古典学習会(二)(『賃金・価格および利潤』&「資本論に関する手紙」
2023.7.25作成
マルクス・エンゲルス略年譜
『賃金・価格および利潤』岩波文庫(昭和40年9.20第31刷)
1865.6.20&6.27国際労働者協会におけるマルクスの講演
補論1(「資本論に関する手紙」p200〜207) @
補論2(「資本論に関する手紙」から(続き) A
ケネー経済表のマルクスによる解説『反デューリング論』)
マルクスの経済表(マルクスからエンゲルスへ 1863.7.6)


Link集
9条を抵抗の拠点に尾西児童図書館の存続を求める活動資料(れんげニュース)
杉原千畝広場 資本論 私のmarkism(政治経済評論) 古典学習会(一)(空想から科学へ)
古典学習会(二)(賃金・価格および利潤) 経済表解説 ドイツイデオロギー




   
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マルクス・エンゲルス略年譜    TOP
2023.07.07からマルクス・エンゲルスの古典学習会を開催することになった。
ここではまずはじめに、マルクス・エンゲルスの生きた時代背景を略年譜形式で押さえておきたい。
以下の略年譜は雑誌「経済」2013.5月号掲載による。
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「マルクス・エンゲルス略年賦」(雑誌「経済」2013.5月号、p6から引用)
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1818 マルクス生まれる
1820 エンゲルス生まれる
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※1770〜1831:ヘーゲル(精神現象学1807、論理学1812、エンチクロペディ1817、法の哲学1821)
※1789 フランス革命(当時ヘーゲル19才)
※1830 フランス:7月革命(立憲君主制)
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1842 マルクス、「ライン新聞」へ寄稿、やがて主筆に
1843 「ライン新聞」編集部を退く。パリへ
1844 マルクス「独仏年誌」創刊。エンゲルス:「国民経済学批判大綱」
   マルクス:「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」
   マルクス・エンゲルス、「聖家族」共同執筆
1845 マルクス、パリを追放されブリュッセルへ
   エンゲルス、「イギリスにおける労働者階級の状態」刊行
1846 マルクス・エンゲルス、「ドイツ・イデオロギー」共同執筆
   マルクス・エンゲルス、共産主義通信委員会を組織
1847 マルクス、「哲学の貧困」出版。マルクス・エンゲルス、共産主義者同盟に加盟。
1848 マルクス・エンゲルス「共産党宣言」発表
   ドイツで「新ライン新聞」創刊。(仏:2月革命、独:3月革命)
1849 マルクス「新ライン新聞」に「賃労働と資本」を連載。
   8月マルクス、ロンドンに亡命、経済学の研究開始。
1850 エンゲルス、マンチェスターで商会の仕事に就き、マルクスを支える。
1851 ルイ・ボナパルト、クーデターで皇帝に
1852 マルクス、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」発表
1857〜58 マルクス、経済学の草稿執筆「57〜58年草稿」
1859 マルクス、「経済学批判」(第一分冊)刊行
1861〜63 マルクス、経済学批判続編の草稿「61〜63年草稿」
1863.7.6 マルクスの「経済表」を手紙でエンゲルスに送る。
1863〜65 マルクス、「63〜65年草稿」(資本論全3部の草稿)執筆
1862 マルクス、第一インターナショナルの「創立宣言」「暫定規約」起草
1865 マルクス、第一インターナショナル総評議会で「賃金・価格および利潤」を講演
1865〜67 マルクス、「資本論」第一部完成稿執筆
1867 マルクス、「資本論」第一部刊行
1867〜70 「資本論」第二部、第2〜第4草稿執筆
1871 パリ・コミューン マルクス、「フランスにおける内乱」執筆
1872 「資本論」フランス語版刊行開始(〜75年) 第一インターハーグ大会。本部をアメリカへ
1873 「資本論」第一部第2版刊行
1875 マルクス、「ゴータ綱領批判」(独、ゴータで合同大会)
1876 エンゲルス、「反デューリング論」執筆開始
1877〜81 「資本論」第二部草稿執筆(第5〜第8草稿)
1880 エンゲルス、「空想から科学へ」刊行
1883 マルクス、死去 「資本論」第一部第3版刊行
1885 「資本論」第二部刊行
1886 エンゲルス、「フォイエルバッハ論」刊行
1891 エンゲルス、「エルフルト綱領批判」発表
1894 「資本論」第三部刊行
1895 エンゲルス、「マルクス『フランスにおける階級闘争』の序文」を執筆
1895 エンゲルス、死去  TOP
「科学的社会主義」講座(古典学習会)(Amebaブログはこちらです2019.8.12) TOP
ここでは、マルクスの『賃金・価格および利潤』1865.6.20&6.27における国際労働者協会の講演)から
経済学の基礎概念、特に価値・剰余価値並びに賃金または賃金制度(資本制的生産)についてマルクスの
概念規定を見て行きます。
これは、「資本論」(1867年)の内容を「平易な形で先取りする」ものです。
(参考文献は、岩波文庫『賃金・価格および利潤』(昭和40年9.20第31刷)

初めにまず、この講演のきっかけとなった、背景についてドイツ語版への序言から引用する。
岩波文庫版P11:「この労作はマルクスが1865年6月20日及び27日に、ロンドンにおける第一インターナショナルの
中央委員会で行った講演である、事。当時、第一インターの成員であったウェストンは、次のように主張していた。
(1865.5.20マルクスのエンゲルス宛手紙)

(1)一般的な賃金の値上げは労働者たちにとりの役にも立たないであろう。
(2)故に、労働組合は有害な作用をするということ、であった。

また、1865.6.24のエンゲルス宛手紙では、「賃金の一般的値上げなどが如何に作用するかという、ウェストン君に
よって提出された問題に関する論文を朗読した。そのうち第一の部分は、ウェストンのナンセンスに対する解答で
あり、第二の部分は、時宜に適する限りでの理論的説明である。ところで人々はこれを印刷させたがっているが、
・・・私は躊躇している、この点について君の助言を聞きたい。」と。 そして・・・
結局、この講演の論文はマルクス・エンゲルスの生前には印刷されず、1897年英語で1898年にドイツ訳で出版された。
それ故、われわれは、第一部の結論部分(ウェストンの要約=第二部の前提)である第5章から見ていくことにする。

