友歩会第44回ウオーキング:下見・例会(詳細版)(拡大版@)(拡大版A)
【史跡巡りシリーズ・西尾張編part10】14km

(平成25年(2013)6月1日(土)天気:曇り) (下見4.27歩数:34,111歩 例会6.1歩数:32,534歩、参加者42名)

コース:津島駅→雲居寺清正公社天王川公園宗玄坊廃寺跡鵜戸川赤蓮発祥地
 早尾東城跡常徳寺にて全員集合)→十二城跡六合庵跡釜地蔵寺勝幡城跡→勝幡駅>帰宅
 コースmap参照

津島市 津島市観光協会 津島商工会議所 愛西市 愛西市観光協会


名鉄津島駅np10004

受付np10007

雲居寺(解説参照)tuai028

雲居寺本堂tuai027

雲居寺五百羅漢np10013

雲居寺門前の五百羅漢の標柱np10007

旧上街道本町交差路標識np10016

旧上街道の様子np10017

清正公社(解説)029 (コースmap)参照

上河原地蔵堂031

天王川公園tuai013

藤まつり(2013.4.25〜5.6)(下見分)

藤まつり(藤棚の長さは275m、巾12〜30m)035

藤まつり(藤の棚面積は5,034u)037

藤12種114本(主にキュウシャクフジ、シロノダフジ、ムラサキカピタンフジ)040

藤まつり(期間中ライトアップ)042

6月の天王川公園np10021

天王川公園案内図np10023

青池np10025

青池の説明を聞くnp10026

海西公園np10027

海西公園建設の経緯を聞くnp10028

宗玄坊廃寺跡045 (コースmap)参照

鵜戸川の藤047

陽南寺(立田赤蓮発祥地)049  (コースmap)参照

史跡・増穿鵜戸川碑(碑文参照)np10034 (解説参照
鵜戸川の碑

蓮田を耕す人(愛西市)np10038

早尾東城跡(常徳寺駐車場内)053  (コースmap)参照

常徳寺(昼食会場)054  (コースmap)参照

海抜2mの標識(常徳寺前)057

常徳寺(昼食)np10046

常徳寺にて全員集合(大) np10049

早尾の渡し跡と高札場後058  (コースmap)参照

用水と排水060   Top
Top
早尾の渡しと高札場の解説

姥が森社061  (コースmap)参照

十二城跡063 (コースmap)参照
姥が森社の由来

六合庵跡065  (コースmap)参照

津田正生宅址067

六合庵の石仏068

釜地蔵寺072 (コースmap)

釜地蔵(解説)073

愛西市役所佐織庁舎075   Top

愛西佐織公民館で歴史展示資料を見学np10061

伊勢湾台風時の水位を示すnp10063

勝幡城の石とされる076

左:領内川、右:日光川078  (コースmap)

勝幡城址の標柱079

勝幡城跡の碑081  (コースmap)参照

勝幡城跡(整備中)082

勝幡神社086

勝幡神社で開催される「勝幡おこわまつり」087

おこわまつりに使われる石089

「勝幡おこわまつり」の解説tuaiw088

目比川決壊浸水位np10069(愛知県HP参照)

勝幡駅前の勝幡城模型np10070

勝幡駅(ゴール)003
クールダウンを行い解散。

勝幡駅前の信長出生の像(土田御前と織田信秀)002
1534.5.28信長、勝幡城に出生。 (コースmap) Top

常徳寺にて全員集合   Top
常徳寺にて昼食後、全員集合Top
『雲居寺』(うんごうじ)     (コースmap)     Top
この辺りは閑静な住宅街に囲まれており、雲居寺の通り沿いの山門を入ると玉砂利が敷かれた静かな境内となっています。
正面に新しい本堂があり、御本尊は薬師如来です。本堂左横に「五百羅漢堂」が、右横に市の保存樹のソテツがあります。
五百羅漢堂は、堂内一杯に色彩豊かな五百羅漢像が安置されており必見です。
五百羅漢は、明治時代に信者により寄進されたものです。羅漢というのは諸煩悩から開放され悟りを得た聖者のことです。
 雲居寺の創建は15世紀と伝えられています。織田信長に仕えた服部小平太の菩提寺でもありました。
服部小平太は織田信長の馬廻り役(親衛隊)の一人であり、永禄3年(1560年)、信長が今川義元を桶狭間に襲撃した時、
義元に一番槍を付けました。雲居寺は海東西新四国八十八ヶ所六十五番札所です。

