮神社 (Wikipedia解説)   Top   ウオーキングマップ(参照)
「御祭神(ごさいじん)」
尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)
尾張地方の國霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きて
いく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りしたのであり
ます。
「由緒」
尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されております。当社は奈良時代、国衛
(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社で
ありました。このことから通称「国府宮」として広く知られております。
「社殿」
本殿は流造、拝殿は切妻造、全体の様式(建物の配置)は尾張式といわれるもので、本殿・渡殿・祭文殿・
東西の廻廊・拝殿・楼門と建ち並んでおります。   Top

国府宮と尾張国衙跡について(PDF研究)稲葉宿と三宅川(Web解説)三宅川(愛知県) 現在の三宅川Map

大江川(平成24年度稲沢市の環境・PDF)
美濃路街道(Wikipedia)  Top 美濃路(みのじ)は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還である。関ヶ原の戦いにおい ては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市(旧尾西市))から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川 家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。 朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。 東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされ ていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。 (Web解説1)美濃街道探訪美濃路街道羽島市公式サイト稲葉宿Top


せんき薬師(稲沢市大塚南三丁目28番地)(名鉄名古屋本線「国府宮駅」から徒歩約20分)   Top
約500年繭から続くせんき薬師如来を本尊とする真言宗智山派の祈祷寺です。
正式名は「日出山 西福院 せんき薬師」といい、老若男女遠近問わず多くの参拝者が、病気平癒、
がん封じ、せん痛封じ等の祈祷、先祖水子供養にお参りされます。
「疝気(せんき)」とはスジの病で神経痛・リウマチ・足腰痛・脱腸等々身体に巡っている筋の
痛みの古い総称です。
(下図は右上に名鉄国府宮駅、印がせんき薬師、その左下が性海寺である。)



大塚山性海寺   Top
性海寺(しょうかいじ)は、愛知県稲沢市にある真言宗智山派の寺院。山号は大塚山。
本尊は善光寺式阿弥陀三尊像。
「歴史」
寺伝によれば、弘仁年間(810年〜924年)空海によって愛染明王を本尊として創建されたと伝えられ、
治承年間(1177年〜1181年)阿弥陀三尊像が安置されたという。
建久年間(1190年〜1199年)に長谷部源政が開基となり良敏が開山となって中興されたという。稲沢市
では、歴史公園として平成4年にオープンし、毎年6月1日頃から、『あじさい祭り』を開催している。
園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約80種1万株のあじさいがある。
「文化財」
重要文化財(国指定)
本堂 附:旧須弥壇擬宝珠4箇
慶安元年(1648年)の建立。入母屋造?葺き、方三間で、正面向拝の屋根は唐破風造とする。近世の建物
だが、内部の天井、須弥壇などには中世の部材が残されている。
須弥壇には弘安4年(1281年)の墨書がある。宝塔本堂内に安置する、円筒形の塔身に宝形屋根を架けた
形式の塔婆。本尊を安置する厨子として用いられており、高さ2.6メートルの小塔であるが、「建造物」
として重要文化財に指定されている。
須弥壇と同じく弘安4年(1281年)頃の建立と推定される。多宝塔 - 室町時代木製漆塗彩色金銅種子装
五輪塔 附:塔内納入品一括 高さ48.7センチメートルの五輪塔。色漆と顔料で五色に彩色し、その上に
金銅製の種子(梵字)を貼り付ける。解体修理に伴い、内部から能作生珠(のうさしょうしゅ)など
の納入品が発見され、納入文書の記載から塔は弘安8年(1283年)の作と判明した。 Top


