『弁証法の唯物論的顛倒は如何にして可能であったか』
(2024.10.3)
マルクス・エンゲルス略年譜 |
空想から科学へC弁証法的唯物論について(弁証法の諸法則不破) |
「資本論」第2版への後書き(2024.9.17) |
『聖家族』第5章「2 思弁的構成の秘密」(ヘーゲル弁証法批判)9.19 |
広松渉:『弁証法の唯物論的顛倒はいかにして可能であったか』10.3 (この論文のまとめ) |
『経済学批判』序説 3 経済学の方法(国民文庫版)10.3 |
『経済学批判』序説 3 経済学の方法(pdf)10.3 |
英語版への序文(エンゲルス:史的唯物論について) その1 1892年 |
空想から科学へ(英語版への序文(エンゲルス) その2 1892年) |
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2023.07.07からマルクス・エンゲルスの古典学習会を開催することになった。 ここではまずはじめに、マルクス・エンゲルスの生きた時代背景を略年譜形式で押さえておきたい。 以下の略年譜は雑誌「経済」2013.5月号掲載による。 −−−−−−−−−−−−−−− 「マルクス・エンゲルス略年賦」(雑誌「経済」2013.5月号、p6から引用) −−−−−−−−−−−−−−− 1818 マルクス生まれる 1820 エンゲルス生まれる −−−−−−−−−−−−−−− ※1770〜1831 ヘーゲル(精神現象学1807、論理学1812、エンチクロペディ1817、法の哲学1821) ※1789 フランス革命(当時ヘーゲル19才) ※1830 フランス:7月革命(立憲君主制) −−−−−−−−−−−−−−− 1842 マルクス、「ライン新聞」へ寄稿、やがて主筆に 1843 「ライン新聞」編集部を退く。パリへ 1844 マルクス「独仏年誌」創刊。エンゲルス:「国民経済学批判大綱」 マルクス:「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」 マルクス・エンゲルス、「聖家族」共同執筆 1845 マルクス、パリを追放されブリュッセルへ エンゲルス、「イギリスにおける労働者階級の状態」刊行 1846 マルクス・エンゲルス、「ドイツ・イデオロギー」共同執筆 マルクス・エンゲルス、共産主義通信委員会を組織 1847 マルクス、「哲学の貧困」出版。マルクス・エンゲルス、共産主義者同盟に加盟。 1848 マルクス・エンゲルス「共産党宣言」発表 ドイツで「新ライン新聞」創刊。(仏:2月革命、独:3月革命) 1849 マルクス「新ライン新聞」に「賃労働と資本」を連載。 8月マルクス、ロンドンに亡命、経済学の研究開始。 1850 エンゲルス、マンチェスターで商会の仕事に就き、マルクスを支える。 1851 ルイ・ボナパルト、クーデターで皇帝に 1852 マルクス、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」発表 1857〜58 マルクス、経済学の草稿執筆「57〜58年草稿」 1859 マルクス、「経済学批判」(第一分冊)刊行 1861〜63 マルクス、経済学批判続編の草稿「61〜63年草稿」 1863.7.6 マルクスの「経済表」を手紙でエンゲルスに送る。 1863〜65 マルクス、「63〜65年草稿」(資本論全3部の草稿)執筆 1862 マルクス、第一インターナショナルの「創立宣言」「暫定規約」起草 1865 マルクス、第一インターナショナル総評議会で「賃金・価格および利潤」を講演 1865〜67 マルクス、「資本論」第一部完成稿執筆 1867 マルクス、「資本論」第一部刊行 1867〜70 「資本論」第二部、第2〜第4草稿執筆 1871 パリ・コミューン マルクス、「フランスにおける内乱」執筆 1872 「資本論」フランス語版刊行開始(〜75年) 第一インターハーグ大会。本部をアメリカへ 1873 「資本論」第一部第2版刊行 1875 マルクス、「ゴータ綱領批判」(独、ゴータで合同大会) 1876 エンゲルス、「反デューリング論」執筆開始 1877〜81 「資本論」第二部草稿執筆(第5〜第8草稿) 1880 エンゲルス、「空想から科学へ」刊行 1883 マルクス、死去 「資本論」第一部第3版刊行 1885 「資本論」第二部刊行 1886 エンゲルス、「フォイエルバッハ論」刊行 1891 エンゲルス、「エルフルト綱領批判」発表 1894 「資本論」第三部刊行 1895 エンゲルス、「マルクス『フランスにおける階級闘争』の序文」を執筆 1895 エンゲルス、死去 TOP |
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空想から科学へC弁証法的唯物論について TOPマルクス・エンゲルス古典学習会 No.5 2023/07/24 エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会C 第2章 弁証法的唯物論(p52) ・p52(弁証法の歴史) 18世紀のフランス哲学と並びまたそれに続いて新しいドイツ哲学が生まれ、ヘーゲルに至って完成した。 この新ドイツ哲学の最大の功績は弁証法を思惟の最高形式として復興したことだった。古代ギリシャの哲学者たちは いずれも天性の弁証家で、とりわけアリストテレスは弁証法的思惟の最も重要な形式を既に研究していた。 ・これに対して、新しい哲学は弁証法の輝かしい代表者(デカルトやスピノザ)をもっていたが、特にイギリスの影響 を受けて、次第に形而上学的な思惟方法に落ち込んでいった。簡単にこの2つの思惟方法の要点を説明する。 (※)(※弁証法的思考と形而上学的思考との対比的な説明は、ヘーゲルに源流があり、エンゲルスが発展させたもの です。:「綱領・古典の連続教室」・不破哲三氏講義の「要旨」p20、「テキスト」p26参照) ・p52(ギリシャの弁証法とベーコン・ロックの形而上学) われわれが自然や人類の歴史を、またわれわれの精神活動を考察するとき、何よりも先に見るものは関連と相互作用と の無限に錯綜したその姿である。・・・すべては動き、変化し、生成し、消滅する。だからわれわれのまず見るものは、 全体像で、そこでは個々の部分は多かれ少なかれ背後に隠れている。われわれの注意は、運動、変化、関連それ自体に 向けられ、何が運動するか、何が移行するか、何が関連するかはさほどに注意しない。 ・原始的で素朴ではあるが本質上正しいこの世界観は古代ギリシャ哲学のそれであり、ヘラクレイトスが初めて明瞭に言 明した。曰く:「万物は存在し、また存在しない、なぜなら、万物は流転するからと、それは常に変化し、常に成長し、 常に消滅しつつあるから」と。 ・この見方は、現象の全体像の一般的性格を正しく把握してはいるが、この全体像を構成している個別を説明するには不 十分である。しかもこの個別を知らないでは全体像が分かるはずがない。 ・この個別を認識するには、われわれは、その個別を、その自然的、歴史的関係から引き離し、個々別々にそれ自体とし て、その特性やその特殊な原因や結果などを考察しなければならない。これこそ自然科学や歴史研究の任務であるが、 古典時代のギリシャ人にはこういう研究部門は付属的な地位しか与えられなかった。批判的選択や比較や綱、科、種の 分類は自然や歴史の材料がある程度そろった上でなくてはやれないものである。 ・本当の自然科学の始まりは15世紀の後半であって、それ以後、それは加速度的に進歩した。(p54) 自然を個々の部分に分解すること、種々の自然過程と自然対象とを一定の部類に分類すること、有機体の内部をその多様 な解剖学的形態に従って研究すること、これが自然認識において最近の400年がわれわれにもたらした巨大な進歩の根本 条件であった。 ・p54しかしながら、こういう方法は、同時に自然物と自然過程とを個々バラバラに切り離して大きな全体的関連の外で 把握するという習慣を残した。従ってそれらを運動においてではなく、静止状態において捉え、またそれらを本質的に 変化するものとしてではなく固定の状態において、それらをその生においてでなく、その死において捉えた。 ベーコンやロックのような人によって、この考え方が自然科学から哲学に移入されたとき、それは前世紀に特有な偏狭さ、 かの形而上学的思惟方法を生み出したのである。 ・p54(形而上学的考え方の限界と誤謬) 形而上学者にとっては、事物やその思想的模写である概念は、個々バラバラに、一つずつ、他と関係なしに、観察すべき、 固定した動かない、永久不変の研究対象である。彼は、絶対に矛盾する対立としてものを考える、 「しかり、しかり、いな、いなと言えこれに過ぐるは悪より出るなり」である。 (注4・p63:新約聖書マタイ伝第5章37節) ・彼にとっては、事物は、存在するか、しないかである。一物は一物で、同時に他物であることはできない。肯定と否定と は、絶対的に相排斥する。原因と結果ともまた互いに動きのとれぬ対立である。こうした考え方は、常識的な考え方だか ら一見したところ極めてわかりやすい。 ・p55こうした形而上学的考え方は、対象の性質によっては相当の範囲まで正当でありかつ、必要でさえあるが、いつかは 必ず1つの限界に突き当たるのであり、そしてこの限界を越えると、それは一面的な、偏狭な抽象的なものとなり、矛盾 に陥ってどうすることもできなくなる。 ・というのは、形而上学的な考え方は個々のものに目を奪われてその関連を忘れ、その存在に目を奪われてその生成と死滅 を忘れ、その静止にとらわれてその運動を忘れるからである。木を見て森を見ないからである。日常問題としては、たと えば生死の問題があげられる。胎児殺しと殺人をどう区別すべきか、法律家がその合理的限界を発見しようとしたが徒労 であった。なぜなら死は一瞬にして起きる現象ではなくて、相当に長くかかる過程であるからだ。要するに一切の有機体 は、どの瞬間においても同一物であると同時に同一物でない、それは刻々、外部から供給される物質を同化してはそれと 違った物質を排泄するからである。 ・p55なお一層厳密に考察するならば、次の事をわれわれは見いだす。即ち、肯定と否定というような対立の両極は、対立し ていると同時に相互に不可分である、また、どんなに対立していても対立物は相互に浸透しあうものである、同様に、 原因と結果といっても、それは個々の場合にそういえるだけのもので、そういう個々の場合をわれわれが世界全体と広く 関連させてみるならば、むしろ普遍的な交互作用という見方に解消してしまい、そこでは、原因と結果とは絶えずその 地位を替え、いま結果であったものが、やがてすぐ原因となり、さらに今度はそれがまた逆になったりするのである。 こうした過程と思惟方法は形而上学的思惟の枠には収まらない。 ・p56(自然は弁証法の試金石である) ・これに反して、事物とその概念的模写を、専ら関連、連鎖、運動、発生及び消滅において捉える弁証法にとっては、上述 のような諸過程は、何れも弁証法固有の研究方法の正しさを証明するものである。 ・自然科学は次の事を検証している、即ち、自然は、結局において形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、 それは不断の循環運動をいつも同じようには繰り返さない1つの現実の歴史なのである。 ・この点ではダーウィンの名前がまず挙げられる。彼は、今日の一切の有機的自然、即ち、植物も動物も従ってまた人間 も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程であることを証明し、それによって自然についての形而上学的見方に強烈な 打撃を与えた。 ・p57(カントがその星雲説でまず弁証法を検証した) ・この新しいドイツ哲学は、この弁証法的精神をもって登場してきた。カントはニュートンの太陽系説ならびに、かの有名 な最初の一撃の与える運動は永続するという永続説は解消して、それも1つの歴史的過程となった。即ち、太陽もすべて の惑星も回転する星雲から生じたものとなった。そして太陽系がこうして発生したものならば、将来それが死滅すること もまた必然だと既にそのときカントは考えていた。それから半世紀の後、彼の見解はラプラスによって数学的に基礎づけ られ、さらに半世紀後には、・・・分光器によって立証された。 ・p57(ヘーゲル(1770〜1831)が弁証法を完成した) ・この新しいドイツ哲学は、ヘーゲルの体系において完成した。自然と歴史と精神の全世界が1つの過程として説明される ようになった。即ち、それらは不断の運動、変化、変形、発展のなかにあると説き、そういう運動と発展の内的関連の 証明も試みられた。 ・p58(ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている) ・ヘーゲルは、当時の最も博学な学者であったが、第一に彼自身の知識範囲が限られていた。第二に、彼の時代の知識と 見解もその広さと深さに限界があった。第三にはヘーゲルは観念論者であった。それゆえ、彼の思想は現実の事物や過程 を抽象してできる模写ではなく、反対に、事物とその発展は、「理念」の模写として現れているものと考えた。それゆえ、 一切のものは逆立ちさせられ、世界の現実の関連は完全に顛倒された。 ・p59そのためそれは、内的矛盾に悩んでいた。即ち、一方では人間の歴史は1つの発展過程であるという歴史観を本質的な 前提としたが、・・・他方で、自分の体系こそは絶対的真理の精髄だと言ったのである。自然と歴史の認識の一切を包括する 永久に完成した体系などは、そもそも弁証法的思惟の基本原則とは両立しない。とはいえ、外界全体の体系的な認識が 世代から世代へと巨大な進歩を遂げうることを、この原則は断じて否定しないどころかそれを肯定する。 ・p59(近代唯物論は自然弁証法である。) ・近代唯物論は18世紀の形而上学的で全く機械的な唯物論への帰還ではなく、従来の一切の歴史を、ただ革命的に、単純に 排斥はしないで、歴史において、人類の発展過程を見、この過程のうちに運動法則を発見する事を任務とした。 ・近代唯物論は自然科学の最近の進歩を総括して、自然もまた時間の中にその歴史をもち、天体も、発生し、消滅するもの で、一般に循環運動は許される限り無限に広がるものである。 ・この2つの世界(人間・自然)において、近代唯物論は本質的に弁証法的であり、他の科学の上に君臨する哲学などは少し も必要ではない。各々の個別科学が、事物及び事物に関する知識の全体のなかで、自らその占める位置を明らかにする 要求を掲げてそれが明らかになれば、全体の関連を取り扱う特殊科学などは不用である。 ・p60従来の哲学全体の中で、なおも残存し続けるものは、思惟とその法則とに関する学、即ち、形式論理学と弁証法のみで ある。残ったものは、すべて自然と歴史に関する実証科学の範囲である。 ・p60(社会の歴史も弁証法的発展があった) ・自然観におけるこうした変化は、必要な実証的認識素材が与えられた程度に応じて行われたが、歴史観に決定的変化をも たらした歴史的事実は、それよりずっと以前に起こっていた。1831年リヨンでの労働者蜂起、1838年から1842年には最初 の全国的労働者運動たるイギリスのチャーティスト運動がその頂点に達した。 ・プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争は、一方で大工業が、他方で新たに獲得されたブルジョアジーの政治的 支配が発展するに従って、ヨーロッパの先進諸国の歴史の前面に現れてきた。資本と労働との利害は同一であるとし、 また、自由競争は広く一般に調和と国民福祉をもたらすと説くブルジョア経済学は、事実によって、厳しく化けの皮を剥 がされた。 ・p60しかるにまだ生き残っていた旧来の観念論的歴史観は、物質的利害にもとづく階級闘争を、いや、およそ物質的利害 なるものを知らなかった。彼らにとっては、生産といい、一切の経済関係といい、いずれも「文化史」の付録にすぎず、 その副次的要素にすぎなかった。 ・p61(一切の歴史は階級闘争の歴史である。・・・唯物史観の公式) ・こういう新しい事実は、従来の歴史を新たに研究し直す必要があった。その結果、従来の一切の歴史は、原始時代を除け ば階級闘争の歴史であった事が明らかとなった。 (共産党宣言1848年) ・この闘争しあう社会階級は常に生産と交換関係の、一言でいえばその時代の経済的諸関係の産物であること、それゆえ に、その時々の社会の経済的構造が、つねにその現実の基礎をなし、歴史上の各時代の、法律制度や政治制度はもちろん、 そのほかの宗教や哲学やその他の観念様式などの全上層建築は、結局はこの基礎から説明すべきものであるという 事が明らかになった。 (「経済学批判」序言の唯物史観の定式参照) ・ヘーゲルは歴史観を形而上学から解放して、それを弁証法的にした、−けれども彼の歴史観は、本質的には観念論であった。 いまや観念論はその最後の隠れ家たる歴史観から追放され、1つの唯物史観がここに生まれた。それは、従来のように人間 の存在をその意識から説明するのではなく、人間の意識をその存在から説明する方法であった。