古典学習会(『空想から科学へ』)他総目次
(2024.2.6改定)
マルクス・エンゲルス略年譜
空想から科学へ@序文
空想から科学へA空想的社会主義
空想から科学へBサン・シモン、フーリエ、オーウェン
マルクスの空想的社会主義観(補足資料)
空想から科学へC弁証法的唯物論(弁証法の諸法則
空想から科学へD(資本主義の発展その1)
空想から科学へE(資本主義の発展その2)
空想から科学へF(英語版への序文 その1 1892年)
空想から科学へG(英語版への序文 その2 1892年)
早わかり世界史:私のmarkism(政治経済評論)HP参照


Link集
9条を抵抗の拠点に尾西児童図書館の存続を求める活動資料(れんげニュース)
杉原千畝広場 資本論 私のmarkism(政治経済評論) 古典学習会(空想から科学へ)
古典学習会(二)(賃金・価格および利潤)マルクスの経済表とその解説ドイツイデオロギー

早わかり世界史「ヨーロッパによる世界制覇の時代」1国民国家の出現(フランス・イギリス・ロシア・ドイツ・イタリア)
 ウイーン体制(1815〜1848)〜19世紀後半・イタリア・ドイツの統一まで (p129〜p134)




   
時間帯によって画像が変わります。

マルクス・エンゲルス略年譜    TOP
2023.07.07からマルクス・エンゲルスの古典学習会を開催することになった。
ここではまずはじめに、マルクス・エンゲルスの生きた時代背景を略年譜形式で押さえておきたい。
以下の略年譜は雑誌「経済」2013.5月号掲載による。
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「マルクス・エンゲルス略年賦」(雑誌「経済」2013.5月号、p6から引用)
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1818 マルクス生まれる
1820 エンゲルス生まれる
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※1770〜1831 ヘーゲル(精神現象学1807、論理学1812、エンチクロペディ1817、法の哲学1821)
※1789 フランス革命(当時ヘーゲル19才)
※1830 フランス:7月革命(立憲君主制)
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1842 マルクス、「ライン新聞」へ寄稿、やがて主筆に
1843 「ライン新聞」編集部を退く。パリへ
1844 マルクス「独仏年誌」創刊。エンゲルス:「国民経済学批判大綱」
   マルクス:「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」
   マルクス・エンゲルス、「聖家族」共同執筆
1845 マルクス、パリを追放されブリュッセルへ
   エンゲルス、「イギリスにおける労働者階級の状態」刊行
1846 マルクス・エンゲルス、「ドイツ・イデオロギー」共同執筆
   マルクス・エンゲルス、共産主義通信委員会を組織
1847 マルクス、「哲学の貧困」出版。マルクス・エンゲルス、共産主義者同盟に加盟。
1848 マルクス・エンゲルス「共産党宣言」発表
   ドイツで「新ライン新聞」創刊。(仏:2月革命、独:3月革命)
1849 マルクス「新ライン新聞」に「賃労働と資本」を連載。
   8月マルクス、ロンドンに亡命、経済学の研究開始。
1850 エンゲルス、マンチェスターで商会の仕事に就き、マルクスを支える。
1851 ルイ・ボナパルト、クーデターで皇帝に
1852 マルクス、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」発表
1857〜58 マルクス、経済学の草稿執筆「57〜58年草稿」
1859 マルクス、「経済学批判」(第一分冊)刊行
1861〜63 マルクス、経済学批判続編の草稿「61〜63年草稿」
1863.7.6 マルクスの「経済表」を手紙でエンゲルスに送る。
1863〜65 マルクス、「63〜65年草稿」(資本論全3部の草稿)執筆
1862 マルクス、第一インターナショナルの「創立宣言」「暫定規約」起草
1865 マルクス、第一インターナショナル総評議会で「賃金・価格および利潤」を講演
1865〜67 マルクス、「資本論」第一部完成稿執筆
1867 マルクス、「資本論」第一部刊行
1867〜70 「資本論」第二部、第2〜第4草稿執筆
1871 パリ・コミューン マルクス、「フランスにおける内乱」執筆
1872 「資本論」フランス語版刊行開始(〜75年) 第一インターハーグ大会。本部をアメリカへ
1873 「資本論」第一部第2版刊行
1875 マルクス、「ゴータ綱領批判」(独、ゴータで合同大会)
1876 エンゲルス、「反デューリング論」執筆開始
1877〜81 「資本論」第二部草稿執筆(第5〜第8草稿)
1880 エンゲルス、「空想から科学へ」刊行
1883 マルクス、死去 「資本論」第一部第3版刊行
1885 「資本論」第二部刊行
1886 エンゲルス、「フォイエルバッハ論」刊行
1891 エンゲルス、「エルフルト綱領批判」発表
1894 「資本論」第三部刊行
1895 エンゲルス、「マルクス『フランスにおける階級闘争』の序文」を執筆
1895 エンゲルス、死去  TOP
空想から科学へ@      TOP
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マルクス・エンゲルス古典学習会
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会@(底本は岩波文庫版大内兵衛訳による)
(1)(訳者序)から : 本書はF・エンゲルスの1883年下記ドイツ語からの翻訳。
(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschft)
原書はエンゲルスの『反デューリング論』からの抜き書き。
ドイツ社会主義はまだ生まれたばかりの思想で、特にその運動はアイゼナハ派とラサール派が
「ゴータ綱領」(1875)を作ったばかりで、その運動の中に社会主義の諸派が流れ込み、運動
がその混濁のうちにあったので、デューリング人気も相当に高かった。
エンゲルスは1877年当初からドイツ社会民主党の機関誌『フォアベルツ』にデューリング批判
を開始していた。ラファルグの勧めでこの大部な批判書から重要部分(3章)を抜き出して作成
したのが本書である。
本書は3章から成っており、第一章は「空想的社会主義」第二章は「弁証法的唯物論」第三章は、
「資本主義の発展」である。(※表題は大内氏がドイツ語版によって作成)
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(2)フランス語版へのマルクスの序文(1880)岩波文庫p17  TOP
・・・マルクスによるエンゲルスの紹介
・1844年『国民経済学批判大綱』(独仏年誌掲載)。1845『イギリス労働者階級の状態』