雲居寺(HP) 龍宝山・雲居寺(HP)     Top


『清正公社』(せいしょうこうしゃ)(HP)    (コースmap)  Top
明治18年に加藤清正の徳を偲んで、清正の叔父の屋敷跡と伝えられる地に建てられました。上河原町には鬼祭が伝わって
おり、市の民俗文化財に指定されています。この祭りは清正(虎之助)の泥棒退治古事に由来します。
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加藤清正がまだ虎之助といっていた少年の頃、上河原の叔父の家にいたことがあった。ある夜、強盗が二、三人おし入り
叔父夫婦をしばって、金目のものを探していた。虎之助は鬼の面をかぶって、こっそりつづらの中に かくれていた。
盗族共は重いもは財宝が沢山入っているためだと考えて、かつぎ出して追分の松原で山分けしようとした。月光の下で
つづらのふたを開けたとたん「わっ」と叫んで飛出した鬼の姿に賊共はびっくり仰天あとをも見ずに逃げ去ったといわれ
る。このことによっておめでたいことがあるとその鬼の面をかぶって大江山酒天童子退治のまねをして祝う「鬼まつり」
をするようになった。この鬼面は明治20年2月21日名古屋の東本願寺別院に天皇がおいでになったときお目にかけたとい
われている。この清正公社には加藤清正がまつってある。(加藤清正公は福島正則公のいとこ。)  Top
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<備考>
 加藤清正(1562〜1611年)は幼名を虎之介といい、父を亡くし母と共に津島へ来ました。その後、清正は木下藤吉郎
(豊臣秀吉)の家来となり、賤ヶ岳七本槍で武名を上げ、天正16年(1588年)には肥後半国を与えられ熊本城主となり
ました。石田三成らと反目し、関ヶ原の合戦では東軍に属しました。関ヶ原の合戦後、肥後一国に加増され、熊本城を築
いて城下町を整備し、領内の治水や干拓事業にも尽力しました。清正死後の寛永9年(1632年)三男・忠広の時除封され、
加藤家は断絶しました。  Top


天王川公園(市HP)    Top
 木曽川の支流である佐屋川に合流する天王川は、江戸時代まで当時のまちの中央を流れていました。現在は市の西部に
丸池として残っています。古くは、水上の交通路として人々の生活に欠かせないものでした。今日では、その豊かな自然
を生かし、人々の暮らしにゆとりと潤いを与えてくれています。 特に、花と緑と水の公園・天王川公園を彩る四季の移り
変わりは美しく、四季折々の風景は、天王川八景として広く親しまれています。
春には公園を囲むようにして咲くソメイヨシノ、 藤棚の近くにはヤエザクラやウコンザクラ などが咲きます。その後、
尾張津島藤まつり が行われるゴールデンウィーク頃、藤へとバト ンタッチをします。初夏からは中之島の橋周辺には
スイレンが 咲き、白い可憐な花びらで訪れた人たちを楽しませてくれます。また、7月下旬には尾張津島天王祭の舞台と
してたくさんの人たちで にぎわいます。秋になると公園一帯は紅葉に包まれます。冬になって雪がふると、天王川公園は
いつも とはまた違った風景を見せてくれます。  Top


宗玄坊廃寺跡(Web説明板参照)   Top               (コースmap)

宮地町の唯真寺前の宗玄坊廃寺跡説明板には、「日本に仏教が伝えられ、天皇を始め中央の豪族が寺院の建立を行い、
7世紀頃には全国に建立された。扶桑略記によると、持統天皇7年(692)には、全国で545の寺が建てられたという。
宗玄坊もその中の1つでありましょう。この寺が廃寺になった理由はよく分かりません。昭和の終わり頃にこの辺りで
多数の瓦が見つかった。調査の結果、天平時代に建てられた寺院の屋根に使われた布目瓦の特徴をよく残していました。
宗玄坊は、伝承によればこの辺りに建てられていたようです。」(立田村教育委員会)  Top


筏川と鵜戸川(Wikipedia)   Top              (コースmap)
筏川)は、法河川延長は4.2キロメートル、流域面積34.4平方キロメートルで、かつては木曽川の派川のひとつ
あった。現在では愛知県愛西市に端を発する鵜戸川と弥富市で河道を接続している。
ただし、鵜戸川の水は佐屋川排水機場の直上に位置する立田輪中逆水止樋門でせき止められて、筏川とは分離されて
いる。鵜戸川の水は立田排水機場によって木曽川へ排出されており、非常時を除けば筏川に流れ込むことはない。
筏川)は、江戸時代には尾張藩による木曽檜の輸送路として使われていた。木曾谷から筏を組んで佐屋川や木曽川を
下ってきた檜は、この川を経由して名古屋に運ばれており、川の名前はこれに由来するという。