(唯物史観) ・p61(階級闘争の正体は剰余価値であった) ・p61これによって、社会主義は、1人の天才の頭脳が偶然発見したものではなくなった。それは歴史的に成立した2階級、即ち プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の必然的産物であった。その任務は、もはやできるだけ完全な社会制度を考案 することではなく、これら階級とその対立とが必然的に生まれてきた歴史的な経済的経過を研究し、これによって作り出さ れた経済状態の中に、この衝突を解決すべき手段を発見することであった。 ・p62しかしこの唯物史観は従来の社会主義とは相容れなかった。従来の社会主義は、現存の資本主義的 生産方法とその結果とを批判はしたが、彼らは、それを説明できず、従って、それをどうすることもできず、ただそれを悪 いと非難するだけであった。 ・この古い社会主義は、資本主義的生産方法と不可分に結びついている労働者階級の搾取をいかに猛烈に非難しても、 それがどこに存在するのか、それはいかにして発生するのかを明瞭に説明できなかった。 ・p62これを成し遂げたのは、(資本主義的生産における)剰余価値の暴露によってであった。これで、不払労働(剰余 価値)の取得こそが資本主義的生産方法とそれによって行われる労働者搾取の根本形態であることが分かった。 ・資本家は彼の労働者の労働力を商品として商品市場で価値どおりに買うことで、それに対して支払われた対価よりも 多くの価値をそれから引き出す事、この剰余価値こそが、有産階級の手中に、不断に増大する資本量を積み上げると ころの価値額を結局は形成するもの(資本蓄積)であることを証明した。資本主義的生産と資本の生産の両者の来歴が 明らかになったのである。 ・p63(社会主義を科学としたのはマルクスである。) ・この2大発見、即ち、唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスに負うところのものである。 社会主義はこの発見によって1つの科学となった。 −−−−−−−−−−−−−−TOP 『参考』 ・(「社会科学辞典」新日本出版社1972年)の解説(p294)では、「エンゲルスは、弁証法の基本法則として次の3つをあげて いる。@対立物の統一の法則、A量から質への転化(及びその逆)の法則、B否定の否定の法則。この3つの基本法則 は、互いに切り離されているものではなく、事物の発展そのものの中に、関連しあって貫かれている。」 −−−−−−−−−−−−−− 第二章 「弁証法的唯物論」了。次回は第3章・「資本主義の発展」です。2023/07/23 TOP |
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(まとめ) 弁証法の諸法則(不破哲三・綱領・古典の連続教室から 「講義要旨」p21) TOP ・量的変化と質的変化 ・否定の否定 ・対立物の統一と闘争 |
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形而上学的な見方 | 弁証法的な見方 |
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連関 | ものごとを、個々ばらばらに捉える。 | ものごとを、世界の全般的な連関の中で捉える。 |
変化と運動 | ものごとを、固定した、一度与えられたら それっきり変化しないものとして捉える。 | すべてを生成と消滅、運動と変化の中で捉える。 発展、進歩の契機を重視する。 |
対立物の捉え方 | ものごとを白は白、黒は黒といった絶対的な 対立の中で捉える。マタイ伝5章37章 「然り、然り、否、否と言え。これに過るは 悪より出づるなり。」である。(上記P54注4) | 対立物を発展の生きた推進力として捉える。 (対立物の闘争と統一、相互移行) 固定した境界線や「不動の対立」を認めない。 TOP |
「資本論」第2版への後書きにおけるマルクスの弁証法的方法の紹介(新版『資本論』1p28〜p34) TOP ペテルブルクの『ヴェースニク・エブロープイ』(ヨーロッパ報知)は、専ら『資本論』の方法を取り扱った 論文において、私の研究方法は厳密に実在論的であるが、叙述方法は不幸にもドイツ的弁証法的であることを 見出している。「マルクスにとってはただ1つのことだけが重要である。彼がその研究に携わっている諸現象の 法則を発見する事、がそれである。しかも、彼にとって重要なのは、諸現象が1つの完成形態をもっている限り において、またある与えられた期間内に見られる1つの連関の中にある限りにおいて、それらの諸現象を支配し ている法則だけではない。 彼にとってさらに何よりも重要なのは、諸現象の変化とそれらの発展の法則、即ち、ある形態から他の形態へ の移行、連関の1つの秩序から他の秩序への移行の法則である。ひとたびこの法則を発見するや、彼は、この 法則が社会的生活の中で自らを現わす諸結果を詳細に研究する。・・・そのために、マルクスが苦心するのは、 ただ1つのこと、即ち、正確な科学的研究によって社会的諸関係の特定の諸秩序の必然性を立証し、彼のため に出発点及び支点として役立つ諸事実をできる限り非の打ち所のないまでに確定することだけである。 このためには、彼が現在の秩序の必然性を論証すると同時に、この秩序が不可避的に移行せざるを得ない他の 一秩序の必然性を論証すれば、それで全く十分なのであって、人々がそのことを信じるか信じないか、意識す るかしないかには全く関わりがないのである。 マルクスは社会の運動を、諸法則−即ち、人間の意志や意識や意図から独立しているだけでなく、むしろ逆に、 人間の意欲や意識や意図を規定する諸法則−によって支配される1つの自然史過程とみなしている。 ・・意識的要素が文化史においてこのように従属的役割を演じるとすれば、文化そのものを対象とする批判が、 意識の何らかの形態または何らかの結果をその基礎とすることは到底できないことは自ずから明らかである。 即ち、この批判にとっては、理念ではなくただ外的現象だけが出発点として役立ちうる。この批判は、1つの 事実を、理念とではなく、他の事実と比較し対比することに限定されるであろう。この批判にとって重要なの は、両方の事実ができる限り正確に研究され、現実的にそれぞれ一方の事実が他方に対して異なる発展契機を なす、ということであるが、しかしとりわけ重要なのは、それに劣らず正確に諸秩序の序列が探求されること 発展諸段階がその中で現われる連続と結合とが探求されることである。 ・・・しかし次のように言う人もいるであろう。・・・経済生活の一般的諸法則は同一のものであって、人がそれら を現在に適用するか過去に適用するかとは、何の関わりもない、と。これこそまさにマルクスの否定するとこ ろである。彼に寄れば、そのような抽象的な諸法則は実在しない。・・・彼の見解によれば、反対に、歴史上の それぞれの時代がそれぞれの独自の諸法則をもっている。・・・生活が、与えられた1つの発展時代を経過して しまって、与えられた一段階から他の段階に移行するやいなや、それはまた別の諸法則によって支配され始 める。一言で言えば、経済生活は、生物学という他の領域における発展史に似た現象を、われわれに示す。 ・・・旧来の経済学者たちは、経済的諸法則を物理学や化学の諸法則と同様なものと考えたので、経済的諸法則 の性質を理解しなかった。・・・諸現象をより深く分析すると、諸々の社会有機体も、植物有機体や動物有機体 と同様に、互いに根本的に異なるものであることが証明された。・・・全く同じ現象でも、これらの諸有機体の 構造全体の相違、それらの個々の器官の差異、それらの器官がその中で機能する諸条件の相違、等の結果、 全く異なる諸法則に従う。 たとえば、マルクスは、人口法則がすべての時代、すべての場所で同一であるということを否定する。 反対に、彼は、それぞれの発展段階はそれぞれ独自の人口法則をもつ、ということを確言する。 ・・・生産力の発展が異なるにつれて、諸関係も諸関係を規制する諸法則も変わってくる。マルクスは自分 自身に対して、この観点から資本主義的経済秩序を研究し説明するという目標を提起することによって、ただ、 経済生活の正確な研究がいずれも持たざるをえない目標を、厳密に科学的に定式化しているだけである。 ・・・このような研究の科学的価値は、ある一つの与えられた社会有機体の発生・現存・発展・死滅を規制し、 またそれと他のより高い社会有機体との交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある。そしてこのよう な価値をマルクスの著書は実際に持っているのである。」(p31) ・(p32)この筆写は、私の現実的方法と彼が名付けるものを、このように的確に描き、その方法の私個人によ る適用に関する限り、このように好意的に描いているのであるが、こうして彼の描いたものは、弁証法的 方法以外の何であろうか? もちろん、叙述の仕方は、形式としては、研究の仕方と区別されなければならない。研究は、素材を詳細 に我が物とし、素材の様々な発展諸形態を分析し、それらの発展諸形態の内的紐帯を探り出さなけれ ばならない。この仕事を仕上げて後に、はじめて、現実の運動をそれにふさわしく叙述することができる。 これが成功して、素材の生命が観念的に反映されれば、あたかも先験的構成が取り扱われるかのように、 思われるかもしれない。・私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとは根本的に異なっているだけでなく、 それとは正反対のものである。 ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに1つの自立的な主体に転化した思考過程が、現実的 なものの創造者であって、現実的なものはただその外的現象をなすにすぎない。私にとっては反対に、 観念的なものは、人間の頭脳の中で置き換えられ、翻訳された物質的なものに他ならない。 ヘーゲル弁証法が(事物を)神秘化する側面を、私は30年ほど前に、それがまだ流行していた時代 に批判した。 (注:『聖家族』第5章「2 思弁的構成の秘密」下記参照) ・・・弁証法がヘーゲルの手の中で被っている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態を初めて包括的 で意識的な仕方で叙述したという事を、決して妨げるものではない。弁証法は、ヘーゲルにあっては逆立ち している。神秘的な外皮の中に合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。 その神秘化された形態で、弁証法はドイツの流行となった。・・・その合理的姿態では、弁証法は、ブルジ ョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌まわしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、 この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時に又、その否定、その必然的没落の理解を 含み、どの生成した形態をも運動の流れの中で、従って又、その経過的な側面から捉え、なにものに よっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである。 ・資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的循環の浮沈に おいて最も痛切に感じられるのであって、この浮沈の頂点が−全般的恐慌である。この全般的恐慌は、まだ 前段階にあるとはいえ、再び進行中であって、その舞台の全面性によっても、その作用の強さによっても、 神聖プロイセン=ドイツ新帝国の成り上がり者たちの頭にさえ弁証法をたたき込むであろう。 ロンドン、1873年1月24日 カール・マルクスTOP |
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『聖家族』(1845年2月刊)第5章「2 思弁的構成の秘密」(ME全集2p56〜59) TOP ・・・ヘーゲル弁証法批判 (参考:広松渉:『弁証法の唯物論的顛倒はいかにして可能であったか』 (マルクス主義の成立過程所収p307))・・・ヘーゲル弁証法の神秘化的側面の批判的剔抉 ・・・「思弁的構成の秘密」から(『聖家族』)(広松「顛倒」p307〜308) 「もし私が現実のナシ、リンゴ、スモモ、イチゴから『果物』という普遍的表象をつくるとすれば、さらに 進んで、・・・『果物なるもの』が私のそとに存在する本質であり、ナシ、リンゴなどの真の本質だと想像する ならば、私は『果物』なるものをナシ、リンゴなどの”実体”だと公言することになる。私はそこで、 リンゴ、ナシ、スモモなどを『果物なるもの』の単なる現存様式、変様であると公言する。」「どうして 『果物なるもの』がときにはリンゴとしてときにはナシとして・・・現われるのであるか? 思弁哲学者は答える。それは『果物なるもの』が死んだ、区別のない、静止したものではなく、生きた、自ら のうちに自らを区別する、動く本質だということから来る。・・ナシは『果物』である、リンゴは『果物』 である、とはもはや言うべきでなく、『果物』がナシとして、リンゴとして自らを定立すると言うべきであり ・・『果物』はもはや内容のない、区別のない、一なるものではなく、”有機的に分肢された序列”をなす 諸果実の総体、「全体」としての一なるものである。 この序列の分肢ごとに、『果物なるもの』はより発展した、より明白な定在を自己に与える。」 「見たまえ、キリスト教は神に1つの化体を認めているだけであるのに、思弁哲学は、ものがあるだけ、それ だけの数の化体を有するのだ。この例でいえば、すべての果実の内に、実体即ち、絶対的果物の化体を1つ1つ もっているのだ。」 「思弁哲学者が、順次連綿と創造行為を達成するのは、・・・彼がリンゴの表象からナシの表象に移行し ていく彼自身の活動を、絶対的主体の、即ち、『果物なるもの』の自己活動だと公言することによって である。この操作を、実体を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解すると呼ぶ。 そしてこれがヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」 「バウエルにおいても、自己意識は自己意識にまで高められた実体、あるいは実体としての自己意識であり、 自己意識は人間の述語から独立の主語に転化されている。」・・・「ヘーゲルは、非常にたびたび、思弁的叙述 の内部で、現実的な、事そのものを捉える叙述をしている。思弁的説明の内部におけるこうした現実的説明 は、読者を迷わせて、思弁的説明を現実的と思わせ、現実的説明を思弁的と思わせるのである。」 (全集2p60) TOP |