「五 賃金と物価」(岩波文庫版P42またはマルクス・エンゲルス選集Cp117)
わがウェストン君の全議論は、最も簡単な理論的表現に還元すれば、次の1つのドグマに帰着する。即ち、『諸商品の
価格は賃金によって決定または規制される』と。彼はまた、次のようにも言っている、「利潤と地代も商品価格の構成
部分をなしている。」なぜなら、労働者の賃金だけでなく、資本家の利潤や地主の地代もまさに商品の価格から支払わ
れねばならぬから、と。では、かれの考えでは、価格はどのようにして形成されるのか?まず第一に賃金によって、
次にその価格に資本家の為に何パーセントかが付加され、さらに地主の為に何パーセントかが付加される。ある商品の
生産に使用される労働賃金が10だと仮定し、利潤率がこの賃金の100%だと仮定すれば、資本家は10を付加するであろう
し、またもし地代の率も100%とすれば地主によってさらに10が追加され、この商品の総額は30になるであろう。
しかし、このように価格を決めるのは、単に賃金によって価格を決めることでしかなかろう。上記の場合、賃金が20に
上がればこの商品価格は60に上がる訳だ。また彼らが、利潤は資本家間の競争によって決まると主張しても、それでは
何の説明にもならない。確かに、競争は様々な産業内の様々な利潤率を均等化したり、それらの利潤率を1つの平均水準
に帰着させたりはするが、しかしそれは、この水準そのもの、つまり、一般的利潤率を決定することは決して出来ない。
 諸商品の価格は賃金によって決定されるというのは、どんな意味であるか?
賃金とは労働(力)の価格の別名に他ならないから、それは、諸商品の価格は労働(力)の価格によって規制されると
いう事である。『価格』とは、貨幣で表現された交換価値であるから上の命題は『諸商品の価値は労働の価値によって
決定される』ということ、または、『労働の価値は価値の一般的尺度である。』という事に帰着する。
だが、ではどうして『労働の価値』そのものは決定されるのか?ここで我々は行き詰まってしまう。
ウェストン君を例にとれば、彼は曰く:「賃金は諸商品の価格を規制する」従って、「賃金が騰貴すれば物価は騰貴し
なければならない」と説き、それから向き直って「賃金が騰貴しても何にもならない、けだし諸商品の価格が騰貴する
から、そして賃金は実にそれで買われる諸商品の価格によって測定されるのだから」と。こうして彼は、労働の価値は
諸商品の価値を決定し、諸商品の価値は労働の価値を決定するというひどい循環論法に陥っているのだ。
『賃金は諸商品の価格を決定する』というドグマは、最も抽象的な言葉で言えば、『価値は価値によって決定される』
という事になるが、この同義反復は、我々が実は価値について全く何も知っていないという
事を意味する。(岩波文庫版P45・選集Cp119)
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ここからが第二部分の始まりで、「6 価値と労働」(p45/選集Cp120)です。

(1)「6 価値と労働」における価値概念
@マルクスの問題提起。
「第一の問題は、商品の価値とは何か?それは、どうして決定されるか?という事である。」(p46)
A諸商品の交換価値(価値)は、これらの物の社会的機能に他ならず、自然的諸性質とは全く何の関係も
ないので、我々はまず、すべての商品に共通な社会的実態は何であるか?と尋ねなければならない。
それは労働である。」(※労働価値説)

商品生産の為には、一定量の労働が必要であるが、それは単なる労働ではなく、社会的労働である。
ある品物を自分自身の為に生産する人は、生産物は作るが商品は作らない。
商品を生産する為には、人は、何らかの社会的欲求を充たす品物を生産しなければならないだけでなく、
彼の労働そのものが、社会によって支出される総労働量の一部分を占めていなければならない。
それは、社会内の分業に従属していなければならないのであって、商品が価値を持つのは、それが社会的
労働の結晶だからであり、その価値の大きさは、それに含まれている社会的実態の量的大小、即ちそれの
生産に必要な労働の相対的分量(労働時間)に依存している。だから、諸商品(w)の相対的価値は、それら
に費やされた・実現された・固定された・労働のそれぞれの分量によって決定される。
同一の労働時間内に生産されうる諸商品の相関的諸分量は相等しい。
(※労働に対する報酬(賃金V)と労働量(V+m)とは全く別ものだという事に注意する事!」
(※mは剰余価値) TOP

B(商品の価値構成・・・不変資本、可変資本、剰余価値)
「一商品(w)の交換価値を計算するには、それに費やされた労働量(V+m)に加えて、その商品の原料
に予め費やされた労働量(c1)と労働過程で援用された用具、道具、機械並びに建物に用いられた労働(c2)、
を以てしなければならない。」(p50〜51)
(即ち、W=C+V+m、ここでC=c1+c2)(※Cは不変資本)
さらに、1商品の生産に必要な労働量は、使用される労働の生産諸力の変動によって絶えず変動する。
労働の生産諸力が大であればあるほど、一定時間内の生産物がより多く生産される。(つまり、1商品に
含まれる価値が低下し価格は安くなる。)
C価格は、価値の貨幣的表現に他ならない。   TOP

(2)「七 労働力」概念について(※労働と労働力の違いに注意)
@「普通にいう意味での「労働の価値」なるものは存在しない。」
「労働者が(資本家に)売るのは、彼の「労働」そのものではなくて、彼の「労働力」であり、この労働力
の一時的な自由処分(権)を彼が資本家に譲渡するのである。」(p58)
A労働力の価値とは何であるか?(p60)
「他の商品価値と同様に、その生産に必要な労働の分量によって決定される。」即ち、「労働力の価値は、
労働力を生産し、啓発し、維持し、永続させるに要する必需品によって決定される。」(p61)

(3)「八 剰余価値の生産」(※資本制的生産または賃金制度の基礎) TOP
 資本家は、労働者の労働力を買ってその対価(価値)を支払う事によって、買った商品を消費または使用
する権利を得る。労働者の労働力は、彼が働かされる事によって消費または使用される。即ち、労働力の
価値は、それを維持または再生産するに必要な労働量によって決定されるが、しかしその使用は、労働者の
活力と体力によって制限されるだけである。従って、例えば「紡績工」がその労働力を日々再生産する為に
日々3シリングの価値を再生産しなければならないとするなら、彼は、1日に6時間働く事によってそうする
であろう。ところが「資本家」は、紡績工の労働力の一日分の価値を支払う事によって、その労働力をまる
一日使用する権利を得たのである。だから彼は、紡績工を例えば一日に12時間働かせるであろう。
従って紡績工は、彼の賃金、即ち彼の労働力の価値を補填するに必要な6時間を超えて、さらに6時間働かね
ばならないであろう。この超過分を私は、「剰余労働時間」と名付ける。この「剰余労働」は、「剰余価値」
及び「剰余生産物」において自らを実現する。彼(紡績工)は、既にその労働力を資本家に売っているのだ
から、彼が生産した生産物の全価値は、・・・資本家のものとなる。だから資本家は、3シリングを投下する
事によって6シリングの価値を実現する。そしてその半分は再び賃金を支払う為に支出されるが、残り半分は、
資本家によって何らの対価も支払われない剰余生産物を形成する。(※)資本と労働との間のこの種の交換
こそは、資本制的生産または賃金制度の基礎であり、そしてそれは、労働者としての労働者及び資本家として
の資本家の再生産を引き続き生じさせるものである。(p64)
(※ 1労働日=必要労働時間(v)+剰余労働時間(m))

