友歩会第44回ウオーキング:(詳細版)(拡大版@)(拡大版A)
 (平成25年(2013)6月1日(土)天気:曇り)

【地図にみる木曽川下流域の変化】平成25年度地図講座(2013.10.12開催)資料から引用
 講師:高橋幸仁氏(愛知教育大学・非)

※明治32年(1899)廃川となった佐屋川を中心にした木曽川下流域の変化を辿る地図講座による図表の追加です。

 図1は、立田輪中近辺の主な締め切り築堤個所図2は、津島付近における木曽川・長良川・佐屋川流域の変化
表1は、佐屋川廃川地に向けられた利用前の意識推移と年表図6は、佐屋川廃川地及び周辺地域(第1〜16地帯図)

です。特に図1、2、6は、佐屋川がまだ木曽川の枝流として流れていた頃(江戸時代)から土砂の堆積によって
洪水をおこすようになり、明治には廃川となった経緯が良く分かります。津島を流れて佐屋川に注いでいた天王川も
佐屋川が締め切られる事によって締め切られ、その一部が現在の天王川公園として残されている事が理解できます。
表1は、佐屋川廃川地に向けられた跡地の利用状況を年表にして纏めたものです。「立田村村史 通史」等の記事から
高橋講師が作成したものです。


津島周辺の城と武将平成21年と明治24年の津島市地形図の比較3河水利分流図津島市地図

図1・立田輪中近辺の主な締め切り築堤個所図2・津島付近における木曽川・長良川・佐屋川流域の変化
表1・佐屋川廃川地に向けられた利用前の意識推移と年表図6・佐屋川廃川地及び周辺地域(第1〜16地帯図)

リンク:佐屋川(wikipedia)天王川公園(wikipedia)津島の歴史(HP)佐屋街道(HP)

津島市 津島市観光協会 津島商工会議所 愛西市 愛西市観光協会 愛知県の水害HP

津島周辺の城と武将   Top
平成21年と明治24年の津島市地形図の比較   Top
3河水利分流図   Top
津島市地図     Top
図1・立田輪中近辺の主な締め切り築堤個所     Top
図2・津島付近における木曽川・長良川・佐屋川流域の変化
表1・佐屋川廃川地に向けられた利用前の意識推移と年表
図6・佐屋川廃川地及び周辺地域(第1〜16地帯図)


天王川公園(市HP)    Top
 木曽川の支流である佐屋川に合流する天王川は、江戸時代まで当時のまちの中央を流れていました。現在は市の西部に
丸池として残っています。古くは、水上の交通路として人々の生活に欠かせないものでした。今日では、その豊かな自然
を生かし、人々の暮らしにゆとりと潤いを与えてくれています。 特に、花と緑と水の公園・天王川公園を彩る四季の移り
変わりは美しく、四季折々の風景は、天王川八景として広く親しまれています。
春には公園を囲むようにして咲くソメイヨシノ、 藤棚の近くにはヤエザクラやウコンザクラ などが咲きます。その後、
尾張津島藤まつり が行われるゴールデンウィーク頃、藤へとバト ンタッチをします。初夏からは中之島の橋周辺には
スイレンが 咲き、白い可憐な花びらで訪れた人たちを楽しませてくれます。また、7月下旬には尾張津島天王祭の舞台と
してたくさんの人たちで にぎわいます。秋になると公園一帯は紅葉に包まれます。冬になって雪がふると、天王川公園は
いつも とはまた違った風景を見せてくれます。  Top




