第96回史跡巡りシリーズ・三重編Part4  
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(2023年6月3日(土)天気:晴れ) (29名参加)  今日の歩数:20,593歩

下見・2023年4月29日(土):9名参加。晴れ後曇り・歩数:30,745歩

コース:長島町
スタート−9:00・近鉄長島駅→豊受大神社→八剣神社→伊勢湾台風水位標識(長島北部小学校)→光耀山信行寺→
楠神社→輪中の郷→輪中ドーム→地蔵寺→船頭平閘門仁了寺→阿弥陀寺→源盛寺→近鉄長島駅(12Km)


『解説』集合写真コースマップ(PDF) 74回例会(長島町南部地域) 伊勢湾台風他の災害資料 ケレップ水制とは?
みんなの土木(ケレップ水制) 水制群とワンド地形(PDF) ケレップ水制(PDF) 



近鉄長島駅(H29(2017).10.31)74n003

コースリーダー、アンカー等紹介(2023.6.3)96n01

豊受大神社(左は現在の満潮水位)r54002

豊受大神社と伊勢湾台風(S34.9.26)水位(左上)r54006

豊受大神社の由緒r54004

間々八剱神社へ r54010

長島北部小学校の水位標識 r54016

光耀山信行寺へ r54018

日露戦没者記念碑と
日支・大東亜戦争祈念碑(楠神社) r54023

楠神社拝殿 2023.04.29(友歩会下見)
 r54026

楠神社宮司の歴史的な説明を受ける。09

祭りの鉦を叩く10

2023.6.3
楠神社宮司から戴く奉拝の証 96nhouhaikusunoki.jpg

楠神社の楠の大木 r54030 下は解説を読む 96n13.jpg

現存する最大の水屋と言われる。96n14

長島町輪中の郷へ034

輪中の郷の中庭を経て輪中ドームへ 037

カルチャービレッジ総合案内 040

輪中ドーム 041

木曽三川公園 カルチャービレッジ案内 042

船頭平閘門 河川公園案内図059

ヨハネス・デレーケ像049

木曽川文庫 057

シイの木の巨古木(河川公園) 051

船頭平閘門(木曽川方面)が開く(1)(6.3) 96n31

船頭平閘門が開く(2)(6.3) 96n32

船頭平閘門が開く(3) 96n33(6.3)

船頭平閘門が開く(4)・木曽川と水位が同じになる 96n34

明治の閘門ゲート96n37(6.3)

ガイドさんから明治の閘門ゲートの説明を受ける96n4037

3川分流当時の地形図96n44(6.3)

デレーケ像の前で全員集合96n045(6.3)

船頭平閘門をあとにする

長良川左岸のボート064

北条山仁了寺へ 070

仁了寺本堂に上がる96n49(6.3)

仁了寺の掛け軸96n51(6.3)

長良川左岸堤防に咲くストロベリー・キャンドル(4.29)071

阿弥陀寺の説明074

阿弥陀寺 075

長島六坊の源盛寺076

源盛寺本堂 077

源盛寺 078

八幡神社で解散式を行う96n56

JR関西線長島駅(無人)96n57

JR関西線長島駅の時刻表と運賃表(尾張一宮迄680円)085

全員集合(船頭平公園/デレーケ像の前) Top
友歩会96回例会三重編Part4見所説明2023.6.3

『解説』   コースマップ(PDF)    Top
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長島町(wikipedia)     Top
三重県の北勢地域、木曽三川河口部の濃尾平野の南西部にかつて存在していた町。2004年12月6日に桑名市・多度町と
合併し新しい桑名市となり廃止した。
三重県南部に北牟婁郡紀伊長島町(現:紀北町)が存在していたため、伊勢長島と称されることもある。
「自然」
木曽三川河口部に位置し、町全域が平坦低湿。かつては堤防に囲まれた複数の輪中によって構成されていた。
地名の長島は、7つの洲からなる「七島」、あるいは南北に長い土地であることから付けられたとされる。
明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴って、輪中を分けていた小河川の多くが廃川となるとともに一部の土地は
長良川の新河道となり、現在のような地形となった。1995年全国水の郷百選選定地。
「歴史」
寛元3年(1245年)、藤原道家がこの地に流された記録が残る。戦国時代には一向宗の東海地方の拠点となったが、
織田信長により滅ぼされた(長島一向一揆)。江戸時代には長島藩が、明治維新を迎えて一時期「長島県」が置かれ
たが、その後「安濃津県」を経て三重県となっている。1959年(昭和34年)には伊勢湾台風によって、町を囲む堤防
が15ヶ所で破堤。町域のほとんどが水没し380名余の犠牲者を出した。   Top