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広松渉:『弁証法の唯物論的顛倒はいかにして可能であったか』(『増補マルクス主義の成立過程』) ・・・ヘーゲル弁証法の唯物論的顛倒とは? TOP (一)広松氏は、まず、マルクスにおける「弁証法の唯物論的顛倒」の「前史」を次の3階梯に分けている。 (1)学位論文と『ライン新聞』時代を含む1840〜1842年(マルクス22才から24才) (2)『経哲手稿』を頂点とする1843〜1844年前半(25才から26才) (3)『神聖家族』から『フォイエルバッハテーゼ』『ドイツ・イデオロギー』を経て『哲学の貧困』 に至る1845〜1847年(27才から29才) (1)第一階梯:ヘーゲル左派の領袖ブルーノ・バウエルの影響下、ヘーゲル哲学の主体=実体をなす「精神」を 「自己意識」として解釈してヘーゲル弁証法をほぼそのまま受け容れる立場。・・・ヘーゲルの意味での「具体的に 普遍的な自己意識」としての自己意識の「絶対性と自由」を原理とすることによって、万有を解明する姿勢。 「具体的普遍としての自己意識」は、ヘーゲル哲学の主体=実体たる「精神」であることは、多言を要しない。 (2)第二階梯:ヘーゲル弁証法の主体=実体たる「精神」が「自己意識」にすぎないことを批判。マルクスは それを”フォイエルバッハ的な”「人間」で置換することによって、自己疎外と自己獲得の論理=弁証法を真に 生かそうと試みる。・・・ヘーゲルにおいては、弁証法の拠って立つ主体=実体、実体=主体が主述顛倒している が故に、その全体が逆立ちしている、と批判。しかし、「外在態を自己の内に取り戻す対象的な運動としての 止揚」を「ヘーゲル弁証法の積極的な契機」として評価し、ヘーゲルが「人間の自己疎外、本質外化・・・を自己 獲得、本質変化・・・として捉えている」ことを認め、この積極面を継承しようと図る。*「人間」概念が鍵!。 (3)第三階梯:マルクスはヘーゲルとその学派の「思弁的構成の秘密」を暴露し、前の階梯で主体=実体として 過程を担わせた「人間」に関しても批判(自己批判)を行い、やがてはヘーゲル弁証法の論理そのものと相容れ ぬ立場に移行する。先の『神聖家族』において、「ヘーゲル的方法の本質的性格」=「思弁的構成の秘密」を 暴露・批判する。 ・p309(二)後期マルクスの弁証法は、・・・”前史”におけるヘーゲル弁証法批判の論点自体をも止揚すること によって初めて確立されたものである。 『経済学批判』序説 3 経済学の方法(国民文庫版p293/広松「成立過程」p310)(PDF)参照。 TOP『経済学批判』序説 3 経済学の方法(国民文庫版)10.3 ・「成立過程」p313における解説: @学の方法としては具体的定在から抽象的な概念へと下向するのではなく、抽象から具体への上向法が採らるべき こと。 Aこの上向の論理過程は、思惟にとっては、具体的な対象、具体的概念の成立過程であっても、現実の歴史過程そ のものとは必ずしも一致せず、論理過程と歴史過程との一致は、事情如何によるものである事。 (※ヘーゲル「法哲学」の方法との類似点、下記参照) ※「経験的な諸科学においては、人々は通常、表象のうちに見出されるものを分析し、個別的なものを共通なもの に帰着させ、これを概念と呼ぶ。」・・・「我々はこのようなやり方はしない。というのは、我々は専ら概念自身が どのように自己を規定するか、これを観望しようと努め、我々の私念や思惟を付け加えないよう自制するのであ るから。我々はこのような仕方で一系列の思想ともうひとつの一系列の現存在する形態を得るのであるが、これ ら2系列において、現実における時間の順序が概念の順序と部分的には一致しないということが起こりうる。 それで、例えば、所有は家族より前に現存在していたとは言えないが、にもかかわらず、所有は家族よりも前に 論ぜられる。それで、人々は、我々はなぜ最高のもの、つまり具体的に真なるものから始めないのかという問題を 持ち出すかもしれない。答えはこうである。我々は、まさしく、真なるものを成果のかたちで見ようとする からで、そのためにはまず、抽象的な概念そのものを把握することが、事の本質上必要なのだ、と。 現実に在るもの、つまり概念の形態はこうして、たとい現実そのものにおいては最初のものであろうとも、我々に とっては後に来るより後のものなのである。」(s32.序論) 「経済学は、・・・近代に成立した学問の一つであるが、その発展は、思想が、(スミス、セイ、リカードをみよ) さしあたり、その眼前に在る無限な集合をなす個別的事象から、事柄の単純な原理、事柄の内に働いており、 事柄を統制している悟性を、いかにして見つけ出すかという興味ある事実を示している。」 (S189名著「法の哲学」p422) ・「成立過程」p315:果たして『資本論』では「商品」ないし「価値」を『聖家族』における『果物』の位置 (遡って言えばヘーゲルの「精神」の位置)に置き、この実体=主体の自己運動、これによる”有機的に分肢され た序列”の自己定立として、抽象から具体へと上向してはいないか?商品という『果物』が貨幣や資本という ”有機的に分肢された序列をなす諸果実”に至ってはいないか?そして歴史性と論理性との一致がサ・デパンとされ 得たのも、その限りにおいてではないのか?ナイン・ヤ・アーバー・ドッホである。この限りでは、後期マルクスの 弁証法は、『聖家族』時代の発想の単なる延長上にはなく、ある意味では『経哲手稿』当時の論理をも回復している。 ・・・それはいかにして可能であったか? ・p315(三)この問題に答えるためには、『聖家族』や『ドイ・イデ』当時の極めて唯名論的な発想が止揚されるに至 ったこと、さりとて普遍が実在すると説く実念論が採られたのではなく、この唯名論と実念論との伝統的な対立を超 える地平が拓かれたことを確認し、これと相即する「価値」の存在性格を検討しなければならない。・・・幸いな事に、 古典派経済学にいう「価値」の存在性格は、伝統的なノミナリズムとレアリズムとの対立を超えた地平を拓くのに恰好 であった。商品ないし価値は、経済学の対象としての諸物件にほとんど汎通的に妥当する「述語」である。 だがそれは、例の『果物』とは重大な点で趣を異にする。『価値』は共同主観的に一種の事態的・自立的な存在をもつ ものとしてgelten(通用)している。 ・p318価値対象性についてマルクスは資本論で次のように指摘している。「商品体の感覚的に目立つ対象性とは正反対に、 商品の価値対象性には微塵の自然質料も入っていない。だから商品をどういじりまわしてみても、価値物としては依然 つかまえようがない。しかるに諸商品は、人間労働という同じ社会的単位の表現である限りでのみ、価値対象性を有す るということ、従って、商品の価値対象性は、純粋に社会的なものであることを想起するならば・・・それは社会的に妥当 する、それ故に客観的な思想形態なのである。」 ・「価値」は、商品生産が汎通的な社会にあっては、共同主観的・社会的に、一つの自立的な対象性として単に共同主観 的な認識対象としてではなく、現実に通用(gelten)している。それは社会的に妥当な、(gultig)それ故に客観的な 思想形態なのである。それは「抽象的人間的労働の凝結体」として、この共同主観的な対象性認識の存在根拠をなす。 (p318) ・このようなものとして「価値」は、経済学的諸物件がそれとして通用(gelten)するところのエトヴァスとして存在性 をもつものであって、単なる自立化された述語、単なる実体化された述語ではない。マルクスの「価値」は、確かに 感性的な対象性、いわゆるrealitasではないが、とはいえ形而上学的なnoumenonではなく、マルクスと相前後して H・ロッツェの「妥当」、西南学派などの「価値」、独墺学派の「数的存在」等々、様々な視角とコンテクストで追求 された”第三帝国”に属するもの、即ち、伝統的な感性体と悟性体、感性的経験界と形而上学的世界との二領域に対し て新たに措定された”第三帝国”に属するものということができよう。・・・マルクスはこの新しい存在性格をもった 「価値」をアルケーとすることによって、「資本論の弁証法」を展開することができた。けだし、この新しいアルケー は、ヘーゲルのごとき顛倒に陥ることなく、しかもヘーゲルの実体=主体、主体=実体としての「精神」がその体系の ロゴスとして機能しえたのと類似の役割を果たしうるのである。 TOP ・p319(四)『資本論』の弁証法における”上向の論理”とヘーゲル弁証法との対照 ・p319 ヘーゲル『精神現象学』序論:ヘーゲルの体系において「一切を左右する要点は、真なるものを、実体として ばかりでなく、まあさしく主体としても把捉し表現するということ」にある。「生ける実体は真実には主体であると ころの存在である。言い換えれば、この実体は、自己定立の運動であり、自ら他者となりこれを自己自身と媒介 (融合)する限りで、その限りで真に現実的な存在である。この実体は、主体としては純粋な(つまり自分自身と関わ る)単純な否定性であり、まさにそのことによって、単純なもの(たる自分自身)の二極化、つまり相対立するものへ の二重化(をおこなっていくの)である。この二重化は、互いに没交渉な二項の差異と対立を再び否定する。 真なるものとは、こうして自己を回復する同一性、他在(の形を一旦とったうえで)において自分自身へ帰ってくる 反省、これが真なるものである。それは決して本源的な統一そのもの、直接的(無媒介)な統一そのものではない。 それは、自己自身になるプロセスであり、終局を目的としてあらかじめ定立して端緒となし、それを実現する過程 ならびにその終局によってのみ現実的なる円環である。 ・p320(広松)ヘーゲル弁証法においては、上にいう実体=主体たる「精神」の自己展開過程、円環運動のプロセスが 叙示される。それはいわば「精神」の自叙伝であって、ヘーゲルはそれに何ら作為を加えることなく、専ら観望する (zusehen)という建前になっている。・・・しかし、そこには弁証法的な展開の論理が働いていることは改めて指摘す るまでもない。この展開の論理は、『精神現象学』とその後の著作とでは、確かにニュアンスを異にする。 前者では、感性的確知から絶対知に上向する意識=精神のプロセスが、自己自身を対象として外化し、この疎外され た自己を次々に獲得していく「意識の経験の学」として展開され、いわゆる「主体・客体の弁証法」をなしている。 しかも、ここでは、「意識しつつある当の意識」の他に「fur uns」(われわれにとって)とヘーゲルが言うとき の「wir」(われわれ)即ち、哲学的な観望者が介在しており、実際にはこの”観望者”が舞台回しの役割を演じて いる。一方、・・・『論理学』においては、モノローグとしてのディアローグの構造がまだしも生きているが、爾他は 専ら観望者ヘーゲルの綴る”伝記”という性格が強く、舞台回しの役は抑止されているかに見える。がしかし、 実際には舞台回しが行われていることは自明であり、ヘーゲル弁証法における展開の論理として問題になるのは、 この秘められた舞台回しの論理である。・・・その構造は以下の如くである。 ・p321ヘーゲル弁証法における抽象から具体への上向のメカニズムについて TOP ヘーゲル哲学においては、ある究極的な主語−さしあたっては、絶対者とも、真なるものとも、明示的にはいえない エトヴァス(something)たるにすぎないが、−そして終始一貫して主語の位置に立ち続ける或る主語が、論理的展開 の支柱になっている。そのメカニズムについて(参考例・p321) @花がここに咲いている、 A花は小さい、 B花は白い、 という判断・命題を順次に立てるとき、主語が一貫して同じ場合には、@Aを経たBの「花」は、単なる『花』 ではなく、「ここに咲いている小さい花」という含意で主語に立つことになる。 Aにおいては、@の述語が繰り込まれて、”ここに咲いている花”が主語であり、Bでは、その上に Aの述語が主語に繰り込まれる。 ・p321ヘーゲル弁証法における抽象から具体への上向は、このメカニズムを活用している。『論理学』や『精神現象学』 冒頭の「此れ」は、一見、端的に主語として立てられているように見えるが、実は、既に主語に繰り込まれた述語 である。・・・ヘーゲルが言う如く、真の主語はつねに「絶対者」であり、それが論理学では、絶対者は有であるという提題 が第一次的に措定されている。いわゆる端初の「有」は、この第一次的提題の述語が主語に繰り込まれたものであって、 有即無が措定される際には、有であるところのエトバス(絶対者)は単にこの規定の限りでは無である、という仕掛け になっている。そして次には、有でありかつ無であるところのエトヴァス(絶対者)は成である、という仕方で、 述語が次々に主語に繰り込まれる。この限りでは、ヘーゲルは確かに述語を主語に転化している。・・・なるほど『果物』 を端的に主語化して、『果物』とはリンゴなり、『果物』がブドウ酒になる、などと立言すれば珍奇である。しかし、 『果物』であるところのエトバスはブドウ酒になる、と言ってもこれは決して珍奇ではない。これは先に挙げた「ここ に咲いている小さい花は白い」と同趣である。主語と述語との関係をノミナリズム的な発想で捉え、かつ、アリストテ レス的に主語=実体を考える場合には、述語の主語化は確かに許されない暴挙であろう。 しかし、主語化された述語は、その実、形而上学的な実体ではなく、Geltungとしての存在性格、”第三帝国”に属する ものとしての存在性格をもつ。ヘーゲルは・・・文字通りに述語の主語化=実体化を行い、しかもこの実体を自己運動の 権能をもつ主体として措定した。その限りでは、『神聖家族』における思弁的構成の批判は当たっている。 しかし、主語に繰り込まれた述語は、ヘーゲルの誤想にも関わらず、実際には伝統的な感性体と悟性体とのいずれにも 属せぬ第三領域のGeltungである。この限りでは「価値」の存在性格に即して・・・ノミナリズム的な水準を超えたマル クスにとっても、述語の重層的な主語化は、今や容認しうる論理の構造である。 ・323ヘーゲルは、述語の主語化=実体化に基づいてではあったが、期せずして上述の連続命題措定の意味論的重層構造 に依拠しつつ、弁証法的展開の舞台回しを遂行しえたのであった。ここでは、銘記すべき3点を指摘しておきたい。 ・p325 第一に(矛盾律に跼蹐せぬ弁証法の権利根拠を確保) 或るもの(主語)はしかじか(述語)なりという命題(判断)を立てるとき、「対象にあれこれの述語を帰するのは、 われわれの主観的行為ではなく、我々は対象をその概念によって定立されている規定態において考察するので」あって、 主語で指示されるところの或るものは当の述語の規定性において即自対自的になる。・・・判断は、かのミダス王のタッチ に似て、主語対象をその述語規定性において即自対自的たらしめずにはおかない。(下記エンチュクロペディ参照。) 「判断というと人々は普通、まず、主語と述語という2つの項の独立を考え、・・・述語は主語の外部に、我々の頭の中に ある普遍的な規定であって、両者を私が結合することによって判断が成立すると考えている。しかし、”なり”という 繋辞が主語について述語を言い表す事によって、外面的主観的な包摂作用は再び否定され、判断は対象そのものの規定 ととられるのである。」「主語は述語においてはじめてその明確な規定性と内容をもつ」のではあるが、「判断Urteil は、本源的な主述統一体を原始的に分割(urteilen)し、そのことによって、主語が即自的にはそれであったところの 述語規定性を対自的にするのであって、述語を主語と外面的に結合関係におくのではない。」(s166) ・p323たとえば、@AはBなり、AAは非Bなりという連続2命題を立てる場合、差別を固定する「悟性的抽象」の 立場からは、両命題間の排中関係や矛盾律が云々されるにしても、第一の措定によって既に主語対象性が変貌するが 故に、矛盾律が厳密には妥当しえないことになる。 この機制によって、ヘーゲルは矛盾律に跼蹐せぬ弁証法の権利根拠を確保しえた。 TOP ・p324 第二に、(絶対的全称判断の自己破壊のメカニズム) ・究極的な、終始一貫した真の主語が、存在者の全体を外延とする汎神論的な絶対者であることによって、述語がこれ また存在者の全体に関わる場合には、ある概念Bとその矛盾概念Cを述語とする2つの命題(AはBなり、と、AはC なり)を共に止揚することができる。・・・一般に相矛盾する2つの概念BとCは、世界の一部がB,他の一部がCで ある限りで意味をもつのであって、−−例えば、磁石の極がすべて北極だとすれば、つまり磁石の南極が存在しない とすれば、北極・南極という両規定がともに無意味となる。−−全世界を外延とする主語(汎神論的な絶対者)につい て矛盾概念の一方を述語として賓述するとき、当の対概念並びにそれを述語とする両命題が自己破壊に陥る。 絶対的全称判断の自己破壊ともいうべきメカニズムをヘーゲルは駆使することができた。 ・p324 第三に、主語の重層的な具体化の論理 述語が存在者の一部にしか妥当しない場合にも、その述語が次々に主語に繰り込まれる事によって、 即ち、先の「ここに咲いている小さい白い・・・花」というように、主語が次々と豊富化される。実体としての主体 たるこの主語は、その過程を通じて、”それでありつつしかも最早それにあらざるもの”として措定されていく。 ヘーゲルはこの手続きによって無規定的・抽象的な端初から具体的な全体としての終局、彼の言う具体的概念へと 上向することができた。マルクスが踏襲しえたのも、まさしくこの論理である。『神聖家族』当時のマルクスであった ならば、述語を主語に繰り込んだ商品−−しかも、可感的な使用価値物ではなく、原理上非可感的な「価値」を主語に 繰り込んだところの!−−商品を究極的な、一貫した主語に立てることは出来なかったであろう。当時のマルクスにと っては、それこそ『果物』の主語化であり、笑うべき思弁的構成であったろう。しかるに、伝統的な感性体・悟性体を 超えるGeltungとして「価値」を把捉しえたマルクスにとっては、ヘーゲルのごとき述語の実体化に陥ることなく、今や 同一構造の論理を採ることができる。これを具現化したもの、それがマルクス経済学(資本論)の論理展開であった。 ・p325マルクスの場合には、主語は必ずしもヘーゲル的な全称(単称の絶対者)ではなく、特称たりうる。 マルクスは、商品はしかじかである、という命題の述語を次々に主語に繰り込んで、或るしかじかの商品は貨幣である、 或るかくかくの商品は資本である、というように、具体的・現実的な場面で主語の重層的な具体化を遂行しうる。・・・ 上向の論理は、構造的には専ら、賓述における主辞の重層的具体化に基づいている。 ・p326伝統的な論理学に則った概念体系と弁証法的な展開の体系の違いについて 伝統的な概念体系においては、上位概念に種差を加えたものが述語として賓述される。 ・・・曰く:人間とはしかじかの猿である。猿とはしかじかの動物である。動物とはしかじかの生物である。云々。 弁証法的な展開の体系では、上位概念に次々と種差を累加したものを主語とし、具体的な定在を述語として賓述が 行われる。