主な見所の説明(★友歩会参照) (Top)
★禅源寺 Top
〒487-0024 愛知県春日井市大留町810
春日井市大留町810
臨済宗 妙心寺派 禅源寺 Top
★大留荒子古墳(Web参照)(★拡大解説) (Top)
(Wikipedia)
「概要」
墳径約10メートルの円墳で、区画整理事業に伴い1988年(昭和63年)に発掘調査されたのち、翌1989年(平成元年)に
内津川沿いにある荒子公園に移設された。移設に際しては石室の開口部を約20度南側に移してあるほか、天井石や葺石
など不足の石材を別途用意して「築造当時の状態に近づけた」とする形で復元された。
出土した金環(耳環)の数から被葬者が複数であった可能性もあり、この地域の有力者の家族墓が想定されている。
また、その他の出土品から7世紀前半の築造と考えられている。周辺には、親王塚古墳や天王山古墳など複数の古墳が残
されており、同じ集団による古墳群の可能性も指摘されている。
「規模と構造」
北側から見た墳丘
墳径約10メートル、墳高約2.5メートル。庄内川の河岸段丘(標高約28メートル)に位置し、1988年の2度の発掘調査で
須恵器や直刀などが出土した。主体部は全長約6メートルの両袖型横穴式石室で、玄室長が約3メートル、羨道が約
2.4メートル、奥壁幅は約1.5メートルあり、庄内川の河原石(長径40センチメートル前後)を使用した乱石積みで、
持ち送り積みによって上部を狭める形を取っていたが、発掘時にはすでに天井石が石室内に落下していた。
「出土品」
須恵器 提瓶 - 1、横瓮形長頸瓶 - 1
高坏 - 2、金環 - 4、直刀 -1、鉄鏃 - 若干
★春日井市西部の古代史参照 (Top)
★高御堂古墳(★発掘調査Web参照) (Top)
高御堂古墳
古墳は、昭和26年という早い時期に市指定文化財(史跡)に指定されていて、当時は5世紀中頃の前方後円墳とし
て記録されていましたが、近年になり、前方後方墳と確認され、市内では唯一一つしかなく注目されるようになりま
した。現在も一部削られている外は保存状態は良好で、ほぼ昔のままと思われ、全長は約64m、高さは5m、前方
部は後方部より2.5m高くなっています。平成2年の調査で、古墳は濠で囲まれていたことが分かり、その濠の巾
は6m前後、深さは0.5mほどで、後方部に向かい濠巾が広くなっていました。調査の時、残念ながら出土物が
なかったので、築造時期が定かではありませんでしたが、他地方の類似のものと比べて、大体5世紀の初め頃であろ
うと考えられるようになりました。
したがって、国指定の二子山古墳より、約100年も古いことになります。
ふつうは、鍵穴の形をした前方後円墳なのですが、この古墳は、前後ともに方形の組み合わせをしている珍しい古
墳です。
この高御堂古墳の周りは、13年度に、道路建設のために緊急発掘が行われましたが、地層の断面の様子から見る
と、周囲の堀は、かなり昔から水田に利用されていたものと考えられます。残念ながら、この古墳自体は未発掘の
ため、はっきりとした築造時期は分かりませんが、4世紀後半ではないかと考えられています。
庄内川の向こうの名古屋市守山区の丘陵地帯は尾張氏ゆかりの数々の古墳群がありますが、それと対峙するかのよう
に築造されています。近くの神領町には有名な神領銅鐸出土地があり、付近の道路工事の際には、深さ2メートル程
のところから、弥生式土器が採取されていて、弥生後期には集落が存在したことが考えられます。
それ以後も、大きな古墳を作るだけの勢力が、この地にあったのでしょう。
堀ノ内町字表91 Top
★密蔵院(Wikipedia) Top
密蔵院(みつぞういん)は、愛知県春日井市熊野町にある天台宗の寺院。
山号は醫王山。本尊は薬師如来。中部四十九薬師霊場第30番札所。
「歴史」
1328年(嘉暦3年)、美濃御嵩より訪れた慈妙により開創された。尾張の天台仏教の中心地として栄えた小牧市の
正福寺の衰退を受け、以降尾張地方に於ける天台宗の中心地(中本寺格)となる。
永享末年(1441年)前後に最盛期を迎え、末寺は尾張・美濃を中心に11カ国・700ヶ所、塔頭は36坊にものぼり、
七堂伽藍も備わって葉上流の伝法灌頂の道場として重きをなした。当時の学徒は3,000人を超えたとされる。
しかし戦国時代になると織田信長が延暦寺と敵対した影響で衰退し、末寺は約100寺、塔頭も16坊となった。