(長島一向一揆)(wikipedia) Top
■三重県長島町は、揖斐、長良、木曾の木曾三川に囲まれた輪中(わじゅう)。天井川から町を守るため、全長二十六キロ
メートルの堤防が築かれている。伊勢湾台風では、その堤防が十五カ所決壊し、人口八千七百八人中三百八十三人が死亡
した。 町誌によると、慶長元年(1596)から明治十年(1877)までの約二百七十年間に、洪水、高潮など五十回を越す水害
に見舞われている。だが、明治四十五年(1912)に完了した木曽三川改修後、堤防決壊はなかった。
防災意識が風化しつつあった矢先の伊勢湾台風であった。
ここは、長島一向一揆で名高い。真宗第三世覚如はここに願証寺を建て、第八世蓮如は第十三子連淳を寺主とした。
これ以来、願証寺は一向一揆の根拠地となる。 天正二年(1574)、信長は七万の大軍を率い、三度目の長島攻めを行った。
志摩の九鬼水軍を始め、楠・白子(しろこ)・津・知多の野間等の船を中心に城や砦の周りを取囲み、兵糧攻めをする。
三ヶ月の籠城戦の後、さしもの堅塁も九月二十九日、遂に落城した。この日、長島城は降伏を申し出て、信長これを許した。
生き残った者は、船に乗り城から退散しようとしたが、信長の鉄砲隊に岸から狙い撃ちされ、多くは川に落ち、大川は死者
の血で真っ赤に染まった。また、最後まで残っていた対岸の屋長島・中江城の者達は、城の周りに幾重にも柵を設けられ、
四方から火を放たれ、女子供も生きながら殺された。その死者二万。願証寺は、明治の河川改修により長良川左岸(中堤)
寄りの水中に沈んでいる。 Top