・・・(しかじかしかじかの生物が動物である、しかじかしかじかの動物が猿である、しかじかしかじかの猿が 人間である。云々) ・p327主辞の重層的具体化のメリット(まとめ) TOP (1)伝統的な”方法””手続き”が、具体的定在を抽象的一般的な概念、へと希薄化するのに対して、具体的定在を 「多様な諸規定の総括」において措定し、しかも (2)いわば単細胞生物から哺乳類へと及ぶいわゆる進化系統図に定位し系列化するごとき仕方で、 (3)ベカント(bekannt)な具体的定在、つまり常識的な意味で良く知られているものを、概念系列の連鎖と連関 のうちに媒介的に関連付け位置づけて、エアカント(erkannt)(学的に認識されたもの)たらしめつつ、 (4)丁度、メンデレーエフの周期律表のごとく、規定を遺漏なく正則的に累加していく事によって、それを発見的方法 としても機能させつつ、ベグライフェン(概念的に把握)された具体的な諸定在を学的に系統化する事ができる。 ※科学の方法としても優れたこの方法を採ることによって、『資本論』におけるマルクスの弁証法的展開は、ヘーゲル 弁証法と構造的に一致しうるのである。 ・p327(五)弁証法の唯物論的顛倒の内実について ・p328ヘーゲル弁証法においては、上向といい、量より質への転化といい、否定の否定、等々といっても、「概念化 された神学」としての彼の哲学の主想(万有を神的なロゴス・ヌースの被造物として措定する発想(イデアリスムス) と切り離すことが出来ない。・・・ヘーゲルにあっては、イデーが化肉して自然物となるのである。抽象から具体への上向 とは、ヘーゲルの場合、まさしく実体=主体の自己疎外(化体・肉化)と回復の運動を通じて、主体=実体が自己を 具体化していくプロセスにほかならない。それは文字通りに具体物の生成である。いわゆるヘーゲル弁証法の法則は、 このプロセスのパターンを図式化したものに他ならない。・・・そして実は、ヘーゲル弁証法のイデアリスムス的顛倒と は現実の諸定在をば主体=実体=イデーの自己疎外態とみることが顛倒であることの謂いに他ならない。そして、 ヘーゲルの場合には、主語が同時に主体であることによって、自己運動が可能であった。マルクスの場合は如何? ・p331 マルクスにおいては、ある種の場面では、歴史的・現実的な運動の追認として、主語の自己運動であるかの ごとくに扱いうる局面もある。しかし、事象そのものの歴史的運動に起動力を帰しうるのは、歴史性と論理性とが 一致する限りにおいてであって、マルクスとしては『物質なるもの』の自己運動に終始することは出来ない。 歴史性と論理性とが合致しない限り、体系の展開は、ヘーゲルが観望者(Zuseher)の位置に置いた fur uns(我々) というときのwir(我々)の資格における賓述、これによって(精神的に具体的なもの)が再生産されることに懸かる。 通常の論理的思念においては、主語対象は、それが経験的な実在であれ、形而上学的な実在であれ、賓述によっても 不易だとされているが、前節でみたとおり、賓述によって単に主語表象が心理的に変容するのではなく、第三領域の Geltung(妥当)たる主語対象性は、意味成体として変成する。しかもこの意味成体を懐胎(pregnieren)するもの がGegenstand fur uns(我々にとっての対象)なのであるから、wir(我々)の立場において賓述することによっ て、ヘーゲルが生かし得なかったbekannt-erkanntの論理を回復し、自らder Erkennen-lassende(知らしめるもの)として 主語重層化の論理的メカニズムに則って、同時に読者の賓述でもあるところの体系的展開を遂行する。 かくして、マルクスは、主語=主体の自己定立というヘーゲルにおける仮象を、それを支える舞台回しの論理を対自化 することによって却けつつ、抽象的普遍から具体的個別への重層的具体化の論理に俟って賓述の力動的進展を確保し えている。 ・p332「弁証法の課題について」 唯物弁証法の体系においては、ヘーゲル弁証法における存在・認識・論理の三位一体がいかにして保証されうるのか? 存在の弁証法と認識の弁証法の関係如何?いわゆる弁証法の”法則”、ひいては弁証法的否定性と全体性の論理は如何 にして権利づけられるのか?・・・ヘーゲル弁証法の唯物論的顛倒について最終的に論ずるためには、こうした一連の問題 を前もって考覈しなければならない。 ・p332本稿における「ヘーゲル弁証法の唯物論的顛倒」のまとめ TOP (第一節)では、ヘーゲル弁証法との対質の前史を鳥瞰し、(第二節)では、この前史におけるヘーゲル批判の論点 そのものの自己止揚を確認し、(第三節)では、マルクスが立てるに至った新しいアルケー(始原)の存在性格の指摘 を経て、(第四節)では、ヘーゲル弁証法の展開の論理の考察に即して上向法の論理構造に触れ、(第五節)では、 ヘーゲルにおける自己疎外の主体=実体を、新しい存在性格のアルケーを主語に立てる事によって換骨しつつ、いうと ころのwir(我々)を観望者から積極的な措定者となすという仕方で、マルクスがヘーゲル弁証法を”唯物論的に”顛倒 しえた所以を一瞥してきた。 TOP |
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「経済学批判」序説(Einleitung)(1857.8月末〜9月半ばに執筆) 2017.8.11 国民文庫版 新訳 「経済学批判への」序説C (p293〜p298) TOP 【三】経済学の方法 (1) ・(p293)我々が与えられた一国を経済学的に考察する場合には、我々はその国の人口、その人口の諸階級への分布、 都市、農村、海洋、種々の生産部門、輸出入、年々の生産と消費、商品価格、等々から始める。実在的で具体的なもの、 現実的前提をなすものから始めること、従って、例えば経済学では、社会的生産行為全体の基礎であり主体である人口 から始めることが、正しい事のように思われる。 ・(p293)しかし、もっと詳しく考察すれば、これは間違いだという事がわかる。人口は、例えば、それを構成する諸 階級を無視すれば、1つの抽象である。この諸階級というものも、諸階級の基礎になっている諸要素、例えば賃労働、 資本、等々を知らなければ、やはり一つの空語である。賃労働、資本、等々は、交換、分業、価格、等々を前提する。 例えば資本は、賃労働がなければ、価値、貨幣、価格、等々がなければ、なにものでもない。 ・(p293)だから、もし私が人口から始めるとすれば、それは、全体についての一つの混沌とした表象であろう。 そして、もっと詳しく規定する事によって、私は分析的にだんだんもっと簡単な概念に考えついてゆくであろう。表象 された具体的なものから、だんだん希薄になる抽象的なものに進んでいって、ついには最も簡単な諸規定に到達するで あろう。(下向法) ・(p293)そこで今度は、そこから再び後戻りの旅を始めて、最後には再び人口に到達するであろう。といっても、今度 は、一つの全体についての混沌とした表象としての人口にではなくて、多くの規定と関係とを含む一つの豊かな総体とし ての人口に到達するであろう。(上向法) ・(p294)第一の道(下向法)は、経済学がその成立に際して歴史的にたどってきた道である。例えば17世紀の経済学者 たちは、いつでも、生きている全体から、即ち、人口、国民、国家、いくつかの国家、等々から、始めている。しかし、 彼らは、いつでも、分析によっていくつかの規定的な抽象的な一般的な関係、例えば分業や貨幣や価値などを見つけ出す 事に終わっている。 ・(p294)これらの個々の契機が多かれ少なかれ固定され抽象されると、(今度は)労働や分業や欲望や交換価値のよう な簡単なものから国家や諸国民間の交換や世界市場にまで上ってゆく経済学の諸体系が始まった。この後の方のやり方 (上向法)が、明らかに、科学的に正しい方法である。 ・(p294)具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、従って多様なものの統一だからで ある。それ故、具体的なものは、それが現実の出発点であり、従って又、直感や表象の出発点であるにも関わらず、思考 では総括の過程として、結果として現れ、出発点としては現れないのである。第一の道(下向法)では、充実した表象が 蒸発させられて抽象的な規定にされた。第二の道(上向法)では、抽象的な諸規定が、思考の道を通って、具体的なもの の再生産になってゆく。 ・(p294)それ故、ヘーゲルは、実在的なものを、自分のうちに自分を総括し自分のうちに沈潜し自分自身から運動する 思考の結果として捉えるという幻想に陥ったのであるが、しかし、抽象的なものから具体的なものに上ってゆくという 方法(上向法)は、ただ、具体的なものを我がものとし、それを一つの精神的に具体的なものとして再生産するという 思考の為の仕方でしかないのである。しかし、それは、決して具体的なものそのものの成立過程ではない。 ・(p294)例えば最も簡単な経済学的範疇、例えば交換価値は、人口を、即ち、一定の諸関係の中で生産をしている人口 を、前提する。又、ある種類の家族とか共同体とか国家とかをも前提する。交換価値は、一つの既に与えられている具体 的な生きている全体の抽象的な一面的な関係としてより他には、決して存在しえないのである。これに反して、範疇とし ては、交換価値はノアの大洪水以前からの定在をもっている。 ・(p295)それ故、意識にとっては−そして哲学的意識は、それにとっては概念する思考が現実の人間であり、従って 概念された世界そのものが初めて現実的なものであるというように規定されている−、諸範疇の運動が現実の生産行為− 残念ながらそれは外界から刺激だけを受けるのだが−として現れるのであり、その行為の結果が世界なのである。 ・(p295)そして、このことは−とはいえこれも又同義反復ではあるが−、具体的な総体が、思考された総体としては、 一つの思考された具体物としては、実際に思考の産物であり、概念作用の産物である限りでは、正しい。しかし、それは、 決して、直感や表象の外又は上にあって思考し自分自身を生み出す概念の産物ではなく、直感や表象の概念への加工の 産物である。 ・(p295)思考された全体として頭の中に現れる全体は、思考する頭の産物である。この思考する頭は、自分にとって 可能なただ一つの仕方で世界を我がものにするのであって、この仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神 的に我がものとするのとは違った仕方なのである。(ヘーゲルの観念論的弁証法的方法の批判) ・(p295)実在する主体は、相変わらず頭の外でその独立性を保っている。というのは、頭がただ思弁的に、ただ理論的 にのみ振る舞っている間の事であるが。それ故、理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に 浮かんでいなければならないのである。 ・(p296)しかし、これらの簡単な範疇も、一層具体的な範疇よりも前に、やはり一つの独立な歴史的又は自然的な存在 をもつのではないだろうか?それは事と次第による。例えば、ヘーゲルが、主体の最も簡単な法的関係としての占有を もって法哲学を始めているのは、正しい。 しかし、それよりもずっと具体的な関係である家族や支配隷属関係以前には、占有は存在しない。これに対して、まだ ただ占有するだけで所有を持たない家族や種族的全体が存在する、と言うのは正しいであろう。 (諸範疇の歴史性と論理性について) ・(p296)つまり、所有との関係で見て、より簡単な範疇は、簡単な家族共同体又は種属共同体の関係として現れるので ある。それは、もっと高度な社会では、もっと発展した組織のより簡単な関係として現れる。しかし、占有をその関係と するもっと具体的な基体が、いつでも前提されているのである。 ・(p296)単独な野蛮人が占有をするという事も考える事はできる。しかし、その場合には占有は法関係ではない。 占有が歴史的に家族に発展するという事は、間違いである。占有は、むしろ、常にこの「より具体的な法的範疇」を前提 するのである。とはいえ、とにかく次の事だけは変わらないであろう。 ・(p296)即ち、簡単な諸範疇によって表現されている諸関係では、もっと具体的な範疇によって精神的に表現されてい る一層多面的な関連又は関係をまだ定立する事なしに、未発展な具体的なものが実現されている事もありうるのであるが、 他方、より発展した具体的なものは、同じ範疇を従属的な関係として保持するという事である。 ・(p296)貨幣は、資本が存在する以前に、銀行が存在する以前に、賃労働その他が存在する以前に、存在しうるし、又 歴史的にも存在した。だから、この面から見れば、次のように言うことができる。より簡単な範疇は、より未発展な全体 の支配的な諸関係か、又はより発展した全体の従属的な諸関係、即ち、より具体的な範疇に表現されている面に向かって この全体が発展する以前に歴史的に既に存在していた諸関係かを表現する事ができる。その限りでは、最も簡単なもの から複合的なものへと上ってゆく抽象的思考の歩みは、現実の歴史的過程に対応するであろう。 ・(p297)又他面では次のように言うことができる。非常に発展してはいても歴史的には比較的未熟な社会形態があって、 そこにはどんな貨幣も存在しないのに、経済の最高の諸形態、例えば協業や発展した分業などが見られるものがある、と。 例えばペルーがそれである。スラブ人の共同体にあっても、貨幣や貨幣の生まれる為の条件である交換は、個々の共同体 の内部ではまったく現れないか、又はわずかしか現れないで、むしろ共同体の境界で他の共同体との交渉で現れる。 ・(p297)実際、交換を共同体そのものの中に本源的な構成要素として持ち込む事は、およそ間違いなのである。 むしろ、交換は、当初は、1つの同じ共同体の中の諸成員の間でよりも別々の共同体の相互関係の中でのほうがより早く 現れるのである。 ・(p297)さらに、貨幣は、非常に早くから全面的に1つの役割を演じてはいるが、しかし古代に支配的要素としてそれ が現れているのは、ただ、一面的に規定された諸国民、即ち、商業国民の場合だけである。そして、最高度に完成された 古代(ギリシャやローマ)にあってさえも、・・・近代ブルジョア社会で前提されているような貨幣の十分な発展は、 ただその崩壊の時代に現れるだけである。 ・(p297)つまり、このようなまったく簡単な範疇でも、それが歴史的にその内包性をもって現れる事は、社会の最も 発展した状態のもとでより他にはないのである。それは、決してすべての経済関係に行きわたっていたのではない。 例えばローマ帝国では、その最高の発展期にも、相変わらず現物租税や現物給付が基礎になっていた。ローマ帝国で貨幣 制度が完全に発展していたのは、もともとただ軍隊だけでの事だった。それが労働の全体に及んだ事も、決してなかった のである。 ・(p298)このように、より簡単な範疇は、より具体的な範疇に先んじて歴史的に存在しえたとはいえ、内包的にも外延 的にも十分に発展したものとしては、まさに複合的な社会形態に属しうるのであり、他方、より具体的な範疇は、より 発展していない社会形態にあってもかなり十分に発展していたのである。(p298) 以上、「経済学批判への」序説 C 【三】経済学の方法 (1) 2017.8.11 TOPTOP |
