友歩会第49回ウオーキング:下見・例会 (詳細拡大解説
【史跡巡りシリーズ・西尾張編part11】13km 

(平成26年4月5日(土)天気:晴れ) (下見2/22 歩数:30,910歩 参加者9名) (例会4/5 歩数:30,485歩、参加者37名)

コース:津島駅(wp)→十王堂→六地蔵天王川公園佐屋街道址碑佐屋代官所跡水鶏塚善定坊全員集合)→
 星大明神→→市江車車田址青樹英二記念碑親水公園日置神社日比野駅(wp)>津島駅>帰宅

 コースmap参照 稚児門解説 天王川公園案内図 加藤 高明内閣総理大臣の碑 青樹英二記念碑日置神社
きこくの生け垣(カラタチ)愛西市指定文化財(懸仏・管粥・日置八幡宮木造獅子頭)鏡池山瑞泉寺(HP)
佐屋宿解説図明治24年地形図

津島市 津島市観光協会 津島商工会議所 愛西市 愛西市観光協会
西尾張編part10はこちらです。  

稚児門解説(np4510w)
天王川公園案内図       Top

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加藤 高明内閣総理大臣の碑   コースmap参照      Top

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きこくの生け垣(カラタチ)     Top
青樹英二翁記念碑     コースmap参照       Top
日置八幡社の由緒        Top
愛西市指定文化財(懸仏・管粥・日置八幡宮木造獅子頭)    Top

善定坊にて全員集合   Top

昼食後、全員集合Top

十王堂・六地蔵(HP)    (コースmap参照)  Top
江戸期、津島村の東西南北には十王堂が建てられていました。今市場、橋詰、下構、北口にありました。
今市場の十王堂のみが現存しています。北口の十王像は大龍寺、橋詰の十王像は西方寺に保存されています。
 下構のは二ヶ所に分散しています。この今市場のものは十王像のなかで、端正な顔をしています。
「十王像」
十王とは、死者の生前の罪を審判する、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王
・五道王という十人の王をいい、人間は、初7日から順次裁きを受け、地獄や天国(浄土)に送られると信じられて
きました。ただ、すべての人間がすべての裁きを受けるわけではなく、普通は、5人めの閻魔王が35日めに最終審判
(引導)します。このため、閻魔王が一番知られています。  Top

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六地蔵   Top
「お釈迦さまが入滅した後、すべての生命は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、という六つの世界を輪廻している、
そして、それぞれの世界を守る6人の地蔵菩薩が救ってくれる」という仏教の教えから、地蔵菩薩の像を6体並べて
祀った六地蔵が各地にあります。やがて、六地蔵は道祖神信仰と結びつき、墓地や町外れ・辻は、他界との境と考えら
れるようになり、町の境などに町の守護神として祀られました。舟戸町にある瑞泉寺横の六地蔵が有名です。(Top
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<備考:加藤清正>
 加藤清正(1562〜1611年)は幼名を虎之介といい、父を亡くし母と共に津島へ来ました。その後、清正は木下藤吉郎
(豊臣秀吉)の家来となり、賤ヶ岳七本槍で武名を上げ、天正16年(1588年)には肥後半国を与えられ熊本城主となり
ました。石田三成らと反目し、関ヶ原の合戦では東軍に属しました。関ヶ原の合戦後、肥後一国に加増され、熊本城を築
いて城下町を整備し、領内の治水や干拓事業にも尽力しました。清正死後の寛永9年(1632年)三男・忠広の時除封され、
加藤家は断絶しました。(加藤清正公は福島正則公のいとこ。)  Top