※マルクスは、資本論(第8章労働日)のなかでエンゲルスの『状態』から『児童労働調査委員会
第一次報告書』を引用している。(『国民文庫Ap167』注66)
 (エンゲルス『イギリス労働者階級の状態』(全集2巻p440〜p442))
・マルクスとエンゲルスはブリュッセル滞在中、ドイツ人労働者の共産主義的結社を結成。
 1847年国際的な(共産主義者同盟)に発展。同年、『共産党宣言』起草を委託されたが1848年2月
  革命直前に公刊された。
・2月革命後、エンゲルスは『新ライン新聞』の編集者になったが、1849年5月に発禁。
・1850年エンゲルスは『新ライン新聞、政治経済評論』の寄稿者だった。
  ここで『ドイツ農民戦争』を公表。
・ドイツ社会主義運動の復活後、エンゲルスは各誌に『ロシア社会論』『住宅問題』
 『ドイツ帝国議会におけるプロシャの火酒』『バクーニン主義者の活動』などを書いた。
・エンゲルスは1870年にマンチェスターからロンドンに移り、インターナショナルの総務委員会に
  参加。(スペイン・ポルトガル・イタリアとの連絡係)
・彼は最近、オイゲン・デューリング氏の自称新理論に駁論を書いて『フォアベルツ』誌に連載した。
・われわれは、このパンフレットから最も適切と思われる理論的部分を抜粋した。
 これはいわゆる科学的社会主義の入門となるであろう。
※この序文は著者エンゲルスの紹介を主とするものであるが、マルクスがマルクスの娘婿のラファルグ
(当時フランスでのマルクス主義の代表者)の為に書いたといってよい。(注p19〜20)
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(3)ドイツ語第一版(1882年)へのエンゲルスの序文・・・p22
・本書は拙著『デューリング氏の科学の変革』(1878)のうちの3章からできている。
・p23 形式については、外来語が問題になったが、労働者諸君は新聞を多くかつ規則的に読むように
 なったので慣れてきた。それは翻訳すれば意味が曲がり、説明にならないで意味が混乱する。
 それよりはそれをそのままにしておいて説明を加えた方が良い。
・これに反して内容の方は、ドイツの労働者には少しも難しくない、と私はいいたい。
 難しいのは一般に第3章だけだが、この章は労働者の一般的生活条件をまとめたものだから、労働者
 には「教養ある」ブルジョアよりもずっとわかりやすい。
・多数の説明的補足を付けたが、その際、私は、労働者よりもむしろ「教養ある」読者たとえば国会議
 員、枢密顧問官、および有名な当時の歴史家といった人々を念頭においた。というのは、彼らはやむ
 にやまれぬ衝動に駆られて、社会主義に対する驚くべき無知と、それからくる恐ろしい曲解とを、繰
 り返し繰り返し印刷したがっている連中であるからだ。そういうドン・キホーテがその槍を風車に向
 かって突き刺すのは彼の身上であり、彼の役目でもあるが、サンチョ・パンサには、そんなことをや
 らせることを、許しておく訳にはいかない。
・こうした読者は、このようなスケッチにすぎない社会主義発達史のなかに、カントやラプラスの宇宙
 発生論や近代自然科学やダーウインや、ドイツの古典哲学からヘーゲルまでもが顔を出しているのに、
 さぞ驚くだろう。だが、科学的社会主義は、断じて、本質的にドイツの産物なのだ、その古典哲学が、
 意識的な弁証法の伝統を生き生きと保持していた国でなくては、即ち、ドイツでなくては、成立する
 事は出来なかったのだ。唯物史観と、それをプロレタリアートとブルジョアジーとの近代の階級闘争
 へ具体的に適用することは、弁証法がなくてはできない。(p24)
・われわれドイツの社会主義者は、ただにサン・シモン、フーリエ、およびオーウェンを祖とするのみ
 ではなく、カント、フィヒテ、およびヘーゲルの流れをくんでいる事を、われわれの誇りとするもの
 である。 1882.9.21 ロンドン F・エンゲルス   TOP
空想から科学へA                         TOP
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エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会A
1.空想的社会主義(p31)
・近代の社会主義は、その内容からいえば、一方では今日の社会にある有産者と無産者、資本家と賃金
 労働者の階級対立を、他方では生産における無政府状態をみた上で生まれたものである。
・しかし、理論の形からいえば、それは最初、18世紀の偉大なフランスの啓蒙主義者たちがたてた原理
 を一層おしすすめ、一層首尾一貫したものである。だからそれは、一切の新理論と同様に、その根が
 いかに物質的経済的事実の中にあるにしても、さしあたりは、手近にあった思想と結びつかざるを得
 なかったのである。
・(フランス革命)p31フランスの啓蒙主義者たちは、外的な権威なるものを一切認めず、宗教、自然
 観、社会、国家制度、一切のものを情け容赦なく批判された。・・・理性が一切のものに対する唯一の
 尺度としてあてがわれた。それはヘーゲルの言葉を借りれば、まさに世界が逆立ちした時代であった。
 (※注:ヘーゲル「歴史哲学」下p311)
・これまでの社会形態も国家形態も、またあらゆる伝統的観念も、みな非理性的なものとして投げ捨て
 られた。だが今や黎明が近づき、理性の王国が始まろうとしている。今より後は、迷信、不正、特権、
 抑圧は駆逐されねばならぬ、それに代わって、永遠の真理、永遠の正義、自然に基づく平等、譲渡不
 可の人権が現れねばならぬと。p32
・しかし今では次の事は明らかだ。即ち、この理性の王国とは実は理想化されたブルジョアジーの王国
 に他ならないこと、永遠の正義はブルジョア的法律として実現されたこと、永久の平等は結局法の上
 でのブルジョア的平等になってしまったこと、最も重要な人間の権利として宣言されたのは、−ブル
 ジョア的所有権だったこと、そして理性国家もルソーの社会契約も、ブルジョア民主主義共和国とし
 て実現した事、ただブルジョア民主主義共和国としてのみ実現できたということ。 要するに、
 さしも偉大な18世紀の思想家たちも、すべての先行者と同様に、彼ら自身の時代が彼らに課した限界
 を乗りこえることはできなかったのである。※(p33)
※ヘーゲル「法の哲学」序文(p171)では「ここがロードスだ、ここで跳べ」として「哲学の課題は、
 存在するところのものを概念的に把握することにある。というのは、存在するところのものは理性だ
 からである。個人に関していえば、誰しもその時代の子であるが、哲学もまたその時代を思想という
 形で捉えたものである。哲学が現在の世界を超え出たつもりになるとすれば、それは個人が自分の
 時代を跳び越え、ロードス島を超えて外に出ようと夢想するのと同様に愚かである。その個人の理論
 が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が1つのあるべき世界を立てるとすれば、それは
 なるほど在るにはあろうが彼の私念のなかに在るというにすぎない。
(歴史的時代の制約があるが故に今あるこのロードス島で跳べと。それに反してあるべき世界
(青写真)をたてたのが空想的社会主義者たちであった。)
・(ブルジョア革命はその内にプロレタリア革命を含んでいた。)封建貴族とそれ以外の全社会の代表
 者として登場したブルジョアジーとの対立のほかに、搾取者と被搾取者怠け者の金持ちと働く貧乏人
 というもっと一般的な対立があった。
・資本主義は賃労働なしに存在することができない故にブルジョアの大運動が起こるたびに、近代的
 プロレタリアートの未発達な先駆者ともいうべき階級の、独立した運動が必ずそのうちに顔を出して
 いた。(ドイツ再洗礼派とミュンツエル、イギリスの平等党、フランスのバブーフ)
・こうした未成熟な階級の革命的反乱と並んでそれにふさわしい理論的表現が現れた。
 (16〜17世紀における理想的社会のユートピア、18世紀における共産主義的理論)
 平等の要求は、もはや政治上の権利に限られず個人の社会的地位にまで拡げられねばならなかった。
 廃止さるべきは、単に階級的特権だけではなく、階級的差別そのものであった。こうして禁欲的な、
 一切の人生の快楽を否認する、スパルタ的共産主義がこの新しい学説の最初の表現形態であった。
 (p34)
・ついで3人の偉大な空想家が現れた。サン・シモン、フーリエ、オーウェン。
 この3人には共通点があった。それは、当時歴史的に生み出されていたプロレタリア階級の利害の
 代表者として登場したのではない、という事であった。
・啓蒙主義者と同様に、彼らは、ある特定の階級を解放しようとはしないで、いきなり全人類を解放
 しようとした。彼らは、理性と永遠の正義の王国を実現しようとした。しかし、彼らの王国と啓蒙
 主義者のそれとの間には、天地の差があった。
・啓蒙主義者の原理によりうち立てられたブルジョア的世界もまた非理性的で不正なもので、封建
 制度や従来の社会状態と同様にゴミだめにたたき込まれるべきものとされた。本当の理性と正義が、
 今日までこの世界を支配しなかったのはなぜか、それは、この2者をわれわれが正しく認識しなか
 ったからである。即ち、天才的な個人が欠けていたからである。p35
・p36 フランス革命が理性社会と理性国家を実現したとき、その新制度は以前に比べればだいぶ合理
 的であったが、絶対的な意味では断じて理性的なものではなかった。ルソーの社会契約は恐怖時代
 として実現したが、そのとき、ブルジョアジーは自分の政治的能力に自信をなくし、はじめは執政官
 内閣の腐敗の中に、次いでナポレオンの専制政治の庇護のもとに逃げ込んだ。永遠の平和はいつしか
 果てしない征服戦争に一変した。
・貧富の対立は解消せず、社会の一般的繁栄は得られず、対立自身は深刻化した。「財産の自由」は
 実現したが、それはプチブルや小農民にとっては、大資本や大土地所有者に売り渡す自由であった。
 ・・資本主義的基礎にたつ産業の繁栄は、労働大衆の貧困と窮乏とを社会の存立条件にしてしまった。
・啓蒙主義者の素晴らしい約束と比べれば「理性の勝利」によってうち立てられた社会や政治の制度は、
 明らかに、痛ましくも失望のカリカチャであった。しかし、この失望を確認する人物が世紀が改まる
 とともに現れた。1802年のサン・シモンのジュネーブ書簡、1808年のフーリエの処女作、1800年には
 ロバート・オーウェンがニューラナーク村で経営に当たった。 
・しかしながら当時の資本主義的生産方法は、従ってまたブルジョアジーとプロレタリアートの対立は
 まだ極めて未発達であった。大工業はイギリスでも生まれたばかりであって、フランスでは知られて
 さえいなかった。けれどもこの大工業こそ一方では生産方法の変革、その資本主義的性質の除去を、
 強制的な必然にまで高める闘争を−ただ階級と階級との闘争だけでなく、それによって作り出された
 生産力と交換形態との闘争をも−発達させる。
・p38他方ではこの大工業こそ、その巨大な生産力のうちに、この闘争を解決する手段をもまた発達させ
 るのである。1800年頃が新社会秩序にふさわしい闘争が現れ始めたときといえるなら、それはそれを
 解決する手段についてもいえることである。無産大衆から分離してはじめて新しい1階級の根幹となっ
 たプロレタリアートには、まだ独立した政治行動を行う能力が全然なかったので、外からまたは上か
 ら援助の手を差し伸べてやるしかなかった。
・こうした歴史的事情は、社会主義の建設者たちをも支配した。資本主義的生産も階級の地位も未熟で
 あったから、それに照応して理論もまた未熟であったのだ。社会問題の解決方法もまた未発展の経済
 的諸関係のうちに隠れていたから、それも頭で作りだすしかなかった。そこで問題は、何よりも新し
 いより完全な社会制度を発見する事、それを宣伝し、できるなら模範的実験をして外から社会に押し
 つける事であった。
・p39 以上の事実さえ確認されれば、今や過去となってしまったこの問題にこれ以上かかわる必要は
 あるまい。  TOP
空想から科学へB TOP
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会B
1.サン・シモンの社会主義(p39)
・(「社会科学辞典」新日本出版社1972年)の解説では、サン・シモン(1760〜1825)は「フランス
 の空想的社会主義者。産業者即ち、「働くもの」(銀行家・工場主・商人・職人・労働者・農民)の
 立場から、「なまけもの」(貴族・軍人・官僚・地主・金利生活者たち)の支配に反対し、新しい
 社会では人間に対する人間の支配としての政治の代わりに、物的財貨の管理と生産の指導が行われる
 べきだと考えた。しかしそれらの管理や指導は、銀行家・工場主・商人たちに期待された。
 彼の社会主義は、資本家階級と労働者階級との対立がようやく発生したばかりの時代の反映に他なら
 なかった。」
・エンゲルスは、サン・シモンをフランス大革命の子であったとしている。革命とは、生産と商業で働
 く国民大衆即ち、第三身分のこれまでの特権的な有閑身分、即ち貴族と僧侶に対する勝利であった。
 だが第三身分のこの勝利は、・・社会的に特権を与えられていた有産ブルジョアジーという層が政権を
 獲得したにすぎない事がまもなく暴露された。
・p40サン・シモンにとっては、第三身分と特権身分との対立は「働く人」と「有閑者」との対立の形を
 とった。「有閑者」とは旧来の特権者だけでなく、生産や商業に従事しないで、財産収入で生活する
 者たちであった。また「働く者」とは賃金労働者には限らず銀行家・工場主・商人の事でもあった。
・これらの有閑者は精神的指導と政治的支配の能力がないことは明らかであったが、無産者もまたこう
 した能力を持たないことは恐怖時代の経験が証明しているとサン・シモンには思われた。彼によれば
 科学と産業がそれをやるべきであると。産業とはブルジョアとして働いている人、即ち工場主・商人
 ・銀行家の事であった。特に銀行家は信用の調節によって社会的生産全体を規制すべき使命をもつも
 のとされた。しかるにサン・シモンは特に強く自分の心にかかるものは「最も多数で最も貧乏な階級」
 の運命だと言ったのである。
・p41サン・シモンは、『ジュネーブ書簡』の中で、恐怖時代は無産大衆の支配であった事をすでに知
 っていた。彼がフランス革命を階級闘争と把握し、それも単に貴族とブルジョア階級とのそれにとど
 まらず、貴族、ブルジョア階級と無産者との間の階級闘争として把握したこと、しかも1802年にそう
 いう把握をしたことは極めて天才的な発見であった。
・1816年経済的状態が政治的制度の基礎であるという認識はまだ萌芽でしかないが、人間に対する政治
 的支配が物の管理と生産過程の指導とに切り替えられること、言い換えれば、近頃宣伝されている
 「国家の廃止」ということが、極めて明瞭に表示されているのである。
・1815年百日戦争の最中に英仏との同名、ついでこれら両国とドイツとの同盟がヨーロッパの繁栄と
 平和の唯一の保障であると宣言したが、時流をぬく卓見であった。
2.フーリエ(1772〜1837)(革命とそれがもたらした文明の偉大な批評家)
・p42サン・シモンにおいて見たものは1つの天才的な視野であり、後の社会主義者たちの思想のほとん
 どが萌芽の形で含まれていた。これに対してフーリエに見るのは、現在の社会状態に対する純フラン
 ス式の機知に富んだ批判で、しかもそれは相当深刻である。
・彼はブルジョア社会の物質的、精神的な貧困を容赦なく摘発する。そしてブルジョア思想家たちや
 人間能力の無限の完成を許す万全の文明社会を対照させて、その現実がその言葉をいかに残酷に裏切
 っているかを痛烈に皮肉っている。
・フーリエは偉大な批評家であるだけではなく、風刺家、しかも古今を通じて最大の風刺家の一人たら
 しめている。革命の退潮とともに栄えた詐欺的投機や小商人根性についての描写は、この上なく見事
 で面白い。
・そしてそれらよりなお見事なのは、男女関係のブルジョア的形式とブルジョア社会における婦人の
 地位に対する彼の批判である。ある社会における婦人解放の程度はその社会の一般的解放の自然的
 尺度である、と。p42
・p43フーリエの社会の歴史見解は構想雄大である。彼は、これまでの社会の全過程を、未開、野蛮、
 家父長制、文明の4つの発展段階に分ける。この最後の段階は、今日のいわゆるブルジョア社会、
 即ち、16世紀に始まる社会制度にあたる。
 「文明社会なるものは、野蛮時代に簡単な形で行われていたあらゆる罪悪を、複雑であいまいな、
 不明瞭で偽善的な形に作り上げる。」また「文明は『悪循環』を繰り返すものであり、文明自身が
 絶えず新たに矛盾を生み出しつつ、それを克服できないまま前進する結果、それが達成しようとす
 るものあるいは獲得しようと見せているものとはまさに正反対のものとなる。」と。p43
・このように、フーリエの弁証法の駆使は彼の同時代人ヘーゲルに比べて決して劣らない。
 彼は、この弁証法を使って・・・すべての歴史的段階には興隆期もあれば衰退期もあるとし、その考え
 方を全人類の将来にも適用した。カントは自然科学の中に将来の地球の破滅を導入したが、それと
 同じく、フーリエは歴史観のうちに人類の没落を取り入れたのである。p43
3.ロバート・オーウェン(1771〜1858)(産業革命の最初の実践的批評家)
・(社会科学辞典:彼の生涯は、産業革命と資本主義の発展がもたらした窮乏と退廃から労働者階級を
 解放する為の改良と実験の歴史であり、その成功と失敗の歴史であった。p18)
・フランスで革命の嵐が吹きまくっていたとき、イギリスでは静かにそれでいてその激しさでは決して
 それに劣らない変革が進行しつつあった。(産業革命)蒸気と新しい作業機とが工場制手工業
 (マニュファクチュア)を近代的大工業に変え、それによってブルジョア社会の全根底を変革した。
・マニュファクチュア時代ののろのろの歩みは生産の真の狂瀾怒濤時代に変わった。
 大資本家と無産プロレタリアへの社会の分裂は、絶えず加速度的に進行し、両者の中間にはこれまで
 の安定した中流階級の代わりに、今や手工業者と小商人の不安定な大衆が現れて不安な生活をする
 ようになり、それが人口の動揺部分となった。
・p44この新しい生産方法は、まだ漸くその上昇期に入ったばかりであったが、それは早くも恐るべき
 社会的弊害を生み出していた。−−大都市の貧民窟には浮浪民が密集していた、家系や家父長的従属
 や家族制度といったあらゆる伝統的紐帯は弛緩していた。
・とくに婦人や子供は恐るべき過労に陥っていた。労働者階級は完全に堕落していた。
 というのは、彼らは、農村から都会へ、農業から工業へ、安定した生活条件から日々変化する不安定
 な生活条件へと、突如投げ込まれた階級であったからだ。
・p44この時、29才の1工場主が改革者として現れた。彼ロバート・オーウェンは、人間の性質は一方で
 は、もって生まれた体質の産物であり、他方では、その生涯特に発育期の個人の産物であるという、
 唯物論に立つ啓蒙主義者の学説を信奉していた。
・彼と同じ階層の人々にとっては、産業革命とは混乱に乗じて漁夫の利を占め、一挙に成金となるに適
 したものであったのに、彼にとっては、それは、彼のモットーとするところのものを社会に提起して、
 混沌の中に秩序を作り出すべき機会であった。
・p45彼は、1800年から1829年にわたって、スコットランドのニュー・ラナーク村の大紡績工場で、業務
 監督として経営を行い好成績をあげた。・・・はじめは種々雑多な著しく堕落していた住民を、完全な
 模範コロニーに作り替えた。そこでは、泥酔、警察沙汰、裁判沙汰、救貧、慈善の必要が全くなく
 なった。
・そうなったのは、ただ彼が人間を人間らしい状態におき、特に青少年を注意深く教育したというだけの
 ためであった。彼は、幼稚園の発案者であり、2才になると幼稚園に入れられたが、幼稚園があまりに
 楽しいところであったので、子供たちは家に帰るのをいやがった、という事であった。
・彼の競争者は、毎日13時間〜14時間も職工を働かせていたが、ここでは10時間半しか働かなかった。
 綿花恐慌のために4ヶ月間の休業の時でも休業労働者に対して賃金全額が支払われた。それでいてこの
 会社は価値を倍増させ、所有者には豊かな利益が配当された。
・p45(彼は実践を通じて社会主義者となった)(オーウェンの計画)
・p47オーウェンの共産主義とは、純然たる事務的方法のもので、いわば商人的打算の結果であった。
 彼は、徹頭徹尾実際的性格を持っていた。例えば1823年アイルランドの窮乏を根絶するために、彼は、
 共産主義コロニーを提案し、それにはその建設予算や年度の支出、収入の見込みを添えている。
 彼の明確な未来計画は、・・・専門的知識でできており、オーウェンの社会改良の方法の細目については
 専門家にも批判の余地はほとんどないようなものであった。
・しかし、共産主義への前進によってオーウェンの生涯は転換した。・・・特に彼の社会改良の障碍と思わ
 れた、私有財産、宗教、現在の婚姻形式について攻撃したとき、彼は、公的社会からの追放、新聞に
 よる黙殺、社会的地位の喪失などにより・・・零落した。そのとき彼は、労働者階級の見方となり彼らの
 うちで活動を続けた。
・p48イギリスで労働者の利益のために行われた一切の社会運動、一切の現実の進歩はすべてオーウェン
 の名前に結びついている。1819年工場における婦人および児童労働の制限に関する最初の法律、また
 彼はイギリス全国の労働組合が単一の大組合連合体となった時の第一回大会の議長であった。
・彼はまた、完全な共産主義的社会組織ができるまでの過渡的方策として、一方において協同組合
 (消費組合及び生産組合)を始めた。これはそれ以来商人も工場主も必ずしも必要がないという証拠
 となった。他方では、労働バザー即ち、労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換す
 る施設を作った。
・この施設は必然的に失敗したが、後にプルードンの交換銀行の完全な先駆となった。プルードンとの
 違いは、これは一切の社会的害悪の万能薬ではなく、単に一層根本的な社会改造へのほんの第一歩に
 すぎないものと考えられていた。
・p48(空想より科学へ)
・これら空想家の考え方は19世紀の社会主義思想を久しい間支配し、部分的には今もなお支配している。
 ・・・彼らすべてにとって、社会主義とは絶対的真理、理性と正義の表現であって、それを発見しさえ
 すれば、それ自身の力によって世界を征服するものである、そしてまた、絶対的真理というものは、
 時間や空間はもとより、人間の歴史的発展とも無関係なものであるから、それがいつどこで発見され
 るかは単なる偶然である。
・p49それゆえ、絶対的真理や理性や正義は、各派の提唱者によってそれぞれに違っており、従って・・・
 互いに排斥しあうことになり、ここにできあがってくるのは一種の折衷的な平均社会主義となる外に
 はない。今日までフランスとイギリスにおける大概の社会主義的労働者を支配している社会主義はそれ
 であった。
・しかし、こういう社会主義を1つの科学とするためには、まずもって、それを現実の地盤の上に据え
 なければならない。 TOP
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「空想から科学へ」学習会   −補足資料(マルクスの空想的社会主義観)− TOP
ここでは、マルクスが空想的社会主義をどのように捉えていたのかについて、補足
資料を参考に掲載しておく。(1.2.3は社会科学辞典参照)
(不和哲三:綱領・古典の連続教室レジメp21〜22※)から引用です。
※1871年4月〜5月に執筆した『フランスにおける内乱』第一草稿による。(全集Pp526)