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マルクス・エンゲルス古典学習会 No.6 2023/09/21 TOP エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会D 第3章・「資本主義の発展」(p65)(その1) ・p65(唯物史観は社会革命の手段を生産関係のうちに見る。) ・唯物史観の命題は、即ち、生産とその生産物の交換が一切の社会制度の基礎である、また、歴史上のどんな 社会でも、生産物の分配、及び階級あるいは身分というような社会的編成は、何がいかに生産されるか、その 生産物がいかに交換されるかによって決まる、と。 ・これによれば、一切の社会的変化と政治的変革の究極の原因は、これを人間の頭の中に永遠の真理や正義に 対するその理解の進歩に求めるべきものではなく、生産と交換の方法の変化のうちに求むべきものである。 哲学のうちに求むべきものではなくて、それぞれの時代の経済のうちに求むべきものである。 ・p65今の社会制度は不合理で不正だといったり、条理は通らないといったり・・・そういった考えが広まるのは 生産方法と交換形態が暗黙のうちに変化して、これまでの経済的条件に合わせてつくられていた社会秩序が、 それにうまく合わなくなってきたという証拠に過ぎない。 ・同時に、それは次の事を語るものである。即ち、この見いだされた弊害を除去する手段もまた、この変化し た生産関係そのもののうちに−多かれ少なかれ発達した形で存在しているに違いないということを。 この手段もまた、頭で発明されるべきものではなくて、生産という与えられた物質的事実の中に、頭を使って 発見されるべきものであることを。 ・p66(資本制生産関係の中で生産方法と生産力が衝突した。) ・現存の社会制度は、今日支配している階級、即ち、ブルジョアジーによって創り出されたものである。 ブルジョアジー特有の生産方法は、マルクスによって資本主義的生産方法と呼ばれたそれは、封建制度の地方 的及び身分的特権とも、人々相互の人身的関係とも、相容れぬものであった。 ・そこでブルジョアジーは、封建制度を打ち壊し、その廃墟の上にブルジョア的社会制度をうちたてた。 それは自由競争、移動の自由、商品所有者たちの同権の王国であり、そこにはありとあらゆるブルジョア的な 栄光が輝いた。資本主義的生産様式は、こうして自由に発展できるようになった。 ・蒸気と新しい作業機とが旧来のマニュファクチュアを大工業に変えてから、ブルジョアジーの主導によって 創り出された生産関係は、前代未聞の速さと規模で発展した。 マニュファクチュアとその影響下で発展を続けた手工業とが、ギルドという封建的束縛と衝突したが、それと 同様に、大工業もその発展につれて、彼らにとって狭すぎると感ぜられる資本主義の生産方法と衝突するよう になった。 ・これは新しい生産力がそのブルジョア的利用形態を超えて成長したからであって、しかもこの生産力と生産 方法との衝突たるや、人間の原罪と神の正義との衝突といったような人間の頭の中で生じた衝突ではなかった。 それは客観的に、われわれの外部にあり、それを導入した人間の意思や行動そのものからさえも独立して、 事実の中に存在する衝突であった。近代社会主義とは、こうした事実上の衝突の、思惟的反映以外の何者でも ない。 ・p67(この衝突の原因(1)生産方法の社会化) ・資本主義的生産の前の中世では、労働者が彼の生産手段を私有する形態の小経営が一般的に行われていた。 それは、自由農民もしくは隷農による小農の農業、都市の手工業であった。労働手段−土地、農具、仕事場、 道具−は、各個人の労働手段であって、それは個人しか使用せず、従って貧弱で、小型で小さい能力のもの だった。 ・こうしたばらばらの小さい生産手段を集中し、それを拡大して現代のような強力な生産の梃子とすること、 それこそが資本主義的生産方法と、その担い手たるブルジョアジーの歴史的役割であった。15世紀以来、単純 協業、マニュファクチュア、大工業の3段階を経て、彼らがいかにこの役割を果たしたか、マルクスは『資本論』 で詳細に説明した。ブルジョアジーは、かの小さい能力の生産手段を巨大な生産力にする為に、個々人の生産 手段を社会的な、人間の集団によってのみ使用できるように変えざるをえなかった。 ・p68糸車や手織機や鍛冶屋の槌の代わりに、紡績機や力織機や蒸気槌が現れ、個人の仕事場の代わりに、 数百人、数千人の共同作業を要する工場が現れた。そうして、生産手段がそうなると、生産そのものも、一連の 個人的行為から一連の社会的行為に変わり、生産物も個人的生産物から社会的生産物に変わった。今では、 工場から作り出される糸も、織物も、金属製品もみな多数の労働者の共同の生産物であり、その完成には 多くの労働者の手を順々に通らなければならない。だから、それについて、これは俺が作ったのだ、それは俺の 生産物だ、などとは誰もいえない。 ・p68((2)所有(取得)の個人性。) ・ところで、自然発生的に、無計画的に、次第にできあがった分業が、その社会の生産の基本形態になっている ところでは、その分業は、生産物に商品の形態を与え、交換即ち、売買によって、個々の生産者は種々様々な 彼らの欲望を満たすことができるようになった。例えば中世では、農民は農産物を手工業者に売り、そのかわり に手工業者から手工業品を買った。 ・こうした個人的生産者の社会、商品生産者の社会の中に、新しい生産方法が入り込んできた。今まで全社会 を支配していた自然発生的、無計画な分業のさなかに、個々の工場内に生まれたところの計画的な分業が持ち 込まれた。個人的生産と並んで、社会的生産が現れた。 ・どちらの生産物も同じ市場で、従ってほぼ同じ価格で売られた。だが、計画的組織は自然発生的分業よりも 強力であり、社会的に労働する工場は、独立の生産者よりその生産物を安く生産した。個人的生産は、各分野 において相次いで倒れ、社会的生産が旧来の生産方法全体を変革した。 ・p69(全19p209)しかし、社会的生産のこの革命的性格はほとんど認識されず、逆に、それは商品生産を奨励 し、促進する手段として取り入れられた。そしてこの社会的生産は、その成立時点で、既に商品生産と商品 交換の促進力であったところの商人資本、手工業、賃金労働と直接に結びついていた。即ち、社会的生産はそれ 自体商品生産の新しい形態として登場した故に、商品生産の取得形態は社会的生産にもそのまま引き続いて完全 に当てはまった。(※) (※エンゲルスは生産の社会的性格と取得の個人的性格の矛盾として資本主義的生産の基本矛盾を捉えている 点で、労働力の商品化による剰余価値生産にその矛盾を捉えるマルクスとは資本主義的生産の矛盾の捉え方が 異なっている点に要注意。以下参照↓) (「資本論辞典」:「資本主義的生産の基本矛盾」p209Vエンゲルスの定式他参照) ・69(上記の(1)と(2)とが資本主義生産の基本的矛盾である。) ・中世に発展していたような商品生産のもとでは、労働生産物が誰のものであるかは問題となり得なかった。 個々の生産者は、普通、自分の原料や労働手段を使って自分または家族の手労働でそれを生産した。従って生産 物に対する所有権は自己の労働に基づいていた。他人の助力を得た場合でも、・・・例えばギルドの徒弟や職人の 場合、食費や賃金のためというよりは、自分が親方になる修業のために働いたのである。 ・そこへ大作業場やマニュファクチュアにおける生産手段の集中、それの事実上の社会的生産手段への転化が 出現した。この社会的生産手段と生産物は、これまでのように、個人のものであるかのように取り扱われた。 今やそれは彼の生産した物ではなく、全く他人の労働生産物にも関わらず、労働手段の所有者がこれまで通り その生産物を取得することになったのである。 ・p70生産手段と生産は本質的に社会的なものになったが、それを取得するのは、生産手段を実際に動かし生産物 を実際に作りだした人々ではなく、資本家であった。生産様式は、こうした取得形態の前提(自己労働に基づく 所有と市場に持ち込む)をなくしたにも関わらず、この取得形態に従わせられるのである。 ・この矛盾こそ、新しい生産方法に、資本主義的性格を与えるものであり、この矛盾の内に現代の一切の衝突の 萌芽が含まれている。この新しい生産様式が重要な生産領域に及び、また経済的に重要な諸国を支配するように なり、従って個人的生産が少なくなると、社会的生産と資本主義的取得の不調和はいよいよ明白に現れてきた のである。 ・p71(プロレタリアートの出現) ・資本家が初めて現れたとき、賃労働の形態は既に存在していたが、それは例外で、副次労働、補助労働、臨時 労働にすぎなかった。例えばギルド制度では、今日は職人でも明日は親方になれるような仕組みになっていた。 ・ところが、生産手段が社会的なものとなり、それが資本家の手に集中されると、事情は一変した。 個人的小生産者の生産手段も生産物も、ますます無価値となり、彼らにとっては賃金目当てに資本家のもとへ行 くより他に途がなかった。以前は例外であり、補助的なものであった賃労働は、今や全生産についての常態と なり基本形態となった。このとき、封建制度の崩壊が起こり、封建領主の家臣団は解体し、農民が農場から追放 されたことなどからこういう終身的賃金労働者の数は恐ろしく増大した。 ・一方では資本家の手に集中された生産手段と他方では自分の労働力以外何も持たない生産者、この両者の分離 が完成した。社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾はいまや、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立 となって、明白に現れてきたのである。 ・p71(市場における商品の法則が生産者を規制する。) ・p72この商品生産を基礎とする社会の特色は、生産者が彼自身の社会的関係に対する支配力を失う点にある。 彼の生産物に対する現実の需要などは分からない。そこにあるのは社会的生産の無政府性である。しかし、商品 生産にはそれ特有の、固有な法則がある。この法則はこの無政府性のうちに、無政府性をとおして自己を貫徹 する。 ・この法則は存続している社会的連関の唯一の形態である交換の内に出現して個々の生産者に対しては、競争の 強制法則となる。それ故、・・・この法則は、生産者から独立して、生産者の意志に反して、盲目的に作用する ところのこの生産形態の自然法則として自己を貫徹するのである。生産物が生産者を支配する。 ・p72(商品は小生産者の間に出現した。) ・中世社会、とくにその初めの数世紀には、生産は主に自家消費のために行われた。農村のように人的な隷属 関係があったところでは、生産は領主の欲望を満たすことにも役だった。こういうところには、交換はありえ ず、生産物は商品の性格を帯びていなかった。農民の家族が自分の需要を超えて、また封建領主への物納年貢 を超えて剰余を生産するようになって初めて彼らは、商品なるものを生産したのである。 ・p73交換を目的とした生産、即ち、商品生産はようやく始まったばかりだった。 だから交換は限られ、市場は狭く、生産方法は安定していて、対外的には地域的封鎖、対内的には地域的団結 があった。即ち、農村にはマルクが、都市にはギルドがあったのである。 ・p73(資本主義的生産方法とともに商品の法則が支配的となった。) ・商品生産の拡大、特に資本主義的生産方法の登場によって、商品生産の法則が強力に活動するようになった。 旧来の紐帯は緩められ、封鎖の枠は破壊され、生産者は益々独立のバラバラの商品生産者となった。 ・p74この資本主義的生産方法がとった主な手段は個々の生産場内での生産の社会的組織の高度化であった。 ある工業部門にこうした高度の組織が導入されると、その部門では古い経営方法は共存できなくなった。 また、それが手工業に侵入すると、古い手工業は滅びた。労働の場は戦場と化した。 ・かの大陸発見とそれに続いた植民は、商品の販路を拡張し、手工業のマニュファクチュアへの転化を促進した。 地方的生産者同士の闘争が勃発しただけではなく、さらにそれは国民的闘争に発展し、17世紀及び18世紀の商業 戦争となった。最後に、大工業と世界市場の成立は、この闘争を世界的にすると同時にこれを前代未聞の激しい ものとした。・・・敗者は容赦なく一掃される。これはまさにダーウィンの個体の生存競争だ、それが一層の凶暴さ をもって、自然から社会へと移されたのである。 ・かくして、社会的生産と資本主義的取得との矛盾は、今や、個々の工場における生産の組織と全社会における 生産の無政府性との対立となった。 ・p74(産業予備軍の法則、「窮乏化の法則」。) (エンゲルス独自の表現に注意!) ・資本主義的生産様式(der kapitalisitischen Produkutionsweise)は、その起源に内包しているこの矛盾 (社会的生産と資本主義的取得との矛盾)を、2つの現象形態に現しながら進み、・・・そこから逃れ出ることが できない。・・・大多数の人間をますますプロレタリアに変えるものは生産の社会的無政府性という推進力であり、 しかもまた、結局はその無政府性を廃止するのもプロレタリア大衆なのである。(p75) ・p75社会的生産における無政府性という推進力、これがすべての産業資本家に、大工業において機械をどこま でも改良することを命じ、その必要に応じて各産業資本家は彼の機械をますます改良する、そうしなければ彼ら は没落するしかないからである。それゆえ、機械の改良とは、とりもなおさず人間労働の過剰化である。 ・このように、機械化とその増加が、少数の機械労働者による数百万の手工労働者の駆逐を意味するならば、 機械の改良はますます機械労働者そのものの駆逐を意味する。結局において、資本の平均的な雇用需要を超過 する多数の待命賃金労働者を作り出す。 これは、私が1845年に産業予備軍(industrielle Reservearmee)と呼んだものである。 ・それは、産業界が多忙な時期には自由に利用でき、続く恐慌の時には街頭へ放り出される労働者である。 それは、労働者階級の資本との生存闘争において、いつも彼らの足にまつわる錘であり、賃金を資本の要求に 合うように低水準に引き下げる役目をする調節器である。要するに、機械は、マルクスの言葉を借りて言えば、 労働者階級に対する資本の最も有力な武器となる。即ち、それによって労働手段は絶えず労働者の手から生活 手段を奪い、労働者自身が生産した生産物は労働者を奴隷とする為の道具となるのである。 ・p76こうして、労働手段の節約は、さしあたり直ちに労働力の仮借なき浪費であり、労働機能の正常な条件の 略奪なのである。そして機械、即ち、労働時間短縮の最有力手段は、労働者とその家族の全生活時間を、資本 の価値増殖に自由に使える労働時間に変える最も確実な手段となるのである。 ・こうして、ある一人の過度労働が他人の失業の前提となり、また、消費を求めて全地球を駆け巡る大工業は、 国内大衆の消費を飢餓の最低限にまで制限し、これによって自国の国内市場を破壊するのである。マルクスは 資本論第1巻第7編第23章資本主義的蓄積の一般法則で曰く:「相対的過剰人口、即ち、産業予備軍を、常に 資本蓄積の範囲と精力とに均衡させる法則は、ヘファイストスの楔がプロメテウスを岩に釘付けにしたよりも もっと固く、労働者を資本に縛り付ける。それは資本蓄積に対応した貧困の蓄積を必然化する。それゆえ、 一方の極における富の蓄積は、同時に反対の極、即ち彼自身の生産物を資本として生産する階級の側には、 貧困、労苦、奴隷状態、無知、野獣化、道徳的堕落の蓄積がある」(国民文庫p197〜198)ということだ。 ・p77(生産力の拡大と市場の拡大とが矛盾する。以下次ページ参照) −−−−−−−−−−−−−− 「資本主義の発展」(第3章その1)了。 2023/09/21 TOP |
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マルクス・エンゲルス古典学習会 No.7 2023/09/29(2024.2.6改定) TOP エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会E 第3章・「資本主義の発展」(p77〜p92)(その2) ・p77(生産力の拡大と市場の拡大とが矛盾する。) ・p77大工業の異常な膨張力は、・・・われわれの眼前にいかなる障碍もものともしない質的及び量的膨張欲として 現れている。市場の拡大は生産の拡大と歩調が合わない。衝突は不可避となる、しかも資本主義的生産方法その ものを破壊しない限り、他に解決はありえないからこの衝突は周期的になる。資本主義的生産は新たな「悪循環」 を作り出す。 ・p77(それを調整すべく恐慌は繰り返される) ・事実、最初の全般的恐慌が勃発した1825年以来、工業と商業の世界全体、即ち、すべての文明国民とそれに 従属する・・・諸国民の生産と交換は、ほぼ10年ごとに大混乱に陥った。交易は停止し、市場は充満し、生産物は山 と積まれて買い手がなく、現金は姿を隠し、信用は消え、工場は閉鎖し、労働大衆はあまりに多く生活手段を生産 した為に生活資料に事欠き、破産は相次ぎ、競売が相次いだ。不況は数年間続く、生産力も生産物も大量に浪費 され、破壊される。そして、山積みされた商品が減価して、生産と交換とが再び動き始めるまで、こういう状態が 続く。・・・1825年の恐慌から1877年では6回目である。その最初の恐慌を見たフーリエは、多血症的恐慌、即ち、 過剰に基づく恐慌と呼んだが、すべての恐慌にそれは当てはまる。 ・p78(恐慌とは生産方法の交換方法に対する反逆である。) ・恐慌においては、社会的生産と資本主義的取得との矛盾が爆発する。 (der Widerspruch zwischen gesellschaftlicher Produktion und kapitalistitischer Aneignung) しばらくの間、商品流通が止まり、流通手段たる貨幣が流通の妨げとなる。・・・それはいわば生産方法の交換方法 に対する反逆だ。 (生産方法を乗りこえて成長した生産力の反逆だ。『反デユーリング論』選集Mp467) ・p78(恐慌は生産力から資本たる性質を解放することを求める。) 工場内生産の社会的組織が、社会にあってそれを支配している生産の無政府性と相容れないまでになったという 事は、恐慌において多くの大資本家とそれよりもさらに多くの小資本家が倒壊し、それにより強力な資本集中が 行われるという事をとおして、資本家たちにもよく分かるようになる。資本主義的生産方法の全機構は自らの生 み出した生産力の圧力を受けて動きがとれないのである。 ・p79それはこの大量の生産手段の全部を資本に転化しえない。そこで、生産手段は遊休し、それゆえ産業予備軍 も遊休する。生産手段、生活手段、自由に利用しうる労働者も、要するにすべての生産要素と一般的富の要素が 過剰なのである。しかも「この過剰が困窮欠乏の源泉となる。」(フーリエ) ・一方では、資本主義的生産方法は、これ以上これらの生産力を管理する能力がないことを認めるしかない。 他方では、これらの生産力自体は、ますます強力に、この矛盾の止揚を求める。つまり、資本としてのその性質 から自ら解放されることを、社会的生産力としての、彼らの性格が事実上においても承認されることを求める。 ・p80(それはまず資本の独占−トラストとなる。) ・われわれが諸種の株式会社においてみるように、・・・例えば鉄道のように、大量の生産手段を社会化された形態 におくのである。そしてそれがなお発展して一定段階に達すれば、この形態でも不十分になる。そこで国内に おける同一産業部門の大生産者たちは合同して1つの「トラスト」をつくる。 ・これは、生産統制を目的とする合同である、彼らは生産すべき総額を決定し、それを各自に割当て、そして予 め確定した販売価格を押しつける。しかしこういうトラストも営業不振期に出会うと大概は崩壊してしまうので、 もっと集中的な社会化をやるしかない、即ち、1産業部門全体が唯一の大株式会社に変えられてしまい、国内競争 はこの1会社の国内独占にその席を譲る。(cf.1890年のイギリスのアルカリ生産。) ・p81(トラストはいつまでも許されない。) ・トラストとなれば、自由競争は独占に変わり、資本主義社会の無計画的生産が迫り来る社会主義社会の計画的 生産に降伏するのである。・・・ここまでくると搾取は明瞭なので、・・・いかなる国民も、トラストで管理される 生産、即ち、少数の利札切の一味による余りにも露骨な全体の搾取を許しておかないであろうから。 ・p81(重要産業の国有化は既に行われている。) ・いずれにせよ、資本主義社会の公の代表である国家は、結局、生産の管理を引き受けざるをえなくなる。 こうした国有化の必要は、まず郵便、電信、鉄道などの大規模な交通通信機関に現れる。 (p81エンゲルスの注:ビスマルクは何ら経済的必要もないのにプロシャの幹線を国有にした、その目的は戦争の 場合によりよく整備してそれを利用する為であり、また、鉄道官吏を政府の投票家畜として育て上げる為であり、 さらに、より大切な事は、議会の議決を必要としない新しい財源をつくる為であった。・・・ こういうのは、直接にも間接にも、意識的にも無意識的にも、決して社会主義的方策とはいえないのである。) (国有化は即社会主義化ではないことに注意!) ・p82(資本家もまたその社会的機能を失う。) ・恐慌は、ブルジョアジーには、近代的生産力をこれ以上管理する能力がないことを暴露した。同様に、大規模 な生産や交通機関が株式会社やトラストや国有に転化することは、これらの目的のために、ブルジョアジーが 不用であることを示すものと言ってよい。 ・資本家の一切の社会的機能は今や労働者がやっている。資本家は、収入を巻きあげること、利札を切ること、 取引所で投機をやり、資本家同士互いに資本を奪い合うこと以外に、何らの社会的な仕事をしないのである。 資本主義的生産方法は、初めは労働者を駆逐したが、今や資本家を駆逐し、彼らを労働者と同様に、過剰人口の 列の中に追いやるのである。たださしあたって彼らはまだ産業予備軍ではないだけだ。 ・p82(産業国有ではそれは解決しない。) ・しかしながら、株式会社やトラストになっても、また国有が実行されたとしても、生産力の資本的性質はそれ では廃棄されない。前者についてはこのことは明白であるが、近代国家もまた、労働者や個々の資本家の侵害に 対し、資本主義的生産方法の一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会が作り出した組織であるに すぎない。 ・p83近代国家は、どんな形態をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、資本家の国家、観念としての 全資本家である。生産力の所有をますます多くその手に収めれば収めるほど、国家は、いよいよ現実の全資本家 となり、ますます国民を搾取する。 ・労働者はいつまでたっても賃金労働者でありプロレタリアである。資本関係は廃棄されないで、いよいよ極端 にまで推し進められる。だが、その頂点に達するやそれは転覆する。生産力の国有は、衝突の解決ではないが、 それ自身の内には、この解決の形式的手段、即ち、そのハンドルが隠されている。 ・p83(解決は生産方法の社会的性質の承認にある。) ・この解決は、近代的生産の社会的性質を実際に承認すること、言い換えれば、生産方法、取得方法、及び交換 方法を生産手段の社会的性格に調和させることである。その為には、社会以外にそれを管理するものがないまで に成長している生産力を、社会が公然且つ直接に所有することが必要である。 ・生産手段及び生産物の社会的性質は、現在でこそ生産者自身に刃向かい、生産方法及び交換方法を周期的に 破壊する、それはただ強力に破壊的に作用する盲目的な自然法則にすぎないが、右の事が行われると、それらは 生産者によって十分意識的に利用されるようになるであろう。そして混乱や周期的破壊の原因ではなくなり、変 わって生産そのものの最も強力な梃子となるであろう。 ・p84(われわれが生産力を支配することができる。) ・社会的に作用している力の作用は、自然力と少しも変わらない。われわれがそれを認識し、考えにいれない 限り、それは盲目的で、暴力的で、破壊的である。だが、ひとたびわれわれがそれを認識し、その活動、方向、 効果などを把握すれば、これを次第にわれわれの意志に従わせ、これを手段としてわれわれの目的を達成する ことはわれわれ次第である。ことに今日の強力な生産力についてはそうである。 ・われわれがこの生産力の本姓と特色とを理解しない間は−資本主義的生産方法とその擁護者たちはこれを理解 しようとしないが−この力はわれわれに逆らい、反抗し、われわれを支配する。だが、ひとたびその性質を理解 すれば、それを悪魔の支配者から奪って、共同生産者のものとし、従順な召使いとすることができる。 ・そうすれば、社会的生産の無政府性に代わって、全体及び各人の必要に応じた社会的に計画的な生産の規律が 生まれる。こうして、生産物がまず初めに生産者を、ついで取得者をも奴隷化した資本主義的取得方法の代わり に、近代的生産手段の性質に基づいて作られた生産物の取得方法ができあがる。 ・それは、一方では、生産を維持・拡大する為の手段としての直接な社会的取得であり、他方では、生活及び 享楽の手段としての直接な個人的取得である。(※) (※)(資本論第一巻第24章いわゆる本源的蓄積でマルクス曰く:「資本主義的生産様式から生まれる資本主義 的取得様式は・・・自己労働に基づく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然 的必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再現するのでは ないが、しかし資本主義時代の成果を基礎とする個人的私有をつくりだす。即ち、協業を基礎とし、土地の共有 と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有を作り出すのである。」 国民文庫Cp392〜393)TOP ・p85(国家の廃止と死滅) ・資本主義的生産方法は人工の大多数を益々プロレタリアに転化する。彼らは、自ら没落を免れるためには、 どうしてもこの方法を変革せざるを得ない。この生産方法は既に社会化された膨大な生産手段を次第に国有化さ せるが、その事のうちに、この変革の完成の道が示されている。 ・p85即ち、プロレタリア−トが国家権力を掌握することでまず生産手段を国有にする。それは、プロレタリア− トがプロレタリア−トを止揚し、一切の階級差別と階級対立とを止揚し、そしてまた国家としての国家も止揚 することである。 ・従来の社会は、階級対立のうちに動いてきたので、国家を必要とした。国家というのは、その時々の搾取階級 の組織、その生産条件を外部からの攻撃に対して維持するための組織であった。それは特に被搾取階級を、与え られている生産方法にふさわしい抑圧の諸条件(奴隷制、農奴制、または隷農制、賃労働制)に暴力的に押さえ つけておくための組織であった。 ・国家は社会全体の公の代表者であり、全社会を総括した1つの目に見える団体であった。しかし、国家がそう したものであったのは、それぞれの時代に全社会を自ら代表していた階級のそれであった限りにおいてであった。 例えば古代の奴隷所有者の国家、中世の封建貴族の国家、そして現代のブルジョアジーのそれである。 ・しかるに、国家がいつの日か社会全体の本当の代表者となるならば、そのとき、それは無用物となる。 抑圧すべきいかなる社会階級も存在しなくなり、階級支配と従来の生産の無政府状態に立脚する個人の生存競争 がなくなれば、そしてこれから生ずる衝突と逸脱とがなくなってしまえば、抑圧すべきものはなくなり、特殊な 抑圧権力たる国家は必要ではない。 ・p86 国家が実際に社会全体の代表者として登場する最初の行為−社会の名において生産手段を没収すること− これこそは同時に、国家が国家として行う最後の独立行為である。 ・国家権力が社会関係に対して行ってきた干渉は、一領域から他領域へと無用の長物となり、ついには順々に 眠りにつく。人間に対する統治に代わって物の管理と生産過程の支配が現れる。国家は、「廃止」(abschaffen) されるのではなく、死滅(absterben)するのである。こうして、かの「自由なる国民国家」概念はこの点で評価し なければならない。それは一時的には正しいこともあり、科学的用法として究極的には許し得ないこともある。 この点では、無政府主義者の国家の即時廃止の要求も同様である。 ・p86(今や社会主義は歴史的必然である。) ・社会における搾取階級と被搾取階級との分裂、支配階級と被支配階級との分裂は、これまで生産の発展が不十分 であったことの必然の結果であった。社会の総労働が、万人の生存に必要以上に、ごくわずかの剰余しか生産し ない間は、従って社会全員の大多数が終日、労働に従事しなければならない間は、この社会は必然的に階級分裂 せざるを得ない。 ・p87専ら労役に使役される大多数とならんで、直接の生産的労働から解放された一階級が形成され、それが労働 の指揮、国務、司法、学問、芸術などの社会の共同事務を行うのである。故に、階級区分の根底をなすものは、 分業の法則である。 ・だが、このことは、こうした階級区別が暴力や略奪や詐欺によって行われてきたことを妨げるものではない。 そしてまた、支配階級がひとたび権力の座に座ると、労働階級を犠牲にして自己の支配力を強め、その社会の 指導力を変じて大衆搾取の強化に使うことを妨げるものではない。 ・p87(その基礎は階級の分裂である。) ・階級分裂は、ある一定の歴史的根拠を持っているが、それはただある一定の期間内においてのこと、与えられた 歴史的条件下においての事である。それは生産が不十分なためであり、近代的生産力が十分に発展すれば一掃され るに違いない。誠に、社会階級の廃止は1つの歴史的発展段階を前提とするので、その時になれば、ある特殊の支配 階級はもちろん、支配階級一般、従って階級差別そのものの存在が、時代錯誤になり、古くさくなってしまうので ある。・・・今やわれわれはこういう点に到達している。 ・p88恐慌のたびごとに社会は、自ら駆使しえない生産力と生産物の重圧下に窒息し、消費者がいないため生産者が 何物も消費し得ないという不合理な矛盾に直面して、社会は茫然自失する。そこで生産手段の膨張力は、資本主義 的生産方法が自身にはめた桎梏を打ち破るのである。 ・生産方法がこの桎梏から解放されることは、生産力が絶えず急速に発展していく為の前提条件である。それだけ ではない。生産手段の社会的取得は、現存の人為的な生産制限を除去するだけではなく、現在では生産の不可避的 随伴物であり、殊に恐慌においてその頂点に達するところの生産力及び生産物の積極的浪費と破壊を防ぐ事に もなる。 ・さらにそれは、現在の支配階級及びその政治的代表者たちの馬鹿げた奢侈的浪費をやめさせるので大量の生産 手段と生産物とを全体の自由に利用させる。社会の全員に対して、物質的に十分満ち足り、その上、日に日に豊富 になっていく生活を保障すること、それはさらにまた、彼らの肉体的・精神的能力の完全にして自由な発展と活動 とを保障する可能性、そういう可能性が今はじめてここにある。 ・p89(社会主義とは計画的生産である。) ・社会による生産手段の没収とともに、商品生産は除去され、従って生産者に対する生産物の支配も除去される。 社会的生産内部の無政府状態に代わって計画的意識的な組織が現れる。個人の生存競争は消滅する。こうして初め て人間は、ある意味では、動物界から決定的に区別され、動物的生存条件を脱して真に人間的なそれに入る。・・・ ・p90従来、歴史を支配してきた客観的な外来の諸力は人間自身の統制に服する。こうなってはじめて、 人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる。これより後、初めて人間が動かす社会的諸原因が、主として、また 益々多く、人間の希望するような結果をもたらすようになる。 それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である。 TOP ・p90〔結論として、歴史的発展の概括〕 1,中世社会。小規模な個人的生産。生産手段は個人的使用に適したものであり、従って原始的で、不細工で、 その力は貧弱である。生産は、生産者自身のため、又は封建領主のため、直接消費を目的とした生産。この消費 以上に生産の剰余ができた場合にかぎり、販売に提供され交換される。従って、商品生産がようやく発生した ばかりである。しかし、社会的生産における無政府状態は萌芽的にこの内に含まれている。 2,資本主義的革命。まず単純協業とマニュファクチュアーによる工業の変革。 従来分散していた生産手段の大工場への集中により、個々人の生産手段が社会的生産手段に転化される。 −しかし、この転化は大体において交換の形態に影響しない。 旧来の取得形態はそのままである。資本家が出現し、彼は生産手段の所有者としての資格において生産物を取得 しそれを商品に転化する。生産は社会的行為となったが、交換は取得とともに依然として個人的行為である。 社会的生産物が個々の資本家によって取得される。この根本矛盾から、・・・一切の矛盾が発生する。 A、生産手段からの生産者の分離。労働者に対する終身賃金労働者の宣告。 プロレタリア−トとブルジョアジーとの対立。 B、商品生産を支配する法則が次第に優勢となりその効力を増大する。 無制限の競争戦。個々の工場内の社会的組織と生産全体における社会的無政府状態との矛盾。 C、一方では機械の改良、これは競争を通じて個々の工場主すべてに対する強制命令となり、同時に又、不断に 増大する労働者の解雇、即ち、産業予備軍を意味する。 他方では、生産の無制限の拡張、これも、各工場主に対してなされる競争の強制法則である。−この両面から 生産力の発展は前代未聞の域に達する。供給は需要を超える、生産過剰、市場の氾濫、10年ごとの恐慌、悪循環。 即ち、一方において生産手段と生産物の過剰−他方において仕事がなく生活資料のない労働者の過剰。 そして生産の槓杆と社会的福祉の槓杆は共存できない。なぜか、生産の資本主義的形態は、生産力と生産物とは 予め資本に転化することなくして、活動し流通することを禁ずるからである。ところがまさしく生産力と生産物の 過剰でそれを妨げるからである。この矛盾が拡大したとき、不合理なことがおこる。生産方法が交換形態に対して 反逆するのである。これにより、ブルジョアジーもこれ以上彼ら自身の社会的生産力を指導する能力がないことを 認めさせられるのである。 ・p92 D、資本家自身も余儀なく、生産力の社会的性格を部分的に承認する。 生産及び交通の大機関は、最初は株式会社によって、次はトラストによって、それから国家によって取得される。 ブルジョアジーは無用の階級であることが自ずから明らかになる。彼らの一切の社会的機能は今や月給取りに よって行われる。 ・p92 3,プロレタリア革命。矛盾の解決。プロレタリア−トは公的権力を掌握し、この権力によって ブルジョアジーの手から離れ落ちつつある社会的生産手段を公共所有物に転化する。この行動によって、 プロレタリアートは、これまで生産手段がもっていた資本という性質からそれを解放し、生産手段の社会的性質に 自己を貫徹すべき自由を与える。こうして今や予め立てた計画に従った社会的生産が可能となる。 ・生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする。社会的生産の無政府性が消滅するに つれて国家の政治権力も衰える。人間はついに人間特有の社会的組織の主人となった訳で、これにより、また 自然の主人となり、自分自身の主人となる。−要するに自由となる。 ・この解放事業をなしとげること、これが近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的条件と その性質を探求し、以てこれを遂行する使命をもつ今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の条件及び性質を意識さ せる事、これがプロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。 「資本主義の発展」(第3章その2)了。 2023/09/29 TOP |