鏡池山 瑞泉寺【ずいせんじ】の由来 (Web解説HP 瑞泉寺はかつては津島神社代々神主邸内にありました。この屋敷は中世城郭形式の構造で、屋敷地の周辺を外堀で囲み、 邸内には内堀や池を構えていたのです。 寺は敷地内南方の池のほとりに建てられ、その池は鏡のような きれいな水面 を持つことから、山号を「鏡池山」としたのでしょう。寺の創建年代は、良王様逝去二年後の1494年、神社境内の御前 大明神が創建された時。または御子良新様が神主になられた時(年代不詳)。この二案が浮かびますが、何れにしても 1500年前後と考えられます。 神主邸から瑞泉寺が舟戸町に移動した年代は、良新様が神主になられ、一代でその職 を氷室氏に譲られた直後と思われます。当寺には六基の法筐印塔があり、一基が良王君の塔と伝えられています。 六基の内、一基は良王君、今一基が良新様、他の四基は御家族と考えられています。  現在の御本尊様は、1751年春に大橋武左衛門の寄進によるもので、京都の仏師駒井柳朝師作です。 「瑞泉寺由来」np45w15


天王川公園(市HP)    Top
 木曽川の支流である佐屋川に合流する天王川は、江戸時代まで当時のまちの中央を流れていました。現在は市の西部に
丸池として残っています。古くは、水上の交通路として人々の生活に欠かせないものでした。今日では、その豊かな自然
を生かし、人々の暮らしにゆとりと潤いを与えてくれています。 特に、花と緑と水の公園・天王川公園を彩る四季の移り
変わりは美しく、四季折々の風景は、天王川八景として広く親しまれています。
春には公園を囲むようにして咲くソメイヨシノ、 藤棚の近くにはヤエザクラやウコンザクラ などが咲きます。その後、
尾張津島藤まつり が行われるゴールデンウィーク頃、藤へとバト ンタッチをします。初夏からは中之島の橋周辺には
スイレンが 咲き、白い可憐な花びらで訪れた人たちを楽しませてくれます。また、7月下旬には尾張津島天王祭の舞台と
してたくさんの人たちで にぎわいます。秋になると公園一帯は紅葉に包まれます。冬になって雪がふると、天王川公園は
いつも とはまた違った風景を見せてくれます。  Top

濃尾大地震記念碑に関する論文(名古屋大学・PDF)


佐屋街道(wikipedia参照)   Top               (コースmap参照) (グーグルマップ

佐屋街道は、江戸時代に東海道の七里の渡しの迂回路として開設・利用された脇往還で、東海道宮宿と桑名宿とを
結んでいた。佐屋路(さやじ)とも呼ばれる。
「概要」
東海道の宮宿と桑名宿との間は七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が
出ても安全とは言えない場合もあった。船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の
渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されたのが、この佐屋街道である。
宮宿から佐屋宿まで陸路で六里を行き、佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。
宿場は東海道のものに比べれば小規模であり、渡し場のあった佐屋以外は本陣も一軒ずつしかなかった。
「歴史」
佐屋街道は1634年(寛永11年)、徳川家光の上洛に伴って開かれたものであるが、大坂夏の陣へ向かう徳川家康が
佐屋を通ったとの記録もあり、それ以前から既に道としては存在していたと言われる。
開設された当初は万場、佐屋の2宿であったが、1636年(嘉永13年)に岩塚宿が、1647年(正保4年)に神守宿が
設けられた。1666年(寛文6年)には東海道の脇往還として幕府に公認されている。明治期に入ると明治天皇の往来
にも繰り返し使用された。しかし、幕末から明治にかけての交通量の増大に応えられなくなったほか、佐屋湊の設け
られていた佐屋川(現在は廃川)の土砂の堆積により川船の往来が難しくなったことから、1872年(明治5年)
1月8日の太政官布告により新たに前ヶ須(弥富市)を通る新東海道が定められ、佐屋街道はその歴史を終えた。Top

加藤 高明(Wikipedia)   Top (かとう たかあき、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。 外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。
佐屋代官所跡   Top
佐屋は大坂夏の陣の際に徳川家康がここから船を出して大坂へ向かった吉祥の地として、尾張藩祖の徳川義直は
東海道佐屋宿、佐屋湊、佐屋御殿を設け、佐屋の地は全国に知られるところとなり後に奉行所、代官所が置かれた。
●現状(2006年10月) 
愛西市佐屋町の地区コミュニティセンターのすぐ南にある「佐屋」交差点の角に佐屋代官所址の碑がある。すぐそば
には、大正13年に内閣総理大臣に就任した加藤高明内閣総理大臣の碑と、東海道佐屋宿にあった生け垣がある。
Top