国分寺跡(稲沢市)   Top
 尾張国分寺跡が国の指定史跡に
平成24年1月24日、市内矢合町にある尾張国分寺跡が国史跡に指定されました。国分寺跡の国指定は、
尾張国分寺跡が46番目の指定となり、愛知県内では、36ヶ所目の国史跡です。なお、国分寺跡は古代の国
ごとに置かれた官寺(国が建てた寺院)の遺跡で、愛知県では三河国分寺跡(豊川市)と尾張国分寺跡の
2ヶ所しかない貴重なものです。
 尾張国分寺跡
尾張国分寺跡は、奈良時代、聖武天皇が仏教によって国を守ろうと考え全国に置くことを命じた、古代の
重要な寺院の遺跡です。今から約1,300年前、日本は60余りの国(現在の県に相当)に分かれ、今の愛知県
西部には尾張国があり、都から派遣された国司によって政治が行われていました。
 741年(天平13年)に聖武天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺を建てることを命令し、尾張国では稲沢市
矢合町及び堀之内町に国分寺が建てられました。尾張国分寺は、884年(元慶8年)に焼失し、愛知郡の
願興寺に役割が移ったと伝えられています。
 尾張国分寺跡は、現在までに金堂跡、塔跡、講堂跡などが確認されており、東西約200m、南北約300m以上
の大寺院であったことがわかっています。   Top

下水道科学館愛知県下水道科学館wikipedia)   Top 「概要」 館内の展示 2000年(平成12年)に旧平和町の日光川上流浄化センターと平和処理場に隣接して開館した施設で、 愛知県が設置し、財団法人愛知水と緑の公社とアクティオ株式会社の共同体であるA&A下水道科学館に より管理されており、下水道のことを解り易く紹介するとともに、水環境についても体験しながら学ぶ ことが出来るようになっている。 また、館内に3,000冊以上の蔵書をもつ図書コーナーや水に関する3D映像を観ることが出来る 「水のシアター」があり、館外には遊具や芝生広場のほかにビオトープも設置されている。 イメージキャラクター「エッピー」は、微生物のエピスティリス(Epistylis)がモデルで、館内の 展示物の各所に付けられている。   Top
下水道科学館あいち


澤君遺愛碑(WEB解説) 稲沢市平和町大字須ヶ谷字郷(名鉄尾西線上丸渕駅下車25分) Top
<概要>
 古代以来,尾張西部を流れる日光川は氾濫(はんらん)を繰り返し,人々の生活を脅(おびや)かしてきた。
江戸時代中期以降の新田開発が行われる中で,清洲代官所の二代目代官として1785年(天明5)に就任した
澤園兵衛(さわそのべえ)は,新田開発のみならず,三宅川の支流須ヶ谷川を開削して,人々の生活を水害から
守り豊かにしたということで,特にその功績を賞されている。
稲沢市平和町須ヶ谷の神社の近くに遺愛の碑が,また稲沢市儀長町には園兵衛を祀(まつ)った澤園社がある。
<学習のポイント>
 江戸時代の農業の発達の中で,水害を防ぐという為政者としての基本的な姿勢を貫いた澤園兵衛の功績を学び
併せて隣町の愛西市にある町方新田などの地名でも分かるように,江戸時代中期の尾張地方でも土地開発や産業
の発展の重要性について学習することができる。  
<見学のポイント>
 遺愛碑(側面)には,澤園兵衛の功績が細やかに刻まれている。周辺の広大な濃尾平野の田畑状況を確認して
みるのもよいだろう。
<参考資料> 「平和町誌」
<問い合わせ先> 稲沢市教育委員会生涯学習課 0587-32-1111
澤園兵衛重格二百年祭(PDF)       Top


屯倉社(WEB)/〒490-1312 稲沢市平和町下三宅舟附670(勝幡駅から徒歩22分(1.8km)/名鉄津島線) Top
三宅地区の総氏神として厚い信仰を受けている。創建は不詳で、祭神は須佐之男命・牛頭天王。
江戸時代には「牛頭天王社」と称し、『尾張名所図会』にも描かれている。
それによると、「津島神社」が元々この地にあったことから、「津島神社」の「元宮」と呼ばれて
いたという。明治3年(1870)に、現在の社名に改称された。
ここでいう「屯倉」とは、ヤマト王権の時代に、朝廷の直轄地から収穫された米等を収めた蔵のことで、
転じて朝廷の直轄領を表わす様になり、大化の改新で廃止される。6世紀頃、この付近には屯倉があった
と言われ、現在も境内に残る巨石は、当時の遺構だとも考えられている。尚、「屯倉」は「三宅」とも
表すことから、地名の「三宅」はこの「屯倉」からきていると推察される。(WEB参照) Top