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英語版への序文(史的唯物論について)1892年 その1 (p95〜p130) TOPマルクス・エンゲルス古典学習会 No.8 2023/10/31(2024.2.6改定) エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会F(まとめに代えて@) 英語版への序文(史的唯物論について)1892年(p95〜p115) @/A ・p95(反デユーリング論と本書の関係) ・p95この小冊子は1875年頃、ベルリン大学の私講師E・デューリング博士の社会主義理論と社会改造計画に対する 反撃の書として書かれた『反デユーリング論』の中から友人のポール・ラファルグ(当時フランスの下院議員)の 求めに応じて、3章をまとめてパンフレットにしたものである。 ・p97ラファルグは、これをフランス語に翻訳して1880年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題で 出版したが、1883年にはドイツ語で出版された。このドイツ語原本を基にして英語版が出された。これでこの 小冊子は10カ国語で流布されることになった。これほど翻訳の多いものはなく、1848年の『共産党宣言』や 『資本論』でさえ、これに及ばない。 ・98(本書は近代の資本の説明である。) ・本書に用いられた経済学的用語は、それが新語である限りマルクスの『資本論』の英語版と同一である。 われわれが「商品生産」と呼んでいるのは、物品が生産者の使用の為ではなく、交換の目的で、即ち、使用価値 としてではなく、商品として生産される経済状態のことである。・・・それが十分な発展を遂げたのは、ただ資本 主義的生産のもとにおいてのみである。 ・それは、生産手段の所有者たる資本家が、自己の労働力以外の一切の生産手段を奪われた人間、労働者を、 賃金をもって雇い、その生産物の売値が彼の支出を上回る部分を着服するような条件が整った時である。 ・われわれは中世以降の工業生産の歴史を3期に分ける。(1)手工業。小親方手工業者が少数の職人と徒弟を かかえ、ここでは労働者各人は完成品を生産する。(2)工場制手工業。(マニュファクチュア)ここでは、1つの 大作業場に多数の労働者が集められ、分業の原理に従って完成品を生産する。労働者はただ部分的作業をするだけ であり、従って生産物はすべての人々の手を順次通過した後はじめて完成される。(3)近代工業。ここでは、 生産物は動力で運転される機械によって生産され、労働者の仕事は機械装置の作業を監視し調整することだけ である。 ・p99(われわれは唯物論であり、それはイギリス人が始めた。) ・あらゆる近代唯物論の本家本元はイギリスであり、その先祖はベーコンである。彼にとっては自然科学が唯一の 真の哲学であり、感覚の経験の上に立てられた物理学が自然科学の最も主要な部分である。アナクサゴラスとその 元素同質論、デモクリトスとその原子論、この両者が彼の典拠となっている。 ・p100彼によれば、感覚は誤りのないもので、全ての認識の源泉である。すべての学問は経験を基礎とし、それは 感覚によって与えられた素材に合理的研究方法を適用してできるものだ。帰納、分析、比較、観察、実験、これが 合理的研究方法の主要形態である。 唯物論の創設者ベーコンにあっては、唯物論はまだ多面的に発展する萌芽を含んでいた。 一方では、物質は、感覚的な詩的な魅力を包んでいて、その微笑をもって全人類を引きつけることができた。 他方では、格言的な形のこの学説には、神学からもたらされた矛盾の芽が出そうでもあった。 ・p101(ホッブスの唯物論)・・・「唯物論がさらに発展したとき、それは一面的となった。」 ・ホッブスはベーコンの唯物論を体系づけた。感覚的知識はその詩的な華やかさを失い、 数学者の抽象的な経験となった。幾何学が科学の女王とされた。・・・唯物論は感覚的存在ではなくなり、知的 存在となった。そうすることで、知性の特色である首尾一貫性をその結論はともかく貫徹したのである。 ・ホッブスはベーコンの後継者として、次のように論じている。「人間の知識は全て感覚によって与えられると するなら、われわれの概念や観念は、現実の世界から、感覚的形態をはぎとったその幻影である。哲学とはこう した幻影に名称を与えるだけのものだ。(唯名論)。しかし一方で、全ての観念の起源は感覚の世界にありと 言いながら、他方で1つの言葉は1つの言葉以上を意味するといっては、それは矛盾である。それなら、われわれ の感覚によって知られる実在物、一切の個体の外に、それとは別に、個別的でない一般的性質の実在物がある といっては、それも矛盾であろう。・・・物体、存在物、実体とはいえ、いずれは同一の実在の異名である。思想と 思惟するところの物質とは切り離すことはできない。この物質こそ、世に行われているあらゆる変化の主体で ある。・・・」 ・p102(ロックを通じてイギリスの唯物論は理神論となった。) (ベーコン・ホッブス・ロック) ・ホッブスはベーコンを体系づけたが、全ての人間の知識は感覚的世界から生ずるというベーコンの根本的原理 には立ち入って証拠を挙げなかった。それをなしたのはロックであった。(『人間悟性論』)・・・何にしても、 実践的唯物論者にとっては、理神論は宗教から解脱する近道以外の何物でもなかった。 (マルクス『神聖家族』ME全集第2巻p130〜 (d)フランス唯物論に対する批判的戦闘) (フランス唯物論には2つの方向があって、1つはデカルトにその起源を発し、他はロックにその起源を発している。 後者は特にフランス的教養の一要素であり、直接に社会主義に注いでいる。前者即ち、機械論的唯物論は、本来の フランス自然科学に流れ込んでいる。2つの方向は発展の途上で交差している。・・・p104) ・p103(18世紀はフランス唯物論の世紀であった。) ・その長い歴史の最後を飾ったものがあのフランス大革命であった。そしてこの革命の結果を、我々局外のイギリ スやドイツが移植するために、今も努力しているのである。 ・p103(19世紀イギリス人は迷信家である。) ・19世紀中頃、イギリスの上品な中流階級の宗教的頑迷さと愚昧さにはそこに居を定めたすべての教養ある外国人 を驚かした。 ・104(この不徹底が不可知論である。) ・しかし、イギリスはその後「開けて」きた。1851年の博覧会はイギリスの島国的排外主義に弔鐘を鳴らした。 サラダ油の輸入と普及に伴って、宗教的事柄についても大陸の懐疑主義が普及した。しかし、不可知論は外国産で はなく、疑いもなくイギリス産であった。 ・p104不可知論の自然観は徹頭徹尾唯物論的である。全自然界には法則が支配していてそれに対して外からの作用 は絶対に許されない。彼らはそれに加えて、我々の知っている宇宙の彼方に、何らかの最高実在者がいるかいない か、それは確かめる方法も否定する方法もない、という。 ・p105今日、われわれの進化的宇宙観には、造物主または支配者をいれる余地はない。 また、現存の全世界と全く切り離された最高実力者というのも、言葉の矛盾だ、その上、そうした言い方は宗教的 な人々の感情をいわれなく侮辱する。 ・p107(新カント派の不可知論) ・新カント派の不可知論は言う。物の性質を正しく知覚することは出来るかもしれないが感覚的、ないし思惟的な 過程では、「物自体」は把握できない。「物自体」はわれわれの認識の彼方にある、と。これに対してヘーゲルは とうの昔に答えている。諸君が物の性質を何もかも知ったとき、そのことは物自体が分かったことになる、我々が いなくてもその物が存在しているという事実がある、それだけでたくさんではないか、と。 ・科学の素晴らしい進歩によって、分かりにくかったものが次々に把握され、分析されたのである、それどころか 再生産されるまでになった。いやしくも、我々が作りうるものをわれわれが認識しえないとは考えられない。 ・p108 わが不可知論者は、彼が科学者であり、何かを知る限りでは、彼は唯物論者であるが、科学の埒を出て彼の知らな い領域に入ると、彼は自己の無知を、ギリシャ語に翻訳して不可知論と呼ぶのである。 ・p109(私の史観も唯物論である。) ・史的唯物論とは、あらゆる重要な歴史的事件の窮極原因とその大きな原動力を、社会の経済的発展のうちに求め る史観である。生産と交換の方法の変化のうちに、またそれより出てくる社会の異なった諸階級への分裂のうちに、 さらにこれら諸階級の相互の闘争のうちに求める史観である。 ・p110(ブルジョアジーは封建制度を崩壊させた。)・・・イギリス人の宗教性について ・ヨーロッパが中世から抜け出てきた時には、都市の新興中流階級は革命的であった。彼らは中世の封建的組織 内部では既に一定の地位を闘いとっていたが、彼らの膨張力にとってはその地位は、あまりにも狭くなっていた。 中流階級即ち、ブルジョアジーの自由な発展はもはや封建制度を維持することを許さなかった。 ・p110(ローマ教会の封建制はなかなか亡びなかった。) ・しかるに封建制度の国際的大中心地は、ローマのカトリック教会であり、この教会はその内部にあらゆる争い を内蔵している封建西ヨーロッパの全体を一大政治組織に統一して、マホメット教諸国と分離派のギリシャ人とに 対抗していた。この教会は封建制度を神聖な聖列式の後光でつつみ、教会自身の位階制をも封建制に型どって組織 していた。 ・そして、彼ら自らが最も有力な封建領主であって、カトリック世界の領土の優に1/3を領有していたのである。 それゆえ、俗界の封建制を各国で細部に至るまで攻撃しようとすればまずもってこうした教会の聖なる中心組織が 破壊されねばならなかったのである。 ・p110(科学と宗教の争いは長かった。) ・中流階級が勃興するにつれて科学も大復興した。天文学、機械学、物理学、解剖学、生理学の勉強が始まった。 ブルジョアジーは、その工業生産の発展の為に、自然物の物理的性質と自然力の活動様式を突き止める科学を必要 とした。 ・しかるに科学は従来、教会の賤しい侍女であって、信仰によって定められた限界を越えることは許されなかった。 今や科学は教会に叛旗を翻しブルジョアジーは科学を必要としてこの叛逆に加担した。 ・p111以上、新興中流が既成宗教と衝突すべき2点を上げただけだが、次の事は明らかである。第一、ローマ教会 の権勢に対する闘争に最も直接の利害をもった階級はブルジョアジーであった。第二、封建制度に対する一切の闘争 は、当時としては、宗教に扮装しなければならず、何よりもまず、教会に向けられねばならなかった。 ・そして、初めに反抗の声を上げたのは大学や都市の商人であったが、その声は、地方の大衆の間に、即ち、自分 自身の生存の為に精神上及び世俗上の封建領主と至る所で闘争しなければならなかった農民の間に、力強い反響を 見いだしたのである。 ・(封建制度に対する三大戦争) ・ブルジョアジーの封建制度に対する闘いは長かったが、その頂点をなす3大決戦があった。 ・p111(第一の革命、ドイツの宗教改革) ・第一は、ドイツの宗教改革である。ルターが教会に対してあげた叛逆に呼応して2つの反乱が生じた。1つは、 1523年のフランツ・フォン・ジッキンゲンに率いられた下級貴族の反乱であり、いま1つは、1525年の大農民戦争 である。 ・この時以来、この闘争は地方の諸侯と中央権力の争いに退化して、ドイツはその後の200年間、ヨーロッパの活力 ある政治的な国民の仲間から外れてしまった。かくして、ルターの宗教改革は、新しい信条を作り出しはしたが、 それは絶対王政に適合した宗教であった。東北ドイツの農民は、ルター主義に改宗するや否や、自由民から農奴に 転落させられたのである。 ・p112(カルヴィンの宗教改革の性質) ・しかし、ルターが失敗したところで、カルヴィンが成功した。彼の予定説は、商業世界は競争で、そこでの成敗 は個人の働きや智力にはよらない、彼自身の制御しえない諸事情によるという事実を、宗教的に表現したもので あった。高く優れた未知の経済力の恵みによるのであると、これは、経済の革命時代においてはすごく真実で あった。この時は、旧来の商業上の通路や中心が全て新しいものにとって代わられていた時であり、インドと アメリカが世界に開放されていた時であり、そして最も神聖な経済上の信仰の的であった金銀の価値までも動揺し、 崩壊し始めていた時であったからだ。 ・また、カルヴィン教会の組織は全く民主的であり、共和的であった。既に神の王国が共和化されてみれば、現世 の王国が君主と司教と領主に従属していることができようか? こうしてドイツのルター主義は諸侯に握られて従順な道具になったのに対し、カルヴィン主義は、オランダでは 共和国となり、イギリス、特にスコットランドでは強力な共和党を打ちたてるに至った。 ・p113(第二の革命、イギリスの名誉革命。) ・カルヴィン主義による動乱が起こったのは、イギリスであった。起こしたのは都市の中流階級で、この闘いを やり抜いたのは地方農村の自営農民(ヨーマンリー)であった。 ・ブルジョアジーの3大叛乱において実践的軍隊を農民が供給した事、その勝利後に、勝利の経済的効果によって 壊滅される階級もまた農民であった。クロムウエルの後100年にして、イギリスの自営農民は、ほとんどその影を 没した。いずれにしても、この自営農民と都市の賤民要素がなければ、ブルジョアジーだけではあそこまで戦い抜 けなかったであろう。・・・1793年のフランスや1848年のドイツでもまさしくそうであった。 ・p113(名誉革命の性質。) ・革命的活動のこうした行き過ぎには、不可避的な反動が続いたが、この反動もまた行きすぎて、闘争は長く続い たが、1689年の比較的小さな事件で終わった。それをリベラルな史家は、「名誉革命」と名付けた。 ・p114(それはブルジョアジーと旧封建地主との妥協であった。) ・この新しい出発点は、新興中流階級と旧来の封建大地主との妥協であった。後者は、当時も今日も貴族と呼ばれ ている。幸いなことに、彼らは、イギリスでは・・・封建的というよりはブルジョア的風習と傾向をもった全く新しい 一団であった。彼らは、貨幣価値を熟知しており、小農民を放逐して代わりに羊を飼って、地代の増加を図った。 ヘンリー8世は、教会領を潰して大量にブルジョア新地主を創り出した。また、夥しい土地を没収して、全くの 成り上がり者にそれを分け与えることが17世紀全体を通じて行われたが、結果は同様であった。 ・その為、イギリスの「貴族」は、ヘンリー7世以来工業生産によって間接に利益を得ようとした。その上、大地主 の一部には、経済的、政治的理由から、金融及び産業ブルジョアジーの指導者と協力しようとした。1689年 (名誉革命)の妥協が簡単に成功したのはこの為であった。金融と製造業と商業の中流階級の経済的利害関係を 十分に配慮するという条件で、「金と権」についての政治的利権のやりとりは、大土地所有家族に任されていた。 それ故、細事は別としても大局的には、貴族的寡頭政治は、彼ら自身の経済繁栄が工業や商業の中流階級のそれと 不可分に結びついていることを熟知していたのである。 ・p115(この妥協の為に宗教が利用された。)・・・以下、次ページへ。 英語版への序文 @/A 了 (2024.2.6改定) TOP |