(4)「九 労働の価値」について再び(p65)    TOP
『労働の価値または価格』は、実は、労働力の価値(労働力の維持に必要な諸商品の価値)に他ならない。
しかし、労働者は、自分の労働が遂行された後に賃金を受け取るのであり、しかも彼は、自分が資本家に与
えるのは自分の労働だという事を知っているので、彼の労働力の価値又は価格は、(彼にとっては)彼の
労働そのものの価格又は価値のように見える。つまり、このことから「二重の結果」が生ずる。即ち、
第一に労働力の価値または価格は、労働そのものの価格又は価値のような外観を帯びる事。
第二に労働者の一日の労働の一部分だけが支払われて他の部分は不払いであるのに、あたかも総労働が支払
労働であるかのように見える事。
この間違った外観は、賃労働を、他の歴史的な労働形態から区別づける。賃金制度の基礎の上では、不払い
労働でさえ支払労働のように見える。しかし、「奴隷の場合」には、彼の労働のうち、支払われた部分
(与えられた衣食住等)でさえ不払いのように見えるのである。例えばまた、「隷農の場合」、3日間は、
彼自身の耕地で自分自身の為に働き、その次の3日間は、主人の領地で強制的・無償の労働をした。
この場合には、労働のうち支払われた部分と不払いの部分とが一目瞭然と分かたれている。

(5)「十 利潤は商品を価値どおりに売る事によって得られる。」(※利潤について)TOP
一商品の価値(C+V+M)は、その商品に含まれている総労働量によって決定される。
(Cは不変資本)ところが、その労働量の一部分は、賃金の形態で対価を支払われた価値(支払労働V)に
実現されており、他の一部分は、何らの対価も支払われなかった価値(不払労働M)に実現されている。
だから資本家は、商品をその価値(C+V+M)で(総労働量の結晶として)売ることにより、必然的に利潤を
得て売るはずである。だから、正常的且つ平均的な利潤は、諸商品をその現実の価値以上にではなく、その
現実の価値(C+V+M)で売る事によって得られるのである。

(6)「十一 剰余価値が分裂する種々の部分」(※剰余価値の分配について) TOP
剰余価値M、即ち商品の総価値のうち労働者の剰余労働が実現されている部分は、その全部が企業資本家に
よって収得されるわけではない。それは、@地主に対する地代、A金貸資本家に対する利子、B企業資本家
に残る産業利潤又は商業利潤に分けられる。
注意すべきことは、地代、利子、及び産業利潤は、商品の剰余価値の種々の部分に対する種々の名称に他な
らないのであり、それらは等しくこの源泉(剰余価値)から、しかもこの源泉だけから生ずるのである、と
いう事である。(p70)
(要点)
企業資本家が剰余価値のどれだけの部分を自分の手に留めうるかはとにかく、その剰余価値を直接に労働者
から搾取するのは企業資本家である。従って企業資本家と賃労働者との間のこの関係こそは、賃金制度の
全体及び現存生産制度の軸点であるという事です。
「もう一つの結論」
商品価値(w)のうち、原料や機械の価値(c)は、決して何らの所得(付加価値)にもならないで、ただ、
資本を補填するにすぎないという事。そして、商品価値(w)のうち、所得を形成する−あるいは賃金(v)
・利潤(m)・地代(m)・利子(m)の形態で消費されうる他の部分が、それらの価値によって構成される
というのは間違いであるという事です。
(ここで、w=c+v+m。c:不変資本、v:可変資本、m:剰余価値)

「十二 利潤・賃金及び物価の一般的関係」(略)

(7)「十三 賃金を値上げし又はその値下げを阻止しようとする企ての主要な場合」 TOP
「労働日を巡る労資対立の要点」
@労働日自身は、不変の限界を持っている訳ではない。資本の不変的傾向は、肉体的に可能な最大限まで
労働日を延長する事にある。なぜなら剰余労働(利潤)がそれだけ増加するから。A労働者がその労働力
を売るのは、それを維持する為であって、それを破壊する為ではない。労働者(人間)は機械と異なり、
仕事の単なる数字的加算によって見られるよりも大きな比率で衰亡する。B彼らが標準労働日を強要しえ
ない場合、賃上げによって過重労働を阻止しようとする企てにおいては、彼ら自身及び彼らの種族に対す
る義務を果たすにすぎない。彼等は資本の暴虐な横暴を制止するにすぎない。時間あってこそ人間は発達
するのである。勝手に出来る自由時間のない人間、睡眠・食事などによる単なる生理的な中断は別として、
全生涯を資本家の為の労働によって奪われる人間は、牛馬よりも哀れなものである。
・・・近代産業の全歴史の示すところでは、資本は、もし阻止されなければ、全労働者階級をこの極度な頽廃
状態に陥れる為に遮二無二の働きをするであろう。
賃上げ闘争は、・・・生産額・労働の生産諸力・労働の価値・搾取労働の長さ又は強度・需要供給の動揺に
依存し産業循環の種々の段階に照応する市場価格の動揺の先行する諸変動の必然的結果であり、一言で
いえば、資本の先行の行動に対する反動である。もし彼が、資本家の意志・命令を永久的な経済法則として
受け取って満足するならば、彼は、奴隷の安全さを得ることなしに、奴隷の全窮乏を共にすることとなる
であろう。