(社会主義的宗派の始祖たち・・・マルクス)
(1).サン・シモン(1760〜1825)はフランスの空想的社会主義者。p111
(2).シャルル・フーリエ(1772〜1837)はフランスの空想的社会主義者。p272
(3).ロバート・オーウェン(1771〜1858)はイギリスの空想的社会主義者。p18

1.「社会主義的宗派の始祖たちはみな、労働者階級それ自体が資本主義社会そのものの行程によって
 まだ十分に訓練され組織されていなかったため、世界の舞台に歴史の動因として登場するまでになって
 おらず、また旧世界そのものの内部に彼らの解放の物質的諸条件がまだ十分に成熟していなかった時期
 に生きていた。・・・労働者の窮乏は存在していたが、労働者自身の運動の条件がまだ存在していな
 かったのである。」

2.「諸宗派〔社会主義運動の諸宗派−不破〕の始祖であるユートピア主義者〔空想的社会主義者〕たち
 は、現在の社会を批判するさい、社会運動の目標−賃金制度と、それにともなう階級支配のいっさいの
 経済的諸条件とを廃止すること−を明瞭に述べはしたが、社会そのものの内部に社会改造の物質的諸条件
 を見いだすことも、また労働者階級のうちに運動の組織的な力と意識を見いだすこともしなかった。
 彼らは、運動の歴史的諸条件の欠如を、新社会の空想図や計画で補おうと試み、そういう空想図や計画の
 宣伝を真の救済手段とみなした。」

3.「労働者階級の運動が現実となったその瞬間から、空想的なユートピアは消え失せたが、これは、
 これらのユートピア主義者がかかげた目標を労働者階級が放棄したからではなく、それを実現する現実の
 手段を労働者階級が見いだしたからであり、それらのユートピアにいれかわって、運動の歴史的諸条件に
 対する真の洞察が生まれ、労働者階級の戦闘組織がますますその力をくわえてきたからであった。」

 第1章「空想的社会主義」了。 次回は第2章・弁証法的唯物論です。 2023/07/12 TOP
空想から科学へC弁証法的唯物論 TOP
マルクス・エンゲルス古典学習会 No.5         2023/07/24
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会C
第2章 弁証法的唯物論(p52)
・p52(弁証法の歴史)
 18世紀のフランス哲学と並びまたそれに続いて新しいドイツ哲学が生まれ、ヘーゲルに至って完成した。
 この新ドイツ哲学の最大の功績は弁証法を思惟の最高形式として復興したことだった。古代ギリシャの
 哲学者たちはいずれも天性の弁証家で、とりわけアリストテレスは弁証法的思惟の最も重要な形式を既に
 研究していた。
・これに対して、新しい哲学は弁証法の輝かしい代表者(デカルトやスピノザ)をもっていたが、特に
 イギリスの影響を受けて、次第に形而上学的な思惟方法に落ち込んでいった。簡単にこの2つの思惟方法の
 要点を説明する。(※)(※弁証法的思考と形而上学的思考との対比的な説明は、ヘーゲルに源流があり、
 エンゲルスが発展させたものです。
 :「綱領・古典の連続教室」・不破哲三氏講義の「要旨」p20、「テキスト」p26参照)
・p52(ギリシャの弁証法とベーコン・ロックの形而上学)
 われわれが自然や人類の歴史を、またわれわれの精神活動を考察するとき、何よりも先に見るものは関連と
 相互作用との無限に錯綜したその姿である。・・・すべては動き、変化し、生成し、消滅する。だからわれわれ
 のまず見るものは、全体像で、そこでは個々の部分は多かれ少なかれ背後に隠れている。われわれの注意は、
 運動、変化、関連それ自体に向けられ、何が運動するか、何が移行するか、何が関連するかはさほどに注意
 しない。
・原始的で素朴ではあるが本質上正しいこの世界観は古代ギリシャ哲学のそれであり、ヘラクレイトスが初
 めて明瞭に言明した。曰く:「万物は存在し、また存在しない、なぜなら、万物は流転するからと、それは
 常に変化し、常に成長し、常に消滅しつつあるから」と。
・この見方は、現象の全体像の一般的性格を正しく把握してはいるが、この全体像を構成している個別を説明
 するには不十分である。しかもこの個別を知らないでは全体像が分かるはずがない。
・この個別を認識するには、われわれは、その個別を、その自然的、歴史的関係から引き離し、個々別々に
 それ自体として、その特性やその特殊な原因や結果などを考察しなければならない。
 これこそ自然科学や歴史研究の任務であるが、古典時代のギリシャ人にはこういう研究部門は付属的な地位
 しか与えられなかった。批判的選択や比較や綱、科、種の分類は自然や歴史の材料がある程度そろった上で
 なくてはやれないものである。
・本当の自然科学の始まりは15世紀の後半であって、それ以後、それは加速度的に進歩した。(p54)
 自然を個々の部分に分解すること、種々の自然過程と自然対象とを一定の部類に分類すること、有機体の内
 部をその多様な解剖学的形態に従って研究すること、これが自然認識において最近の400年がわれわれにも
 たらした巨大な進歩の根本条件であった。
・p54しかしながら、こういう方法は、同時に自然物と自然過程とを個々バラバラに切り離して大きな全体的
 関連の外で把握するという習慣を残した。従ってそれらを運動においてではなく、静止状態において捉え、
 またそれらを本質的に変化するものとしてではなく固定の状態において、それらをその生においてでなく、
 その死において捉えた。ベーコンやロックのような人によって、この考え方が自然科学から哲学に移入され
 たとき、それは前世紀に特有な偏狭さ、かの形而上学的思惟方法を生み出したのである。
・p54(形而上学的考え方の限界と誤謬)
 形而上学者にとっては、事物やその思想的模写である概念は、個々バラバラに、一つずつ、他と関係なし
 に、観察すべき、固定した動かない、永久不変の研究対象である。
 彼は、絶対に矛盾する対立としてものを考える、「しかり、しかり、いな、いなと言えこれに過ぐるは
 悪より出るなり」である。(注4・p63:新約聖書マタイ伝第5章37節)
・彼にとっては、事物は、存在するか、しないかである。一物は一物で、同時に他物であることはできない。
 肯定と否定とは、絶対的に相排斥する。原因と結果ともまた互いに動きのとれぬ対立である。こうした考
 え方は、常識的な考え方だから一見したところ極めてわかりやすい。
・p55こうした形而上学的考え方は、対象の性質によっては相当の範囲まで正当でありかつ、必要でさえある
 が、いつかは必ず1つの限界に突き当たるのであり、そしてこの限界を越えると、それは一面的な、偏狭な
 抽象的なものとなり、矛盾に陥ってどうすることもできなくなる。
・というのは、形而上学的な考え方は個々のものに目を奪われてその関連を忘れ、その存在に目を奪われて
 その生成と死滅を忘れ、その静止にとらわれてその運動を忘れるからである。
 木を見て森を見ないからである。日常問題としては、たとえば生死の問題があげられる。胎児殺しと殺人
 をどう区別すべきか、法律家がその合理的限界を発見しようとしたが徒労であった。なぜなら死は一瞬に
 して起きる現象ではなくて、相当に長くかかる過程であるからだ。要するに一切の有機体は、どの瞬間に
 おいても同一物であると同時に同一物でない、それは刻々、外部から供給される物質を同化してはそれと
 違った物質を排泄するからである。
・p55なお一層厳密に考察するならば、次の事をわれわれは見いだす。即ち、肯定と否定というような対立
 の両極は、対立していると同時に相互に不可分である、また、どんなに対立していても対立物は相互に
 浸透しあうものである、同様に、原因と結果といっても、それは個々の場合にそういえるだけのもので、
 そういう個々の場合をわれわれが世界全体と広く関連させてみるならば、むしろ普遍的な交互作用という
 見方に解消してしまい、そこでは、原因と結果とは絶えずその地位を替え、いま結果であったものが、
 やがてすぐ原因となり、さらに今度はそれがまた逆になったりするのである。こうした過程と思惟方法は
 形而上学的思惟の枠には収まらない。
・p56(自然は弁証法の検証である)
・これに反して、事物とその概念的模写を、専ら関連、連鎖、運動、発生及び消滅において捉える弁証法に
 とっては、上述のような諸過程は、何れも弁証法固有の研究方法の正しさを証明するものである。
・自然科学は次の事を検証している、即ち、自然は、結局において形而上学的にではなく、弁証法的に動く
 ものである、それは不断の循環運動をいつも同じようには繰り返さない1つの現実の歴史なのである。
・この点ではダーウィンの名前がまず挙げられる。彼は、今日の一切の有機的自然、即ち、植物も動物も
 従ってまた人間も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程であることを証明し、それによって自然に
 ついての形而上学的見方に強烈な打撃を与えた。
・p57(カントがその星雲説でまず弁証法を検証した)
・この新しいドイツ哲学は、この弁証法的精神をもって登場してきた。カントはニュートンの太陽系説なら
 びに、かの有名な最初の一撃の与える運動は永続するという永続説は解消して、それも1つの歴史的過程
 となった。即ち、太陽もすべての惑星も回転する星雲から生じたものとなった。そして太陽系がこうして
 発生したものならば、将来それが死滅することもまた必然だと既にそのときカントは考えていた。
 それから半世紀の後、彼の見解はラプラスによって数学的に基礎づけられ、さらに半世紀後には、・・・
 分光器によって立証された。
・p57(ヘーゲルが弁証法を完成した)
・この新しいドイツ哲学は、ヘーゲルの体系において完成した。自然と歴史と精神の全世界が1つの過程と
 して説明されるようになった。即ち、それらは不断の運動、変化、変形、発展のなかにあると説き、そう
 いう運動と発展の内的関連の証明も試みられた。
・p58(ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている)
・ヘーゲルは、当時の最も博学な学者であったが、第一に彼自身の知識範囲が限られていた。第二に、彼の
 時代の知識と見解もその広さと深さに限界があった。第三にはヘーゲルは観念論者であった。
 それゆえ、彼の思想は現実の事物や過程を抽象してできる模写ではなく、反対に、事物とその発展は、
 「理念」の模写として現れているものと考えた。それゆえ、一切のものは逆立ちさせられ、世界の現実
 の関連は完全に顛倒された。
・p59そのためそれは、内的矛盾に悩んでいた。即ち、一方では人間の歴史は1つの発展過程であるという
 歴史観を本質的な前提としたが、・・・他方で、自分の体系こそは絶対的真理の精髄だと言ったのである。
 自然と歴史の認識の一切を包括する永久に完成した体系などは、そもそも弁証法的思惟の基本原則とは
 両立しない。とはいえ、外界全体の体系的な認識が世代から世代へと巨大な進歩を遂げうることを、
 この原則は断じて否定しないどころかそれを肯定する。
・p59(近代唯物論は自然弁証法である。)
・近代唯物論は18世紀の形而上学的で全く機械的な唯物論への帰還ではなく、従来の一切の歴史を、ただ
 革命的に、単純に排斥はしないで、歴史において、人類の発展過程を見、この過程のうちに運動法則を
 発見する事を任務とした。
・近代唯物論は自然科学の最近の進歩を総括して、自然もまた時間の中にその歴史をもち、天体も、発生
 し、消滅するもので、一般に循環運動は許される限り無限に広がるものである。
・この2つの世界(人間・自然)において、近代唯物論は本質的に弁証法的であり、他の科学の上に君臨
 する哲学などは少しも必要ではない。各々の個別科学が、事物及び事物に関する知識の全体のなかで、
 自らその占める位置を明らかにする要求を掲げてそれが明らかになれば、全体の関連を取り扱う特殊科学
 などは不用である。
・p60従来の哲学全体の中で、なおも残存し続けるものは、思惟とその法則とに関する学、即ち、形式論理
 学と弁証法のみである。残ったものは、すべて自然と歴史に関する実証科学の範囲である。
・p60(社会の歴史も弁証法的発展があった)
・自然観におけるこうした変化は、必要な実証的認識素材が与えられた程度に応じて行われたが、歴史観
 に決定的変化をもたらした歴史的事実は、それよりずっと以前に起こっていた。1831年リヨンでの労働者
 蜂起、1838年から1842年には最初の全国的労働者運動たるイギリスのチャーティスト運動がその頂点に
 達した。
・プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争は、一方で大工業が、他方で新たに獲得されたブルジョア
 ジーの政治的支配が発展するに従って、ヨーロッパの先進諸国の歴史の前面に現れてきた。資本と労働と
 の利害は同一であるとし、また、自由競争は広く一般に調和と国民福祉をもたらすと説くブルジョア経済
 学は、事実によって、厳しく化けの皮を剥がされた。
・p60しかるにまだ生き残っていた旧来の観念論的歴史観は、物質的利害にもとづく階級闘争を、いや、
 およそ物質的利害なるものを知らなかった。彼らにとっては、生産といい、一切の経済関係といい、いず
 れも「文化史」の付録にすぎず、その副次的要素にすぎなかった。
・p61(一切の歴史は階級闘争の歴史である。・・・唯物史観の公式
・こういう新しい事実は、従来の歴史を新たに研究し直す必要があった。その結果、従来の一切の歴史は、
 原始時代を除けば階級闘争の歴史であった事が明らかとなった。
(共産党宣言1848年)
・この闘争しあう社会階級は常に生産と交換関係の、一言でいえばその時代の経済的諸関係の産物である
 こと、それゆえに、その時々の社会の経済的構造が、つねにその現実の基礎をなし、歴史上の各時代の、
 法律制度や政治制度はもちろん、そのほかの宗教や哲学やその他の観念様式などの全上層建築は、結局
 はこの基礎から説明すべきものであるという事が明らかになった。
 (「経済学批判」序言の唯物史観の定式参照)
・ヘーゲルは歴史観を形而上学から解放して、それを弁証法的にした、−けれども彼の歴史観は、本質的
 には観念論であった。いまや観念論はその最後の隠れ家たる歴史観から追放され、1つの唯物史観がここ
 に生まれた。それは、従来のように人間の存在をその意識から説明するのではなく、人間の意識をその
 存在から説明する方法であった。(唯物史観)
・p61(階級闘争の正体は剰余価値であった)
・p61これによって、社会主義は、1人の天才の頭脳が偶然発見したものではなくなった。それは歴史的に
 成立した2階級、即ちプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の必然的産物であった。その任務は、
 もはやできるだけ完全な社会制度を考案することではなく、これら階級とその対立とが必然的に生まれ
 てきた歴史的な経済的経過を研究し、これによって作り出された経済状態の中に、この衝突を解決すべ
 き手段を発見することであった。
・p62しかしこの唯物史観は従来の社会主義とは相容れなかった。従来の社会主義は、現存の資本主義的
 生産方法とその結果とを批判はしたが、彼らは、それを説明できず、従って、それをどうすることもで
 きず、ただそれを悪いと非難するだけであった。
・この古い社会主義は、資本主義的生産方法と不可分に結びついている労働者階級の搾取をいかに猛烈に
 非難しても、それがどこに存在するのか、それはいかにして発生するのかを明瞭に説明できなかった。
・p62これを成し遂げたのは、(資本主義的生産における)剰余価値の暴露によってであった。これで、
 不払労働(剰余価値)の取得こそが資本主義的生産方法とそれによって行われる労働者搾取の根本形態
 であることが分かった。
・資本家は彼の労働者の労働力を商品として商品市場で価値どおりに買うことで、それに対して支払われ
 た対価よりも多くの価値をそれから引き出す事、この剰余価値こそが、有産階級の手中に、不断に増大
 する資本量を積み上げるところの価値額を結局は形成するもの(資本蓄積)であることを証明した。
 資本主義的生産と資本の生産の両者の来歴が明らかになったのである。
・p63(社会主義を科学としたのはマルクスである。)
・この2大発見、即ち、唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスに負うと
 ころのものである。社会主義はこの発見によって1つの科学となった。
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『参考』
・(「社会科学辞典」新日本出版社1972年)の解説(p294)では、「エンゲルスは、弁証法の基本法則と
 して次の3つをあげている。@対立物の統一の法則、A量から質への転化(及びその逆)の法則、
 B否定の否定の法則。この3つの基本法則は、互いに切り離されているものではなく、事物の発展
  そのものの中に、関連しあって貫かれている。」
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第二章 「弁証法的唯物論」了。次回は第3章・「資本主義の発展」です。2023/07/23 TOP
(まとめ) 弁証法の諸法則(不破哲三・綱領・古典の連続教室から
 「講義要旨」p21) TOP
量的変化と質的変化  ・否定の否定  ・対立物の統一と闘争