勝幡城(wikipedia)   Top
「概要」
稲沢市指定史跡。勝幡城があったのは現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内に跨る
「勝幡」で、中心地は現在の城之内付近と推定されている。二重の堀で囲まれた館城であり、三宅川が
外堀の役目をしていたと推定されている。規模・構造については『勝幡村古城絵図』には「本丸は東西
29間、南北43間、幅3間の方形土塁」、『尾陽雑記』には「東西48間、南北70間、大手口東西二重堀、
四方に惣堀有、惣構の外南北120間、東西114間」との記載がある。
清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の拠点であり、商業地・津島を支配下に置いた織田弾正忠家の経済力
を象徴するような平城となっている。公家の山科言継は、天文2年(1533年)に織田信秀によって招かれ
た際に勝幡城の規模と出来栄えに驚いたことを、自身の日記『言継卿記』に残している。
所在地は三宅川と日光川が合流する三角州地帯に位置するが、現在の日光川は江戸時代に萩原川が大規模
に掘削されて流路を変えたものであり、城郭の多くの部分は現在の日光川の流路に位置していたと考えら
れる。その後の周辺の開発もあり遺構等は残されておらず、所在地を示すものとしては城の中心地と思わ
れる付近に「勝幡城址」の石碑、勝幡城の南端と考えられる位置に「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の
石碑が置かれている(以前は「文化財史跡勝幡城址」の木碑も置かれていた)。また、勝幡城址の石碑
近くの日光川の嫁振橋の東側には「勝幡城復元図」が、名古屋鉄道勝幡駅前には推定復元模型が置かれて
いる。
「歴史」
勝幡城は永正年間ごろに織田信定(あるいはその父・良信)が、大中臣安長の屋敷跡に築城したとされる。
周辺の地域は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定あるい嫡子・
信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したと伝えられる。
信定の跡を継いだ信秀が今川氏豊から那古野城を攻め取ると、信秀は那古野城に移り、勝幡城には家臣の
武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。那古野城を奪った時期は天文元年(1532年)が通説となって
いたが、近年では天文7年(1538年)であったと考えられている。また、信秀の嫡子・信長の生誕地は
那古野城説が通説とされていたが、新たな説では信長生年の天文3年(1534年)時点では那古野城を奪って
いないため勝幡城説が妥当と考えられる(詳細は那古野城#歴史、織田信長#少年期を参照)。
弘治元年(1555年)に信長が主家の大和守家を滅ぼし、拠点を那古野城から清洲城へと移した。それに
伴って武藤掃部は尾張野府城へと転属されたため、勝幡城は次第に衰退してやがて廃城となった。
昭和54年(1979年)に排水工事中に大きな基石が発見され、出土箇所は勝幡城の古図面との照合により
櫓台に位置することが確認された。現在では基石は愛西市佐織支所に保管されている。  Top

勝幡城93knsh306 Top

勝幡城跡(Wikipedia)    Top  

勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)
に跨る勝幡にあった城。市指定史跡。「勝幡城址」と「織田弾正忠信定古城跡」の石碑と「文化財史跡勝幡城址」の
木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。
『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、この勝幡城で産まれたと記されている
(那古野城という説もある)。弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を
那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。
それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。
昭和54年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され愛西市佐織支所に保管されている。
織田信長(wikipedia参照)  Top


勝幡駅   Top
勝幡駅は、愛知県愛西市勝幡町にある、名鉄津島線の駅である。駅番号はTB05。全ての旅客列車が停車する。Top


稲沢市ホームページ 稲沢市観光協会


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