(8)「十四 資本と労働との闘争とその結果」  TOP
最後におこる問題は、「資本と労働との闘争とその結果」についてである。
@利潤については、その最小限を決定する法則は存在しない。なぜか?
我々は、賃金の最小限は確定しうるが、その最大限は確定しえないからである。
我々の明言しうるところは、ただ、労働日の限界が与えられている場合には、利潤の最大限は賃金の生理的
最小限に照応するという事、及び、賃金が与えられている場合には、利潤の最大限は労働者の体力と両立し
うるような労働日の延長に照応するという事、これだけである。だから利潤の最大限は、賃金の生理的最小
限及び労働日の生理的最大限によって局限されている。その現実の程度の確定は、資本と労働との間の絶え
ざる闘争によってのみ定まるのであって、資本家は常に賃金をその生理的最小限に引き下げて労働日をその
生理的最大限に拡大しようとしており、他方、労働者は常にその反対の方向に圧迫しているわけである。
事態は、闘争者たちのそれぞれの力の問題に帰着する。(p88)(「資本論」第7篇第24章新版No.4p1332参照)
Aイギリスにおける労働日の制限の事例。それは法律的干渉によらないでは決して確定されなかった。
外部からの労働者の絶えざる圧迫なしには、この干渉は決して行われなかった。一般的な政治的行動の必要
自体、単なる経済的行動では資本の方が強いという事を証明している。
B労働(力)の価値の限界については、その現実の決定は常に需要供給に依存する。
資本家たちは、労働の生産力を増す事(生産規模拡大、機械の応用、科学的方法の導入等)によって労働の
需要を減少させてきた。この発展は、他方では、熟練労働を簡単化し、その価値を減少させた。
C近代産業の発展そのものは、益々労働者に不利で資本家に有利な状態を生じさせる。資本主義的生産の
一般的傾向は、賃金の平均水準を低める事、労働(力)の価値を多かれ少なかれその最小限に圧下すること
である。しかし、この制度における事態の傾向はこうだとしても、なお、労働者階級は資本の侵略に対する
彼等の抗争を断念し、その時々の機会を彼らの状態改善に利用する企てを放棄すべきだ、という事には
ならない。

標準賃金獲得のための彼らの闘争は、賃金制度全体と不可分な事象だという事、賃上げの為の彼らの努力
は、99%、与えられた労働の価値を維持しようとする努力に他ならない。また、労賃について資本家と争う
必要は、自分を商品として売らねばならないという彼らの状態に内在するものだという事は、既に明らかに
した。もし彼らが、資本との日常闘争において卑怯にも退却するならば、彼らは必ずや、何らかのより大き
な運動を起こすための彼ら自身の能力を失うであろう。それと同時に、また賃金制度に含まれている一般的
隷属状態を全く度外視して、労働者階級がこれらの日常闘争の究極の効果を誇張して考えてはならない。
忘れてならない事は、彼らが闘っているのは結果とであってこの結果の原因とではないという事、彼らは
緩和剤を用いているのであって病気を治しているのではないという事、これである。
・彼らが理解しなければならないのは、現在の制度は、彼らに窮乏を押し付けるにも関わらず、それと
同時に、社会の経済的改造に必要な物質的諸条件及び社会的諸形態をも生ぜしめるという事である。
D結論。彼らは、『公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を!』という保守的な標語の代わりに
『賃金制度の廃止!』という革命的なスローガンを彼らの旗に書き記さねばならない。」

「まとめ:マルクスの決議案」
第一。賃金率の一般的騰貴は、一般的利潤率の低落を生ずるであろうが、大体において、諸商品の価格には
   影響しない。
第二。資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均標準を高めないで低める。
第三。労働組合は、資本の侵略に対する抗争の中心としては、立派に作用する。
   しかし、その力の使用が宜しきをえなければ、部分的に失敗する。それは、現行制度の結果に対する
   ゲリラ戦に専念して、それと同時に現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を
   「労働者階級の究極的解放即ち賃金制度の究極的廃止」の為のテコとして使用しないならば、一般的
   に失敗する。(p93)  TOP
以上。
補論1マルクスのエンゲルス宛(「資本論に関する手紙」p200〜207)   TOP
 なお、資本論第3巻の理解にとって重要な手紙で、1868.4.30のマルクスのエンゲルス宛手紙がある
ので補論として掲載する。(そこでは剰余価値(率)から利潤率の展開が示されている。
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『「資本論」に関する手紙』から抜粋(No.1)(amebaブログより転載)
 (※剰余価値(率)から利潤率の展開が示されている。)
ここでは、「資本論」第3巻の全体像を理解する為に、マルクスからエンゲルスへの手紙
(『「資本論」に関する手紙』)(法政大学出版局・岡崎次郎訳)から抜粋してマルクスの解説を掲載します。
この手紙をじっくり読めば資本論第3巻の構造が明確になってきます。
 
1,No.101(P200)エンゲルスからマルクスへの手紙(1868.4.26)
利潤率と貨幣価値との件はみごとだ。ただ僕に分からないのは、君がどうしてm/(c+v)を
利潤率と見なしうるかということだ。
というのは、m(剰余価値)は、それを生産する産業家のポケットに入るのではなく、商人
その他と分けられねばならないからだ。君がここでは全事業部門を一緒に考えて、mが
如何に工場主、卸売商、小売商、等々の間に分けられるかに拘わらないのならば、話は
別だが。・・・400c+100v+100mと書くのは全く結構だ。
 
2,No.102(P200)マルクスからエンゲルスへの手紙(1868.4.30)(上記への返事) TOP
(1)問題の場合については、m(実現・剰余価値)が生産物価値そのもののうちに生産されている
剰余価値よりも量的に大きいか小さいかはどうでもよいことだ。
(即ち、エンゲルスが自答しているように、「拘わらない」という事。)
たとえば
  100m/(400c+100v)=20%で、これが貨幣価値の10%低下によって、 110m/(400c+110v)になる
とすれば、資本家的生産者が彼自身の生産した剰余価値の半分しかとりこまないかどうかは、どうでもよい
ことだ。なぜならば、その場合には彼の利潤率は、55m /(400c+110v)で、以前の50m/(400c+100v)
よりも大きいからだ。 
※ここでmが保持されるのは、利潤がどこからくるかを表現そのものにおいて質的に示すためだ。
 
(2)とはいえ、君が利潤率の展開方法を知る事はものの順序だ。だからごく一般的に道筋を示そう。
第2巻では、資本の流通過程が、題1巻で展開された諸前提のもとで述べられる。
つまり、流通過程から生ずる新たな諸形態規定、即ち、固定資本と流動資本、資本の回転、等々だ。
第1巻では我々は、価値増殖過程で100pが110pになれば、この110pは、それが新たに転化すべき諸要素を
市場ですぐに見出すものと仮定した。しかるに今や、この見出すことの諸条件、従って、種々の資本、
諸資本部分及び所得(=m)の相互の社会的な絡み合いが研究課題だ。 TOP

次に第3巻では我々は、その種々の諸形態及び相互に分離される諸構成部分への剰余価値の転化に移る。
(※以下マルクスは、資本論第3巻「資本主義的生産の総過程」の理論構成の要点をエンゲルスに解説。)
 