水鶏塚     Top
水鶏塚由来記
 元禄7年5月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。
そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くいな)が鳴いた。
 翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集まり千載 不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が
水鶏鳴と 人の云へばや 佐屋泊 はせをである。 翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、
 翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。享保20年5月12日のこと。


善定坊・星大明神(HP)   Top              (コースmap参照)
この道には「法明観世音菩薩」「紫金山 法光寺」「六角堂のお地蔵さん(正式な名称は不明)」が有り、
一旦458号線と合流しますが、すぐ左斜めへ入ると「歴明寺」「市江山 善定坊」(ぜんじょうぼう)が有り
その先で、国道155号線に遮られますので、右折して「西保」の交差点から県道458号へ戻り、佐屋方面に進むと
「眼の守護神 星大明神」が見えて来ました。(Web参照)
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「参考」尾張 西保城(Nishiho castle)   Top
西保城跡【愛知県愛西市西保町北川原】
  善定坊【愛知県愛西市西保町北川原9】

 【立地】平城
 【歴史】戦国時代末期、織田氏が築いた城で、信長の弟信包の居城とされる。
信包の弟信与の居城小木江城の東方1200m程に位置する。現在は住宅となり、遺構は無い。
【所感】県道458号線と国道155号線が交差する西保信号交差点の西方300mに在る
善定坊の前辺りが城跡とされますが、具体的な位置は分かりません。
(明治天皇佐屋行在所の門【市指定文化財】・善定坊)   Top


市江車車田址  Top 津島天王祭 市江車車田址(つしまてんのうまつり いちえくるまくるまでんあと) 江戸時代、津島天王を篤く信仰していた尾張藩主は、朝祭りの中心となる「市江車」に53石余の 土地を与え、この田地からの年貢収入を市江車の一切の費用にあてることができるよう保護した。 この土地は「車田」と呼ばれ、現在は市江車車田址が建てられています。  Top
青樹英二記念碑  Top <業績>  1843年(天保4)美濃国安八郡四郷村(今の岐阜県安八郡輪之内町)の庄屋,片野万右衛門 (まんえもん)の次男として生まれた。英二が28歳のとき,海西郡東条村(今の愛西市東条町)の 大農家青樹家に婿養子(むこようし)として入った。村民のためを思い,米の生産を高めるために 海を埋め立てることに目を付け,干拓事業に尽力した。多額の私財を使って4年がかりで成功さ せた。その後,この地方を代表して県議会に議員として出ている英二は,水害の調査をし, 熱心に県へ働き掛けた。1905年(明治38)孫宝排水機場が完成した。  また,同時に交通不便なこの地方の発展のため,尾西鉄道(現在の名鉄尾西線)を設立した。 Top
愛西市親水公園   Top 愛西市親水公園とは、愛知県愛西市にある総合運動施設。総合体育館と総合運動場からなる。 「概要」 2003年2月、「佐屋町親水公園」として完成。2005年4月1日、市町村合併により「愛西市親水公園」 へと改称。体育館の外観は水辺に舞い降りた白鷺をイメージしている。  Top
日置神社(日置八幡宮)  Top 愛西市日置町本郷に所在する日置八幡宮は、源頼朝が勧請したと伝えられる。光明院の由緒に 「当社は養和元年(1181)源頼朝公大檀主として海部郡日置荘の本所なる日置村に八幡宮を鎮座する。 同社の別当光明院を創建する」とある。社宝には明応2年(1493)銘懸仏と享徳3年(1454)銘獅子頭 などがある。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫である。  Top
愛知県の水害HP      Top

佐屋宿解説図  Top
明治24年地形図   Top

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