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英語版への序文(史的唯物論について)1892年 その2 (p95〜p130) TOPマルクス・エンゲルス古典学習会 No.9 2023/10/31(2024.2.6改定) エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会G (まとめに代えてA) 英語版への序文(史的唯物論について)1892年(p115〜p130) A/A ・p115(この妥協の為に宗教が利用された。) ・この時以来、ブルジョアジーは控えめだが公認されたイギリス支配階級の一構成分子となった。勤労国民大衆を 隷属の状態におくことについては、彼らは、他の支配階級とその利害を異にしなかった。商人や製造業者自身は、 その店員、その職人、その家僕に対して「主人」であった。 ・彼としては彼らにできるだけ多くできるだけ良く働かせる方が得であった。その為には彼らに適切な服従の訓練 を施さねばならなかった。彼自身信心であった。彼の宗教は、彼の国王や諸侯に対する戦において彼が誰のために 闘っているかを示す旗印であった。 ・間もなくこの同じ宗教が「生まれつき目下」の心に、神が彼らの上に与え給うた主人の命令を従順にきかしめる 働きを持っていることを、彼は知った。要するに、イギリスのブルジョアジーは今や「下層階級」たる生産的国民 大衆を抑圧する事に一役買わねばならなかったのであり、そしてこの目的の為に用いられた手段の一つが宗教の力 であったのだ。 ・p115(他方、イギリスの唯物論は権力と結びついた。) ・ブルジョアジーを宗教に頼らしめたもう一つの事実は、イギリスにおける唯物論の勃興であった。宗教は無教育 な大衆、ブルジョアジーもそれに含まれる大衆には適当である、とホッブスはそういって、君主の大権と全能とを 擁護し、絶対主義の君主にむかって、強健ではあるが意地悪の子供たる、国民を抑圧すべしと呼び掛けた。 ・p116同様に、ホッブスの後継者のボリングブロークやシャフツベリなども、この新しい理神論的形態の唯物論は、 貴族的・神秘的教義であった。それ故、この論はその宗教的異端性からも、その反ブルジョア的政治関係からも 中流階級(ブルジョアジー)にとっては憎らしいものであった。 ・そこでこの貴族の唯物論と理神論とに反対して、・・・かのプロテスタントの一派は、引き続いてこの階級の主力と なったのである。それが今日でも「大自由党」の背景となっているのである。 ・p116(フランスの唯物論は革命的であった。) ・しばらくして唯物論はイギリスからフランスに渡り、そこで別派の唯物論哲学者であったデカルト派に出会って これと合流した。フランスでも唯物論は当初は純然たる貴族的教義であったが、間もなくその革命的性質が正体を あらわした。 ・フランスの唯物論者は、その批判を宗教的信仰の問題に限定せず、科学的伝統や政治的組織にも批判を向けて、 かの一大著作百科全書を作り、あらゆる問題にそれを応用してみせた。彼らは百科全書派と呼ばれるようになった。 ・p117こうして唯物論は、広くフランスの教養ある青年全体の信条となり、そこで大革命が勃発したときには、 イギリスの王党によって生みだされたこの教義は、フランスの共和主義者やテロリストの理論的旗幟となり、人権 宣言のテキストに用いられた。 ・p117(第三の革命、フランス革命。) ・フランス大革命はブルジョアジーの蜂起としては第3番目のものであったが、宗教の外衣を脱いで、粉飾のない 政治的地盤の上で戦い抜かれたものとしては、最初の蜂起であった。それは又、一方の戦いの貴族が滅亡し、他方 の戦い手のブルジョアジーが完全に勝利を得るまで闘いぬかれた点では、最初のものであった。 ・イギリスでは、革命前と革命後の制度が続いている。そして地主と資本家との間に妥協があった証拠には、判例 が存続しており、法律の封建的諸形態が宗教的に保存されている。 ・フランスでは、革命は過去の伝統との完全な絶縁であり、それは封建制度の最後の痕跡をも一掃した。そして 「民法典」では古代ローマ法を見事に採用して、それをマルクスが商品生産と呼ぶ経済段階、即ち、近代資本主義 の諸条件に適応する法律関係のほぼ完全な表現としたのである。この革命的法典はできが素晴らしかったので、 今日でも他のあらゆる国々で財産法改正の際には、模範として役立っている。この点ではイギリスも例外ではない。 ・p118(フランス革命によりイギリスブルジョアはいよいよ信心になった。) ・フランス革命は、イギリスのブルジョアにとっては大陸の君主国の援助をえて、フランスの海上貿易を破壊し、 フランスの植民地を併合し、海上競争者としてのフランスの野望を砕く絶好の機会であった。これがイギリスの ブルジョアがフランス革命と戦った1つの理由であった。 ・もう一つの理由は、革命のやり方が気に入らなかったことであった。呪うべきテロリズム、ブルジョア支配の 極端化の試みもそうであった。イギリスのブルジョアは、この時この貴族がいなかったらイギリスはどうなるのか と思ったのである。というのは、あの作法をイギリスのブルジョアに教え、あの服装を工夫してくれたのも貴族 だったからだ。 ・また、国内秩序を維持する陸軍と植民地の領土や海外の新市場を征服する為の海軍に将校を供給してくれたのも 貴族であったからだ。 ・p119(イギリスブルジョアの信心は大陸の革命に対する反動である。) ・こうして唯物論がフランス革命の信条となったとき、敬虔なイギリスのブルジョアは、いよいよ強く彼らの宗教 にしがみついた。大衆の宗教的本能がなくなればどんな結果になるか、パリの恐怖政治がそれを証明したではない か?唯物論がフランスから隣国に広まり、・・・特にドイツ哲学によってそれが強化されればされるほど、また事実、 唯物論と自由思想とが、大陸において教養ある人士の必須の資格になるに従って、ますます頑固にイギリスの中流 階級は、多様な宗教的信条にしがみついたのである。 ・p119(産業革命によってブルジョアジーの政治的地位はいよいよ確立した。) ・フランスで革命がブルジョアジーの政治的勝利を確立したのに対して、イギリスでは、ワット、アークライト 等々の人々が産業革命を起し、これが経済力の中心を完全に移動させた。ブルジョアジーの富は、土地貴族のそれ よりも急速に増大した。 ・ブルジョアジー自身のうち、金融貴族、銀行家などが次第に後退して製造業者が頭を出した。1689年の妥協は、 ブルジョアジーに有利に変化して、関係当事者の当時の地位にそぐわなくなった。これら当事者の性格もまた変化 して、1830年のブルジョアジーは前世紀のそれとはずいぶん違っていた。 ・政治権力はなおも貴族の手にあって、新しい産業ブルジョアジーの要求に対抗する為に行使されたが、そうした 政治権力は新しい経済的利害関係とは両立しなくなった。貴族との新しい闘争は辞すべからざるものであり、それ は、新しい経済力の勝利以外には結末はあり得なかった。 ・1830年のフランス革命に刺激されて、選挙法改正案が強行された。これによりブルジョアジーは議会で公認され た有力な地位を得た。ついで穀物条例が廃止され、これによりブルジョアジー、特に活動的な製造業者は、土地貴 族に対する優越を一挙に確立した。これはブルジョアジーの最大且つ最後の勝利であった。これより後は、どんな 勝利でも、彼らはそれを1つの新しい社会的勢力に分配しなければならなくなった。この新勢力は最初は彼らの 同盟者であったが、間もなく彼らのライバルとなった。 ・p120(ブルジョアジーが政党をつくるとプロレタリア−トもそれに応じた。) ・産業革命は多数の工業資本家という1つの階級をつくり出したが、それはまた、遙かにより多数の工業労働者とい う階級をもつくり出した。この階級は、産業革命が工業の一部門から他の部門に波及するに比例して、その数を増 し、その勢力を増大した。 ・p121はやくも1824年には、いやがる議会を強制して、労働者の団結禁止の諸法令を廃止させるほどの実力をこの 勢力は実証した。そしてかの選挙法改正運動においては労働者は改革派の左翼であった。 ・ついで、1832年の法令では、彼らは選挙権から除外されたので、その要求を掲げて人民憲章を作り、さらに大ブル ジョアの穀物条例反対同盟に対抗して、自ら1つの独立の党、チャーチスト党を組織した。これが近代における最初 の労働者の政党であった。 ・p121(ブルジョアが宗教に助けを求めた。) ・1848年の2月、3月の大陸の革命では、労働者が重要な役割を果たした。しかし、やがて全般的な反動がやって きた。まず1848.4.10のチャーチストの敗北、同年6月のパリ労働者の叛乱の大敗北、次いでイタリア、ハンガリー、 南ドイツにおける1849年の惨事、そして最後には1851.12.2のルイ・ボナパルトのパリ征服。 ・イギリスのブルジョアはこれらの経験を経て、庶民を宗教的気分に浸しておくことの必要を痛感した。彼らは、 下層社会に対する福音伝道の為に、年々数千万の大金を使い、・・・アメリカの宗教復興運動を輸入した。 最後には救世軍の危険な援助をも受け入れた。この救世軍たるや、原始キリスト教の宣伝を復興し、貧者を選民と して訴え、宗教的なやり方で資本主義と闘争するものであった。それは原始キリスト教徒の階級闘争の要素を育成 するものであった。 ・p122(ブルジョア支配の独占は長くは続かない。) ヨーロッパのいかなる国でもブルジョアジーはその政治権力を中世の封建貴族ほど長期間、完全には独占できない。 これが歴史の発展法則であるように思われる。フランスは封建制度が一掃された国だが、そこでもブルジョアジー が完全に政権を握ったのは、きわめて短期間にすぎなかった。 ・1830年から48年に至るルイ・フィリップの治世でこの王国を支えたのはごく少数のブルジョアジーであり、大部分 は選挙権が持てなかった。1848年から51年に至る第二共和国時代にはブルジョアジー全体が支配の地位についていた が、その期間はわずか3年にすぎなかった。彼らが無能力だったために第二帝国ができた。ブルジョアジーが全体と して20年以上も政権をとっているのは、現在の第三共和国だけであるが、その彼らにも既に没落の兆候が著しい。 ・ブルジョアジーの永続的な支配は、封建制が存在したことがなく、当初からブルジョア的基礎の上に出発したアメ リカのような国でなければ可能ではないらしい。しかもそのフランスやアメリカでさえ、ブルジョアジーの後継者 たる労働者が既にドアをノックしているのだ。 ・p123(イギリスのブルジョアは今なぜ貴族を必要とするのか。) ・イギリスでは、ブルジョアジーが支配を独占しきったことは一度もない。1832年の勝利の時でも、政府の要職は 土地貴族が握っていた。概して当時のイギリス中流階級は全く無教養な成り上がり者であったので、・・・政府の要人 は貴族に委ねねばならなかったのである。 ・イギリスのブルジョアジーは、今日でも社会的劣等感を深く抱いているので、彼らは、一切の国家活動において 国民を立派に代表させる為に、装飾的な雄蜂を養い、その為に、自分も費用を出し、国民にもそれを出させている のである。 ・p125(イギリスの労働階級もブルジョア意識を持った。) ・こうして、商工業の中流階級が土地貴族を政治権力から完全に駆逐するのにまだ成功しきっていないときに、 今ひとつの競争者、労働者階級が現れたのである。だが、チャーチスト運動と大陸の革命の反動、さらにまた1848年 から1866年にかけてのイギリス貿易の比類なき発展(鉄道、汽船、その他交通機関の発達によるところが大きい。) これらは、この労働者階級をまたもや自由党の付属物にさせ、彼らは、チャーチスト前の時代同様、自由党の急進的 な一翼となった。 ・しかしながら、選挙権に対する彼らの要求は次第に押さえつけられなくなり、選挙区の改正、無記名投票制、など が実施され、労働者階級の選挙権を著しく増大させた。ただ、議会政治は、伝統尊重を教え込むには絶好の学校で ある。その学校で、一方、中流階級はJ・マナーズ卿がいみじくも「わが由緒正しき貴族」と呼んだ人々に対して 畏敬と尊敬を払うことを覚え、他方、労働者大衆の方は「目上の人々」と呼び慣らされた中流階級を尊敬と謙譲とを もってながめるようになった。 ・p126実際に、約15年前のイギリス労働者というのは模範的労働者であって、その主人の地位に対しては尊敬、自己 の権利主張には謙譲の美徳を持っていた。そのことは、自国の労働者について、その度しがたい共産主義的革命的 傾向を嘆ずるわがドイツの講壇社会主義派と称するわがドイツの経済学者にとっては、せめてものなぐさみであった。 ・p126(労働者階級にも宗教が与えられた。) ・しかし、イギリスの中流階級は、・・・チャーチストの時代を通じて、かの強健ではあるが兇悪なる子ども、即ち、 人民なるものが、何をなしうるものであるかを知った。その時以来、彼らは人民憲章の大半を、やむなく、イギリス 国王の法令中に取り入れてきた。残るところは、人民を道徳的手段によって制御するしかなかった。その第一に重要 なのは宗教で、それ以外には何もなかった。かくして、学務委員の多数は坊主によって占められ、儀式派から救世軍 に至るあらゆる種類の宗教復活運動支持の為に、ブルジョアジーは益々自腹を切った。 ・p126(では宗教が大陸の労働者階級の赤化を救うか。) ・こうして、今や大陸のブルジョアの自由思想と宗教的無関心とに対してイギリスのお上品気質が凱歌をあげた。 フランスやドイツの労働者は叛逆的になってきた。彼らは社会主義に深く感染し、極めて当然ながら、彼ら自身の 地位を高める為にとる手段について、彼らは必ずしも合法性にはこだわらなかった。・・・フランスとドイツのブル ジョアジーにとって、残された手段といえば、この上は彼らの自由思想を黙って捨てるだけだ。 ・p127こうして今では、宗教を嘲笑した人が次第にうわべだけ信心深くなり、教会や その教義や儀式の話になると、慎み深い言葉を使うようになった。フランスのブルジョアジーは金曜日ごとに精進 料理を食べ、ドイツのブルジョアジーは日曜日ごとに教会の椅子に座って、長たらしいプロテスタントの説教を 最後まで聞くようになった。 ・彼らは、唯物論を持て余すようになった。「宗教は国民のために護持せねばならぬ。」−社会を完全な破滅から 救う唯一にして最後の手段はこれだというようになった。しかしながら、彼らがこのことに気づいたときには、彼ら が全力で宗教を永久に破壊してしまったあとであった。 ・p127(宗教で赤化を防ぐ事はできない。) ・イギリスのブルジョアが宗教的にいかに頑迷であっても、大陸のブルジョアが今頃いかに改宗しても、プロレタリ アの上げ潮は、そんなことでは止まるまい。伝統は偉大な阻止力であり、歴史の惰力ではあるが、それは結局受動的 なものであり、いずれは亡びるに決まっている。だから、宗教も資本主義社会を永久に守る防壁ではない。(※) (※21Cにおける今日、ガザ地区におけるハマスとイスラエルの戦闘は宗教が資本主義社会を守る防壁ではない事を 示している。そこでは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が戦争状態にあり、この世の地獄を露呈させており、 国際的人道危機が叫ばれている!エンゲルスは、われわれが宗教から離れて科学的社会主義に就くことを教えている! エンゲルスはブルジョアが既に19世紀の自由思想を放棄しており、資本主義社会を乗りこえるのは、科学的社会主義 に基づく労働者階級である事を唯物史観の観点から示している事に注意したい。) ・p128「われわれの法律的、哲学的及び宗教的観念なるものは、一定の社会の支配的な経済関係を多少離れた派生物 である。もしそうであるならば、そのような観念は、そうした経済関係の完全な変化をいつまでも無視する事はでき ない。そこで超自然的啓示を信ずるならいざ知らず、揺るぎだしたこの社会を支えるに足るものは、宗教的教義の内 には全くない、その事をわれわれも認めなければならない。 ・p128(事実、イギリスの労働運動は動いている。) ・イギリスの労働者は、無論、諸種の伝統に拘束されてはいる。例えば、政党は保守党と自由党の2つしかない。 だから労働者階級は自己救済を図るには偉大な自由党を通じてするしかないと、これは広く行き渡った先入観である。 ・・・さらにイギリスのすべてのものと同様に、その動きの足取りはのろく、時には躊躇逡巡し、時にはほとんど効果を あげずにぐずぐずし、また時には社会主義という名にさえ用心深く動いているが、結局はその実質をだんだん取り入 れている。そしてこの運動は拡大し、労働者の諸層を次々に捉えている。・・・この運動の歩みはもどかしいかもしれ ないが、イギリスの国民性の最も立派な部分を持ち続けているのは労働者階級である事、またイギリスにおいては 一歩の前進があればそれは決して後退しないのが例である事を忘れないでいただきたい。かのチャーティストの子ら は、まだ及第点に達しないかもしれないが、孫たちは祖父の名を辱めないにちがいない。 ・p129(大陸の労働運動も動いている。) ・だが、ヨーロッパの労働者階級の勝利は、イギリスにのみかかっているのではない。それは、少なくとも、英・独 ・仏の協力によってのみ確保されうる。・・・最近25年間のドイツの進歩は、他にその比を見ない。その前進の加速度は とどまるところを知らない。ドイツの中流階級は政治的な能力、訓練、勇気、精力においても忍耐力においても欠陥 を示したが、ドイツの労働者階級はこれら全ての資格を持っていることを充分に立証した。 ・今から400年前、ドイツはヨーロッパの中流階級の蜂起のスタートを切ったが、今日の情勢からして、ドイツがまた も、ヨーロッパのプロレタリア−トの最初の勝利の舞台となるであろうということは、可能の範囲外の事であろうか? 1892年4月20日 F・エンゲルス 『空想から科学へ』 英語版への序文 A/A 了 2023/11/14(2024.2.6改定) TOP |
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