近鉄長島駅   Top
建設:1938年
近鉄長島駅は、三重県桑名市長島町西外面にある、近畿日本鉄道名古屋線の駅である。駅番号はE12。
 名古屋線では三重県最東端・最北端の駅で、東へ木曽川を越えると愛知県に入る。 Top
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長島城址(wikipedia)  Top
「概要」
長島城の起源は、寛元3年(1245年)、藤原道家が館を築いたことにさかのぼる。文明14年(1482年)、北勢四十八家
の一人、伊藤重晴によって城が再建された。元亀元年(1570年)、一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳の曽孫)に
よって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城
なった。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため
清洲城に移った。
江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で当地に封じられ、長島城を改修し藩庁として用いた。
元和7年(1621年)、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となった。
慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興された。
元禄15年(1702年)には、4代将軍家綱の生母の弟増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、
以後8代続き明治維新に至った。この間に城郭は順次拡大されたが、天守は上げられなかった。
明治5年(1872年)、廃藩置県と共に廃城となった。   Top
三重県紀北町の資料編から伊勢湾台風他の災害資料(pdf)参照(下記は抜粋です。) Top
第2 災害・災害危険箇所関係 
2−1 過去の主な災害
1 風水害
(1)昭和6年豪雨災害
昭和6年 10 月 12 日、大型の雨台風が紀伊半島を東北上し、463 ミリの雨を降らしました。
この雨により、銚子橋が流れ、左岸堤防 2 箇所・延 264mが根底から崩れて崩壊し、濁流が相賀地内に流入しました。
そのため、相賀一帯は泥沼と化し、相賀町で死者 24 名、家屋の全壊 18 戸、流出 57 戸、半壊 9 戸、床上浸水 512
戸の大災害となりました。
(2)昭和 28 年台風 13 号
昭和 28 年9月 25 日、台風 13 号は、潮ノ岬に上陸、その後熊野灘沿岸を北北東に進み、伊勢湾に抜けた。
最大瞬間風速は 33 メートルに達し、高波により古里、裏町地区の海岸堤防が決壊しました。
この台風による被害は、長島町・三野瀬村・赤羽村で死者3名、負傷者3名、家屋の全壊 76 戸、半壊 125 戸、床上
浸水 1,143 戸、床下浸水 726 戸、り災 2,173 世帯、8,869 人。相賀町・引本町・桂城村・船津村では家屋の全壊
流出 41 戸、半壊 682 戸、床上浸水 661 戸に及ぶ甚大な被害を受け
ました。これにより北牟婁郡全域に災害救助法が適用されました。
(3)昭和 34 年伊勢湾台風
昭和 34 年9月 26 日、台風 15 号は強大な勢力を保ちながら、和歌山県の白浜と潮ノ岬の中間に上陸し、ちょうど
満潮時期と重なり、高潮を引き起こしました。
本町では、海岸堤防が各所で決壊し、海岸地域を中心に壊滅的な被害をもたらしました。
この台風による被害は、長島町で死者2名、家屋の全壊 92 戸、半壊 157 戸、床上浸水 1,105 戸、床下浸水 1,409 
戸、り災 2,806 世帯、12,096 人。海山町では家屋の全壊流出 34 戸、半壊 87 戸、床上浸水 318 戸に及びました。
県内全域に災害救助法が適用されました。
(4)昭和 35 年集中豪雨
昭和 35 年 10 月7日、日本の南岸に停滞した前線は、温帯低気圧に発達して、1時間雨量 138.3ミリ、総雨量 600 
ミリを越える集中豪雨となり、銚子川の藤ノ木堤防が決壊しました。
この集中豪雨により、紀勢線の線路や相賀橋をはじめとする町内の道路、橋梁が流出しました。
集中豪雨の被害は相賀地区に集中し、海山町で死者 3 名、家屋の全壊 34 戸、流出 34 戸、半壊75 戸、床上浸水 
259 戸に及び海山町に災害救助法が適用されました。
(5)昭和 46 年三重県南部集中豪雨
昭和 46 年9月 10 日、低気圧の通過に伴い、激しい雨が降り続き、翌日までの雨量は、1,000 oを越える記録的な
豪雨となりました。
この豪雨により、紀伊長島町戸ノ須地内で高さ 60m、幅 50m、土量 16,400m3 に及ぶ山崩れが発生し、土石流は
国道 42 号を越え、片上池になだれ込んみました。このため、付近の民家が全壊し、死者1名、全壊4戸、床上浸水
 15 戸の被害となり、海山町では、家屋の全壊 1 戸、床上浸水7 戸、床下浸水 300 戸となりました。
(6)昭和 49 年七夕豪雨
昭和 49 年7月7日、九州南方を北上した台風8号は、本州南方に停滞していた梅雨前線を刺激し、大雨を降らせ
ました。
この豪雨により、志子川末端の県道志子橋仮橋右岸が決壊、さらに上流の町道六路瀬橋に流木がひっかかり、濁流を
せき止め護岸両岸が橋もろとも崩壊し、集落へ流れ込み床上1mにも達しました。被害は床上浸水 206 戸、床下
浸水 363 戸となり、紀伊長島町に災害救助法が適用されました。
また、海山町では、床上浸水 5 戸、床下浸水 77 戸となりました。
【資料編】
第2 災害・災害危険箇所関係
資2−2
(7)平成 16 年台風 21 号による豪雨災害
平成 16 年 9 月 29 日、台風 21 号の影響を受けた秋雨前線の活動が活発化し、三戸で時間雨量 150o、累積雨量
 1,180mm、中里で時間雨量 151 o、累積雨量 1,046mm の豪雨を記録。この豪雨により、紀伊長島町では、
十須光雲寺前の赤羽川の堤防が決壊し、農地に甚大な被害をもたらしました。また、下地、志子地区で赤羽川が越水
し集落へ流れ込み、床上1m 以上に達しました。
被害は、床上浸水 133 世帯、床下浸水 69 世帯となり、田畑の流出・冠水は約 43ha。海山町では、主に船津川の
越水及び堤防決壊等により、海山町の約半分もの世帯に被害が生じ、高いところで 2m 以上浸水しました。
これにより、死者 2 名、半壊 24 世帯、床上浸水 1,914 世帯、床下浸水 128 世帯と未曾有の大災害となり、紀伊
長島町、海山町等に災害救助法が適用されました。
令和4年度事業概要(国土交通省・中部地方整備局・木曽川下流河川事務所)木曽3川の概要(PDF) Top
善明寺 願證寺 (城下町長島の歴史:PDF) Top
Top n74mapzg