鵜戸川は、愛西市藤ケ瀬町付近から南に流下する普通河川だが、かつては立田輪中の排水路として使用されていた。
元は神明津輪中と立田輪中の間を流れていた間ノ川の東端付近から立田輪中(旧八開村)北部へ流れ込んでいた鵜殿川
という川であったとの説がある。
鵜戸川の延長を記念した増穿鵜戸川碑(新右エ門新田町郷前)輪中を南へ流下して、万治2年(1659年)頃までは佐屋川
に排水していたが、尾張藩が立田輪中の下流側を締切った際に立和村(旧立田村南部、現・愛西市)の船頭平などで木曽
川に打樋で排水するように改めた。しかし輪中の北部では湛水が酷く、明治初期には輪中内で住民の対立や打ち壊しも
あったという。これに対して愛知県は土木技師の黒川治愿らを派遣、黒川の尽力により、1879年(明治12年)に現在の
新右エ門新田町付近までだった鵜戸川を立石町付近まで開削・延長している。
明治改修によって打樋があった周辺が木曽川の新しい河道となったことで立田輪中では悪水の排出が困難となり、鵜戸
川を南に延長して鍋田川と接続するなどしたが問題は解消せず、1906年に新たな樋門(六門樋門)を設けて筏川と流路
を接続した。六門樋門の上流部には筏大橋逆水樋門が設けられるなど、周辺には10ヶ所あまりの樋門が築造されて用排
水の制御が行なわれた。また、この際に木曽川に杁樋を設けて鵜戸川への導水(佐屋川用水・藤ケ瀬支線)を行ってい
るが、昭和30年代に行なわれた耕地整理に伴い支線は廃止され、現在は特定の水源を持たない河川となっている。
こうしたこともあって、愛西市北部の農業排水を集める上流部では水質の悪化が進んでおり、ドブ川状態の場所も少な
くない。(筏川と鵜戸川(Wikipedia)参照)   Top


赤蓮発祥地(Web解説)   Top       (コースmap)

名古屋鉄道の津島線・尾西線の分岐駅である 津島駅から 西に約10km。
 木曽川の東岸から1km程のところに 真宗大谷派の寺・陽南寺がある。寺の門前に 立派な石碑と 市の教育委員会が
建てた説明板が建っている。 
旧・立田村(2005年に周辺町村と合併して安西市となった)は,木曽川・長良川の東岸に位置し,肥沃な湿田地帯と
いうことで,レンコンの特産地として知られる。
ハスの花は 一般に白またはピンクなので, 立田のハスは 赤色が濃いのが特徴らしい。
 立田にハスが持ち込まれたのは,下記の碑文にあるように江戸時代のことらしいが,最初は 花の観賞用として栽培
されていたものが,根茎(レンコン)が食用に適することがわかり,付近の農家に栽培が広がり 当地の特産品となった
と言われる。「赤蓮」は地下茎が深くて堀り上げ作業が大変なため,徐々に「うすあか」という品種に転換されてい
ったという。
立田地区のレンコンは 江戸時代から今日に至るまで栽培が続いていて「尾張蓮根」とか「津島蓮根」と呼ばれる。 
全国的に見ると レンコンの生産量は 茨城県土浦市が1位,次いで徳島県鳴門市,そして 第3位が安西市となってい
る。安西市では「赤蓮保存田」に“太白蓮”“西湖蓮”などの珍しいハスを含めて32品種も栽培しているとのこと
で,これ以外にも周辺には多数の蓮田があって,花の咲く6〜7月頃には,花を愛でる人たちで賑わうという。
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早尾西城跡(Web解説)   Top
早尾西城跡【愛知県愛西市早尾町舟原】・常徳寺【愛知県愛西市早尾町村北115】
【立地】平城
【歴史】時期、城主は不明である。場所は早尾東城跡から西へ進んだ集落が終わった辺りとされ、遺構は無い。
【所感】県道8号線、県道120号線が交差する新西馬信号交差点を西進し、早尾橋を渡って300m程進むと、
右手に早尾東城跡の常徳寺が在ります。更に西へ進み、右手の集落が終わる辺りが城跡とされます。
最西のお宅はかなり大きく、石積みによって少し高くなっており、ここを城跡と言っておかしくない立派なお宅
です。   Top
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早尾東城址(Web解説)   Top       (コースmap)

16世紀初期、津島の豪族大橋源三左衛門の築城とされる。1524年信長の祖父で勝幡城主織田信定に攻められ、和睦の後、
城を明け渡した。
1582年「本能寺の変」の後、織田信雄の臣橋本大膳の居城となったが、その後、矢合城へ移り、1592年城跡地に常徳寺
が創建された。 現在も常徳寺が建ち、遺構は無い。 (愛西市早尾町村北115)   Top