形而上学的な見方弁証法的な見方
連関ものごとを、個々ばらばらに捉える。 ものごとを、世界の全般的な連関の
中で捉える。
変化と運動 ものごとを、固定した、一度与えら
れたらそれっきり変化しないものと
して捉える。
すべてを生成と消滅、運動と変化の
中で捉える。
発展、進歩の契機を重視する。
対立物の捉え方 ものごとを白は白、黒は黒といった
絶対的な対立の中で捉える。
マタイ伝5章37章「然り、然り、否、
否と言え。これに過るは悪より出づ
るなり。」である。(上記P54注4)
対立物を発展の生きた推進力として
捉える。
(対立物の闘争と統一、相互移行)
固定した境界線や「不動の対立」を
認めない。 TOP
マルクス・エンゲルス古典学習会 No.6         2023/09/21  TOP
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会D
第3章・「資本主義の発展」(p65)(その1)
・p65(唯物史観は社会革命の手段を生産関係のうちに見る。)
・唯物史観の命題は、即ち、生産とその生産物の交換が一切の社会制度の基礎である、
また、歴史上のどんな社会でも、生産物の分配、及び階級あるいは身分というような
社会的編成は、何がいかに生産されるか、その生産物がいかに交換されるかによって
決まる、と。
・これによれば、一切の社会的変化と政治的変革の究極の原因は、これを人間の頭の中
に永遠の真理や正義に対するその理解の進歩に求めるべきものではなく、生産と交換の
方法の変化のうちに求むべきものである。哲学のうちに求むべきものではなくて、それ
ぞれの時代の経済のうちに求むべきものである。
・p65今の社会制度は不合理で不正だといったり、条理は通らないといったり・・・そう
いった考えが広まるのは、生産方法と交換形態が暗黙のうちに変化して、これまでの
経済的条件に合わせてつくられていた社会秩序が、それにうまく合わなくなってきた
という証拠に過ぎない。
・同時に、それは次の事を語るものである。即ち、この見いだされた弊害を除去する
手段もまた、この変化した生産関係そのもののうちに−多かれ少なかれ発達した形で
存在しているに違いないということを。この手段もまた、頭で発明されるべきもので
はなくて、生産という与えられた物質的事実の中に、頭を使って発見されるべきもの
であることを。
・p66(資本制生産関係の中で生産方法と生産力が衝突した。)
・現存の社会制度は、今日支配している階級、即ち、ブルジョアジーによって創り出
されたものである。ブルジョアジー特有の生産方法は、マルクスによって資本主義的
生産方法と呼ばれたそれは、封建制度の地方的及び身分的特権とも、人々相互の人身的
関係とも、相容れぬものであった。
・そこでブルジョアジーは、封建制度を打ち壊し、その廃墟の上にブルジョア的社会
制度をうちたてた。それは自由競争、移動の自由、商品所有者たちの同権の王国であ
り、そこにはありとあらゆるブルジョア的な栄光が輝いた。資本主義的生産様式は、
こうして自由に発展できるようになった。
・蒸気と新しい作業機とが旧来のマニュファクチュアを大工業に変えてから、ブルジョ
アジーの主導によって創り出された生産関係は、前代未聞の速さと規模で発展した。
マニュファクチュアとその影響下で発展を続けた手工業とが、ギルドという封建的束縛
と衝突したが、それと同様に、大工業もその発展につれて、彼らにとって狭すぎると
感ぜられる資本主義の生産方法と衝突するようになった。
・これは新しい生産力がそのブルジョア的利用形態を超えて成長したからであって、
しかもこの生産力と生産方法との衝突たるや、人間の原罪と神の正義との衝突といった
ような人間の頭の中で生じた衝突ではなかった。それは客観的に、われわれの外部にあ
り、それを導入した人間の意思や行動そのものからさえも独立して、事実の中に存在す
る衝突であった。近代社会主義とは、こうした事実上の衝突の、思惟的反映以外の何者
でもない。
・p67(この衝突の原因(1)生産方法の社会化)
・資本主義的生産の前の中世では、労働者が彼の生産手段を私有する形態の小経営が
一般的に行われていた。それは、自由農民もしくは隷農による小農の農業、都市の手
工業であった。労働手段−土地、農具、仕事場、道具−は、各個人の労働手段であっ
て、それは個人しか使用せず、従って貧弱で、小型で小さい能力のものだった。
・こうしたばらばらの小さい生産手段を集中し、それを拡大して現代のような強力な
生産の梃子とすること、それこそが資本主義的生産方法と、その担い手たるブルジョ
アジーの歴史的役割であった。15世紀以来、単純協業、マニュファクチュア、大工業
の3段階を経て、彼らがいかにこの役割を果たしたか、マルクスは『資本論』で詳細に
説明した。ブルジョアジーは、かの小さい能力の生産手段を巨大な生産力にする為に、
個々人の生産手段を社会的な、人間の集団によってのみ使用できるように変えざるを
えなかった。
・p68糸車や手織機や鍛冶屋の槌の代わりに、紡績機や力織機や蒸気槌が現れ、個人の
仕事場の代わりに、数百人、数千人の共同作業を要する工場が現れた。そうして、
生産手段がそうなると、生産そのものも、一連の個人的行為から一連の社会的行為に変
わり、生産物も個人的生産物から社会的生産物に変わった。今では、工場から作り出さ
れる糸も、織物も、金属製品もみな多数の労働者の共同の生産物であり、その完成には
多くの労働者の手を順々に通らなければならない。だから、それについて、これは俺が
作ったのだ、それは俺の生産物だ、などとは誰もいえない。
・p68((2)所有(取得)の個人性。)
・ところで、自然発生的に、無計画的に、次第にできあがった分業が、その社会の生産
の基本形態になっているところでは、その分業は、生産物に商品の形態を与え、交換
即ち、売買によって、個々の生産者は種々様々な彼らの欲望を満たすことができるよう
になった。例えば中世では、農民は農産物を手工業者に売り、そのかわりに手工業者か
ら手工業品を買った。
・こうした個人的生産者の社会、商品生産者の社会の中に、新しい生産方法が入り込ん
できた。今まで全社会を支配していた自然発生的、無計画な分業のさなかに、個々の
工場内に生まれたところの計画的な分業が持ち込まれた。個人的生産と並んで、社会的
生産が現れた。
・どちらの生産物も同じ市場で、従ってほぼ同じ価格で売られた。だが、計画的組織は
自然発生的分業よりも強力であり、社会的に労働する工場は、独立の生産者よりその
生産物を安く生産した。個人的生産は、各分野において相次いで倒れ、社会的生産が
旧来の生産方法全体を変革した。
・p69(全19p209)しかし、社会的生産のこの革命的性格はほとんど認識されず、逆
に、それは商品生産を奨励し、促進する手段として取り入れられた。そしてこの
社会的生産は、その成立時点で、既に商品生産と商品交換の促進力であったところの
商人資本、手工業、賃金労働と直接に結びついていた。即ち、社会的生産はそれ自体
商品生産の新しい形態として登場した故に、商品生産の取得形態は社会的生産にも
そのまま引き続いて完全に当てはまった。(※)
エンゲルスは生産の社会的性格と取得の個人的性格の矛盾として資本主義的生産
の基本矛盾を捉えている点で、労働力の商品化による剰余価値生産にその矛盾を捉える
マルクスとは資本主義的生産の矛盾の捉え方が異なっている点に要注意。以下参照↓)
(「資本論辞典」:「資本主義的生産の基本矛盾」p209Vエンゲルスの定式他参照)
・69(上記の(1)と(2)とが資本主義生産の基本的矛盾である。)
・中世に発展していたような商品生産のもとでは、労働生産物が誰のものであるかは
問題となり得なかった。個々の生産者は、普通、自分の原料や労働手段を使って自分
または家族の手労働でそれを生産した。従って生産物に対する所有権は自己の労働に
基づいていた。他人の助力を得た場合でも、・・・例えばギルドの徒弟や職人の場合、
食費や賃金のためというよりは、自分が親方になる修業のために働いたのである。
・そこへ大作業場やマニュファクチュアにおける生産手段の集中、それの事実上の
社会的生産手段への転化が出現した。この社会的生産手段と生産物は、これまでの
ように、個人のものであるかのように取り扱われた。今やそれは彼の生産した物では
なく、全く他人の労働生産物にも関わらず、労働手段の所有者がこれまで通りその
生産物を取得することになったのである。
・p70生産手段と生産は本質的に社会的なものになったが、それを取得するのは、
生産手段を実際に動かし生産物を実際に作りだした人々ではなく、資本家であった。
生産様式は、こうした取得形態の前提(自己労働に基づく所有と市場に持ち込む)を
なくしたにも関わらず、この取得形態に従わせられるのである。
・この矛盾こそ、新しい生産方法に、資本主義的性格を与えるものであり、この矛盾
の内に現代の一切の衝突の萌芽が含まれている。この新しい生産様式が重要な生産領域
に及び、また経済的に重要な諸国を支配するようになり、従って個人的生産が少なく
なると、社会的生産と資本主義的取得の不調和はいよいよ明白に現れてきたのである。
・p71(プロレタリアートの出現)
・資本家が初めて現れたとき、賃労働の形態は既に存在していたが、それは例外で、
副次労働、補助労働、臨時労働にすぎなかった。例えばギルド制度では、今日は職人
でも明日は親方になれるような仕組みになっていた。
・ところが、生産手段が社会的なものとなり、それが資本家の手に集中されると、
事情は一変した。個人的小生産者の生産手段も生産物も、ますます無価値となり、彼ら
にとっては賃金目当てに資本家のもとへ行くより他に途がなかった。以前は例外であ
り、補助的なものであった賃労働は、今や全生産についての常態となり基本形態とな
った。このとき、封建制度の崩壊が起こり、封建領主の家臣団は解体し、農民が農場か
ら追放されたことなどからこういう終身的賃金労働者の数は恐ろしく増大した。
・一方では資本家の手に集中された生産手段と他方では自分の労働力以外何も持たな
い生産者、この両者の分離が完成した。社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は
いまや、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立となって、明白に現れてきた
のである。
・p71(市場における商品の法則が生産者を規制する。)
・p72この商品生産を基礎とする社会の特色は、生産者が彼自身の社会的関係に対する
支配力を失う点にある。彼の生産物に対する現実の需要などは分からない。そこにある
のは社会的生産の無政府性である。しかし、商品生産にはそれ特有の、固有な法則が
ある。この法則はこの無政府性のうちに、無政府性をとおして自己を貫徹する。
・この法則は存続している社会的連関の唯一の形態である交換の内に出現して個々の
生産者に対しては、競争の強制法則となる。それ故、・・・この法則は、生産者から独立
して、生産者の意志に反して、盲目的に作用するところのこの生産形態の自然法則と
して自己を貫徹するのである。生産物が生産者を支配する。
・p72(商品は小生産者の間に出現した。)
・中世社会、とくにその初めの数世紀には、生産は主に自家消費のために行われた。
農村のように人的な隷属関係があったところでは、生産は領主の欲望を満たすことに
も役だった。こういうところには、交換はありえず、生産物は商品の性格を帯びて
いなかった。農民の家族が自分の需要を超えて、また封建領主への物納年貢を超えて
剰余を生産するようになって初めて彼らは、商品なるものを生産したのである。
・p73交換を目的とした生産、即ち、商品生産はようやく始まったばかりだった。
だから交換は限られ、市場は狭く、生産方法は安定していて、対外的には地域的封鎖、
対内的には地域的団結があった。即ち、農村にはマルクが、都市にはギルドがあった
のである。
・p73(資本主義的生産方法とともに商品の法則が支配的となった。)
・商品生産の拡大、特に資本主義的生産方法の登場によって、商品生産の法則が強力に
活動するようになった。旧来の紐帯は緩められ、封鎖の枠は破壊され、生産者は益々
独立のバラバラの商品生産者となった。
・p74この資本主義的生産方法がとった主な手段は個々の生産場内での生産の社会的
組織の高度化であった。ある工業部門にこうした高度の組織が導入されると、その
部門では古い経営方法は共存できなくなった。また、それが手工業に侵入すると、
古い手工業は滅びた。労働の場は戦場と化した。
・かの大陸発見とそれに続いた植民は、商品の販路を拡張し、手工業のマニュファク
チュアへの転化を促進した。地方的生産者同士の闘争が勃発しただけではなく、さらに
それは国民的闘争に発展し、17世紀及び18世紀の商業戦争となった。最後に、大工業
と世界市場の成立は、この闘争を世界的にすると同時にこれを前代未聞の激しいものと
した。・・・敗者は容赦なく一掃される。これはまさにダーウィンの個体の生存競争だ、
それが一層の凶暴さをもって、自然から社会へと移されたのである。