筏川と鵜戸川(Wikipedia)   Top              (コースmap)
筏川)は、法河川延長は4.2キロメートル、流域面積34.4平方キロメートルで、かつては木曽川の派川のひとつ
あった。現在では愛知県愛西市に端を発する鵜戸川と弥富市で河道を接続している。
ただし、鵜戸川の水は佐屋川排水機場の直上に位置する立田輪中逆水止樋門でせき止められて、筏川とは分離されて
いる。鵜戸川の水は立田排水機場によって木曽川へ排出されており、非常時を除けば筏川に流れ込むことはない。
筏川)は、江戸時代には尾張藩による木曽檜の輸送路として使われていた。木曾谷から筏を組んで佐屋川や木曽川を
下ってきた檜は、この川を経由して名古屋に運ばれており、川の名前はこれに由来するという。
鵜戸川は、愛西市藤ケ瀬町付近から南に流下する普通河川だが、かつては立田輪中の排水路として使用されていた。
元は神明津輪中と立田輪中の間を流れていた間ノ川の東端付近から立田輪中(旧八開村)北部へ流れ込んでいた鵜殿川
という川であったとの説がある。
明治改修によって打樋があった周辺が木曽川の新しい河道となったことで立田輪中では悪水の排出が困難となり、鵜戸
川を南に延長して鍋田川と接続するなどしたが問題は解消せず、1906年に新たな樋門(六門樋門)を設けて筏川と流路
を接続した。六門樋門の上流部には筏大橋逆水樋門が設けられるなど、周辺には10ヶ所あまりの樋門が築造されて用排
水の制御が行なわれた。また、この際に木曽川に杁樋を設けて鵜戸川への導水(佐屋川用水・藤ケ瀬支線)を行ってい
るが、昭和30年代に行なわれた耕地整理に伴い支線は廃止され、現在は特定の水源を持たない河川となっている。
こうしたこともあって、愛西市北部の農業排水を集める上流部では水質の悪化が進んでおり、ドブ川状態の場所も少な
くない。(筏川と鵜戸川(Wikipedia)参照)   Top

赤蓮発祥地(Web解説)   Top       (コースmap)

名古屋鉄道の津島線・尾西線の分岐駅である 津島駅から 西に約10km。
 木曽川の東岸から1km程のところに 真宗大谷派の寺・陽南寺がある。寺の門前に 立派な石碑と 市の教育委員会が
建てた説明板が建っている。 
旧・立田村(2005年に周辺町村と合併して安西市となった)は,木曽川・長良川の東岸に位置し,肥沃な湿田地帯と
いうことで,レンコンの特産地として知られる。
ハスの花は 一般に白またはピンクなので, 立田のハスは 赤色が濃いのが特徴らしい。
 立田にハスが持ち込まれたのは,下記の碑文にあるように江戸時代のことらしいが,最初は 花の観賞用として栽培
されていたものが,根茎(レンコン)が食用に適することがわかり,付近の農家に栽培が広がり 当地の特産品となった
と言われる。「赤蓮」は地下茎が深くて堀り上げ作業が大変なため,徐々に「うすあか」という品種に転換されてい
ったという。
立田地区のレンコンは 江戸時代から今日に至るまで栽培が続いていて「尾張蓮根」とか「津島蓮根」と呼ばれる。 
全国的に見ると レンコンの生産量は 茨城県土浦市が1位,次いで徳島県鳴門市,そして 第3位が安西市となってい
る。安西市では「赤蓮保存田」に“太白蓮”“西湖蓮”などの珍しいハスを含めて32品種も栽培しているとのこと
で,これ以外にも周辺には多数の蓮田があって,花の咲く6〜7月頃には,花を愛でる人たちで賑わうという。
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早尾西城跡(Web解説)   Top
早尾西城跡【愛知県愛西市早尾町舟原】・常徳寺【愛知県愛西市早尾町村北115】
【立地】平城
【歴史】時期、城主は不明である。場所は早尾東城跡から西へ進んだ集落が終わった辺りとされ、遺構は無い。
【所感】県道8号線、県道120号線が交差する新西馬信号交差点を西進し、早尾橋を渡って300m程進むと、
右手に早尾東城跡の常徳寺が在ります。更に西へ進み、右手の集落が終わる辺りが城跡とされます。
最西のお宅はかなり大きく、石積みによって少し高くなっており、ここを城跡と言っておかしくない立派なお宅
です。   Top
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早尾東城址(Web解説)   Top       (コースmap)

16世紀初期、津島の豪族大橋源三左衛門の築城とされる。1524年信長の祖父で勝幡城主織田信定に攻められ、和睦の後、
城を明け渡した。
1582年「本能寺の変」の後、織田信雄の臣橋本大膳の居城となったが、その後、矢合城へ移り、1592年城跡地に常徳寺
が創建された。 現在も常徳寺が建ち、遺構は無い。 (愛西市早尾町村北115)   Top