その後、葉上流31世の珍祐が元和元年(1615年)に密蔵院に移って七堂を再興し、さらに名古屋城三の丸に東照宮が
できると別当になるなど、再建に力をふるった。
葉上流の灌室を有して僧侶に位を授ける寺であるため檀家を持たず、このため明治以降は維持が困難になった。
明治24年(1891年)の濃尾地震では本堂、仁王門、灌頂堂が倒壊するなどし、1932年の時点では常泉坊のみとなった。
常泉坊(現・常泉寺)は1950年春日井市内の大留町に移転し、現在に至る。
「文化財」
重要文化財(国指定)
木造薬師如来立像 - 平安時代後期
多宝塔 - 室町時代前半
「愛知県県指定有形文化財」
絹本著色兜率天曼荼羅、絹本著色天台大師像、絹本著色千手観音菩薩像、銅製仁王像、
木造十一面観音像
「春日井市指定有形文化財」
絹本著色十六羅漢像、絹本著色慈妙上人坐像、絹本著色愛染明王像2幅、絹本著色十一面観音菩薩坐像
絹本著色三千仏像、紺紙金泥金胎種子曼荼羅、木造大日如来坐像、木造本地仏坐像、木造阿弥陀如来座像
★文化財ナビ愛知密蔵院多宝塔(Web解説参照) Top
★桜佐ヨゲ Top
春日井市桜佐町は、昔から洪水と闘ってきたところです。水屋のほかに、「ヨゲ」と呼ばれる堤防や「かすみ提(てい)」
等、洪水から村を守る仕組みがありました。現在はほとんど残っていませんが、わずかに その名残がみられます。
ヨゲとは、内津川や庄内川の上流の堤防がこわれたとき、その濁流が村に押し寄せるのを防ぐために作られた小さな
堤防です。半円形の形をしていて、桜佐には上の集落を守るヨゲと下の集落を守るヨゲの2つあったそうです。
庄内川の堤防が強化されるとともにヨゲはその役目を終えて姿を消し、現在では一部が残るのみになりました。ヨゲを
観察すると、ただの土の山ではなく、10センチメートルから30センチメートルほどの石と土が積み上げられていたこと
がわかります。
桜佐でも、下流側の集落は、1メートル以上もある石垣の上に家が建てられています。東海豪雨では、この石垣より少
し上まで水がきたそうです。
★庄内川・春日井市桜佐町 Top
★上条河畔林(web紹介) (★あるWeb記事から) Top
庄内川にある自然の河畔林を、水辺の自然の景観と、自然と人のふれあい場とするために散策路つくり、草刈、木に絡ん
だ蔓切、とクリーン作戦を平成18年4月より行って来ました。そして、1km余の「水辺の自然がいっぱいみどりの
楽園」が出来、毎年100名以上の親子、団体の人たちが集い「水辺の自然がいっぱい庄内川上条河畔林で体験しよう」
でEボート体験、環境ビンゴゲーム、など自然体験イベントを実施して来ました。
しかし、9月の台風の増水で河畔林の木はなぎ倒され広場は1/3が削りとられ、大木のまわりが局所洗掘により大きく
砂が削り取られ穴出来てしまいました。
その木に、枯れ草やゴミが絡み付き、一夜にして、水辺の楽園は荒廃した荒野の河原と化してしまいました。
みどりのまちづくりグループはまた新たに「水辺の楽園」づくりに再挑戦します。12月9日ゴミ拾いから開始しました。
★庄内川河川事務所 Top
◎庄内緑地公園及び庄内緑地グリーンプラザ(下記ホームページ参照) Top
★庄内緑地公園
http://www.geocities.jp/psbtr259/038syounairyokuti.html
★庄内緑地グリーンプラザ
http://www.nga.or.jp/institution/syounai/index_f.html
★名古屋市庄内緑地グリーンプラザホームページ
★庄内川河川事務所のホームページ
★庄内緑地は、庄内川の小田井遊水地を利用した公園で、昭和43年12月の都市計画事業認可以来、「水と緑と太陽」を
テーマに、野趣あふれる総合公園として整備を進めてきました。庄内緑地は、(1)高盛土地区にあるグリーンプラザ、
(2)緑地部分(遊水地部分)とで構成されています。
グリーンプラザは、国の「第4次都市公園等整備5か年計画」の柱の1つである、"グリーン・フィットネス・パーク"
構想に基づき、そのモデルとして全国に先がけて事業化されたもので、昭和61年4月にオープンしました。緑豊かな環境
の中で、
(1)自然と触れ合いながら健康運動ができる室内広場、
(2)温室、展示会・講習会を通して、緑化に関するさまざまな情報の提供と相談に応じる緑化普及啓発施設といった
機能を併せ持つユニークな複合的施設です。
また、緑地部分には、約3.5haある市内有数の芝生広場を中心に、バラ園、わんぱく広場、ピクニック広場