・かくして、社会的生産と資本主義的取得との矛盾は、今や、個々の工場における生産
の組織と全社会における生産の無政府性との対立となった。
・p74(産業予備軍の法則、「窮乏化の法則」。) (エンゲルス独自の表現に注意!)
・資本主義的生産様式(der kapitalisitischen Produkutionsweise)は、その起源に内包して
いるこの矛盾(社会的生産と資本主義的取得との矛盾)を、2つの現象形態に現しなが
ら進み、・・・そこから逃れ出ることができない。・・・大多数の人間をますますプロレタリ
アに変えるものは生産の社会的無政府性という推進力であり、しかもまた、結局はその
無政府性を廃止するのもプロレタリア大衆なのである。(p75)
・p75社会的生産における無政府性という推進力、これがすべての産業資本家に、大工
業において機械をどこまでも改良することを命じ、その必要に応じて各産業資本家は
彼の機械をますます改良する、そうしなければ彼らは没落するしかないからである。
それゆえ、機械の改良とは、とりもなおさず人間労働の過剰化である。
・このように、機械化とその増加が、少数の機械労働者による数百万の手工労働者の
駆逐を意味するならば、機械の改良はますます機械労働者そのものの駆逐を意味する。
結局において、資本の平均的な雇用需要を超過する多数の待命賃金労働者を作り出す。
これは、私が1845年に産業予備軍(industrielle Reservearmee)と呼んだものである。
・それは、産業界が多忙な時期には自由に利用でき、続く恐慌の時には街頭へ放り出さ
れる労働者である。それは、労働者階級の資本との生存闘争において、いつも彼らの
足にまつわる錘であり、賃金を資本の要求に合うように低水準に引き下げる役目をする
調節器である。要するに、機械は、マルクスの言葉を借りて言えば、労働者階級に対す
る資本の最も有力な武器となる。即ち、それによって労働手段は絶えず労働者の手から
生活手段を奪い、労働者自身が生産した生産物は労働者を奴隷とする為の道具となる
のである。
・p76こうして、労働手段の節約は、さしあたり直ちに労働力の仮借なき浪費であり、
労働機能の正常な条件の略奪なのである。そして機械、即ち、労働時間短縮の最有力
手段は、労働者とその家族の全生活時間を、資本の価値増殖に自由に使える労働時間に
変える最も確実な手段となるのである。
・こうして、ある一人の過度労働が他人の失業の前提となり、また、消費を求めて全
地球を駆け巡る大工業は、国内大衆の消費を飢餓の最低限にまで制限し、これによって
自国の国内市場を破壊するのである。マルクスは資本論第1巻第7編第23章資本主義
的蓄積の一般法則で曰く:「相対的過剰人口、即ち、産業予備軍を、常に資本蓄積の
範囲と精力とに均衡させる法則は、ヘファイストスの楔がプロメテウスを岩に釘付け
にしたよりももっと固く、労働者を資本に縛り付ける。それは資本蓄積に対応した貧困
の蓄積を必然化する。それゆえ、一方の極における富の蓄積は、同時に反対の極、即ち
彼自身の生産物を資本として生産する階級の側には、貧困、労苦、奴隷状態、無知、
野獣化、道徳的堕落の蓄積がある」(国民文庫p197〜198)ということだ。
・p77(生産力の拡大と市場の拡大とが矛盾する。以下次ページ参照)
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 「資本主義の発展」(第3章その1)了。      2023/09/21  TOP
マルクス・エンゲルス古典学習会 No.7    2023/09/29(2024.2.6改定)  TOP
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会E
第3章・「資本主義の発展」(p77〜p92)(その2)
・p77(生産力の拡大と市場の拡大とが矛盾する。)
・p77大工業の異常な膨張力は、・・・われわれの眼前にいかなる障碍もものともしない
質的及び量的膨張欲として現れている。市場の拡大は生産の拡大と歩調が合わない。
衝突は不可避となる、しかも資本主義的生産方法そのものを破壊しない限り、他に
解決はありえないから、この衝突は周期的になる。資本主義的生産は新たな「悪循環」
を作り出す。
・p77(それを調整すべく恐慌は繰り返される)
・事実、最初の全般的恐慌が勃発した1825年以来、工業と商業の世界全体、即ち、
すべての文明国民とそれに従属する・・・諸国民の生産と交換は、ほぼ10年ごとに大混乱
に陥った。交易は停止し、市場は充満し、生産物は山と積まれて買い手がなく、現金は
姿を隠し、信用は消え、工場は閉鎖し、労働大衆はあまりに多く生活手段を生産した為
に生活資料に事欠き、破産は相次ぎ、競売が相次いだ。不況は数年間続く、生産力も
生産物も大量に浪費され、破壊される。そして、山積みされた商品が減価して、生産
と交換とが再び動き始めるまで、こういう状態が続く。・・・1825年の恐慌から1877年
では6回目である。その最初の恐慌を見たフーリエは、多血症的恐慌、即ち、過剰に基
づく恐慌と呼んだが、すべての恐慌にそれは当てはまる。
・p78(恐慌とは生産方法の交換方法に対する反逆である。)
・恐慌においては、社会的生産と資本主義的取得との矛盾が爆発する。
 (der Widerspruch zwischen gesellschaftlicher Produktion und kapitalistitischer Aneignung)
しばらくの間、商品流通が止まり、流通手段たる貨幣が流通の妨げとなる。・・・それは
いわば生産方法の交換方法に対する反逆だ。
(生産方法を乗りこえて成長した生産力の反逆だ。『反デユーリング論』選集Mp467)
・p78(恐慌は生産力から資本たる性質を解放することを求める。)
工場内生産の社会的組織が、社会にあってそれを支配している生産の無政府性と相容れ
ないまでになったという事は、恐慌において多くの大資本家とそれよりもさらに多くの
小資本家が倒壊し、それにより強力な資本集中が行われるという事をとおして、資本家
たちにもよく分かるようになる。資本主義的生産方法の全機構は自らの生み出した生産
力の圧力を受けて動きがとれないのである。
・p79それはこの大量の生産手段の全部を資本に転化しえない。そこで、生産手段は
遊休し、それゆえ産業予備軍も遊休する。生産手段、生活手段、自由に利用しうる
労働者も、要するにすべての生産要素と一般的富の要素が過剰なのである。しかも
「この過剰が困窮欠乏の源泉となる。」(フーリエ)
・一方では、資本主義的生産方法は、これ以上これらの生産力を管理する能力がない
ことを認めるしかない。他方では、これらの生産力自体は、ますます強力に、この
矛盾の止揚を求める。つまり、資本としてのその性質から自ら解放されることを、
社会的生産力としての、彼らの性格が事実上においても承認されることを求める。
・p80(それはまず資本の独占−トラストとなる。)
・われわれが諸種の株式会社においてみるように、・・・例えば鉄道のように、大量の
生産手段を社会化された形態におくのである。そしてそれがなお発展して一定段階に
達すれば、この形態でも不十分になる。そこで国内における同一産業部門の大生産者
たちは合同して1つの「トラスト」をつくる。
・これは、生産統制を目的とする合同である、彼らは生産すべき総額を決定し、それ
を各自に割当て、そして予め確定した販売価格を押しつける。しかしこういうトラスト
も営業不振期に出会うと大概は崩壊してしまうので、もっと集中的な社会化をやるしか
ない、即ち、1産業部門全体が唯一の大株式会社に変えられてしまい、国内競争はこの
1会社の国内独占にその席を譲る。(cf.1890年のイギリスのアルカリ生産。)
・p81(トラストはいつまでも許されない。)
・トラストとなれば、自由競争は独占に変わり、資本主義社会の無計画的生産が迫り来
る社会主義社会の計画的生産に降伏するのである。・・・ここまでくると搾取は明瞭なの
で、・・・いかなる国民も、トラストで管理される生産、即ち、少数の利札切の一味によ
る余りにも露骨な全体の搾取を許しておかないであろうから。
・p81(重要産業の国有化は既に行われている。)
・いずれにせよ、資本主義社会の公の代表である国家は、結局、生産の管理を引き受け
ざるをえなくなる。こうした国有化の必要は、まず郵便、電信、鉄道などの大規模な
交通通信機関に現れる。(p81エンゲルスの注:ビスマルクは何ら経済的必要もないの
にプロシャの幹線を国有にした、その目的は戦争の場合によりよく整備してそれを利用
する為であり、また、鉄道官吏を政府の投票家畜として育て上げる為であり、さらに、
より大切な事は、議会の議決を必要としない新しい財源をつくる為であった。・・・
こういうのは、直接にも間接にも、意識的にも無意識的にも、決して社会主義的方策
とはいえないのである。)(国有化は即社会主義化ではないことに注意!)
・p82(資本家もまたその社会的機能を失う。)
・恐慌は、ブルジョアジーには、近代的生産力をこれ以上管理する能力がないことを
暴露した。同様に、大規模な生産や交通機関が株式会社やトラストや国有に転化する
ことは、これらの目的のために、ブルジョアジーが不用であることを示すものと言っ
てよい。
・資本家の一切の社会的機能は今や労働者がやっている。資本家は、収入を巻きあげ
ること、利札を切ること、取引所で投機をやり、資本家同士互いに資本を奪い合う
こと以外に、何らの社会的な仕事をしないのである。資本主義的生産方法は、初めは
労働者を駆逐したが、今や資本家を駆逐し、彼らを労働者と同様に、過剰人口の列の
中に追いやるのである。たださしあたって彼らはまだ産業予備軍ではないだけだ。
・p82(産業国有ではそれは解決しない。)
・しかしながら、株式会社やトラストになっても、また国有が実行されたとしても、
生産力の資本的性質はそれでは廃棄されない。前者についてはこのことは明白である
が、近代国家もまた、労働者や個々の資本家の侵害に対し、資本主義的生産方法の
一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会が作り出した組織であるに
すぎない。
・p83近代国家は、どんな形態をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、
資本家の国家、観念としての全資本家である。生産力の所有をますます多くその手に
収めれば収めるほど、国家は、いよいよ現実の全資本家となり、ますます国民を搾取
する。
・労働者はいつまでたっても賃金労働者でありプロレタリアである。資本関係は廃棄
されないで、いよいよ極端にまで推し進められる。だが、その頂点に達するやそれは
転覆する。生産力の国有は、衝突の解決ではないが、それ自身の内には、この解決の
形式的手段、即ち、そのハンドルが隠されている。
・p83(解決は生産方法の社会的性質の承認にある。)
・この解決は、近代的生産の社会的性質を実際に承認すること、言い換えれば、生産
方法、取得方法、及び交換方法を生産手段の社会的性格に調和させることである。
その為には、社会以外にそれを管理するものがないまでに成長している生産力を、
社会が公然且つ直接に所有することが必要である。
・生産手段及び生産物の社会的性質は、現在でこそ生産者自身に刃向かい、生産方法
及び交換方法を周期的に破壊する、それはただ強力に破壊的に作用する盲目的な自然
法則にすぎないが、右の事が行われると、それらは生産者によって十分意識的に利用
されるようになるであろう。そして混乱や周期的破壊の原因ではなくなり、変わって
生産そのものの最も強力な梃子となるであろう。
・p84(われわれが生産力を支配することができる。)
・社会的に作用している力の作用は、自然力と少しも変わらない。われわれがそれを
認識し、考えにいれない限り、それは盲目的で、暴力的で、破壊的である。だが、
ひとたびわれわれがそれを認識し、その活動、方向、効果などを把握すれば、これを
次第にわれわれの意志に従わせ、これを手段としてわれわれの目的を達成することは
われわれ次第である。ことに今日の強力な生産力についてはそうである。
・われわれがこの生産力の本姓と特色とを理解しない間は−資本主義的生産方法とその
擁護者たちはこれを理解しようとしないが−この力はわれわれに逆らい、反抗し、
われわれを支配する。だが、ひとたびその性質を理解すれば、それを悪魔の支配者から
奪って、共同生産者のものとし、従順な召使いとすることができる。
・そうすれば、社会的生産の無政府性に代わって、全体及び各人の必要に応じた社会的
に計画的な生産の規律が生まれる。こうして、生産物がまず初めに生産者を、ついで
取得者をも奴隷化した資本主義的取得方法の代わりに、近代的生産手段の性質に基づい
て作られた生産物の取得方法ができあがる。
・それは、一方では、生産を維持・拡大する為の手段としての直接な社会的取得であ
り、他方では、生活及び享楽の手段としての直接な個人的取得である。(※)