T.利潤は我々にとってさしあたりはただ剰余価値を著す1つの別名又は別範疇であるにすぎない。
労働賃金という形態によって全労働が支払われたものとして現れるので、その不払い部分は必然的に労働
からではなく資本から、そして資本の可変部分からではなく、総資本から生ずるように見える。
(物象化的隠蔽)
  この事によって、剰余価値は利潤という形態を与えられるが、ここでは一方と他方との間の量的差異は
ない。利潤はただ剰余価値の幻想的な現象形態であるにすぎない。(利潤の本質)

  さらに、商品生産において消費された資本部分(商品生産に前貸された資本−不変及び可変−から固定
資本の充用はされたが消費はされなかった部分を差し引いたもの=減価償却部分の事)は、今や商品の
費用価格として現れる。何故なら、資本家にとっては、商品価値のうち、彼にとって費用を要する部分が
商品の費用価格であって、これに反して商品に含まれる不払い労働は彼の立場からすれば、商品の費用
価格には入らないからである。                     TOP

剰余価値=利潤は、今や商品の費用価格を超えるその販売価格の超過分として現れる。
商品の価値をWとし、その費用価格をKとすれば、W=K+m 従ってWはKよりも大きい。費用価格という
新たな範疇はその後の展開において非常に重要だ。資本家は商品をその価値以下で売ってもその費用価格
以上でありさえすれば)利益をあげうるという事が初めから出てくる事であり、これが、競争によって
引き起こされる平均化の理解の為の根本法則なのだ。

 だから利潤はさしあたりはただ形態的に剰余価値と異なるだけだが、これに反して、利潤率(P')は初
めから実質的に剰余価値率(m')とは異なる。
一方(m')は、m/v 他方(P')は、m/(c+v)で、前者は後者よりも大きいから利潤率が剰余価値
率よりも小さい(c=0でない限り)ということは初めから出てくる事だから。
 しかし、第2巻を考慮に入れれば次のようになる。
我々は、利潤率を一年間前貸された資本(回転した資本と区別しての)に対する1年間に生産された剰余
価値の比率を意味する。従って、m/(c+v)はここでは年利潤率だ。  TOP
 
次いで研究するのは、剰余価値率が同じままでも資本の回転の相違が利潤率を変化させるという事だ。
 だが又、回転を前提し、m/(c+v)を年利潤率とした上で、我々が研究するのは、この利潤率が、
剰余価値率の諸変化からは独立に、剰余価値量からさえも独立に、変化しうるという事だ。
 m即ち、剰余価値量は、剰余価値率に可変資本を乗じたもの (m’=m/v)→(故にm=m’・v)
に等しいから、剰余価値率をrとし、利潤率をp'とすれば、p’=r・v/(c+v)となる。
ここで我々はp’、r、v、cという4つの変量を有し、そのうちのどれか3つを操作すれば常に第4の
未知量を求めることができる。
ここからは、剰余価値率の運動とは異なる限りでの・・・利潤率の諸運動についてのあらゆる可能な場合が出
てくる。こうして発見された諸法則は、例えば原料価格の利潤率への影響を理解する為に極めて重要な
ものだ。
そして、剰余価値が後に生産者その他の間で如何に分割されようとも、これらの法則の正しさは失われない。
この分割(剰余価値の諸階級への分配)はただ現象形態を変えうるだけだ。
しかも、m/(c+v)が社会的資本に対する社会的に生産された剰余価値の比率として取り扱われる場合
には、これらの法則はそのまま直接に適用されうる。
(以上、『「資本論」に関する手紙』p200からp203のT、了)(U以下続く)
  TOP
補論2、『「資本論」に関する手紙』から(続き) A
No.102(P200)マルクスからエンゲルスへの手紙(1868.4.30) TOP

U Tでは一定の生産部門における資本なり社会的資本なりの諸運動−それを通じて資本の構成等が変化す
る諸運動−として取り扱われたものが、ここでは、今や相異なる諸生産部門で投下されている資本量の諸
差異として捉えられる。
そこで、剰余価値率、即ち、労働の搾取は等しいと前提しても、相異なる諸生産部門における価値生産は、
従って剰余価値の生産は、従って又利潤率も、種々に異なるという事が見出される。
しかし、これらの相異なる利潤率から競争は1つの中位的又は一般的利潤率を形成する。
この一般的利潤率は、その絶対的表現に還元されれば、その社会的範囲における前貸資本に対する資本家
階級によって(年々)生産される剰余価値の比率以外のものではありえない。
例えば、社会的資本が400c+100vで、それによって年々生産される剰余価値が100mならば、社会的資本の
構成は80c+20vで、(百分比で)80c+20v+20mであり、20%の利潤率となる。これが、一般的利潤率だ。
 TOP

 生産部面を異にし構成を異にする諸資本量の間の競争が目標とするものは、資本家的共産主義だ。
即ち、各生産部面に属する資本量が、社会的総資本の部分をなす割合に応じて、総剰余価値の一加除部分
を引き出すという事だ。
 ところで、これが達成されるのは、各生産部面で(総資本は80c+20vで社会的利潤率は20m/(80c+20v)だ
という前提のもとで)年々の商品生産物が費用価格プラス前貸資本価値の20%の利潤で売られる場合に限ら
れる。しかし、その為には商品の価格規定が商品の価値から偏奇しなければならない。
つまり資本構成が80c+20vである生産部門においてのみ、K(費用価格)プラス前貸資本の20%という価格は
商品価値と一致する。構成がヨリ高い(例えば90c+10v)部門ではこの価格は商品価値よりも高く、構成が
ヨリ低い(例えば70c+30v)部門では商品価値よりも低い。         TOP

社会的剰余価値を諸資本量の間にそれらの大きさに比例して均等に分配するところのかように平均化され
た価格は、商品の生産価格で、これが市場価格の振動の中心となるものだ。
自然的独占が存在する生産部門は、その利潤率が社会的利潤率より高くても、この平均化過程から除外さ
れている。このことは、後に地代の展開にとって重要だ。
この章では、さらに進んで、種々の資本投下の間の平均化の根拠が展開される。・・・