(デイキャンプ)、サイクリングコース、大噴水、ボート池などのほか、有料公園施設として、テニスコート、陸上競技
場、ゲートボール場などがあります。
【主な施設など】
室内広場(体育館)、温室、サイクリングセンター(4〜11月の土・日・祝日貸出し無料)
緑の相談・図書コーナー、展示、講習会 、園内スポーツ施設の利用受付
【主な催しもの】
ナノハナ・サクラまつり(3月下旬〜4月上旬)、バラまつり(5月中旬)、ハナショウブまつり(6月上旬)
コスモスまつり(10月上旬〜10月下旬)、秋のバラまつり(11月上旬)
【その他の庄内緑地の施設】
大噴水、芝生広場、バラ園、ハナショウブ園、ツバキ園、ピクニック広場(デイキャンプ)、サイクリングコース、
テニスコート、陸上競技場、ゲートボール場
(上記の施設についてのお問い合わせは 庄内緑地グリーンプラザ TEL:052-503-1010へ)
★下津尾の渡し跡 Top
下津尾の渡し (HP参照)
下津尾にあり、竜泉寺への近道であった。八田や下原から上条・関田を経て下津尾へ至る道を竜泉寺街道と呼んでいた。
竜泉寺古記録には、「毎年五月十八日に熱田梵天と観音梵天の二本と神馬二匹を下津村から出して竜泉寺まで引き上げる。
また、正月七日には観音堂前で下津尾村の社人が神楽祝詞をあげ五穀祭りを行う。」とある。このことから下津尾と竜泉
寺は古くから関係が深かったことがわかる。 ここの渡しの川舟は舟腹の横板の枚数で二枚腹とか三腹と呼ばれ、ここは
木曽川から払い下げられた二枚腹が多かったという。昭和13年頃までは竜泉寺の節分や初観音の時は特別利用客が多い
ので、前日に部落総出で仮橋を架け、当日は橋の通行料として片道2銭(往復3銭)を取って渡した。ここの渡しは市内で
最も最近(昭和40年)まで続き、渡舟場跡には当時をしのぶ「下津尾渡し跡」の標柱が建てられている。 Top
★小野道風記念館(HP)
春日井市には古くから小野道風の誕生伝説があります。南北朝時代に記されたと思われる書の奥義書『麒麟抄』を最古と
し、『塩尻』(天野信景著)など、いくつかの資料にみられます。文化12年に尾張藩の学者、秦鼎の撰文によって建てら
れた小野朝臣遺跡碑によると、18世紀末には、この土地で道風生誕が信じられ、顕彰活動がおこなわれていたことが知ら
れます。
春日井市では、書聖小野道風の偉業をたたえ、末永く後世に伝えたいと、昭和56年11月1日、道風誕生の地と伝えられ、
小野朝臣遺跡碑の建つ松河戸町に春日井市道風記念館を開館しました。全国的にも数少ない書専門の美術館として、また
書道史の研究施設として、書道文化の一層の向上発展に貢献することを目的とした事業を展開しています。 Top
★小野道風(Wikipedia) Top
小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう、寛平6年(894年)- 康保3年12月27日(967年2月9日))は、平安時代の貴族
・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。藤原純友討伐に功を成した公卿・小野好古は実兄。官位は
正四位下・内蔵頭。「三跡」の一人。
「概要」
現在の愛知県春日井市出身。平安時代前期、10世紀に活動した能書家であり、それまでの中国的な書風から脱皮して和様
書道の基礎を築いた人物と評されている。後に藤原佐理と藤原行成と合わせ「三跡」と称されている。
道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのが
その職務であった。能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともては
やされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。
没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。
一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」などという不評も同時に伝わっており、晩年はたいへん健康を壊し、
随分苦しんだという。 Top
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