(※)(資本論第一巻第24章いわゆる本源的蓄積でマルクス曰く:「資本主義的生産様式
から生まれる資本主義的取得様式は・・・自己労働に基づく個人的な私有の第一の否定である。
しかし、資本主義的生産は、一種の自然的必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。
それは否定の否定である。この否定は、私有を再現するのではないが、しかし資本主義
時代の成果を基礎とする個人的私有をつくりだす。即ち、協業を基礎とし、土地の共有
と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有を作り出
すのである。」国民文庫Cp392〜393)TOP

・p85(国家の廃止と死滅)
・資本主義的生産方法は人工の大多数を益々プロレタリアに転化する。彼らは、自ら
没落を免れるためには、どうしてもこの方法を変革せざるを得ない。この生産方法は
既に社会化された膨大な生産手段を次第に国有化させるが、その事のうちに、この
変革の完成の道が示されている。
・p85即ち、プロレタリア−トが国家権力を掌握することでまず生産手段を国有にする。
それは、プロレタリア−トがプロレタリア−トを止揚し、一切の階級差別と階級対立と
を止揚し、そしてまた国家としての国家も止揚することである。
・従来の社会は、階級対立のうちに動いてきたので、国家を必要とした。国家という
のは、その時々の搾取階級の組織、その生産条件を外部からの攻撃に対して維持する
ための組織であった。それは特に被搾取階級を、与えられている生産方法にふさわし
い抑圧の諸条件(奴隷制、農奴制、または隷農制、賃労働制)に暴力的に押さえつけ
ておくための組織であった。
・国家は社会全体の公の代表者であり、全社会を総括した1つの目に見える団体で
あった。しかし、国家がそうしたものであったのは、それぞれの時代に全社会を自ら
代表していた階級のそれであった限りにおいてであった。例えば古代の奴隷所有者の
国家、中世の封建貴族の国家、そして現代のブルジョアジーのそれである。
・しかるに、国家がいつの日か社会全体の本当の代表者となるならば、そのとき、
それは無用物となる。抑圧すべきいかなる社会階級も存在しなくなり、階級支配と
従来の生産の無政府状態に立脚する個人の生存競争がなくなれば、そしてこれから生
ずる衝突と逸脱とがなくなってしまえば、抑圧すべきものはなくなり、特殊な抑圧
権力たる国家は必要ではない。
・p86 国家が実際に社会全体の代表者として登場する最初の行為−社会の名において生産
手段を没収すること−これこそは同時に、国家が国家として行う最後の独立行為である。
・国家権力が社会関係に対して行ってきた干渉は、一領域から他領域へと無用の長物
となり、ついには順々に眠りにつく。人間に対する統治に代わって物の管理と生産過程
の支配が現れる。国家は、「廃止」(abschaffen)されるのではなく、死滅(absterben)す
るのである。こうして、かの「自由なる国民国家」概念はこの点で評価しなければ
ならない。それは一時的には正しいこともあり、科学的用法として究極的には許し得
ないこともある。この点では、無政府主義者の国家の即時廃止の要求も同様である。
・p86(今や社会主義は歴史的必然である。)
・社会における搾取階級と被搾取階級との分裂、支配階級と被支配階級との分裂は、
これまで生産の発展が不十分であったことの必然の結果であった。社会の総労働が、
万人の生存に必要以上に、ごくわずかの剰余しか生産しない間は、従って社会全員の
大多数が終日、労働に従事しなければならない間は、この社会は必然的に階級分裂
せざるを得ない。
・p87専ら労役に使役される大多数とならんで、直接の生産的労働から解放された
一階級が形成され、それが労働の指揮、国務、司法、学問、芸術などの社会の共同
事務を行うのである。故に、階級区分の根底をなすものは、分業の法則である。
・だが、このことは、こうした階級区別が暴力や略奪や詐欺によって行われてきた
ことを妨げるものではない。そしてまた、支配階級がひとたび権力の座に座ると、
労働階級を犠牲にして自己の支配力を強め、その社会の指導力を変じて大衆搾取の
強化に使うことを妨げるものではない。
・p87(その基礎は階級の分裂である。)
・階級分裂は、ある一定の歴史的根拠を持っているが、それはただある一定の期間内
においてのこと、与えられた歴史的条件下においての事である。それは生産が不十分
なためであり、近代的生産力が十分に発展すれば一掃されるに違いない。誠に、
社会階級の廃止は1つの歴史的発展段階を前提とするので、その時になれば、ある
特殊の支配階級はもちろん、支配階級一般、従って階級差別そのものの存在が、時代
錯誤になり、古くさくなってしまうのである。・・・今やわれわれはこういう点に到達
している。
・p88恐慌のたびごとに社会は、自ら駆使しえない生産力と生産物の重圧下に窒息し、
消費者がいないため生産者が何物も消費し得ないという不合理な矛盾に直面して、社会
は茫然自失する。そこで生産手段の膨張力は、資本主義的生産方法が自身にはめた桎梏
を打ち破るのである。
・生産方法がこの桎梏から解放されることは、生産力が絶えず急速に発展していく為
の前提条件である。それだけではない。生産手段の社会的取得は、現存の人為的な
生産制限を除去するだけではなく、現在では生産の不可避的随伴物であり、殊に恐慌
においてその頂点に達するところの生産力及び生産物の積極的浪費と破壊を防ぐ事に
もなる。
・さらにそれは、現在の支配階級及びその政治的代表者たちの馬鹿げた奢侈的浪費を
やめさせるので大量の生産手段と生産物とを全体の自由に利用させる。社会の全員に
対して、物質的に十分満ち足り、その上、日に日に豊富になっていく生活を保障する
こと、それはさらにまた、彼らの肉体的・精神的能力の完全にして自由な発展と活動
とを保障する可能性、そういう可能性が今はじめてここにある。
・p89(社会主義とは計画的生産である。)
・社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、従って生産者に対する
生産物の支配も除去される。社会的生産内部の無政府状態に代わって計画的意識的な
組織が現れる。個人の生存競争は消滅する。こうして初めて人間は、ある意味では、
動物界から決定的に区別され、動物的生存条件を脱して真に人間的なそれに入る。・・・
・p90従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。
こうなってはじめて、人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる。これより後、
初めて人間が動かす社会的諸原因が、主として、また益々多く、人間の希望するよう
な結果をもたらすようになる。それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である。
TOP
・p90〔結論として、歴史的発展の概括〕
1,中世社会。小規模な個人的生産。生産手段は個人的使用に適したものであり、
従って原始的で、不細工で、その力は貧弱である。生産は、生産者自身のため、又は
封建領主のため、直接消費を目的とした生産。この消費以上に生産の剰余ができた
場合にかぎり、販売に提供され交換される。従って、商品生産がようやく発生した
ばかりである。しかし、社会的生産における無政府状態は萌芽的にこの内に含まれて
いる。
2,資本主義的革命。まず単純協業とマニュファクチュアーによる工業の変革。
従来分散していた生産手段の大工場への集中により、個々人の生産手段が社会的生産
手段に転化される。−しかし、この転化は大体において交換の形態に影響しない。
旧来の取得形態はそのままである。資本家が出現し、彼は生産手段の所有者としての
資格において生産物を取得しそれを商品に転化する。生産は社会的行為となったが、
交換は取得とともに依然として個人的行為である。社会的生産物が個々の資本家に
よって取得される。この根本矛盾から、・・・一切の矛盾が発生する。
A、生産手段からの生産者の分離。労働者に対する終身賃金労働者の宣告。
プロレタリア−トとブルジョアジーとの対立。
B、商品生産を支配する法則が次第に優勢となりその効力を増大する。
無制限の競争戦。個々の工場内の社会的組織と生産全体における社会的無政府状態
との矛盾。
C、一方では機械の改良、これは競争を通じて個々の工場主すべてに対する強制命令
となり、同時に又、不断に増大する労働者の解雇、即ち、産業予備軍を意味する。
他方では、生産の無制限の拡張、これも、各工場主に対してなされる競争の強制法則
である。−この両面から生産力の発展は前代未聞の域に達する。供給は需要を超える、
生産過剰、市場の氾濫、10年ごとの恐慌、悪循環。即ち、一方において生産手段と
生産物の過剰他方において仕事がなく生活資料のない労働者の過剰。
そして生産の槓杆と社会的福祉の槓杆は共存できない。なぜか、生産の資本主義的
形態は、生産力と生産物とは予め資本に転化することなくして、活動し流通すること
を禁ずるからである。ところがまさしく生産力と生産物の過剰でそれを妨げるから
である。この矛盾が拡大したとき、不合理なことがおこる。生産方法が交換形態に
対して反逆するのである。これにより、ブルジョアジーもこれ以上彼ら自身の社会的
生産力を指導する能力がないことを認めさせられるのである。
・p92 D、資本家自身も余儀なく、生産力の社会的性格を部分的に承認する。
生産及び交通の大機関は、最初は株式会社によって、次はトラストによって、それから
国家によって取得される。ブルジョアジーは無用の階級であることが自ずから明らかに
なる。彼らの一切の社会的機能は今や月給取りによって行われる。
・p92 3,プロレタリア革命。矛盾の解決。プロレタリア−トは公的権力を掌握し、
この権力によってブルジョアジーの手から離れ落ちつつある社会的生産手段を公共
所有物に転化する。この行動によって、プロレタリアートは、これまで生産手段が
もっていた資本という性質からそれを解放し、生産手段の社会的性質に自己を貫徹
すべき自由を与える。こうして今や予め立てた計画に従った社会的生産が可能となる。
・生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする。社会的
生産の無政府性が消滅するにつれて国家の政治権力も衰える。人間はついに人間特有
の社会的組織の主人となった訳で、これにより、また自然の主人となり、自分自身
の主人となる。−要するに自由となる。
・この解放事業をなしとげること、これが近代プロレタリアートの歴史的使命である。
この事業の歴史的条件とその性質を探求し、以てこれを遂行する使命をもつ今日の
被抑圧階級に、彼ら自身の行動の条件及び性質を意識させる事、これがプロレタリア
運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。