V 社会の進歩につれての利潤率の低下傾向。これは、社会的生産力の発展に伴う資本構成の変化について
第1巻で展開されたところからも既に出てくる。  TOP

W これまでは生産的資本だけが論ぜられた。今や商人資本による変更が入ってくる。
これまでの前提では、社会の生産的資本は500だ(単位は億でも千万でも構わない)。
そして、400c+100v+100mだ。P'即ち、一般的利潤率は20%だ。そこで商人資本を100と仮定しよう。
 そこで100mが500ではなく600に対して計算されることになる。だから一般的利潤率は20%(100/500)から
(100/600)に下がる。生産価格(簡単化の為に400c全部が、従って固定資本も全部含めて、年生産商品量
の費用価格に入るものと仮定しよう)は、今や(500+500/6=583+1/3)となる。商人は600で売る。
そして彼の固定資本部分を無視すれば、生産的資本家と同じに彼の100に対して(100/600%)を実現する。
言い換えれば、社会的剰余価値の1/6をわがものとする。商品は−全体として社会的規模では−その価値で
売られている。商人がそれ以上呑み込むものは、ただの詐欺か、商品価格の変動による投機か、又は、
本来の小売商の場合については、利潤という形態のもとでの労働賃金かだ、例えくだらない不生産的労働に
対する賃金であるにしても。

X 今や我々は、利潤を、それが実際上与えられたものとして現れる形態に、我々の前提のもとでは、
(100/600)に帰着させた。そこで次に、企業利得と利子とへのこの利潤の分裂。利子付き資本。信用制度。

Y 超過利潤の地代への転化    TOP

Z 最後に我々は俗流経済学者には出発点として役立つ諸現象形態に到達した、即ち、土地から生ずる地代、
資本から生ずる利潤、労働から生ずる労働賃金。だが、我々の立場からは事態は今や異なって見える。
外観的運動が解消される。さらに、・・・アダム・スミスのたわごと、即ち、商品価格はかの3つの所得から、
従ってただ可変資本(労働賃金)と剰余価値(地代、利潤、利子)だけから成っているというたわごとが覆
される。この現象形態における総運動。
最後にかの3つのもの(労働賃金、地代、利潤(利子)は、土地所有、資本家、賃金労働者という3つの
階級の所得源泉だから−結びとして、全汚物の運動と分解とがそこに解消するところの階級闘争。(p207)
・・・(了)
・・・最後に我々は、マルクスの経済表(下記)を掲げて、補論の総括としたい。 TOP
マルクスの自筆「経済表」について   TOP
マルクスの自筆「経済表」日本語訳は自筆の下段を参照してください。
第一部門は生活手段、第二部門は機械と原料(生産手段)、第三部門は総再生産です。
総再生産過程の経済表は、生産物を巡る社会的諸階級の相互関係が一目瞭然と判ります。
マルクスが言うようにこの経済表は、「資本論」最後の章に総括として現れるもので、資本主義的生産様式を
とる歴史的社会の鑑といえるものとです。銘記する所以です。
(日本語訳は下段参照)
これは前回のマルクス経済表の解説で「資本論について関する手紙」P129〜P134に翻訳があります。
ここでは、関本さんのブログから拝借しました。
以下、マルクスの経済表の解説でエンゲルスに宛てた手紙から抜粋です。(1863.7.6
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(中略)
  同封の「経済表」は僕がケネの表の代わりに立てるものだが、もし君がこの暑さのなかでもできるなら、
いくらか念入りに見てくれたまえ。そして、なにか疑念があったら知らせてくれたまえ。
これは総生産過程を包括している。
  君も知るように、アダム・スミスは「自然価格」または「必要価格」を賃金と利潤(利子)と地代とから
構成している− したがって全体を収入に解消させている。この不合理はリカードにも伝えられている。
といっても、リカードは地代をたんに偶然的なものとしてカタログから除いてはいるのだが。
ほとんどすべての経済学者がこれをスミスから受け継いでいる。そして、これに反対する経済学者らはまた
別の不条理に陥っている。
  スミス自身も、社会にとっての総生産物をたんなる収入(年々消費されうるもの)に解消させることの
不合理は感じていて、他方で各個の生産部門については価格を(原料や機械など)と収入(労働、利潤、地代)
とに分解している。
そうすると、社会は毎年新しく資本なしで始めなければならないことになるだろう。
  ところで、僕の表について言えば、これは僕の本の最後のうちの一章のなかに総括として載せるものだが、
そこでは理解のために次のことが必要だ。
(1)数字はどうでもかまわない。何百万かを意味するものとしてもよい。
(2)ここで生活手段というのは、消費財源の中に年々はいって行く(または、この表からは除外されている
   蓄積がなければ消費財源のなかにはいりうるであろう)すべてのもののことだ。

  部類1(生活手段)では全生産物(七〇〇)が生活手段から成っており、したがって当然のこととして不変
  資本(原料や機械やなど)のなかにははいっていかない。
  同様に部類2では全生産物が、不変資本を形成する諸商品から、すなわち原料や機械としてふたたび再生産
   過程にはいっていく諸商品から、成っている。
(3)上昇線は点線になっており、下降線は直線になっている。
(4)不変資本は、原料や機械から成っている資本部分だ。可変資本は、労働と交換される資本部分だ。
(5)たとえば農業などでは同じ生産物(たとえば小麦)の一部分は生産手段を形成するが、他の一部分
   (たとえば小麦)はふたたびその現物形態のままで(たとえば種子として)原料として再生産にはいっていく。
    だが、これは少しも事柄を変えるものではない。というのは、このような生産部門は、一方の属性から見れば
  部類2のなかに現われ、他方の属性から見れは部類1のなかに現われるからだ。
(6)そこで、全体の要点は次のようになる。

 部類1。生活手段。労働材料と機械(すなわち機械のうち損耗分として年間生産物のなかにはいって行く部分。
機械などの未消費部分は表のなかには全然現われていない)は例えば四〇〇ポンドに等しい。 労働と交換された
可変資本=一〇〇は三〇〇として再生産される。というのは、労賃を生産物で補填し、二〇○は剰余価値
(不払剰余労働)を表わすからだ。生産物は七〇〇であって、そのうち四〇〇は不変資本の価値を表わしているが、
この不変資本は全部が生産物のなかに移っており、したがって補填されなければならない。
 可変資本と剰余価値との割合がこのようになっている場合には、労働者は労働日の三分の一では自分のために労働
し、三分の二では彼の天成の目上(natural speriors)のために労働する、ということが仮定されている。
 つまり、一〇〇(可変資本)は、点線で示されているよぅに、労賃として貨幣で支払われる。労働者はこの一〇○
をもって(下降線で示されているように)この部類の生産物すなわち生活手段を一〇〇だけを買う。
こうしてこの貨幣は第一部類の資本家階級に還流する。
 剰余価値二〇〇は一般的な形態では利潤だが、これは、産業利潤(商業利潤を含む)と、さらに、産業資本家が
貨幣で支払う利子と、彼がやはり貨幣で支払う地代とに分かれる。
この産業利潤や利子や地代として支払われた貨幣は、それをもって第一部類の生産物が買われることによって、還流
する(下降線で示されている)。
こうして、第一部類の内部で産業資本家によって投ぜられたすべての貨幣は、生産物七〇〇のうちの三〇〇が労働者
や企業家や金持ちや地主によって消費されるあいだに、彼のもとに還流する。第一部類に残っているのは、生産物の
過剰分(生活手段での)四〇〇と不変資本の不足分四〇〇とである。