十二城跡(じゅうにじょう)(Web解説)   Top          (コースmap)
所在地:愛知県愛西市町方町新田字十二城237、唯称寺一帯 
唯称寺:町方町十二城237、電話0567−28−3747
形状:平城
現状・遺構等
【現状】 唯称寺 
【遺構等】 水堀、石碑
歴史等:十二城は、文治年間(1185〜90)に板垣兼信によって築かれたと云われているが、詳細につい
ては定かではない。十二城は、現在の唯称寺の境内一帯に築かれていたという。 
寺の山門の西側にある溜池は堀の名残だそうだ。また、山門南側は水田となっているが、ここも堀跡のような
地形になっている。 寺の南東側の入口には城址碑が立っている。 
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帝國博物学協会 尾張國 十二城 (Web解説)   Top
略  歴    鎌倉時代に、この辺りを治めていた板垣冠者兼信の居城であったと伝わる。
 吾妻鏡によると、板垣冠者兼信は、京都の荘園領主から年貢を横領されたと訴えられている。  
 現  況  城址には、石碑が建てられている。石碑の背後の民家や、唯称寺付近が高くなっており、逆に
唯称寺前面の田が深くなっている事から想像すると、 唯称寺付近が城址であり、前面の深田は水濠の跡と
思われる。    Top


六合庵跡(愛西市佐織民俗資料室)   Top        (コースmap)
■津田正生(つだまさなり)尾張の文人。  Top
江戸時代後期の地誌家
津田義宗・六合庵・六合亭とも称した。
安永5年(1776)根高の酒造家、豪農の家に生れ、通称「神助」といいました。
幼児より好学の念があつく、名古屋藩の恩田仲任や鈴木朖(あきら、1764〜1837)に学び、金に糸目を
つけず、和漢の書を求めて勉学に励みました。
地誌、随筆、戯作など多分野にわたる研究をして、多くの著作を残しました。
天保4年58歳にして槍ヶ岳の頂(いただき)に立ったそうです。ちなみに槍ヶ岳開山の播隆上人に遅れる
こと数年の踏破です。いったい何の目的で槍ヶ岳に上ったんでしょうか。
 彼の著書「尾張國地名考」12巻は刻苦20年心血を注いで著述しました。旧家を訪問し、多くの文献を読
み、地元の調査をしながら記述しました。
 今でも地名の由来を述べた書にはかならずといっていいほど引用されています。
研究のスタイルは机上の論を嫌い、フィールドワークに徹した人でした。
根高の津島街道沿いに六合庵を建て、旅人に湯茶をふるまうかたわら、人々の話を聞いたといいます。
各地を見分するときに羽織袴を着ていると村人が敬遠するので、知多漫才を学び、その装束は箱に入れて
下僕に持たせて、普段はボロをまとい、村に入ると装束を着て漫才を演じました。古老をつかまえては、
地理を研究したということです。
「尾張國地名考」を尾張の殿様に献上して、大変賞賛されたということです。
 嘉永五年(1852)77歳で没しました。                    (Top
 著書名
●尾張國地名考
村名の語源、由来などが解説されており、それに関連して寺社、旧家、名所、名産なども合わせて紹介さ
れています。
●尾張国神社考
神社の由来は権威を得るため結構捏造されることが多いので、実証的に解説してある。  
『塩尻』の著者として名高い天野信景(さだかげ、1661〜1733、津田正生の100年前の人)の説を再考し
たもので、原題は「尾張神名帳集説本之訂考」。
信景の業績を高く評価しながらも「初考の習ひ、疎漏過失(てもれあやまち)がなきにしもあらず」とし
て、その改訂を思い立ったという。   Top


釜地蔵寺(Web参照)      (コースmap)        Top

県指定文化財「鋳鉄(ちゅうてつ)地蔵菩薩立像」
 尾張六地蔵の第五番目の札所である釜地蔵寺に鎮座する鋳鉄地蔵。菩薩立像は、鉄釜の上に木蓋を置
きその上に立たれていることから俗に釜地蔵と称されている。
この釜地蔵について、むかし幼い子供が継子いじめにあい、地蔵さんが身代わりになったという話は
現在でも語り継がれており、ひろく知られている。    Top

勝幡城跡(Wikipedia)    Top        (コースmap)

勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町
六輪字城之内)に跨る勝幡にあった城。市指定史跡。「勝幡城址」と「織田弾正忠信定古城跡」の石碑
と「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。
『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、この勝幡城で産まれたと記
されている(那古野城という説もある)。弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲
城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。
それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。
昭和54年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され愛西市佐織支所に保管されている。
Top

勝幡城についてはこちらも参考にしてください。         (コースmap)
愛知県の水害HP


ホーム  (コースmap)参照  詳細版)(拡大版@)(拡大版A)  Top