 「資本主義の発展」(第3章その2)了。      2023/09/29 TOP
英語版への序文(史的唯物論について)1892年 その1 (p95〜p130) TOP
マルクス・エンゲルス古典学習会 No.8     2023/10/31(2024.2.6改定)
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会F(まとめに代えて@)
英語版への序文(史的唯物論について)1892年(p95〜p115) @/A
・p95(反デユーリング論と本書の関係)
・p95この小冊子は1875年頃、ベルリン大学の私講師E・デューリング博士の社会主義理
論と社会改造計画に対する反撃の書として書かれた『反デユーリング論』の中から友人の
ポール・ラファルグ(当時フランスの下院議員)の求めに応じて、3章をまとめてパンフ
レットにしたものである。
・p97ラファルグは、これをフランス語に翻訳して1880年に『空想的社会主義と科学的
社会主義』という表題で出版したが、1883年にはドイツ語で出版された。このドイツ語
原本を基にして英語版が出された。これでこの小冊子は10カ国語で流布されることにな
った。これほど翻訳の多いものはなく、1848年の『共産党宣言』や『資本論』でさえ、
これに及ばない。
・98(本書は近代の資本の説明である。)
・本書に用いられた経済学的用語は、それが新語である限りマルクスの『資本論』の
英語版と同一である。われわれが「商品生産」と呼んでいるのは、物品が生産者の使用
の為ではなく、交換の目的で、即ち、使用価値としてではなく、商品として生産される
経済状態のことである。・・・それが十分な発展を遂げたのは、ただ資本主義的生産のもと
においてのみである。
・それは、生産手段の所有者たる資本家が、自己の労働力以外の一切の生産手段を奪われ
た人間、労働者を、賃金をもって雇い、その生産物の売値が彼の支出を上回る部分を着服
するような条件が整った時である。
・われわれは中世以降の工業生産の歴史を3期に分ける。(1)手工業。小親方手工業者が
少数の職人と徒弟をかかえ、ここでは労働者各人は完成品を生産する。(2)工場制手工業。
(マニュファクチュア)ここでは、1つの大作業場に多数の労働者が集められ、分業の
原理に従って完成品を生産する。労働者はただ部分的作業をするだけであり、従って生産
物はすべての人々の手を順次通過した後はじめて完成される。(3)近代工業。ここでは、
生産物は動力で運転される機械によって生産され、労働者の仕事は機械装置の作業を監視
し調整することだけである。
・p99(われわれは唯物論であり、それはイギリス人が始めた。)
・あらゆる近代唯物論の本家本元はイギリスであり、その先祖はベーコンである。彼に
とっては自然科学が唯一の真の哲学であり、感覚の経験の上に立てられた物理学が自然科学
の最も主要な部分である。アナクサゴラスとその元素同質論、デモクリトスとその原子論、
この両者が彼の典拠となっている。
・p100彼によれば、感覚は誤りのないもので、全ての認識の源泉である。すべての学問
は経験を基礎とし、それは感覚によって与えられた素材に合理的研究方法を適用してでき
るものだ。帰納、分析、比較、観察、実験、これが合理的研究方法の主要形態である。
唯物論の創設者ベーコンにあっては、唯物論はまだ多面的に発展する萌芽を含んでいた。
一方では、物質は、感覚的な詩的な魅力を包んでいて、その微笑をもって全人類を引きつけ
ることができた。他方では、格言的な形のこの学説には、神学からもたらされた矛盾の芽が
出そうでもあった。
・p101(ホッブスの唯物論)・・・「唯物論がさらに発展したとき、それは一面的となった。」
・ホッブスはベーコンの唯物論を体系づけた。感覚的知識はその詩的な華やかさを失い、
数学者の抽象的な経験となった。幾何学が科学の女王とされた。・・・唯物論は感覚的
存在ではなくなり、知的存在となった。そうすることで、知性の特色である首尾一貫性
をその結論はともかく貫徹したのである。
・ホッブスはベーコンの後継者として、次のように論じている。「人間の知識は全て感覚に
よって与えられるとするなら、われわれの概念や観念は、現実の世界から、感覚的形態を
はぎとったその幻影である。哲学とはこうした幻影に名称を与えるだけのものだ。(唯名論)
しかし一方で、全ての観念の起源は感覚の世界にありと言いながら、他方で1つの言葉は1つ
の言葉以上を意味するといっては、それは矛盾である。それなら、われわれの感覚によって
知られる実在物、一切の個体の外に、それとは別に、個別的でない一般的性質の実在物がある
といっては、それも矛盾であろう。・・・物体、存在物、実体とはいえ、いずれは同一の実在の
異名である。思想と思惟するところの物質とは切り離すことはできない。 この物質こそ、
世に行われているあらゆる変化の主体である。・・・」
・p102(ロックを通じてイギリスの唯物論は理神論となった。)
(ベーコン・ホッブス・ロック)
・ホッブスはベーコンを体系づけたが、全ての人間の知識は感覚的世界から生ずるという
ベーコンの根本的原理には立ち入って証拠を挙げなかった。それをなしたのはロックで
あった。(『人間悟性論』)・・・何にしても、実践的唯物論者にとっては、理神論は宗教から
解脱する近道以外の何物でもなかった。
(マルクス『神聖家族』ME全集第2巻p130〜 (d)フランス唯物論に対する批判的戦闘)
(フランス唯物論には2つの方向があって、1つはデカルトにその起源を発し、他はロック
にその起源を発している。後者は特にフランス的教養の一要素であり、直接に社会主義に
注いでいる。前者即ち、機械論的唯物論は、本来のフランス自然科学に流れ込んでいる。
2つの方向は発展の途上で交差している。・・・p104)
・p103(18世紀はフランス唯物論の世紀であった。)
・その長い歴史の最後を飾ったものがあのフランス大革命であった。そしてこの革命の結果
を、我々局外のイギリスやドイツが移植するために、今も努力しているのである。
・p103(19世紀イギリス人は迷信家である。)
・19世紀中頃、イギリスの上品な中流階級の宗教的頑迷さと愚昧さにはそこに居を定めた
すべての教養ある外国人を驚かした。
・104(この不徹底が不可知論である。)
・しかし、イギリスはその後「開けて」きた。1851年の博覧会はイギリスの島国的排外主義に
弔鐘を鳴らした。サラダ油の輸入と普及に伴って、宗教的事柄についても大陸の懐疑主義が
普及した。しかし、不可知論は外国産ではなく、疑いもなくイギリス産であった。
・p104不可知論の自然観は徹頭徹尾唯物論的である。全自然界には法則が支配していて
それに対して外からの作用は絶対に許されない。彼らはそれに加えて、我々の知っている
宇宙の彼方に、何らかの最高実在者がいるかいないか、それは確かめる方法も否定する方法も
ない、という。
・p105今日、われわれの進化的宇宙観には、造物主または支配者をいれる余地はない。
また、現存の全世界と全く切り離された最高実力者というのも、言葉の矛盾だ、その上、
そうした言い方は宗教的な人々の感情をいわれなく侮辱する。
・p107(新カント派の不可知論)
・新カント派の不可知論は言う。物の性質を正しく知覚することは出来るかもしれないが
感覚的、ないし思惟的な過程では、「物自体」は把握できない。「物自体」はわれわれの
認識の彼方にある、と。これに対してヘーゲルはとうの昔に答えている。諸君が物の性質
を何もかも知ったとき、そのことは物自体が分かったことになる、我々がいなくてもその
物が存在しているという事実がある、それだけでたくさんではないか、と。
・科学の素晴らしい進歩によって、分かりにくかったものが次々に把握され、分析された
のである、それどころか再生産されるまでになった。いやしくも、我々が作りうるもの
をわれわれが認識しえないとは考えられない。
・p108
わが不可知論者は、彼が科学者であり、何かを知る限りでは、彼は唯物論者であるが、科学
の埒を出て彼の知らない領域に入ると、彼は自己の無知を、ギリシャ語に翻訳して不可知論
と呼ぶのである。
・p109(私の史観も唯物論である。)
・史的唯物論とは、あらゆる重要な歴史的事件の窮極原因とその大きな原動力を、社会の
経済的発展のうちに求める史観である。生産と交換の方法の変化のうちに、またそれより
出てくる社会の異なった諸階級への分裂のうちに、さらにこれら諸階級の相互の闘争の
うちに求める史観である。
・p110(ブルジョアジーは封建制度を崩壊させた。)・・・イギリス人の宗教性について
・ヨーロッパが中世から抜け出てきた時には、都市の新興中流階級は革命的であった。
彼らは中世の封建的組織内部では既に一定の地位を闘いとっていたが、彼らの膨張力に
とってはその地位は、あまりにも狭くなっていた。中流階級即ち、ブルジョアジーの自由な
発展はもはや封建制度を維持することを許さなかった。
・p110(ローマ教会の封建制はなかなか亡びなかった。)
・しかるに封建制度の国際的大中心地は、ローマのカトリック教会であり、この教会は
その内部にあらゆる争いを内蔵している封建西ヨーロッパの全体を一大政治組織に統一
して、マホメット教諸国と分離派のギリシャ人とに対抗していた。この教会は封建制度を
神聖な聖列式の後光でつつみ、教会自身の位階制をも封建制に型どって組織していた。
・そして、彼ら自らが最も有力な封建領主であって、カトリック世界の領土の優に1/3
を領有していたのである。それゆえ、俗界の封建制を各国で細部に至るまで攻撃しようと
すればまずもってこうした教会の聖なる中心組織が破壊されねばならなかったのである。
・p110(科学と宗教の争いは長かった。)
・中流階級が勃興するにつれて科学も大復興した。天文学、機械学、物理学、解剖学、
生理学の勉強が始まった。ブルジョアジーは、その工業生産の発展の為に、自然物の
物理的性質と自然力の活動様式を突き止める科学を必要とした。
・しかるに科学は、従来、教会の賤しい侍女であって、信仰によって定められた限界を
越えることは許されなかった。今や科学は教会に叛旗を翻しブルジョアジーは科学を必要
としてこの叛逆に加担した。
・p111以上、新興中流が既成宗教と衝突すべき2点を上げただけだが、次の事は明らか
である。第一、ローマ教会の権勢に対する闘争に最も直接の利害をもった階級はブルジ
ョアジーであった。第二、封建制度に対する一切の闘争は、当時としては、宗教に扮装
しなければならず、何よりもまず、教会に向けられねばならなかった。
・そして、初めに反抗の声を上げたのは大学や都市の商人であったが、その声は、地方
の大衆の間に、即ち、自分自身の生存の為に精神上及び世俗上の封建領主と至る所で
闘争しなければならなかった農民の間に、力強い反響を見いだしたのである。
・(封建制度に対する三大戦争)
・ブルジョアジーの封建制度に対する闘いは長かったが、その頂点をなす3大決戦が
あった。
・p111(第一の革命、ドイツの宗教改革)
・第一は、ドイツの宗教改革である。ルターが教会に対してあげた叛逆に呼応して2つ
の反乱が生じた。1つは、1523年のフランツ・フォン・ジッキンゲンに率いられた下級
貴族の反乱であり、いま1つは、1525年の大農民戦争である。
・この時以来、この闘争は地方の諸侯と中央権力の争いに退化して、ドイツはその後の
200年間、ヨーロッパの活力ある政治的な国民の仲間から外れてしまった。かくして、
ルターの宗教改革は、新しい信条を作り出しはしたが、それは絶対王政に適合した宗教
であった。東北ドイツの農民は、ルター主義に改宗するや否や、自由民から農奴に転落
させられたのである。
・p112(カルヴィンの宗教改革の性質)
・しかし、ルターが失敗したところで、カルヴィンが成功した。彼の予定説は、商業世界
は競争で、そこでの成敗は個人の働きや智力にはよらない、彼自身の制御しえない諸事情
によるという事実を、宗教的に表現したものであった。高く優れた未知の経済力の恵みに
よるのであると、これは、経済の革命時代においてはすごく真実であった。この時は、
旧来の商業上の通路や中心が全て新しいものにとって代わられていた時であり、インドと
アメリカが世界に開放されていた時であり、そして最も神聖な経済上の信仰の的であった
金銀の価値までも動揺し、崩壊し始めていた時であったからだ。
・また、カルヴィン教会の組織は全く民主的であり、共和的であった。既に神の王国が
共和化されてみれば、現世の王国が君主と司教と領主に従属していることができようか?
こうしてドイツのルター主義は諸侯に握られて従順な道具になったのに対し、カルヴィン
主義は、オランダでは共和国となり、イギリス、特にスコットランドでは強力な共和党を
打ちたてるに至った。
・p113(第二の革命、イギリスの名誉革命。)
・カルヴィン主義による動乱が起こったのは、イギリスであった。起こしたのは都市の
中流階級で、この闘いをやり抜いたのは地方農村の自営農民(ヨーマンリー)であった。
・ブルジョアジーの3大叛乱において実践的軍隊を農民が供給した事、その勝利後に、
勝利の経済的効果によって壊滅される階級もまた農民であった。クロムウエルの後100年
にして、イギリスの自営農民は、ほとんどその影を没した。いずれにしても、この自営
農民と都市の賤民要素がなければ、ブルジョアジーだけではあそこまで戦い抜けなかった
であろう。・・・1793年のフランスや1848年のドイツでもまさしくそうであった。
・p113(名誉革命の性質。)
・革命的活動のこうした行き過ぎには、不可避的な反動が続いたが、この反動もまた行き
すぎて、闘争は長く続いたが、1689年の比較的小さな事件で終わった。それをリベラルな
史家は、「名誉革命」と名付けた。
・p114(それはブルジョアジーと旧封建地主との妥協であった。)
・この新しい出発点は、新興中流階級と旧来の封建大地主との妥協であった。後者は、
当時も今日も貴族と呼ばれている。幸いなことに、彼らは、イギリスでは・・・封建的という
よりはブルジョア的風習と傾向をもった全く新しい一団であった。彼らは、貨幣価値を熟知
しており、小農民を放逐して代わりに羊を飼って、地代の増加を図った。ヘンリー8世は、
教会領を潰して大量にブルジョア新地主を創り出した。また、夥しい土地を没収して、
全くの成り上がり者にそれを分け与えることが17世紀全体を通じて行われたが、結果は
同様であった。
・その為、イギリスの「貴族」は、ヘンリー7世以来工業生産によって間接に利益を
得ようとした。その上、大地主の一部には、経済的、政治的理由から、金融及び産業
ブルジョアジーの指導者と協力しようとした。1689年(名誉革命)の妥協が簡単に成功
したのはこの為であった。金融と製造業と商業の中流階級の経済的利害関係を十分に配慮
するという条件で、「金と権」についての政治的利権のやりとりは、大土地所有家族に
任されていた。それ故、細事は別としても大局的には、貴族的寡頭政治は、彼ら自身の
経済繁栄が工業や商業の中流階級のそれと不可分に結びついていることを熟知していた
のである。
・p115(この妥協の為に宗教が利用された。)・・・以下、次ページへ。