 部類2。機械と原料。
この部類の全生産物は、生産物のうち不変資本を補填する部分だけではなく、労賃の等価と剰余価値とを表わす部分
も、原料と機械とから成っているので、この部類の収入は、それ自身の生産物においてではなく、ただ第一部類の
生産物でのみ実現されることができる。
しかし、ここでなされているように蓄積を除外すれは、第一部類が第二部類から買うことができるのは、ただ第一
部類がその不変資本の補填のために必要とするだけの量であり、他方、第二部類はその生産物のうちただ労賃と剰余
価値と(収入)を表わす部分だけを第一部類の生産物に投ずることができる。こうして、第二部類の労働者たちは
その貨幣=一三三1/3を第一部類の生産物に投ずる。
同じことは第二部類の剰余価値でも行なわれる。これは、第一部類におけると同様に、産業利潤と利子と地代とに
分かれる。こうして、貨幣での四〇〇が第二部類から第一部類の産業資本家のもとに流れて行き、そのかわりに第一
部類はその生産物の残り=四〇〇を第二部類に引き渡す。
  この貨幣四〇〇をもって、第一部類はその不変資本=四〇〇の補填のために必要な物を第二部類から買い、
このようにして第二部類には、労賃と消費(産業資本家自身や金持ちや地主の)に支出された貨幣がふたたび流れ
こんでいく。そこで、第二部類にはその総生産物のうち五三三1/3が残っており、それをもって第二部類はそれ自身
の損耗した不変資本を補填する。
  一部分は第一部類の内部で行なわれ一部分は部類1と2とのあいだで行なわれる運動は、同時に、どのように
して両部類のそれぞれの産業資本家たちのもとに、彼らがふたたび新たに労賃や利子や地代を支払うための貨幣が
還流するか、ということを示している。

 部類3は総再生産を表わしている。
  部類2の総生産物はここでは全社会の不変資本として現われ、部類1の総生産物は、生産物のうちの、
可変資本(労賃の財源)および互いに剰余価値を分け合う諸階級の収入を補填する部分として、現われる。
  ケネの表をその下に置いておいた。これはこの次の手紙で簡単に説明しよう。
  失敬
                        君の    K・M
 ついでに。エトガル・バウアーは職を得た − プロイセンの新聞局で。
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以上。
出所・経済表と解説:関本洋司氏の下記ブログ参照
http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/24000
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なお、ケネー経済表についての詳細は、平田清明氏の 
「経済科学の創造」岩波をご覧ください。またWEB解説については、範式は
http://members3.jcom.home.ne.jp/study-capital/hokoku-2/083b.html
解説は下記をご参照ください。
http://www.rikkyo.ac.jp/eco/research/pdf/papar/59_4_2.pdf
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ケネー経済表のマルクスによる解説『反デューリング論』) TOP
ケネー経済表のマルクスによる解説(@)
出典は(マルクス・エンゲルス選集第14巻。『反デューリング論』・2篇第10章「批判的学史」
(@p416〜p425)
・p416マルクスは、『反デューリング論』・2篇第10章の「批判的学史」の中で、次のよう
にケネーの「経済表」を紹介している。
---------------------------------------------------------------------------------
※フランソワ・ケネー(1694〜1774)経済表(1758)
※アダム・スミス(1723〜1790)国富論(1776)