十二城跡(じゅうにじょう)(Web解説)   Top          (コースmap)
所在地:愛知県愛西市町方町新田字十二城237、唯称寺一帯 
唯称寺:町方町十二城237、電話0567−28−3747
形状:平城
現状・遺構等
【現状】 唯称寺 
【遺構等】 水堀、石碑
歴史等:十二城は、文治年間(1185〜90)に板垣兼信によって築かれたと云われているが、詳細につい
ては定かではない。十二城は、現在の唯称寺の境内一帯に築かれていたという。 
寺の山門の西側にある溜池は堀の名残だそうだ。また、山門南側は水田となっているが、ここも堀跡のような
地形になっている。 寺の南東側の入口には城址碑が立っている。 
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帝國博物学協会 尾張國 十二城 (Web解説)   Top
略  歴    鎌倉時代に、この辺りを治めていた板垣冠者兼信の居城であったと伝わる。
 吾妻鏡によると、板垣冠者兼信は、京都の荘園領主から年貢を横領されたと訴えられている。  
 現  況  城址には、石碑が建てられている。石碑の背後の民家や、唯称寺付近が高くなっており、逆に
唯称寺前面の田が深くなっている事から想像すると、 唯称寺付近が城址であり、前面の深田は水濠の跡と
思われる。    Top


六合庵跡(愛西市佐織民俗資料室)   Top        (コースmap)
■津田正生(つだまさなり)尾張の文人。  Top
江戸時代後期の地誌家
津田義宗・六合庵・六合亭とも称した。
安永5年(1776)根高の酒造家、豪農の家に生れ、通称「神助」といいました。
幼児より好学の念があつく、名古屋藩の恩田仲任や鈴木朖(あきら、1764〜1837)に学び、金に糸目を
つけず、和漢の書を求めて勉学に励みました。
地誌、随筆、戯作など多分野にわたる研究をして、多くの著作を残しました。
天保4年58歳にして槍ヶ岳の頂(いただき)に立ったそうです。ちなみに槍ヶ岳開山の播隆上人に遅れる
こと数年の踏破です。いったい何の目的で槍ヶ岳に上ったんでしょうか。
 彼の著書「尾張國地名考」12巻は刻苦20年心血を注いで著述しました。旧家を訪問し、多くの文献を読
み、地元の調査をしながら記述しました。
 今でも地名の由来を述べた書にはかならずといっていいほど引用されています。
研究のスタイルは机上の論を嫌い、フィールドワークに徹した人でした。
根高の津島街道沿いに六合庵を建て、旅人に湯茶をふるまうかたわら、人々の話を聞いたといいます。
各地を見分するときに羽織袴を着ていると村人が敬遠するので、知多漫才を学び、その装束は箱に入れて
下僕に持たせて、普段はボロをまとい、村に入ると装束を着て漫才を演じました。古老をつかまえては、
地理を研究したということです。
「尾張國地名考」を尾張の殿様に献上して、大変賞賛されたということです。
 嘉永五年(1852)77歳で没しました。                    (Top
 著書名
●尾張國地名考
村名の語源、由来などが解説されており、それに関連して寺社、旧家、名所、名産なども合わせて紹介さ
れています。
●尾張国神社考
神社の由来は権威を得るため結構捏造されることが多いので、実証的に解説してある。  
『塩尻』の著者として名高い天野信景(さだかげ、1661〜1733、津田正生の100年前の人)の説を再考し
たもので、原題は「尾張神名帳集説本之訂考」。
信景の業績を高く評価しながらも「初考の習ひ、疎漏過失(てもれあやまち)がなきにしもあらず」とし
て、その改訂を思い立ったという。   Top


釜地蔵寺(Web参照)      (コースmap)        Top

県指定文化財「鋳鉄(ちゅうてつ)地蔵菩薩立像」
 尾張六地蔵の第五番目の札所である釜地蔵寺に鎮座する鋳鉄地蔵。菩薩立像は、鉄釜の上に木蓋を置
きその上に立たれていることから俗に釜地蔵と称されている。
この釜地蔵について、むかし幼い子供が継子いじめにあい、地蔵さんが身代わりになったという話は
現在でも語り継がれており、ひろく知られている。    Top

勝幡城跡(Wikipedia)    Top        (コースmap)

勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町
六輪字城之内)に跨る勝幡にあった城。市指定史跡。「勝幡城址」と「織田弾正忠信定古城跡」の石碑
と「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。
『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・織田信長は、この勝幡城で産まれたと記
されている(那古野城という説もある)。弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲
城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。
それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。
昭和54年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され愛西市佐織支所に保管されている。
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勝幡城についてはこちらも参考にしてください。         (コースmap)
愛知県の水害HP


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