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エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会G (まとめに代えてA)
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・p115(この妥協の為に宗教が利用された。)
・この時以来、ブルジョアジーは控えめだが公認されたイギリス支配階級の一構成分子
となった。勤労国民大衆を隷属の状態におくことについては、彼らは、他の支配階級と
その利害を異にしなかった。商人や製造業者自身は、その店員、その職人、その家僕に
対して「主人」であった。
・彼としては彼らにできるだけ多くできるだけ良く働かせる方が得であった。その為には
彼らに適切な服従の訓練を施さねばならなかった。彼自身信心であった。彼の宗教は、
彼の国王や諸侯に対する戦において彼が誰のために闘っているかを示す旗印であった。
・間もなくこの同じ宗教が「生まれつき目下」の心に、神が彼らの上に与え給うた主人
の命令を従順にきかしめる働きを持っていることを、彼は知った。要するに、イギリス
のブルジョアジーは今や「下層階級」たる生産的国民大衆を抑圧する事に一役買わねば
ならなかったのであり、そしてこの目的の為に用いられた手段の一つが宗教の力であった
のだ。
・p115(他方、イギリスの唯物論は権力と結びついた。)
・ブルジョアジーを宗教に頼らしめたもう一つの事実は、イギリスにおける唯物論の勃興
であった。宗教は無教育な大衆、ブルジョアジーもそれに含まれる大衆には適当である、と
ホッブスはそういって、君主の大権と全能とを擁護し、絶対主義の君主にむかって、強健で
はあるが意地悪の子供たる、国民を抑圧すべしと呼び掛けた。
・p116同様に、ホッブスの後継者のボリングブロークやシャフツベリなども、この新し
い理神論的形態の唯物論は、貴族的・神秘的教義であった。それ故、この論はその宗教
的異端性からも、その反ブルジョア的政治関係からも中流階級(ブルジョアジー)にとって
は憎らしいものであった。
・そこでこの貴族の唯物論と理神論とに反対して、・・・かのプロテスタントの一派は、引き
続いてこの階級の主力となったのである。それが今日でも「大自由党」の背景となって
いるのである。
・p116(フランスの唯物論は革命的であった。)
・しばらくして唯物論はイギリスからフランスに渡り、そこで別派の唯物論哲学者であっ
たデカルト派に出会ってこれと合流した。フランスでも唯物論は当初は純然たる貴族的
教義であったが、間もなくその革命的性質が正体をあらわした。
・フランスの唯物論者は、その批判を宗教的信仰の問題に限定せず、科学的伝統や政治的
組織にも批判を向けて、かの一大著作百科全書を作り、あらゆる問題にそれを応用して
みせた。彼らは、百科全書派と呼ばれるようになった。
・p117こうして唯物論は、広くフランスの教養ある青年全体の信条となり、そこで大
革命が勃発したときには、イギリスの王党によって生みだされたこの教義は、フランス
の共和主義者やテロリストの理論的旗幟となり、人権宣言のテキストに用いられた。
・p117(第三の革命、フランス革命。)
・フランス大革命はブルジョアジーの蜂起としては第3番目のものであったが、宗教の
外衣を脱いで、粉飾のない政治的地盤の上で戦い抜かれたものとしては、最初の蜂起で
あった。それは又、一方の戦いの貴族が滅亡し、他方の戦い手のブルジョアジーが完全
に勝利を得るまで闘いぬかれた点では、最初のものであった。
・イギリスでは、革命前と革命後の制度が続いている。そして地主と資本家との間に
妥協があった証拠には、判例が存続しており、法律の封建的諸形態が宗教的に保存され
ている。
・フランスでは、革命は過去の伝統との完全な絶縁であり、それは封建制度の最後の痕跡
をも一掃した。そして「民法典」では古代ローマ法を見事に採用して、それをマルクス
が商品生産と呼ぶ経済段階、即ち、近代資本主義の諸条件に適応する法律関係のほぼ完全
な表現としたのである。この革命的法典はできが素晴らしかったので、今日でも他のあら
ゆる国々で財産法改正の際には、模範として役立っている。この点ではイギリスも例外
ではない。
・p118(フランス革命によりイギリスブルジョアはいよいよ信心になった。)
・フランス革命は、イギリスのブルジョアにとっては大陸の君主国の援助をえて、フラ
ンスの海上貿易を破壊し、フランスの植民地を併合し、海上競争者としてのフランスの
野望を砕く絶好の機会であった。これがイギリスのブルジョアがフランス革命と戦った
1つの理由であった。
・もう一つの理由は、革命のやり方が気に入らなかったことであった。呪うべきテロリ
ズム、ブルジョア支配の極端化の試みもそうであった。イギリスのブルジョアは、この時
この貴族がいなかったらイギリスはどうなるのかと思ったのである。というのは、あの
作法をイギリスのブルジョアに教え、あの服装を工夫してくれたのも貴族だったからだ。
・また、国内秩序を維持する陸軍と植民地の領土や海外の新市場を征服する為の海軍に
将校を供給してくれたのも貴族であったからだ。
・p119(イギリスブルジョアの信心は大陸の革命に対する反動である。)
・こうして唯物論がフランス革命の信条となったとき、敬虔なイギリスのブルジョアは、
いよいよ強く彼らの宗教にしがみついた。大衆の宗教的本能がなくなればどんな結果に
なるか、パリの恐怖政治がそれを証明したではないか?唯物論がフランスから隣国に広ま
り、・・・特にドイツ哲学によってそれが強化されればされるほど、また事実、唯物論と
自由思想とが、大陸において教養ある人士の必須の資格になるに従って、ますます頑固
にイギリスの中流階級は、多様な宗教的信条にしがみついたのである。
・p119(産業革命によってブルジョアジーの政治的地位はいよいよ確立した。)
・フランスで革命がブルジョアジーの政治的勝利を確立したのに対して、イギリスでは、
ワット、アークライト等々の人々が産業革命を起し、これが経済力の中心を完全に移動
させた。ブルジョアジーの富は、土地貴族のそれよりも急速に増大した。
・ブルジョアジー自身のうち、金融貴族、銀行家などが次第に後退して製造業者が頭を
出した。1689年の妥協は、ブルジョアジーに有利に変化して、関係当事者の当時の地位
にそぐわなくなった。これら当事者の性格もまた変化して、1830年のブルジョアジーは
前世紀のそれとはずいぶん違っていた。
・政治権力はなおも貴族の手にあって、新しい産業ブルジョアジーの要求に対抗する為
に行使されたが、そうした政治権力は新しい経済的利害関係とは両立しなくなった。
貴族との新しい闘争は辞すべからざるものであり、それは、新しい経済力の勝利以外に
は結末はあり得なかった。
・1830年のフランス革命に刺激されて、選挙法改正案が強行された。これによりブル
ジョアジーは議会で公認された有力な地位を得た。ついで穀物条例が廃止され、これに
よりブルジョアジー、特に活動的な製造業者は、土地貴族に対する優越を一挙に確立
した。これはブルジョアジーの最大且つ最後の勝利であった。これより後は、どんな
勝利でも、彼らはそれを1つの新しい社会的勢力に分配しなければならなくなった。
この新勢力は最初は彼らの同盟者であったが、間もなく彼らのライバルとなった。
・p120(ブルジョアジーが政党をつくるとプロレタリア−トもそれに応じた。)
・産業革命は多数の工業資本家という1つの階級をつくり出したが、それはまた、遙か
により多数の工業労働者という階級をもつくり出した。この階級は、産業革命が工業の
一部門から他の部門に波及するに比例して、その数を増し、その勢力を増大した。
・p121はやくも1824年には、いやがる議会を強制して、労働者の団結禁止の諸法令を
廃止させるほどの実力をこの勢力は実証した。そしてかの選挙法改正運動においては労働
者は改革派の左翼であった。
・ついで、1832年の法令では、彼らは選挙権から除外されたので、その要求を掲げて
人民憲章を作り、さらに大ブルジョアの穀物条例反対同盟に対抗して、自ら1つの独立
の党、チャーチスト党を組織した。これが近代における最初の労働者の政党であった。
・p121(ブルジョアが宗教に助けを求めた。)
・1848年の2月、3月の大陸の革命では、労働者が重要な役割を果たした。しかし、
やがて全般的な反動がやってきた。まず1848.4.10のチャーチストの敗北、同年6月の
パリ労働者の叛乱の大敗北、次いでイタリア、ハンガリー、南ドイツにおける1849年の
惨事、そして最後には1851.12.2のルイ・ボナパルトのパリ征服。
・イギリスのブルジョアはこれらの経験を経て、庶民を宗教的気分に浸しておくことの
必要を痛感した。彼らは、下層社会に対する福音伝道の為に、年々数千万の大金を使い、
・・・アメリカの宗教復興運動を輸入した。最後には救世軍の危険な援助をも受け入れた。
この救世軍たるや、原始キリスト教の宣伝を復興し、貧者を選民として訴え、宗教的な
やり方で資本主義と闘争するものであった。それは原始キリスト教徒の階級闘争の要素
を育成するものであった。
・p122(ブルジョア支配の独占は長くは続かない。)
・ヨーロッパのいかなる国でもブルジョアジーはその政治権力を中世の封建貴族ほど
長期間、完全には独占できない。これが歴史の発展法則であるように思われる。
フランスは封建制度が一掃された国だが、そこでもブルジョアジーが完全に政権を握っ
たのは、きわめて短期間にすぎなかった。
・1830年から48年に至るルイ・フィリップの治世でこの王国を支えたのはごく少数の
ブルジョアジーであり、大部分は選挙権が持てなかった。1848年から51年に至る第二
共和国時代にはブルジョアジー全体が支配の地位についていたが、その期間はわずか
3年にすぎなかった。彼らが無能力だったために第二帝国ができた。ブルジョアジーが
全体として20年以上も政権をとっているのは、現在の第三共和国だけであるが、その彼
らにも既に没落の兆候が著しい。
・ブルジョアジーの永続的な支配は、封建制が存在したことがなく、当初からブルジョア
的基礎の上に出発したアメリカのような国でなければ可能ではないらしい。しかもその
フランスやアメリカでさえ、ブルジョアジーの後継者たる労働者が既にドアをノック
しているのだ。
・p123(イギリスのブルジョアは今なぜ貴族を必要とするのか。)
・イギリスでは、ブルジョアジーが支配を独占しきったことは一度もない。1832年の
勝利の時でも、政府の要職は土地貴族が握っていた。概して当時のイギリス中流階級は
全く無教養な成り上がり者であったので、・・・政府の要人は貴族に委ねねばならなかった
のである。
・イギリスのブルジョアジーは、今日でも社会的劣等感を深く抱いているので、彼らは、
一切の国家活動において国民を立派に代表させる為に、装飾的な雄蜂を養い、その為に、
自分も費用を出し、国民にもそれを出させているのである。
・p125(イギリスの労働階級もブルジョア意識を持った。)
・こうして、商工業の中流階級が土地貴族を政治権力から完全に駆逐するのにまだ成功
しきっていないときに、今ひとつの競争者、労働者階級が現れたのである。だが、
チャーチスト運動と大陸の革命の反動、さらにまた1848年から1866年にかけてのイギリ
ス貿易の比類なき発展(鉄道、汽船、その他交通機関の発達によるところが大きい。)、
これらは、この労働者階級をまたもや自由党の付属物にさせ、彼らは、チャーチスト前の
時代同様、自由党の急進的な一翼となった。
・しかしながら、選挙権に対する彼らの要求は次第に押さえつけられなくなり、選挙区の
改正、無記名投票制、などが実施され、労働者階級の選挙権を著しく増大させた。
ただ、議会政治は、伝統尊重を教え込むには絶好の学校である。その学校で、一方、中流
階級はJ・マナーズ卿がいみじくも「わが由緒正しき貴族」
と呼んだ人々に対して畏敬と尊敬を払うことを覚え、他方、労働者大衆の方は「目上の人々」
と呼び慣らされた中流階級を尊敬と謙譲とをもってながめるようになった。
・p126実際に、約15年前のイギリス労働者というのは模範的労働者であって、その主人
の地位に対しては尊敬、自己の権利主張には謙譲の美徳を持っていた。そのことは、
自国の労働者について、その度しがたい共産主義的革命的傾向を嘆ずるわがドイツの
講壇社会主義派と称するわがドイツの経済学者にとっては、せめてものなぐさみであった。
・p126(労働者階級にも宗教が与えられた。)
・しかし、イギリスの中流階級は、・・・チャーチストの時代を通じて、かの強健ではある
が兇悪なる子ども、即ち、人民なるものが、何をなしうるものであるかを知った。その時
以来、彼らは人民憲章の大半を、やむなく、イギリス国王の法令中に取り入れてきた。
残るところは、人民を道徳的手段によって制御するしかなかった。その第一に重要なのは
宗教で、それ以外には何もなかった。かくして、学務委員の多数は坊主によって占められ、
儀式派から救世軍に至るあらゆる種類の宗教復活運動支持の為に、ブルジョアジーは益々
自腹を切った。
・p126(では宗教が大陸の労働者階級の赤化を救うか。)
・こうして、今や大陸のブルジョアの自由思想と宗教的無関心とに対してイギリスの
お上品気質が凱歌をあげた。フランスやドイツの労働者は叛逆的になってきた。彼らは
社会主義に深く感染し、極めて当然ながら、彼ら自身の地位を高める為にとる手段につ
いて、彼らは必ずしも合法性にはこだわらなかった。・・・フランスとドイツのブルジョア
ジーにとって、残された手段といえば、この上は彼らの自由思想を黙って捨てるだけだ。
・p127こうして今では、宗教を嘲笑した人が次第にうわべだけ信心深くなり、教会や
その教義や儀式の話になると、慎み深い言葉を使うようになった。フランスのブルジョア
ジーは金曜日ごとに精進料理を食べ、ドイツのブルジョアジーは日曜日ごとに教会の椅子
に座って、長たらしいプロテスタントの説教を最後まで聞くようになった。
・彼らは、唯物論を持て余すようになった。「宗教は国民のために護持せねばならぬ。」
−社会を完全な破滅から救う唯一にして最後の手段はこれだというようになった。
しかしながら、彼らがこのことに気づいたときには、彼らが全力で宗教を永久に破壊して
しまったあとであった。
・p127(宗教で赤化を防ぐ事はできない。)
・イギリスのブルジョアが宗教的にいかに頑迷であっても、大陸のブルジョアが今頃いか
に改宗しても、プロレタリアの上げ潮は、そんなことでは止まるまい。伝統は偉大な阻止力
であり、歴史の惰力ではあるが、それは結局受動的なものであり、いずれは亡びるに
決まっている。だから、宗教も資本主義社会を永久に守る防壁ではない。(※)
(※21Cにおける今日、ガザ地区におけるハマスとイスラエルの戦闘は宗教が資本主義
社会を守る防壁ではない事を示している。そこでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教
が戦争状態にあり、この世の地獄を露呈させており、国際的人道危機が叫ばれている!
エンゲルスは、われわれが宗教から離れて科学的社会主義に就くことを教えている!
エンゲルスはブルジョアが既に19世紀の自由思想を放棄しており、資本主義社会を乗り
こえるのは、科学的社会主義に基づく労働者階級である事を唯物史観の観点から示して
いる事に注意したい。)
・p128「われわれの法律的、哲学的及び宗教的観念なるものは、一定の社会の支配的な
経済関係を多少離れた派生物である。もしそうであるならば、そのような観念は、そう
した経済関係の完全な変化をいつまでも無視する事はできない。そこで超自然的啓示を
信ずるならいざ知らず、揺るぎだしたこの社会を支えるに足るものは、宗教的教義の内
には全くない、その事をわれわれも認めなければならない。
・p128(事実、イギリスの労働運動は動いている。)
・イギリスの労働者は、無論、諸種の伝統に拘束されてはいる。例えば、政党は保守党
と自由党の2つしかない。だから労働者階級は自己救済を図るには偉大な自由党を通じて
するしかないと、これは広く行き渡った先入観である。・・・さらにイギリスのすべての
ものと同様に、その動きの足取りはのろく、時には躊躇逡巡し、時にはほとんど効果を
あげずにぐずぐずし、また時には社会主義という名にさえ用心深く動いているが、結局
はその実質をだんだん取り入れている。そしてこの運動は拡大し、労働者の諸層を次々に
捉えている。・・・この運動の歩みはもどかしいかもしれないが、イギリスの国民性の最も
立派な部分を持ち続けているのは労働者階級である事、またイギリスにおいては一歩の
前進があればそれは決して後退しないのが例である事を忘れないでいただきたい。かの
チャーティストの子らは、まだ及第点に達しないかもしれないが、孫たちは祖父の名を
辱めないにちがいない。
・p129(大陸の労働運動も動いている。)
・だが、ヨーロッパの労働者階級の勝利は、イギリスにのみかかっているのではない。
それは、少なくとも、英・独・仏の協力によってのみ確保されうる。・・・最近25年間の
ドイツの進歩は、他にその比を見ない。その前進の加速度はとどまるところを知らない。
ドイツの中流階級は政治的な能力、訓練、勇気、精力においても忍耐力においても欠陥を
示したが、ドイツの労働者階級はこれら全ての資格を持っていることを充分に立証した。
・今から400年前、ドイツはヨーロッパの中流階級の蜂起のスタートを切ったが、今日の
情勢からして、ドイツがまたも、ヨーロッパのプロレタリア−トの最初の勝利の舞台と
なるであろうということは、可能の範囲外の事であろうか?

    1892年4月20日   F・エンゲルス
    
 『空想から科学へ』 英語版への序文 A/A 了 2023/11/14(2024.2.6改定)  TOP

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