長島一向一揆と願証寺  Top 願証寺のある長島は、木曽三川が伊勢湾に流れ込むデルタ地帯にできた砂州の島で、伊勢に属してはいるものの 北勢・尾張海西郡・南濃域が一体化した「河内」と呼ばれる生活圏を形成していた。 また、伊勢湾が現代より内陸に広がっていた当時においては、伊勢桑名・尾張熱田間の海上交通を扼する要衝 でもあった。長島は本願寺一族寺院である願証寺の領域として、大名や領主の権力の及ばない事実上の治外法権 を有するに至り、織田信長に敗れた斎藤龍興がここに逃げ込むなど、信長にとっては敵方の巣窟となっていた。 元亀元年(1570年)8月、本願寺第11世顕如は圧迫を強める信長と敵対する意を表して、各地の門末に檄を飛ば し、それを受けて長島でも一向一揆勢が蜂起した。同年11月には、信長の弟信興が守る古木江城を攻め、信興を 討死させた。また、翌年5月に信長が長島に侵攻すると、激戦の末に氏家卜全や蜂須賀正元らを討死させるが、 長島側も願証寺庶子の顕栄らが戦死した。また、6月6日には、願証寺4世の証意(佐玄)が織田側により暗殺さ れ、証意嫡子の顕忍(佐尭)が11歳で5世の座を継承した。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 三重県桑名市長島町又木の願證寺境内にある長島一向一揆殉教之碑1975年(昭和50年)に一向一揆400年追悼 法要が、同寺で行われた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 天正元年(1573年)9月、信長が二度目の長島侵攻を行うと、北勢域を制圧されてしまうが、10月には退却する 織田軍を追撃して、林通政を討死させた。 しかし、天正2年(1574年)7月には信長の三度目の侵攻で長島本島に攻め込まれ、一揆勢は篠橋・大鳥居・ 屋長島・中江・長島の五城に籠城した。8月に入ると大鳥居が陥落し、篠橋の籠城者は長島城へ追い入れられた。 各城では餓死者が続出し、9月29日に、ついに長島城の籠城者は退去を始めるが、信長側の一斉射撃に合って 男女約1000人が殺害され、生存者は逆襲して信長側と死闘の末、北伊勢方面へ逃れた。 残る中江・屋長島は四方より火をかけられて、男女約2万人が焼き殺された。しかし、長島城の最後の戦闘では、 織田信広・秀成・信成・信次・信直・佐治信方など、多くの織田一門を討死させている。 一方、願証寺は長島城陥落の日に5世顕忍が討死し、2世実恵の妻が海に入水、3世証恵の弟証栄も死亡した他、 4世証意に嫁いでいた武田勝頼妹菊姫も同日に死亡したという伝承がある。 また、14歳だった顕忍は自刃して果てたとも伝わっている。しかし、顕忍の弟で2歳の顕恵は川から救出されて 生き延び、願証寺家臣の手によって大坂本願寺へ送り届けられ、本願寺により正統と認められた。 顕恵はのちに近江国日野に願證寺を興した。長島一向一揆の激しい戦いは、上宮寺絵伝や長島一向一揆殉教の碑 に偲ばれる。  Top
源盛寺(げんじょうじ) (平方(ひらかた)573) 岡本山と号す。長島一向一揆の際願證寺の配下で門徒衆の旗頭として働いた岡本庄助を開基とする。 長島落城後はしばらく身を隠していたがまもなく長島に戻り、現在の平方に寺基を定めた。 長島六坊の1つ。長島六坊として光栄寺の他に深行寺(じんぎょうじ)、善明寺(ぜんみょうじ)、源盛寺 (げんじょうじ)中島寺、安養寺がある。なお、六坊の公称は元禄3年(1690年)以後のことである。 Top
輪中の郷(桑名市長島町西川1093番地 TEL:0594-42-0001) Top
「輪中」をテーマに郷土の歴史・文化・産業を紹介する複合施設。平成5年の開設以来、心の豊かさを育む場として、
さらに地域産業の活性化を図る場として多くの人に活用されています。
歴史民俗資料館「アミュージアムエリア」と産業体験館「アクティブエリア」からなり、海苔すき体験や隣接する
農園で季節野菜の収穫を体験することもできます。