「重農学派は、ケネーの『経済表』(1758年)という1つの謎をわれわれに残した。・・・
一国の富全体の生産と流通とに関するフィジオクラート(重農主義者)の観念を一目で分かるように示す筈であったが、
・・・この表は、その後の経済学会にとっては極めて分かりにくいものであった。」と。
・p420重農主義者の理論では、社会は次の3階級に分かれている。(1)生産的な、つまり現実に農業で働いている
階級−借地農業者と農業労働者。彼らが生産的と呼ばれるのは、その労働がある剰余即ち、地代を残すからである。
(2)その剰余を自分の物とする階級。地主やこれに従属する人々、国王や国家によって支給を受ける官吏、そして
最後に10分の1税の横領者という特殊な性質を持った寺院をも含む。」
・p420簡単にする為に、第一の階級を「借地農業者」と呼び、第二の階級を「地主」、第三は、商工業階級、または
不生産階級である。不生産というのは、重農主義者の見解によれば、彼らは生産階級から提供された原料に対して、
ただ彼らが生産階級から提供された生活資料を消費するのと同じだけの価値しか付け加えないからである。
・そこでケネーの『経済表』が明らかにしなければならないことは、一国(フランス)の年々の総生産物が、これら
3つの階級の間にどのように流通し、また年々の再生産にどのように役立つか、ということである。
・p421『経済表』の第一の前提は、ケネーの時代の意味での借地農制度とそれに伴う大規模農業とが一般に普及している
こと。その際、手本となったのは、ノルマンディ、ピカルディなどフランスの二三州である。
・従って、借地農業者は農業の現実的指導者として現れ、『経済表』では生産的階級全体を代表し、地主に対して貨幣
地代を支払うのである。借地農業者総体は100億リーブルの投下資本または資産を持つものとされ、その内の五分の一
つまり20億リーブルは、年々補填される経営資本だとされているが、この見積もりは、前記諸州の最もよく耕作されて
いる借地農場を標準としたものである。
・p421その他の前提は次の通りである。(1)簡単化の為に、価格は不変で、単純再生産が行われる。(2)ただ1階級だけの
内部で行われる流通は除外され、単に階級間の流通だけが考慮される。(3)経営年度内に階級から階級へと行われる一切
の売買は、ただ一個の総額に総括されている、ということである。
・最後に、ケネーの時代にはフランスでは、・・・農家本来の家内工業は、食料品以外の自分たちの必需品の大部分を調達
したのであって、従ってここでは、それが農業の当然の付属物として前提されている、ということを記憶しておかなけ
ればならない。
・p421『経済表』の出発点は、総収穫、つまり、『経済表』のすぐ上部に示されている年々の土地生産物から成っている
総生産物、またはその国、−ここではフランス−の「総再生産」である。この総生産物の価値量は、商業諸国民のもと
での土地生産物の平均価格に従って評価され、50億リーブルとなっているが、この額は、当時の・・・フランスの農業総
生産物の貨幣価値をほぼ言い表している。
・p422だから、50億の価値をもつこの総生産物は、生産的階級の、つまり、百億の投下資本に対応する年額20億という
経営資本を支出してそれを生産した借地農業者の手中にある。
・経営資本の補填に必要な、それ故また農業に直接従事する一切の人々の生計に必要な、農業生産物、つまり生活資料
や原料等は、現物のまま総収穫から控除されて新たな農業生産に支出される。価格の不変と単純再生産が前提されて
いるから、総生産物のうち控除されるこの部分の貨幣価値は、20億リーブルに等しい。それ故、この部分は一般的流通
に入り込まない。(※)
(※前提(2)により、流通は、それが1階級の範囲内だけで行われる流通は、別々の階級間で行われるのでない限りは、
『経済表』から除外されているからである。)
・p422総生産物から経営資本の補填を除けばあとには30億の剰余が残るが、うち20億は生活資料、10億は原料である。
借地農業者から地主に支払わなければならない地代は、20億である。どうしてただこの20億だけが「純性差物」または
「純所得」の見出しのもとにでてくるかは、やがて明らかになるであろう。
・ところが、50億の価値をもつこの農業的「総再生産」−そのうち30億が一般的流通に入り込む−の他に、『経済表』
の中に示された運動が始まる以前に、なお国民の総「貯蓄」である20億の現金が借地農業者の手中にある。
事情はこうである。・・・
・p423『経済表』の出発点は同時に一経済年度の終点をなすものであって、これに続いて新しい経済年度が始まる。
総生産物のうち流通に入るように定められた部分は、新年度中に他の2階級の間に分配される。
だが、これらの一年度全体にわたって行われる運動は、『経済表』にとっては、・・・一年度全体を一挙に含む行為のうち
に総括される。こうして、1758年の終わりには借地農業者階級が1757年に地代として地主に支払った貨幣つまり20億は、
再びこの階級に流れ帰り、これによってこの階級は、この金額を1759年に再び流通に投げ入れることができるのである。
・p423地代を巻き上げる地主階級は、まず支払いの受取人の役割で現れる。ケネーの前提によれば、本来の地主は20億の
七分の四だけを受け取り、七分の二は政府に、七分の一は税受取人(官吏)の手にはいる。
ケネーの時代、寺院はフランス最大の地主であって、その上なお、他の一切の土地財産から十分の一税を受け取って
いたのである。
・p424「不生産的階級」が一年度に支出する経営資本(年前貸)は、10億の価値をもつ原料である。というのは、道具や
機械などは、この階級自身の生産物の内に入るからである。これらが『経済表』に無関係なのは、専らその階級内部で
行われる商品流通と貨幣流通がこれに関係しないのと同じことである。
・不生産階級が原料を加工商品に転化する労働に対する報酬は、この階級が一部分は直接に生産階級から、一部分は間接
に地主を通じて受取る生活資料の価値に等しい。
この階級は、それ自身、資本家と賃金労働者とに分かれるとはいえ、ケネ−によれば一階級全体として、生産階級と
地主階級とのお雇いものである。
・工業的総生産物とそれらの総流通とは、同様にして一個の全体に総括されている。それ故、『経済表』に示された運動
の開始にあたっては、不生産的階級の年々の商品生産高はことごとく彼らの手中にあるということ、従って彼らの全経営
資本、つまり10億の価値をもつ原料が20億の価値をもつ商品に転化され、この半分はこの転形中に消費された生活資料の
価格を表すという事が前提されている。(p425)
(@了)
ケネー経済表のマルクスによる解説(A)(選集14p425〜428)   TOP
・p425こうして、われわれは、『経済表』によって示される運動が開始する際の、3つの階級の経済的地位を知ることが
できた。
・生産階級は、彼らの経営資本を現物補填した後に、まだ30億の農業総生産物と20億の貨幣とを自由にしている。
地主階級は、当初は、生産階級に対する20億の地代請求権をもって現れるにすぎない。不生産階級は、20億の加工商品
を自由にしている。なお、重農主義者の見解では、これら3階級のうち2階級間だけの流通は不完全な流通と呼ばれ、
3階級全体の流通は完全な流通と名付けられている。
・p425『経済表』について。
・第一の(不完全な)流通。借地農業者は、地主に対して、反対給付なしに地主の受け取るべき地代を20億の貨幣で
支払う。そのうち10億で地主は借地農業者から生活資料を買う。こうして、借地農業者から地代として支払われた支出の
半分は自分たちに流れ戻る。
・p426第二の(完全な)流通。地主はその手中に残っている10億の貨幣で、不生産階級から加工商品を買い、この不生産
階級はこうして得た貨幣で借地農業者から同額の生活資料を買う。
・第三の(不完全な)流通。借地農業者は10億の貨幣で不生産的階級から同額の加工商品を買うが、この商品の大部分は、
農業用具やその他の耕作に必要な生産手段から成り立っている。不生産階級は、この同じ貨幣を借地農業者の手に返すが、
それは、彼らが自分たち自身の経営資本の補填の為に10億だけ原料を買うからである。そこで、借地農業者が地代支払い
の為に支出した20億の貨幣は、自分たちの手に戻り、こうして運動は完了した。
これによって、「地代として獲得された純生産物は経済的循環においてどうなるか」という大きな謎も解決されたので
ある。
・p427(まとめ)この全経過は、たしかに「かなり簡単」である。流通に投じられるのは、借地農業者の手によっては、
地代支払いの為の20億の貨幣と、三分の二が生活資料で三分の一が原料である30億の生産物とであり、不生産的階級の手
によっては、20億の加工商品である。20億の生活資料のうち、その半分は地主とその一味によって消費され、他の半分は
不生産的階級によって彼らの労働の支払いに消費される。10億の原料は、同じ階級の経営資本を補填する。20億の額の
流通加工商品のうち、半分は地主の手にはいり、他の半分は借地農業者の手に入るが、これは借地農業者にとっては、
直接に農業的再生産から得られた、彼らの投下資本に対する利子の、一つの転化形態にすぎない。
・p428ところが借地農業者が地代を支払うために投入した貨幣は、彼の生産物の販売をつうじて自分の手に流れ戻るので
あり、これによって同一の循環が次の経済年度には新たに行われうるのである。 A了) TOP
マルクスからエンゲルスへの手紙(1863.7.6)
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