輪中の郷(wikipedia)
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輪中の郷(桑名市HP) Top
輪中の郷は、桑名市長島町にあります。長島は、木曽三川に囲まれた細長い島です。全域が海抜(かいばつ)
0メートル以下で、周りは堤防(ていぼう)に囲まれています。このため一度洪水が起きて堤防が切れると、
大きな災害になります。
また、切れた堤防が直るまで水が引かず、避難(ひなん)生活をしなくてはなりません。このため洪水から
自らの生命と財産を守るために、昔からいろいろな工夫をしてきました。
例えば、水防共同体と呼ばれる住民が協力して堤防を守る組織や、洪水時に非難するため大切な米や漬物
・みそをしまっておくため、高いところに水屋と呼ばれる建物をつくりました。
このようなところを輪中と言います。
そしてこの輪中の生活や工夫を展示しているのが輪中の郷です。
輪中の郷では長島一向一揆や伊勢湾台風などの長島の歴史を紹介するコーナーがあります。Top


「水屋」(木曽三川公園HP参照)
「水屋」は輪中地域特有の名称で、堤防によって防ぎきれない水害に備えてつくられた倉庫または避難施設、
と言い換えることができます。 洪水時の避難場所として、また米や日用必需品を蓄えておく倉庫として、
母屋とは別棟で石積みの高い土台の上に建設されています。 
「水屋」は輪中地域の特色ある建物であり、輪中景観を代表するものです。 Top


輪中ドーム国営木曽三川公園 カルチャービレッジ0594-41-1151)
広々とした園内で、芝生広場や大型遊具(海の遊具、龍の遊具)を始め、多目的運動場「輪中ドーム」等が
あります。楽しいピクニックや青空の下でのレクリエーションなど、1日中のんびり過ごしたい人には
ぴったりの公園です。ボールやバトミントンなど簡単なスポーツ用品も貸出を行っております。
「輪中ドーム」は屋根付きの多目的運動場で、天候を気にすることなくテニス、フットサル、運動会など
幅広い利用が可能です。(ドーム利用は有料) Top
ケレップ水制とは?(PDF参照)   Top
■ケレップ水制とは、粗朶と石で造られたオランダ式水制であり、明治改修(明治20年〜45年)において新たに
設けた低水路の固 定と流水の衝撃の緩和を目的に設置。 設置後100年以上経過する中、改修工事により数は少な
くなったものの、木曽川においては現在も61基現存しており、平成12年 には、土木学会選奨土木遺産※に指定。
2017/08/22
ケレップ水制とワンド再生事業 木曽川ワンドについて(朝日新聞2018年08月07日) 
ワンドの水理特性と河川環境(H11) 土木学会選奨土木遺産2000年ケレップ水制群
                     Top
船頭平閘門(せんどうひらこうもん)(wikipedia) Top
船頭平閘門は、愛知県愛西市立田町福原にある木曽川と長良川の間をつなぐ閘門である。
木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川は下流域で合流・分岐を繰り返して網目にように流れており、大雨のたびに洪水が
発生しては流れが変わるなど災害が絶えなかった。江戸時代に数度の治水工事が実施されるが抜本的な改善には至らず、
明治時代にはいると最新土木技術を用いた治水工事を求める声が強まる。
明治政府は1877年(明治10年)にお雇い外国人のヨハニス・デ・レーケを派遣して三川の完全分流を目指すことになる
が、これに伴って三川やその派川を通じて水路で繋がっていた地域間が河口地域まで迂回する必要が生じることとなり、
橋もほとんどなかったため物資輸送などの面で支障が出ることが予想された。そのため当初計画から閘門を設けること
が検討されていたものの場所は未定で、鰻江川や青鷺川との比較検討ののちに船頭平への設置が決定され、第2期工事中
の1899年(明治32年)に着工、第3期工事中の1902年(明治35年)に完成した。施工費用は13.6万円の予算であったが、
完成までに15.4万円に増大しており、増額の大部分は排水費用であった。
閘門の構造は門扉を支える閘頭部分が煉瓦造、舟の接触が考えられる箇所や門扉と接する部分に花崗岩を積んでいる。
閘室内は床は石張り、壁は木製の矢板打ちで上部は間知石積となっていた。閘門の全長は56.3メートル、閘室内は当時
の舟の大きさを考慮して長さ23.9メートル、幅5.6メートル。
木曽川と長良川の水位は通常木曽川側が高く年間平均水位差は35センチメートル、最大水位差は月平均で54センチメー
トル、最小水位差は8センチメートルであった。当初設計では木曽川側・長良川側ともに2対の閘門扉の予定であったが、
長良川側の水位が高くなる頻度は少ないと考えられ、この間は通閘停止しても影響が少ないとの判断から、完成時は
長良川側は1対のみであった。しかし実際に運用すると長良川側の水位が高くなる頻度が予想より多く、通閘に支障が
出ることから1909年(明治42年)に長良川側の扉も2対に増設された。
完成翌年1903年(明治36年)の利用は操作回数5833回・通航船舶27169艘・筏5569枚という実績を記録しているが、
1952年(昭和27年)を最後に筏の通航はなく、近年は年間600〜700隻の大部分をレジャーボートが占めている。
「改修と公園整備」
1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化・改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期
に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財に指定された。周辺一帯は1987年
(昭和62年)10月に開設された国営木曽三川公園中流部の一翼を担う船頭平河川公園として整備され、木曽三川の治水
工事に関する情報公開の拠点として木曽川文庫が設置された。公園内には、改修工事前の水門扉の展示や、明治の三川
分流工事に功績のあったヨハニス・デ・レーケ像がある。
「木曽川文庫」(きそがわぶんこ)
木曽川文庫は、船頭平閘門管理所の2階にある文庫である。木曽川治水百周年事業の一環として1987年(昭和62年)
10月8日に開設された。施設の床面積は約170m2で、書籍や資料を所蔵する書架コーナーのほか、閲覧コーナーや資料の
展示コーナーを備える。所蔵点数は約4,500点で、明治改修までの資料を中心としている。
国土交通省木曽川下流河川事務所(木曽川と長良川を結ぶ「船頭平閘門」HP参照) Top
(愛知県立田村船頭平)参照
仁了寺(三重県桑名市長島町下坂手25番地)/輪中の里/長島駅    Top

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マークは仁了寺の位置。ninryouji.jpg

仁了寺の梯(はしご)の記事(pdf)(2015.11.01)(新聞記事は拡大ページ参照)
文禄元(1592)年豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた時に、各地で軍船を建造したが、長島町下坂手でも大船を造り、
その時に使った梯子が下坂手の仁了寺に現存している、と「長禅寺 服部家の石碑」に書いてある。・・・Top


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